2014年10月22日水曜日

新羅堂@富幕山(とんまくやま)にロックオン!(爆w


バスなど4台絡む事故 12人重軽傷 浜松
10月22日 19時26分

22日夕方、浜松市の新東名高速道路と東名高速道路をつなぐ連絡路のトンネルで、大型トラックや観光バスなど車4台が関係する事故があり、消防によりますとバスの乗客など合わせて12人が重軽傷を負いました。

22日午後6時前、浜松市北区三ヶ日町の新東名高速道路と東名高速道路をつなぐ引佐連絡路の上り線にある富幕山トンネルの中で、渋滞で速度を落としていた大型トラックに後続の大型トラックが追突し、はずみで、止まっていた観光バスや別の大型トラックも事故に巻き込まれました。
消防によりますと、この事故で、最初に追突した大型トラックを運転していた男性が大けがをしたほか、観光バスの乗客など11人が軽いけがをして、病院へ搬送されました。
警察によりますと、現場は長さおよそ1.5キロのトンネルの中央付近で片側2車線の直線だということです。
この事故の影響で、引佐連絡路の上り線は浜松いなさインターチェンジと三ヶ日ジャンクションの間で通行止めになっています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20141022/t10015617881000.html








遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう)
2010年04月28日 05時28分51秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社10 冨幕山の謎の新羅堂(しんらどう)

引佐町の冨幕山(とんまくやま)に「新羅堂」というところがあります。
ネットで検索すると、たとえばこう出てきます。

「新羅堂(しんらどう) 古代寺院遺跡か朝鮮式山城(創筑年代)弘仁11年(820年)か(創筑者)不明 静岡県引佐郡引佐町富幕 (現状)石段 礎石」

そして別のネット「遠州修験の道を歩く」では「『遠州の霊山と山岳信仰』によれば「富幕山(鳳来山・扇山)西側山中には大福寺の前身である幡教寺が、東側山中には新羅堂がそれぞれ存在する。」という」と書かれています。

さらに別のネットでも、新羅堂の位置がわからないので教えて、という問いが書かれていました。

いまや、その位置さえ謎になってるようです。
古代朝鮮の「新羅」と関係あるのは確かなようなので、調査したいと思います。

一つ考えられるのは、北九州の山岳信仰では新羅系の渡来信仰が濃厚なことです。
この浜名湖・湖北地域での山岳信仰が盛んなことからいっても、この山岳信仰が新羅系である可能性は大きいのではないでしょうか。



2014年05月20日
付録 三ヶ日町大福寺と神①富幕山の新羅堂  
古代中世には神仏習合があたりまえで、現在でも多くのお寺が村の鎮守の近くにあります。明治の神仏分離令(実質的な廃仏毀釈)でかなりの数の寺院が廃業を余儀なくされましたが、江戸時代でも神社の管理をお寺さんがやるのが普通でした。またお寺さん自体にも護法神・鎮守神を祀る風があって、現在も境内に神を祀る祠のある寺院がほとんどです。大福寺鎮守神にも鎌倉時代の創建以来二つの神社がありました。ひとつは修験者が依拠する熊野神社でもうひとつは明治の廃仏毀釈で名指しで非難された牛頭天王を祀る京都から勧請された祇園社で、これは多くのところで社の名前や神名までも変えて生き残りを図りました。今八柱神社・須佐之男神社などと言っているのがその名残です。この大福寺鎮守神のことはいずれ書きますが、これから話すのは大福寺が現在地に移る前、三ヶ日町の北奥の富幕山にあったという伝承にまつわるものです。

富幕山は三ヶ日町只木の北奥にゆったりとした山容を見せています。瑠璃山大福寺の前身はこの山の南山麓の中腹の平地にあったと言われ、現在江戸時代後期の大福寺住職快雅がその由来を彫り込んだ石と、15世紀後半から16世紀にかけての石塔が数基残されています。また堂の礎石と池園といわれるものも残っていますが、その実態は分かっていません。
 こうした謎を解く鍵は二つあります。一つは「大福寺歴代承統系図」に載る貞観十七年第一世教待和尚ともう一つは同じ山内の数キロ離れた地点にある「新羅堂」です。
 さて教待は近江国園城寺(三井寺)の地をのちの天台座主円珍に譲った地主神的存在と同じ名前です。園城寺は7世紀に大友氏の氏寺として創建されましたが、その後廃退しているのを9世紀に再興したのが円珍です。円珍は天台座主になる以前さまざまな修行をしたわけですが、その中に大峰山や熊野三山での修行、つまり修験のための抖擻も含まれていて、のちの天台系修験の本山になる下地がありました。事実天台系修験が支配した山では、たとえば伊勢の朝熊山のように字は違いますが「きょうたい」和尚の伝説がつたわっています。そこでこの山は天台系修験が支配した山ではないかとの疑問が浮かぶわけです。さらにそれを決定づけるのが「新羅堂」の存在です。
 「新羅堂」は園城寺では「新羅善神堂」といわれ、円珍が唐からの帰国途中に船中で感得した神を寺の鎮守神として祀った堂舎です。この社の勧請は浜松市南区の新羅神社のように砂丘の工事を請け負った小笠原氏の本国が近江であるゆえにこの神を祀ったように、必ずしも天台修験と関係があるとは言えませんが、山岳寺院との関係からは無関係とは言えず、翻って教待との関係で決定的になります。
 つまりこの山は天台系修験が支配した山で、それは平安時代の後期以降で、新羅堂で採集された遺物からは平安時代末期を溯らないでしょう。ただ湖西市大知波廃寺との関係から言えば10世紀も視野にはいるのですが、やはり一度寺が衰退して修験が入って再興させたと考えられる平安時代後期以降が適当と言えるでしょう。

そいうわけで、流布されている新羅堂=新羅人という図式は成り立ちません。確かにこの辺りは古代新羅人が住んだ形跡はあります。たとえば富幕山の「富」は朝鮮語の「堂」と同じ音で、「木」は小屋を意味しますから、堂の小屋がある山とも解され、この山の牛が寝そべったような形で南が海に面している山は新羅人が信仰する山に似ています。
 しかし先に言ったように、新羅堂は新羅との直接的関係は認められません。

http://mnojiya.hamazo.tv/e5355431.html



、、、(爆wwwwwwwwwwww

2 件のコメント:

ミネ さんのコメント...

3じゃなくて昨日のニュースは4台とか4匹とか多いのねん

>一度寺が衰退して修験が入って再興させたと考えられる
>一度寺が衰退して修験が入って再興させたと考えられる平安時代後期以降が適当
>確かにこの辺りは古代新羅人が住んだ形跡はあります

  デモ違う!! とか

取り上げといて最後否定というYesYesNoの中々の使い手w
新羅明神像のキョンシー的キモさも解説ほしくなるねww

匿名 さんのコメント...

なぜ、白頭山の10世紀巨大噴火は文献資料に残されなかったのでしょうか?

中国は五代十国の混乱期、朝鮮は高麗が国家としてあり、史実を記録する文化があったにも関わらず、噴火の時期や推移についての記述を一切見つけることができないのです。

朝鮮人はその噴火で全滅・滅亡。
噴火前後の渡来人とその後の半島人とは何の縁もゆかりもnothingでは?