2014年9月10日水曜日

東京五輪最終聖火ランナーの坂井義則ことアトミック・ボーイ(原爆の子)が死去


東京五輪最終聖火ランナーの坂井義則氏が死去 69歳 「原爆の子」平和の象徴として大役担う
2014.9.10 10:23 [有名人の訃報]

昭和39(1964)年東京五輪の開会式で最終聖火ランナーを務めた坂井義則(さかい・よしのり)氏が10日午前3時1分、脳出血のため東京都内の病院で死去した。69歳だった。通夜は13日午後6時、葬儀・告別式は14日午後0時、東京都練馬区関町北4の16の3、本立寺で。喪主は妻、朗子(ろうこ)さん。

広島に原爆が投下された20年8月6日、広島県三次市で生まれた。中学で陸上競技を始め、早大では日本陸連の強化指定選手に選ばれた。東京五輪の代表選考会で敗れた後、聖火ランナーに選ばれ国立競技場の聖火台に点火する大役を果たした。国内外のメディアは当時19歳だった坂井氏を「アトミック・ボーイ(原爆の子)」と呼び、戦後復興と平和の象徴とされた。

41年バンコクアジア大会では1600メートルリレー金メダル、400メートルで銀メダルを獲得した。

早大卒業後はフジテレビに入社。スポーツや五輪の報道に携わり、スポーツ部専任部長などを歴任。現在はフジクリエイティブコーポレーション制作部のエグゼクティブプロデューサーを務めている。
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/140910/oth14091010230003-n1.htm

また早稲田か!(爆wwwwwwwwwww




坂井 義則(さかい よしのり、1945年(昭和20年)8月6日 - 2014年(平成26年)9月10日)は、日本の元陸上競技選手。元フジテレビ社員。東京オリンピックの開会式聖火リレーの最終ランナーを務めた。
プロフィール広島市原子爆弾が投下された1時間半後に広島県三次市にて出生した。坂井自身は被爆者ではないが、電力会社に勤務していた父は被爆者健康手帳の保有者である[1]
広島県立三次高等学校在学中の1963年(昭和38年)、第19回国民体育大会400mで優勝、東京オリンピックへの出場を目指し、1964年(昭和39年)早稲田大学に入学した。当初、関西学院大学を目指していたが、同じ広島県出身で早稲田OBの小掛照二の勧誘により、進路を変更したという[2]。大学では競走部に所属、監督の中村清の指導を受ける。
東京オリンピックの400mと1600mリレーで強化選手に指名されたが代表選考会で敗退、失意の底にあったが、組織委員会は他の選手に決まっていた聖火最終ランナーの地位を「広島への原爆投下の日」という象徴的な日に生まれた坂井に託した。開会式当日、国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で聖火を受け取り、トラックを半周したあと、聖火台までの階段を昇った[3]。10万713人目[4]のランナーであった。
その後、400mと1600mリレーで活躍、1966年(昭和41年)のバンコクアジア大会では1600mリレーで優勝、400mでも銀メダルを獲得した。オリンピックへの出場歴はない。
1968年(昭和43年)にフジテレビに入社(アナウンサーで入社した逸見政孝山川建夫松倉悦郎は 同期。特に逸見・松倉とは早稲田大学の同期でもある)、主にスポーツと報道分野を担当。就職先にマスメディアを選んだのは、自らが東京オリンピック聖火最 終ランナーに決定した際のマスメディアの過熱報道に接して「マスメディアは面白い商売だな」と思ったからだったことを語っている[5]
1972年(昭和47年)のミュンヘンオリンピック1996年(平成8年)のアトランタオリンピックでオリンピック報道を手がけた。ミュンヘン大会ではパレスチナのゲリラによる選手村襲撃事件が起こり、坂井は日本選手団のユニホームを借りて選手村に潜入し、現地から電話で事件を報告した[1] アトランタ大会でも爆弾テロ事件があった。坂井はミュンヘンの事件について「何でこんなところで選手を殺すなんてばかなことを」と怒りを抱いたと後年語 り、現在のオリンピックについて「平和の祭典などという美しい言葉は捨てた方がいい。五輪はアマチュアの祭典でも平和の祭典でもなくなった。金もうけのた めの祭典じゃないか」と述べている[1]
東京国際マラソンの実施なども手がけた。海外有力選手の代理人と出場の交渉も担当。「アマチュアリズムが生きていた」として東京大会を「理想の五輪」という坂井は、マラソン選手の出場料やボーナスの折衝を「仕事だからと自分に言い聞かせた」という[1]
2005年(平成17年)にフジテレビを定年退職した。以後はフジテレビ関連番組制作会社に再就職してエグゼクティブプロデューサーとして活動した[5]。子息の坂井厚弘TBSディレクターをしていて、2007年世界陸上選手権では国際映像のチーフディレクターを担当。
2014年9月10日脳内出血により東京都内の病院で死去。享年70(満69歳没)[6]



、、、(爆wwwwwwwwwwwwwww

3 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

>三次
広島市内から下道で1時間以上かかる、中国自動車道が通る付近の山奥であることを踏まえると
どっかの政党の期待の⭐︎と路上kissした
元ミヤネの部下の元女子アナさんのご出身地の近くに原爆の影響があるとは考えにくいんですが、、、
って突っ込みは野暮過ぎますかそうですかw

よく行きましたよダートラの試合と夏冬の休みで田舎帰る時にハチロクに乗ってw
25年前はまだ山陽道が全線開通してなかったもので

で、小掛さんその他も色々と文章内に隠れフラグがw

ミネ さんのコメント...

元聖火ランナー訃報でまたフラグで か、、とは思ってたけど
旬な早稲田は及べまへんデシタw

逸見サンも早稲田、デシタ全然忘れてた

ご近所 さんのコメント...

>ハチロク
で思い出したw

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