2014年10月30日木曜日

ロシアと福山







日本基督教団 広島流川教会(にほんきりすときょうだん ひろしまながれかわきょうかい)は、広島県広島市中区に在るキリスト教教会
歴史1887年に、砂本貞吉が中心となりアメリカ人宣教師ウォルター ラッセル ランバスの協力を得て創設される。教会の創設当時は、現在の日本基督教団神戸栄光教会と共にアメリカ南メソジスト監督教会瀬戸内海沿岸の広域伝道拠点の一つなのである。当時の教会堂は階下を教会の集会所として階上に女生徒を集めて女学校として、これが広島女学院の母体となる。
1927年に建堂されている教会堂は ヴォーリズの設計によるゴシック様式の建物であり、1945年被爆してしまうが 修復後は1971年 迄使用されている。教会に「流川」の名称が冠されているのは、1941年日本基督教団成立によるものである(日本基督教団の成立前は、日本メソヂスト広島中央教会)。中四国随一の歓楽街の流川と同じ名前である事に奇異な印象を受けるけれども、その理由は教会堂の所在地が流川町に在り又当時は歓楽街は発展していなかったからなのである。
原爆投下時の主任牧師である谷本清は、関西学院大学神学部を経てアメリカ合衆国エモリー神学校の出身でありアメリカメソジスト監督教会との人脈を活かして教会やそれにまつわる人々の復興平和運動に尽力する。占領下のプレスコードの中で2回にわたり渡米して被爆の惨状を訴える講演旅行に招かれて反核平和運動の嚆矢となる。その運動は アメリカ合衆國のキリスト教会慈善団体と連携している原爆乙女の渡米治療運動や原爆孤児に対する精神養子運動となり結実して、現在ではヒロシマ・ピースセンター(広島工業大学内に事務局を設置)により谷本の名を冠する谷本清平和賞が毎年平和の為に尽力する個人や団体に授与されている。
牧師現在の牧師は、向井希夫歴代の牧師を見ると、関西学院大学の出身者がほとんどである。教会堂
1971年上幟町に移転・献堂されている現在の教会堂は、矩形礼拝堂の長い辺に聖壇を設けて会衆席が三方から聖壇に向けて置かれている。聖壇に向かい横に広がる礼拝堂としては、日本では初期のものに属しておりこの種の教会堂としては典型的なものと言ってよい。被爆・日本の敗戦後50周年の年である1995年には、被爆して黒焦げになってしまっている前会堂の十字架と、ひびの入っているを礼拝堂に架設している。 中庭には、旧会堂の扉らしきものも朽ちながらも会堂の壁に立て掛けられている。



ウォルター・ラッセル・ランバス(Walter Russel Lambuth、中国名は藍華徳1854年11月10日 - 1921年9月26日)は、アメリカ宣教師医師教育者。日本において関西学院の創設に尽力した。大分リバイバルを起こした人。
生涯1854年に宣教師で教育者のジェームス・ウィリアム・ランバスの子として清国上海に生まれる。1875年5月、名門エモリー・アンド・ヘンリー大学卒業。ヴァンダービルト大学大学院で神学博士医学博士の学位を取得[1]アメリカ南メソヂスト監督教会(MECS)のジャパン・ミッションとして、父とともに1886年(明治19年)に上海経由で来日[2]
1886年11月24日、MECSジャパン・ミッションの総理として神戸に着任し、南美以神戸教会(現在の日本基督教団神戸栄光教会)初代牧師に就任する。着任二日後の11月27日に、その居館である神戸外国人居留地四十七番館の2階に読書館を設け、英語学校(後のパルモア学院)を開く[3]1888年に、関西学院創立に着手。1889年(明治22年)に、神戸市郊外の原田村、いわゆる「原田の森」(現在の神戸市灘区王子町)にWest Japan College、すなわち関西学院を創立し、初代院長となる。1890年12月16日、妻の病のため、離日。1910年(明治43年)に最高職の監督 (bishop) に就任、以後ブラジルアフリカ大陸ロシアシベリア、中国の伝道にたずさわる。1921年(大正10年)に、軽井沢で宣教師会開催のため再来日するが、発病により、入院先の横浜にて死去。神戸市立外国人墓地に葬られた。
1897年に広島美以教会(現在の日本基督教団広島流川教会)2代目牧師に就任。その頃、父ジェームスは神戸に、ウォルターは広島に居住。ともに瀬戸内海沿岸の広域伝道に着手。
1889年(明治22年)に大分美以教会(日本基督教団大分教会)を訪れて、除夜祈祷会で祈っていると激しく聖霊を体験して、信仰復興運動が起きた[4]
詳細は「大分リバイバル」を参照
テネシー州ジャクソンに所在するランバス大学英語版は、ウォルター・R・ランバスの名誉を称えて改名されたものである。











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