附属池田小事件
附属池田小事件(ふぞくいけだしょうじけん)は、2001年(平成13年)6月8日に大阪府池田市で発生した小学生無差別殺傷事件である。
実行犯は、大阪地方裁判所の2003年(平成15年)8月28日付け判決を伝える新聞記事[1]によれば、吉岡守(よしおか まもる、1963年11月23日 - 2004年9月14日、犯行当時37歳)(犯行時の旧姓宅間)による単独犯と認定されている[2][3]。
以降、元死刑囚本人を“甲”(文中未修正箇所は“被告人”)と略する。
武士だった甲の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、鹿児島県から奄美大島に渡った後、大阪・河内へ移住した[5][6]。甲の祖父は、甲の父親が17歳になった年の春に死去している[5]。甲の父親は小学校で学歴を終え、甲家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた[4]。
甲の父親は、甲の祖父と幼い頃から自宅の庭で木刀を打ち合っていたと言い[5]、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた[6]。父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました[7]」と語っている。また、「(甲家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)教育を受けてきたため[7]、(甲家の男子は)『真のサムライたれ』[7]と教育された。ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係無く『教育勅語』というものがあった[7]。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ[7]」という。父親は極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったけれども自分の人生にプライドを持っていたという[6]。
甲の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており[8]、甲自身も父親から厳しく接せられていた(尚、父親自身も放任されて育っていた様子である)。甲は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している[8]。甲が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、取っ組み合いをして父親が甲を何度も石で殴打する出来事もあった[9]。事件後、父親は甲のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している[10]。
甲の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと指摘される[8]。甲を身ごもった時、父親に「これはあかん」「おろしたい」と語っていた[8]。また、母乳をあげることも嫌がっていた。さらに、甲が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせられたと、事件後に甲のマンションから押収されたノートに書かれていた[11]。
甲は両親に対して、喧嘩をした際に、「ヤクザを使ってお前らの生活滅茶苦茶にしてやる」「死ぬまで苦しめてやる」と語っていた[12]。
幼少時代の甲は3歳の時点で三輪車で国道の中心を走って渋滞させたり、小学校では自分より強い生徒にはいじめられていたが、自分より弱い生徒に対しては徹底的にいじめた。いじめられっ子であると同時にいじめっ子であった[11]。又、猫等の動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害した事もあった。中学入学後も弱いものいじめは継続して行っており、本人が事件後鑑定医に語ったところによれば、「好意を抱いていた女子生徒の弁当に精液をかけた」こともあるという[13]。小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていた事もあり、高校生になっても周囲の同級生に「俺は自衛隊入るからお前等とは後少しの付き合いや」と発言していた事もあったと言う。又、高校時代に停学処分を受けた際、反省文にも「自衛隊は内申書一切関係無しの一発勝負」等と綴っていた事もあった[14]。
尼崎市内の工業高校を2年で中退した後、定時制高校に編入学するも直ぐ退学し、数ヶ月間ガソリンスタンドでのアルバイトを経て1981年末、18歳の時航空自衛隊に入隊したが1983年1月に1年強で除隊させられている[13]。除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している[13]。
除隊後、甲は運送会社やトラック運転手、引越し業者等十数社転職を繰り返していたが何れも数週間から半年以内で辞職しており、精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになっていった[13]。1984年、マンション管理会社に勤務していた時には家賃の集金と称して女性の部屋に上がり込んで強姦事件を起こしている[15]。事件後、甲は母親を伴い精神科を受診、入院するが、入院中に5階から飛び降りて重傷を負う[16]。この出来事の後、統合失調症の診断を下されている。また、のちに母親に宛てた手紙によれば、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったという[17]。初犯の強姦事件では1985年に懲役3年の実刑判決が確定し、翌1986年春から1989年春迄奈良少年刑務所に 服役し、1989年の出所後父親が甲の私物を下取りに出しその金を本人に手渡しして父親から勘当されている。1993年、30歳の時非常勤の地方公務員に なり市営バスの運転手やゴミ収集、小学校の用務員等を勤めていたが、この間も市バスの運転を務めている最中に乗客の女性に「香水の匂いがきつい」ことを理 由に言いがかりをつけてトラブルを起こし懲戒処分を受けている[18]。1999年4月に小学校教諭等が飲む茶に精神安定剤を混入させる行為をした[19]として分限免職されたものの、刑事処分は「責任能力なし」として受けなかった[20]。その後再度職を転々とするが、その度に暴行事件等を起こした為長続きしておらず[21]、 2000年末頃から最終的に池田小の通り魔殺人事件で逮捕された当時は無職であった。十数社の職歴の内ある程度長続きした(1年以上)のは陸上自衛隊と非 常勤の地方公務員の2ヶ所のみであり、それ以外は何れもおよそ半年以内で辞職したり解雇されている。又、初犯の強姦事件を除き全て自身の精神障害の偽装を 楯にして15犯に亘る前科は不起訴処分を経験している。
甲は幼い頃から「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望、嫉妬を抱いていた[11]。
甲には実兄が一人居たが、破綻した実弟の存在に心を病み、起業の失敗と偽って小刀で首を斬って40代前半の時自殺している[6]。甲の母親も長期に渡って心を病み、長らく精神病院に暮らした[6]。この厳しくも温かい家庭を破壊した人物は、父親でも祖父でも母親でもなく、もちろん地域の環境でも社会の変化でもなく、甲自身だった[6]。
逮捕当初、甲は精神障害者を装った言動を取っていた[25][26][24]。しかし、被疑者に対して起訴前と公判中に2度行われた精神鑑定の結果で、2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」とされ、責任能力を認める結果が出た[27]。甲は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して医師の診察を受けた[28]が、甲が飲んだとされる薬は通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗鬱剤「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類と判明した[28]。仮にこれら全部を甲の供述通り10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはないとされる[28]。また、甲の自宅を調べると睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物を押収[28]したが、これは甲が複数の病院に通院しては、医師に「眠れない」などと睡眠障害・不眠症を偽って(いわゆる詐病の一種)薬を処方してもらい、飲まずにため込んでいた[28]ものだった。さらに、逮捕後に甲の血液や尿を採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった[28]。捜査員がこの事実を甲へ突きつけると、「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた[28]。
2003年8月28日、大阪地方裁判所は被告人に対して死刑判決を言い渡した。死刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例があるが、今回はそれを破って主文を先に言い渡した。また、既に被告人は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており、死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことは無かった。また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別措置として法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できた。
下記は被告人自身が法廷で発言した内容の一部である。
「今のは、誹謗とか批判ではのうて、純粋のワシの心から出たほんまの気持ち。わかってもらわんでもええ。言いたい事はまだある。それは、殺し てしもーた子供達にや!わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、 俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!あははははははは! ほんまおもろい!ワシは死ぬことびびってないで。 遺族にはなにもできへんし最高や!、世の中どんなに金かけてもワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!。 世の中は公平やない!。わしは世の中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。ワシみたいにアホで将来 に何の展望もない人間に、 家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかったんや、世の中勉強だけちゃうぞ!、とあのくそガキに一撃を与 えたんや、 死ぬ前に世の中の厳しさが分かってよかったな、感謝せいよ。ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんま ワシは気分がええわ。 ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かれてな!親戚に守がいますなんて 千年たってもいえへんな!こんなケッタイなおっさんに一瞬や!ぶすぶす事件は、ほんま!、おもろい!、 ほれでも、ワシはまだ満足はしてないで!」
甲は退廷を命じられるが、その間にも暴言を続ける。
「おい、こらっ、なにするんじゃ、離せ!、喋りよう途中じゃ、おい コラァ!!くそガキの親ども!○○××△△◇◇!(実際は被害者4人の親の名前を連呼)、おまえらは、ほんなに偉いんか?、 おまえらは、7500万円、もらってホクホクやな!。よろしいな。転がり込んだ7500万円よろしいな!。そやけど、おまえらのガキの8人分の命はワシ一 人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ! エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!ガキどもが死んだ原因はおまえらあるんやぞーー!、せいぜい一生反省せいよ!、 あの世でもおまえらの子供、追いかけ回して、しばき倒したるからな! あははははは!あははは!、こらおもろい、!こら、傑作や。わしが8人を死刑にすんのに10分かかっとらんのに、わし一人の死刑に2年近くかかって随分、 ご丁寧な事やのー!!」
その他、被告人は公判中にアクビや貧乏ゆすり、遺族や裁判長等を睨みつけたりする悪態を行い、その悪態振りに対し傍聴席からは「早く死ね」「一人で死ね」等の怒号が飛び交っていた。
刑事訴訟法第475条では死刑確定後、6ヶ月以内に執行することが定められているが、但し書きに再審請求など一定の条件下では延期することも可能とされている。また死刑存置派の一部が主張するように、早期に死刑執行が行われないのは、死刑廃止論者に配慮したものではなく法務省刑事局で行われる死刑執行手続きが厳格かつ慎重に行われているとされており、事実上6ヶ月は「努力目標」に過ぎないのである。
死刑囚本人の精神状態も配慮されるため、この但し書きによって死刑執行が延期されることがほとんどで、6ヶ月以内に執行された実例はほとんどない[29]。また日本では、判決確定後に一定期間が経過すれば自動的に死刑が執行される制度では無いため、本人が死刑囚としての処遇から抜け出すために早期の死刑を望んだとしても、それは無理なことだった。
被告人は、死刑が6ヶ月以内に執行されないと精神的苦痛を理由とする国家賠償請求訴訟、及び法務大臣・野沢太三に対する特別公務員暴行陵虐致傷罪での刑事告訴を起こす準備をしていた。告訴した場合には、たとえ受理されなかったとしても手続きが滞って死刑の執行が遅れる可能性があったが、告訴の依頼を受けた弁護士[誰?]によれば、実際に告訴の手続きを行うつもりは無かったという[要出典]。また担当弁護士に届いた2004年の年賀状には「ケジメをつけるためにご協力お願いします」としたためており、被告人は一刻も早い処刑を望んでいた。
被告人が最期に残し、妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」とされている[32]。また、執行当日の朝食は摂取することが許されなかったが、被告人は執行直前に刑務官から受け取った煙草とリンゴジュースをゆっくり味わってから、拘置所の奥へ消えていったという。享年40。最期まで遺族への謝罪は無かった。
なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、結局は信者ではなかった大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたという[32]。
実行犯は、大阪地方裁判所の2003年(平成15年)8月28日付け判決を伝える新聞記事[1]によれば、吉岡守(よしおか まもる、1963年11月23日 - 2004年9月14日、犯行当時37歳)(犯行時の旧姓宅間)による単独犯と認定されている[2][3]。
以降、元死刑囚本人を“甲”(文中未修正箇所は“被告人”)と略する。
甲の生い立ち、家系、家族
甲の先祖は旧薩摩藩の下級武士で[4]、甲の家系では事件発生前まで代々誇りにしていた。甲家の男子にも代々受け継がれ[4]、法律や警察関係の仕事を行う者が多かった[4]。その誇りを木端微塵に砕いたのは、他ならぬ甲だった[4]。武士だった甲の曽祖父は、明治維新の直後に丁髷を落として警察官に就任し、鹿児島県から奄美大島に渡った後、大阪・河内へ移住した[5][6]。甲の祖父は、甲の父親が17歳になった年の春に死去している[5]。甲の父親は小学校で学歴を終え、甲家一家の大黒柱として6人の家族を養ってきた[4]。
甲の父親は、甲の祖父と幼い頃から自宅の庭で木刀を打ち合っていたと言い[5]、「自分は薩摩武士だ」との強烈なプライドを生涯持ち続けていた[6]。父親によれば「『誰にも迷惑をかけない』というのは、大きな私のテーマでありました[7]」と語っている。また、「(甲家の男子は)何代にも渡って厳しい修身教育(道徳)教育を受けてきたため[7]、(甲家の男子は)『真のサムライたれ』[7]と教育された。ワシも父親に厳しくそれを仕込まれたし、どんな出身地や身分にも関係無く『教育勅語』というものがあった[7]。これがあったから日本人はちゃんとしとったんですよ[7]」という。父親は極めて平凡な頑固親父で、人生の勝利者にはなり得なかったけれども自分の人生にプライドを持っていたという[6]。
甲の父親は、家族全員に対して激しい暴力をふるっており[8]、甲自身も父親から厳しく接せられていた(尚、父親自身も放任されて育っていた様子である)。甲は暴力をふるう父親を憎悪し、寝ている間に包丁で刺殺してやろうと思ったこともあると述懐している[8]。甲が自衛隊を退職して非行に走るようになると親子関係はさらに悪化し、取っ組み合いをして父親が甲を何度も石で殴打する出来事もあった[9]。事件後、父親は甲のことを「物事が上手くいかないとすべて人のせいにする人間」と評している[10]。
甲の母親は、家事、育児が苦手であり、家事のほとんどは父親が担当し、一種のネグレクト状態であったと指摘される[8]。甲を身ごもった時、父親に「これはあかん」「おろしたい」と語っていた[8]。また、母乳をあげることも嫌がっていた。さらに、甲が中学を受験する際には、「お前なんか産まれてこなければよかった」と罵詈雑言を浴びせられたと、事件後に甲のマンションから押収されたノートに書かれていた[11]。
甲は両親に対して、喧嘩をした際に、「ヤクザを使ってお前らの生活滅茶苦茶にしてやる」「死ぬまで苦しめてやる」と語っていた[12]。
幼少時代の甲は3歳の時点で三輪車で国道の中心を走って渋滞させたり、小学校では自分より強い生徒にはいじめられていたが、自分より弱い生徒に対しては徹底的にいじめた。いじめられっ子であると同時にいじめっ子であった[11]。又、猫等の動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害した事もあった。中学入学後も弱いものいじめは継続して行っており、本人が事件後鑑定医に語ったところによれば、「好意を抱いていた女子生徒の弁当に精液をかけた」こともあるという[13]。小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていた事もあり、高校生になっても周囲の同級生に「俺は自衛隊入るからお前等とは後少しの付き合いや」と発言していた事もあったと言う。又、高校時代に停学処分を受けた際、反省文にも「自衛隊は内申書一切関係無しの一発勝負」等と綴っていた事もあった[14]。
尼崎市内の工業高校を2年で中退した後、定時制高校に編入学するも直ぐ退学し、数ヶ月間ガソリンスタンドでのアルバイトを経て1981年末、18歳の時航空自衛隊に入隊したが1983年1月に1年強で除隊させられている[13]。除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している[13]。
除隊後、甲は運送会社やトラック運転手、引越し業者等十数社転職を繰り返していたが何れも数週間から半年以内で辞職しており、精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになっていった[13]。1984年、マンション管理会社に勤務していた時には家賃の集金と称して女性の部屋に上がり込んで強姦事件を起こしている[15]。事件後、甲は母親を伴い精神科を受診、入院するが、入院中に5階から飛び降りて重傷を負う[16]。この出来事の後、統合失調症の診断を下されている。また、のちに母親に宛てた手紙によれば、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったという[17]。初犯の強姦事件では1985年に懲役3年の実刑判決が確定し、翌1986年春から1989年春迄奈良少年刑務所に 服役し、1989年の出所後父親が甲の私物を下取りに出しその金を本人に手渡しして父親から勘当されている。1993年、30歳の時非常勤の地方公務員に なり市営バスの運転手やゴミ収集、小学校の用務員等を勤めていたが、この間も市バスの運転を務めている最中に乗客の女性に「香水の匂いがきつい」ことを理 由に言いがかりをつけてトラブルを起こし懲戒処分を受けている[18]。1999年4月に小学校教諭等が飲む茶に精神安定剤を混入させる行為をした[19]として分限免職されたものの、刑事処分は「責任能力なし」として受けなかった[20]。その後再度職を転々とするが、その度に暴行事件等を起こした為長続きしておらず[21]、 2000年末頃から最終的に池田小の通り魔殺人事件で逮捕された当時は無職であった。十数社の職歴の内ある程度長続きした(1年以上)のは陸上自衛隊と非 常勤の地方公務員の2ヶ所のみであり、それ以外は何れもおよそ半年以内で辞職したり解雇されている。又、初犯の強姦事件を除き全て自身の精神障害の偽装を 楯にして15犯に亘る前科は不起訴処分を経験している。
甲は幼い頃から「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望、嫉妬を抱いていた[11]。
甲には実兄が一人居たが、破綻した実弟の存在に心を病み、起業の失敗と偽って小刀で首を斬って40代前半の時自殺している[6]。甲の母親も長期に渡って心を病み、長らく精神病院に暮らした[6]。この厳しくも温かい家庭を破壊した人物は、父親でも祖父でも母親でもなく、もちろん地域の環境でも社会の変化でもなく、甲自身だった[6]。
事件の概略
2001年6月8日10時20分頃、大阪教育大学附属池田小学校に凶器を持った男(甲、当時37歳)が侵入し、次々と同校の児童を襲撃した。結果、児童8名[22](1年生1名、2年生7名)が殺害され、児童13名・教諭2名に傷害を負わせる惨事となった。甲は、校長や別の教諭にその場で取り押さえられ、現行犯逮捕された。甲は最後の一人を刺し終えた瞬間、凶器である出刃包丁を自ら落として、「あーしんど!」と呟いたという[23]。その後、甲は殺人罪などで起訴された。逮捕当初、甲は精神障害者を装った言動を取っていた[25][26][24]。しかし、被疑者に対して起訴前と公判中に2度行われた精神鑑定の結果で、2度とも「情性欠陥者で妄想性などのパーソナリティ障害は認められるが、統合失調症ではなく、責任能力を減免するような精神障害はない」とされ、責任能力を認める結果が出た[27]。甲は逮捕直後に「薬を十回分飲んだ。しんどい」と供述して医師の診察を受けた[28]が、甲が飲んだとされる薬は通院先の病院などを調べた結果、抗精神病薬「セロクエル」と抗鬱剤「パキシル」、睡眠剤「エバミール」の三種類と判明した[28]。仮にこれら全部を甲の供述通り10回分服用しても眠くなるだけで、奇怪な行動を起こしたりすることはないとされる[28]。また、甲の自宅を調べると睡眠薬や抗精神病薬など10数種類、約200錠の薬物を押収[28]したが、これは甲が複数の病院に通院しては、医師に「眠れない」などと睡眠障害・不眠症を偽って(いわゆる詐病の一種)薬を処方してもらい、飲まずにため込んでいた[28]ものだった。さらに、逮捕後に甲の血液や尿を採取して仮鑑定した結果、精神安定剤の成分が検出されなかった[28]。捜査員がこの事実を甲へ突きつけると、「すみません。薬は飲んでいません。作り話でした」と偽証していたことを認めた[28]。
公判
「下関事件の模倣犯になりたかった」「命を持って償います」と初公判でのみ反省・謝罪の弁を口にしていた。このことに対し、大阪地方検察庁の検事が週刊新潮のインタビューに対して「この反省と謝罪の弁は本物だった」との証言をしている。公判後は「何も言えないよりは良かった。本当ならば4人の遺族を名指しで批判するつもりだった」「刑事責任能力がそこまで認められたなら(控訴しても)仕方ない」と述べている。2003年8月28日、大阪地方裁判所は被告人に対して死刑判決を言い渡した。死刑判決を言い渡す場合には主文を最後に述べる慣例があるが、今回はそれを破って主文を先に言い渡した。また、既に被告人は開廷時に騒いだことで退廷命令を受け、拘置所職員によって連れ出されており、死刑判決を読み上げる裁判長の声を自ら聞くことは無かった。また、この判決公判では傍聴希望者が多かったことから、特別措置として法廷にテレビカメラを設置し、別室に設けたテレビモニターで傍聴できた。
下記は被告人自身が法廷で発言した内容の一部である。
「今のは、誹謗とか批判ではのうて、純粋のワシの心から出たほんまの気持ち。わかってもらわんでもええ。言いたい事はまだある。それは、殺し てしもーた子供達にや!わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、 俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!!でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!あははははははは! ほんまおもろい!ワシは死ぬことびびってないで。 遺族にはなにもできへんし最高や!、世の中どんなに金かけてもワシに一瞬にして殺されれば勝ちも負けもあらへん!。 世の中は公平やない!。わしは世の中の不条理をあのくそガキにわからせてやったんや。ワシみたいにアホで将来 に何の展望もない人間に、 家が安定した裕福な子供でもわずか5分、10分で殺される不条理さを世の中に分からせたかったんや、世の中勉強だけちゃうぞ!、とあのくそガキに一撃を与 えたんや、 死ぬ前に世の中の厳しさが分かってよかったな、感謝せいよ。ワシはいままで散々不愉快な思いをさせられて生きてきた、でも、今日は、ほんま ワシは気分がええわ。 ワシを悩ませた糞親にも嫁の家族にも迷惑かれてな!親戚に守がいますなんて 千年たってもいえへんな!こんなケッタイなおっさんに一瞬や!ぶすぶす事件は、ほんま!、おもろい!、 ほれでも、ワシはまだ満足はしてないで!」
甲は退廷を命じられるが、その間にも暴言を続ける。
「おい、こらっ、なにするんじゃ、離せ!、喋りよう途中じゃ、おい コラァ!!くそガキの親ども!○○××△△◇◇!(実際は被害者4人の親の名前を連呼)、おまえらは、ほんなに偉いんか?、 おまえらは、7500万円、もらってホクホクやな!。よろしいな。転がり込んだ7500万円よろしいな!。そやけど、おまえらのガキの8人分の命はワシ一 人を殺して終わりの程度の価値やったんやぞ! エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや!ガキどもが死んだ原因はおまえらあるんやぞーー!、せいぜい一生反省せいよ!、 あの世でもおまえらの子供、追いかけ回して、しばき倒したるからな! あははははは!あははは!、こらおもろい、!こら、傑作や。わしが8人を死刑にすんのに10分かかっとらんのに、わし一人の死刑に2年近くかかって随分、 ご丁寧な事やのー!!」
その他、被告人は公判中にアクビや貧乏ゆすり、遺族や裁判長等を睨みつけたりする悪態を行い、その悪態振りに対し傍聴席からは「早く死ね」「一人で死ね」等の怒号が飛び交っていた。
死刑確定後
控訴期限の同年9月10日に弁護団は控訴したが、9月26日に被告人自ら控訴を取り下げ、死刑判決を確定させた。被告人は主任弁護人に送った文書で、刑事訴訟法第 475条第2項で規定された「死刑確定後の6か月以内の死刑執行」を訴えていた。その内容として「死刑は殺される刑罰。6ヶ月過ぎていつまでも嫌がらせを される刑罰ではないんや。すぐ殺せばダメージが無いんやから、暫く嫌がらせしてから執行するってそんな条文があるんか。法律家ならワシの身になれや!法律 を遵守するのが法律家の仕事やろが!何や、自殺幇助や、そんな物関係あるか!国が法律を守らんかったら行政訴訟で噛み付くのが己ら左翼代言屋の使命やろ が!まあ、この手紙でヘソ曲げて意固地になる様やったら、下の下のカスの代言屋や」などと主張していた。刑事訴訟法第475条では死刑確定後、6ヶ月以内に執行することが定められているが、但し書きに再審請求など一定の条件下では延期することも可能とされている。また死刑存置派の一部が主張するように、早期に死刑執行が行われないのは、死刑廃止論者に配慮したものではなく法務省刑事局で行われる死刑執行手続きが厳格かつ慎重に行われているとされており、事実上6ヶ月は「努力目標」に過ぎないのである。
死刑囚本人の精神状態も配慮されるため、この但し書きによって死刑執行が延期されることがほとんどで、6ヶ月以内に執行された実例はほとんどない[29]。また日本では、判決確定後に一定期間が経過すれば自動的に死刑が執行される制度では無いため、本人が死刑囚としての処遇から抜け出すために早期の死刑を望んだとしても、それは無理なことだった。
被告人は、死刑が6ヶ月以内に執行されないと精神的苦痛を理由とする国家賠償請求訴訟、及び法務大臣・野沢太三に対する特別公務員暴行陵虐致傷罪での刑事告訴を起こす準備をしていた。告訴した場合には、たとえ受理されなかったとしても手続きが滞って死刑の執行が遅れる可能性があったが、告訴の依頼を受けた弁護士[誰?]によれば、実際に告訴の手続きを行うつもりは無かったという[要出典]。また担当弁護士に届いた2004年の年賀状には「ケジメをつけるためにご協力お願いします」としたためており、被告人は一刻も早い処刑を望んでいた。
獄中結婚、心境の変化へ
この事件の判決確定後、被告人は死刑廃止運動家の女性と出会い、文通を経て獄中結婚をした。晩年は被告人自身の姓を女性の姓に改名している。この他、愛知県出身の既婚女性から愛情の告白を受けており、その女性とも文通を行っていた[30]。 最初は愛情や支援に対して頑なに心を閉ざしていた被告人だったが、自分に対する理解者が現れるに連れて、少しずつ彼女に対して心を開いていく。執行に際し て、妻に対しては感謝の気持ちを表すまでには至った(後述)ものの、事件によって犠牲になった児童や被害者の遺族への謝罪は一切無かったとされる。最期、死刑執行
死刑確定から約1年後の2004年9月14日8時16分、被告人は大阪拘置所で死刑を執行された。結果的には被告人の望んだ通りの早期執行となった[31]。被告人が最期に残し、妻が死刑執行後に刑務官から伝えられた言葉は「『ありがとう、と僕が言っていた』と、妻に伝えてください」とされている[32]。また、執行当日の朝食は摂取することが許されなかったが、被告人は執行直前に刑務官から受け取った煙草とリンゴジュースをゆっくり味わってから、拘置所の奥へ消えていったという。享年40。最期まで遺族への謝罪は無かった。
なお、葬儀はマスコミが押しかけることと、費用面など経済的事情もあり難航し、結局は信者ではなかった大阪市内のキリスト教関係の施設で行われたという[32]。
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4 件のコメント:
この記事見られたくないって端末の画面と
向かいの部屋のチーム下手打ちカルト馬鹿通称チーム負け犬wの一員のかにえ君が反応してますうう(爆www
宅間はネトウヨ界隈は創価de在日の大合唱が声高々でしたねえw
ちぇすとーーde武士道精神ですよそうですよ^^
よかったねえ堺出身の弥生さんと赤ちゃんを殺した犯人みたく死刑になってw
あ、娘が学校の同級生の売春斡旋元締めだったという
神戸福原やり手ババアも脱糞もののネタがネット民に拡散しちゃった
元宝塚の黒木瞳さんおはようございますwww
ほんで今、昨日はあの後バッティングセンターに行ったら近くに
まんだらけ
があったので久々に寄ってみました
ってさっきここに居る、知り合いに右翼が居るおじちゃんと話してたとこですうう(爆wwwww
そう言えば一昨日奈良の観光バスの運ちゃんが
前で急ブレーキ踏まれた腹いせにその車止めて運転手引きずり出してボコるという
キムチの国のお話のような事件が起きてましたねえw
さすがやまと騙しいのくに(爆wwwww
理研からズレますが
当時は大学生なんぞやっていまして
事件直後から
宅間守は人格障害間違いないって教授の意見に
激しく同意し
教授が更に
マスゴミのインタビュに答える父親をも
人格に問題有りと解説
教授あんな短時間で
ほぉ~ と感心していたり
生育歴がいつの間にか充実のWikipedia
人格障害の他にも器質的な問題がありそうですけど
家族に精神疾患が複数名出る辺り
一家の多くのメンタル問題は
環境要因だけぢゃない事を窺わせますね
まぁそれにしても時代に合わせて
価値観の変化をしないというのは
その内容にも因りますが
弊害を生みやすいものですね
やっぱり脱亜
たとえば
どしゃぶりの雨の中、小さい女の子が傘もささずに歩いていて、見かねた人が雨宿りに中に入れたときの、その女の子の表情がさびしげだった。
夜遅く、小さい女の子がひとりで散歩しているのを見て、同じ年頃の女の子を持つ男の人が心配していた。
自分の娘のところに遊びにきていた女の子、遅くなったので母親が自宅まで送り届けたら、送ってやった先では母親が留守で、近くの交番にその女の子を預けてきた。
不審者情報が出されている地域で。
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