三国人には絶対真似できない戦後の生粋の近代日本人特有の凄味・・・
戦後の日本人が世界に誇るべき三国人や戦前志向の日本人には真似できない戦後の生粋の近代日本人特有の凄味とは・・・
それは自国民を原爆や無差別空爆により大量虐殺されたにも関わらず、その虐殺した国と手を結び土下座外交を貫く事により奇跡的な経済発展をとげ、他のアジア諸国を尻目に世界で一二を争う経済大国にのし上がった過去に捕らわれない非常に前向きな「お目出度思考」とその「度量の大きさ」なんですよ。(爆wwwwwww
そして自分たちを徹底的に打ち負かした相手の実力を認め、自国の領土を防御するための用心棒・暴力装置として全てを「おまかせ」するといふ諸葛亮もビックリな合理的思考。
日米同盟も三国人には絶対真似できない日本人の度量の大きさあっての賜物なわけです。(爆wwwwwwwww
そんな日本と対照的なのが戦勝国でもないくせに何時までも謝罪と賠償を日本に要求し続けてる韓国や中国、北朝鮮などゆすりたかり国家群。
自分たちのダメダメさを棚に上げて、拳を振り上げてダメリカガ~!ナカマガ~!なんてほざいてる連中は、日帝ガ~!尊い同胞が~!従軍慰安婦が~!と未だに過去に捕らわれて反日活動に励んでる三国人と同じレベルの生き物なわけです。(爆wwwwwwww
未だに靖国神社の英霊が~!とかほざいてるような連中も三国人と同類の過去に捕らわれてる連中ですな。(爆wwwwwww
、、、(爆wwwwwwwwwwww
147 件のコメント:
8/15 の日に素晴らしいエントリーw
憎しみ忘れる努力、即ち「ある程度の」寛容
これを「なんらかの手法(武力、その後の経済力、宗教、何でもいい)」で出来ないと世界帝国が出来ないんですな。
100年、200年単位で、その「なんらかの手法」がトリガーになって衰退滅亡の原因になることがあるが、その期間平和を謳歌出来る事の幸運や富の蓄積は、中東 アフリカ、緩衝国の民衆を見比べればどれだけ良いかわかるかと。
「お目出度思考」とその「度量の大きさ」を用いた現在までの発展と微衰退は、要するに賢明で建設的だったからですね。良くも悪くも。これは天皇システムを残したこと、日本国内外の反日サマナをバランス良く残した・残った結果か?とも考えてます。
ただし「お目出度思考」とその「度量の大きさ」は、原発の運用から事故、おまかせしすぎ・マツリゴトPolitics、STAP細胞問題にも現れるわけでw
左端、即ちギロチンを用いたフランス革命的に壊して変える、右端、即ち阿Q的に酔って、結果的に壊すように、破壊的に変えるのではなく、建設的に壊しながら変える。
英国、米国が歩んできたやり方を(細かくではなく大雑把に、国・民族に合わせて)真似すれば良い。出来ないものは、適切にお任せマネジメントすればいい。
特に今の世界情勢、一歩踏み外すと一発アウトですから、気をつけて欲しいですなぁ。
わが国のたちなほり来し年々に
あけぼのすぎの木はのびにけり
昨日コレ書くの忘れてたっすw
ケネディ大使、我が田舎に御忙しい中わざわざお越しいただき有難う御座いました(ぺこり
まだまだ猛暑が続いておりますがどうか御自愛下さいませ
あら?承認に Strong って出たっすwww
ルース元大使、現大使の認知度に比べたらの地味だったけど
この人がイカレポンチだったら日本終わってたよね思わす仕事ぶり&センスだった
白い家の黒い人が件の式典に行くとなれば
仲良しのアナタと出たらいいと思う
>15日 0:32さん
オラなんか足元にも及ばぬ博識かつ見識の持ち主であろうと伺える
が、一文だけ
おまかせしすぎの結果 原発事故 は
おまかせしなかった部分の結果。
STAPや他の根幹揺るがす問題は す べ て
それという認識で自分はいます
少しの違いに見えがちな所ですが
他は色んな認識でいいとなった所で大した事に至る事はないけど
この認識だけは少しのズレで後々大きなズレを起し、総勢で取返しのつかない悪夢を見る羽目になる発端になるとしてます
てんこもりさんのいう近代日本人の資質は戦争抜きならあるんですよね
昨日の敵は今日の友とでも言うのでしょうか
例えば裁判や交渉の場でボロクソに負かされ、その痛手の張本人相手側の弁護士をその後顧問や依頼する間柄になるとか
スポーツでもキリキリ舞させられた選手にキーーーーッって只なってないでウチに来ない?で
頻繁 別に珍しくない
けど戦争だとならない
お目出度と度量はある種の冷静さが同居してないと成り立たない性質
桁違いの疲弊は
やられた悔しさでキーーーーーーッってなったらなりっぱなしになりがち それが圧倒的によくある
なのに、日本人はその冷静さがどこかある
微小でもその冷静さがあるから現状を受容れる度量がある訳で・・興奮しっぱなしか悲観しかしない人間ばっか見てたらそら素直に驚けて1つの感動にはなるよねw
よく痛いツライ思いする時や火事場でありがちの脳が興奮状態で出す物質、いわゆる脳内麻薬とかが他民族より多い気がする
戦国時代経たから得てるとかかもねw
相手が感嘆を持った内とことん腹心になり
その後宰相にでもなんでも統治者でもなっていけばいい
それは揺ぎ無い腹心になった後でないとその後なんてないよ ってことわかんないバカが
70年近くもいるから
2・30年(・・ん~10年20年にしとこぉかなww)単位で余計な時間使ってる
遅れたら取戻せばいいという感覚の持ち主が多くて取戻す事の出来る範囲の遅々かどうか
その時間軸は近代日本人の存在まで危ぶまれるにダダッとなっちまいそうになる、が頻発し
端(この場合はアメリカね)は憂慮する時がゼロでないと・・近代日本の存続も念頭からなくなる日が来ちゃうYoって話
頭のいい人は特に外さないでほちぃ 理由は頭良いから
頭の良さを無駄使いされるとオラ泣いちゃうんだよ、、 wwwwwwwwwwwwww長文すまぬ
自分の親は一番上の兄が戦死したせいで家族が上手くいかんかった的なことを言ってましたな。確かに子供心に叔父叔母たちを眺めながら「本当なら」「本来は」と言いたげなものは感じてましたが。
だからと言ってアメリカが占領でもしてくれなけりゃ今の自分の生活は無い訳ですから恨み一筋とはいきません。(つかむしろ有り難い)
んな訳で靖国にも一度も行ったことありませんし行きませんよこれからも多分。
アメリカよりも当時山村に生まれながら英語出来た伯父さんをわざわざ無駄死にさせてくれた大本営に言いたいのは「大の大人が集まってよくここまで阿呆が出来るな」です。
中国はTVのジャイアン
アメリカは映画のジャイアン
2014年8月15日 10:49
ミネ様
ありがとうございます。
指摘の件、頭冷やして見直してみます。
あ、これも書くの忘れてたっす、すんまそん^^;
ルース前大使、いつぞやの馬鹿ったーでは大変お世話になりました(ぺこり
これからのご活躍に期待しております
お疲れ様でした
http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatsumei/index.html
日本でのみ成功した稀な事例
www.lib.city.higashimurayama.tokyo.jp/TOSHOW/html/PDF/東村山の空襲と学童疎開(改訂版).pdf
www5e.biglobe.ne.jp/~shimaoka/kuwannon.pdf
1945年4月2日午前3時頃 東京都北多摩郡東村山町南秋津(現・東村山市秋津町一丁目)
B29(機体番号44−69752、第73航 空団498爆撃群所属)が墜落。
北方へ向かって飛んでいた数機編隊のB29のうち1機が対空砲火を受けて炎上、大音響とともに墜落。積んでいた爆弾が爆発して機体はバラバラになり、地上に直径20メートル、深さ6メートルほどの大きな穴があき、民家7軒が破壊された。
(注)上記作戦の損失機6機のうちの1機
機長のWilliam E.FILBERT中尉など11人全員死亡とみられるが、確認できたのは3遺体分のみ。現場付近に埋葬。
現在、墜落現場の小俣権太郎さん宅には平和観音が建立されており、アメリカの遺族が訪ねて来ることもあるという。
http://www.powresearch.jp/jp/archive/pilot/tobu.html
攻撃目標 中島飛行機武蔵製作所
左銃手 PITTS, Wallace J. 軍曹 34724225
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:34DPty056gEJ:www10.ocn.ne.jp/~kuushuu/B29-44-69752.html+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
米軍兵士の遺族 墜落現場訪問
(2015年)04月14日 16時07分
太平洋戦争の末期にアメリカ軍の爆撃機が墜落した東京・東村山市で、14日、亡くなったアメリカ軍兵士の親族が墜落現場を訪れ、祈りを捧げました。
東村山市の秋津地区では、今から70年前の昭和20年4月、アメリカ軍のB29爆撃機が日本軍の攻撃によって墜落し、乗組員11人が死亡しました。
この墜落現場には、昭和35年になって近くに住む小俣権次郎さんが、慰霊と平和への願いを込めて観音像を建てました。
その後、小俣さんの家族が亡くなった乗組員ん、の遺族に連絡をとる活動を続け、これまでに7人の乗組員の遺族たちが慰霊に訪れています。
戦後70年にあたることしは、乗組員の1人、ウォレス・J・ピッツさんの甥にあたるウィリアム・J・ピッツさんとその妻が現地を訪れました。
初めて墜落現場を訪れたピッツさんは、観音像に花束を供え、静かに手を合わせて祈っていました。
ピッツさんは「日米の戦争という背景があったにも関わらず、このようなことをしてくれて感謝している。とても親切な人だと思う」と話していました。
また、観音像を設置した小俣さんの次男の小俣光明さんは「父はとても信仰心があつく、この観音像を建てました。きょう、こうやってまた1人、遺族の方とお会いできてほっとしています」と話していました。
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20150414/3940811.html
どこが攻撃目標だったかを避ける理由はありませんね
instagram.com/p/z2Quu6uWQL/
Commemorating 70 Years of U.S.-Japan Partnership
Townhall
Antony J. Blinken
Deputy Secretary of State
Washington, DC
April 14, 2015
http://www.state.gov/s/d/2015/240699.htm
北朝鮮の核など「気を散らす」 日韓関係に米国憂慮(04/15 07:59)
慰安婦問題などで緊張が続く日韓関係にアメリカ国務省は憂慮を示しました。
国務省のブリンケン副長官は講演で、日韓関係が緊張することは、北朝鮮の核問題のような日米韓の共通問題から気を散らすことになると批判しました。14日に5年ぶりに開かれた日韓の外務・防衛当局の安全保障対話など、関係改善に向けた最近の動きについて「非常に前向きだ」と評価しました。
http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000048456.html
テレビ朝日さん、タイトルの付け方も中身も独自の編集権暴走してませんか?
Antony J. Blinken
DONALD M. BLINKEN
Samuel Pisar
This is, in a broader sense, the challenge faced by the entire region. To what extent does the past limit future possibilities for cooperation? The conventional answer to that question, sadly, is a lot. After all, relations within Northeast Asia are often less than smooth. In recent years, we have seen tensions heighten over the Senkaku Islands, which Tokyo administers but which Beijing asserts were once part of greater China. Japan is wary of China’s rapid and opaque defense buildup. The Koreans and especially the Chinese are sensitive to any change in Japanese defense policy. The Koreans and Chinese have quarreled with Tokyo over so-called comfort women from World War II. There are disagreements about the content of history books and even the names given to various bodies of water.
All this is understandable, but it can also be frustrating. Any architect who set out today to design a platform for international security, prosperity, and peace would love to include in her blueprint a harmonious and cooperative East Asia. There can be no question that the world would be safer, richer, and more stable if the United States, Japan, China, and South Korea were consistently pulling in the same direction, and that’s definitely what the majority of the people in the region want. Of course, nationalist feelings can still be exploited, and it’s not hard for a political leader anywhere to earn cheap applause by vilifying a former enemy. But such provocations produce paralysis, not progress. To move ahead, we have to see beyond what was to envision what might be. And in thinking about the possibilities, we don’t have to look far for a cautionary tale of a country that has allowed itself to be trapped by its own history.
This is, in a broader sense, the challenge faced by the entire region. To what extent does the past limit future possibilities for cooperation? The conventional answer to that question, sadly, is a lot. After all, relations within Northeast Asia are often less than smooth. In recent years, we have seen tensions heighten over the Senkaku Islands, which Tokyo administers but which Beijing asserts were once part of greater China. Japan is wary of China’s rapid and opaque defense buildup. The Koreans and especially the Chinese are sensitive to any change in Japanese defense policy. The Koreans and Chinese have quarreled with Tokyo over so-called comfort women from World War II. There are disagreements about the content of history books and even the names given to various bodies of water.
All this is understandable, but it can also be frustrating. Any architect who set out today to design a platform for international security, prosperity, and peace would love to include in her blueprint a harmonious and cooperative East Asia. There can be no question that the world would be safer, richer, and more stable if the United States, Japan, China, and South Korea were consistently pulling in the same direction, and that’s definitely what the majority of the people in the region want. Of course, nationalist feelings can still be exploited, and it’s not hard for a political leader anywhere to earn cheap applause by vilifying a former enemy. But such provocations produce paralysis, not progress. To move ahead, we have to see beyond what was to envision what might be. And in thinking about the possibilities, we don’t have to look far for a cautionary tale of a country that has allowed itself to be trapped by its own history.
Under Secretary Sherman on U.S. Relations in Northeast Asia
27 February 2015
iipdigital.usembassy.gov/st/english/texttrans/2015/02/20150227313824.html#axzz3YfcFBgvD
Doolittle Raiders Honored
WWII pilots receive Congressional Gold Medal
house.gov/content/features/20150417/
この事実があったとしても、安倍晋三首相は米議会に立つことも歓迎される。
安倍首相、第2次世界大戦で戦死した米兵を追悼する記念碑訪問
04/30 06:34
安倍首相は29日、第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵を追悼する記念碑を訪れ、黙とうした。
安倍首相は、「パールハーバー」と刻まれたモニュメントの前で、しばらく身じろぎもせず、たたずんでいた。
安倍首相は、議会での演説で、記念碑訪問に触れ、「歴史とは、実に取り返しのつかない、苛烈なものだ。深い悔悟を胸に、黙とうをささげた」と述べた。
www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00291411.html
Obama may visit Hiroshima before end of his term
Japan
Apr. 28, 2015 - Updated 13:15 UTC+9
A senior White House official says US President Barack Obama may visit Hiroshima before the end of his term.
Presidential aide Ben Rhodes said in an interview with NHK that it's certainly a possibility and is something that they are regularly evaluating.
He said the US has a profound respect for how meaningful a visit to Hiroshima is to the Japanese people and particularly the city's residents.
Rhodes said the president has a personal commitment to support the vision of a world without nuclear weapons. He said this is in part because the US knows of the horrific suffering that can be brought about by the use of nuclear arms.
Obama first expressed his desire to visit Hiroshima and Nagasaki while in office in an interview with NHK in 2009.
www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/20150428_30.html
APRIL 15, 2015
Congressional Gold Medal Ceremony for Doolittle Tokyo Raiders
www.c-span.org/video/?325393-1/doolittle-tokyo-raiders-congressional-gold-medal-ceremony
英米の主権、大陸を含むアジア諸国、その自由と尊厳が著しく毀損された過去がある。
多くの若いアメリカ人の命を賭して戦い、正義は全うされた。
今ここにあるアメリカの姿を見ることができない、あまりにもたくさんのアメリカの若者がいた。
たくさんのアメリカの若者が未来を失った。
今ここに生きて、痛烈な悔悟を告白する者の声は、自由を取り戻すために戦い、自らの未来を完全に失った多くのアメリカの若者たちは、聞くことはできない。
昭和を暗示する日、厳粛な現実の真正面に立った安倍晋三総理が、議場にいるアメリカ国民を代表する議員にどのように迎えられたか。
アジア諸国、大陸も含めて、旧日本軍の武装解除が、どのような人々の犠牲により達成されたのか。
韓国大統領 安倍首相の米議会演説を批判
5月4日 17時20分
韓国大統領 安倍首相の米議会演説を批判
韓国のパク・クネ(朴槿恵)大統領は、安倍総理大臣が先週、アメリカ議会で行った演説について、「慰安婦問題への真の謝罪で隣国と信頼を強化できる機会を生かせなかった」と批判するとともに、日米関係の強化によって韓国が孤立したという国内の見方を否定しました。
これは、韓国のパク・クネ大統領が4日に大統領府で開いた首席秘書官らとの会議で述べたものです。この中でパク大統領は、先月29日に安倍総理大臣がアメリカ議会上下両院の合同会議で行った演説について、「慰安婦をはじめとする歴史問題について、真の謝罪で隣国と信頼を強化できる機会を生かせなかったのは、アメリカでも多くの批判を受けている」として、演説でいわゆる従軍慰安婦の問題が直接取り上げられなかったことなどを批判するとともに、こうした韓国の受け止めはアメリカも共有しているという認識を示しました。
韓国では、安倍総理大臣のアメリカ訪問による日米関係の強化によって、「韓国が孤立した」と、政府の外交姿勢に批判的な見方が出ており、4日の大統領の発言はこれを否定した形です。
パク大統領は「われわれの外交は、過去の歴史に埋没せず、日韓関係などは別の次元の目標と方向を持って推進する」と述べて、日本との間で経済や安全保障などの協力は進める考えを示したものの、大統領みずから演説を直接批判したことで、今後への影響が懸念されます。
www3.nhk.or.jp/news/html/20150504/k10010069861000.html
>それは自国民を原爆や無差別空爆により大量虐殺されたにも関わらず
The air attack on Japan was directed against the nation as a whole, not only against specific military targets, because of the contributions in numerous ways of the civilian population to the fighting strength of the enemy, and to speed the securing of unconditional surrender. The American attack against the "total target" was successful. In addition to enormous physical destruction, the strategic bombing of the home islands produced great social and psychological disruption and contributed to securing surrender prior to the planned invasion.
"The Effects of strategic bombing on Japanese morale"
https://archive.org/stream/effectsofstrateg00unit#page/n11/mode/2up
>The air attack on Japan was directed against the nation as a whole, not only against specific military targets,
>contributed to securing surrender prior to the planned invasion.
2016.1.6 15:59
トヨタAI新会社、助言メンバーに元駐日大使や元海軍長官 幹部は元グーグル責任者
トヨタ自動車は5日、人工知能(AI)を研究開発する新会社「トヨタ・リサーチ・インスティテュート(TRI)」について、アドバイザリー・ボードのメンバーに、元駐日米大使のジョン・ルース氏や元米海軍長官のリチャード・ダンジグ氏らが就任すると発表した。
アドバイザリー・ボードはTRIの研究を進めるにあたって、多様な観点から助言する外部有識者で構成。ルース氏やダンジグ氏のほか、米アイロボット創設者のロドニー・ブルックス氏らが加わる。
また、TRIの幹部に、自動運転車を開発中の米グーグルでロボット部門の責任者を務めていたジェームス・カフナー氏が就任することも明らかにした。
トヨタはTRIの最高経営責任者(CEO)のギル・プラット氏をはじめ、AIやロボット分野の優秀な人材を集め、安全で信頼性のある自動運転技術の開発を加速する考えだ。
www.sankei.com/economy/news/160106/ecn1601060038-n1.html
http://i.dailymail.co.uk/i/pix/2016/04/11/06/2oytowFS9X989b5d56432ea64580-3532689-U_S_Secretary_of_State_John_Kerry_center_left_puts_his_arm_aroun-a-80_1460351686977.jpg
米ルース前駐日大使 大統領の広島訪問に期待
4月11日 7時11分
アメリカの駐日大使として、6年前、広島原爆の日の平和記念式典に初めて参列したルース前大使がNHKのインタビューに答え、ケリー国務長官の広島訪問は核軍縮に向けた力強いメッセージになるとしたうえで、オバマ大統領の広島訪問も実現することに期待感を示しました。
この中でルース前駐日大使は6年前、広島での平和記念式典に初めて参列する際、アメリカ政府内には謝罪の姿勢と受け取られないか懸念の声もあったとしたうえで、「日本政府や日本の人々と話してみると、謝罪は求めていないことが分かり、問題なく参列できると考えた」と述べました。
そのうえでルース前大使は、今回のケリー国務長官の広島訪問について「私の訪問と同様、国務長官が訪れることは正しいことだ。世界に向けた力強いメッセージとなる」と述べ、核軍縮の機運を高めることにつながるという考えを示しました。
さらに、ルース前大使は「オバマ大統領はかつて、『任期中に広島を訪れる機会があれば光栄なことだ』と述べている。任期が終わりに近づいている今、実現させたいと思っているはずだ」と述べ、アメリカ大統領として初めてとなる広島訪問が実現することに期待感を示しました。
www3.nhk.or.jp/news/html/20160411/k10010474441000.html
オバマ大統領の広島訪問が決定されたとの一報が入ったあとの、記者の囲みでの安倍晋三首相
今月27日、伊勢志摩サミット終了後、オバマ大統領と共に、被爆地、広島を訪問することを決定いたしました
オバマ大統領の広島訪問を心から歓迎いたします
70年前の原爆投下によって、たくさんの市井の人々が無残にも犠牲となりました
今回の訪問を、すべての犠牲者を、日米で共に追悼する機会としたいと思います
日本は唯一の戦争被曝国として、二度とこの悲惨な体験を世界のどんな場所であっても、再び繰り返させてはならない
この思いで、核兵器の廃絶を一貫して訴えてまいりました
今回、オバマ大統領が広島を訪問し、そして、被曝の実相に触れ、その気持ちを、そして、その思いを世界に発信することが、核兵器のない世界へ向けて、大きな力となると信じます
そして、その世界を実現するために、オバマ大統領と共に、全力を尽くしていきたいと思います
原爆投下について、アメリカの謝罪というのは、必要だというふうに思いますか?
70年前の原爆投下によって、たくさんの方々が犠牲になりました
そして、今でも、多くの方々が苦しんでおられるのも、事実であります
そして、そのみなさんは、二度とこうした悲劇を繰り返してはならないと、強く思っておられることと思います
オバマ大統領は、核兵器を使用した唯一の国として、核兵器のない世界に向けて、行動する責任を負っていると、常々述べておられます
今回、被爆地から世界に向けて、核兵器のない世界についての決意を改めて発信することこそ、わたくしたちの世代、そして、 また子供たちや孫たちや、次の世代にとって、意義のあることだと思います
つまり、謝罪を求めないということで、よろしいですか?
今度、オバマ大統領が実際に被爆地に足を運ぶ
それは、アメリカ大統領にとっては、大きな決意だったと思います
そして、唯一の戦争被曝国の首相であるわたくしと共に、世界で唯一、核兵器を使用した国の指導者が、共に、犠牲者に対して哀悼の誠をささげる、このことが、まさに被曝の犠牲となった方々、そして、今も苦しむ人々の思いに応えるのだと、私は信じています
>Obama may visit Hiroshima before end of his term
Japan
Apr. 28, 2015 - Updated 13:15 UTC+9
May 10, 2016
Statement by the Press Secretary on the President’s Travel to Vietnam and Japan
https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/05/10/statement-press-secretary-presidents-travel-vietnam-and-japan
https://medium.com/@rhodes44/the-first-sitting-u-s-president-to-visit-hiroshima-1992461baf4c#.ncynf6ajp
PRESS RELEASES 05.10.16
Pelosi Statement on President Obama’s Historic Decision to Visit Hiroshima
http://www.democraticleader.gov/newsroom/pelosi-statement-on-president-obamas-historic-decision-to-visit-hiroshima/
オバマ大統領の広島訪問に関するケネディ大使の声明
2016年5月10日
http://japanese.japan.usembassy.gov/j/p/tp-20160510-01.html
WikiLeaks: Japan Rebuffed Idea Of U.S. Apology For Hiroshima
October 12, 20112:25 PM ET
http://www.npr.org/sections/thetwo-way/2011/10/12/141276162/wikileaks-japan-rebuffed-idea-of-u-s-apology-for-hiroshima
40年ぶり 米国産原油輸入
40年ぶりに輸出を解禁したアメリカからの原油が、きょうタンカーで三重県四日市市に到着しました。石油元売り各社は、アメリカからの原油の輸入を検討しており、日本にとって、エネルギーの安定調達につながることが期待されています。
この原油は、アメリカが石油危機をきっかけに1975年から原則禁止してきた輸出を2015年、40年ぶりに解禁したことを受けて、石油元売り大手のコスモ石油が日本に初めて輸入しました。
アメリカ南部のテキサス州ヒューストンからおよそ50日かけて30万バレルの原油を運んできたタンカーは、10日午前11時ごろ、この会社の三重県四日市市の製油所の沖にある受け入れ施設に到着しました。
そしてガソリンなどに精製され国内で販売されることになっています。
コスモ石油の加藤寛彦常務取締役は「その時々で、アメリカや中東などの原油価格は変化しており、そこをうまく狙って安く調達できるようになる。安定してより安い石油製品を国内に届けたい」と話していました。
ほかの石油元売り各社もアメリカからの原油の輸入を検討していると言うことで、原油の輸入の8割を中東に依存している日本にとって、政治経済的につながりが深いアメリカが調達先に加わることで、エネルギーの安定調達や価格交渉力の強化につながることが期待されています。
05月10日 16時55分
www3.nhk.or.jp/lnews/tsu/3075160061.html
To be sure, the United States will be eternally proud of our civilian leaders and the men and women of our armed forces who served in World War II for their sacrifice at a time of maximum peril to our country and our world. Their cause was just, and we owe them a tremendous debt of gratitude, which the President will again commemorate shortly after the visit on Memorial Day. This visit will offer an opportunity to honor the memory of all innocents who were lost during the war.
medium.com/@rhodes44/the-first-sitting-u-s-president-to-visit-hiroshima-1992461baf4c#.8xo7ndmn2
絶対に真似できな国がある
American POWs Killed at Hiroshima
韓国 米大統領の韓国人慰霊碑訪問に期待
5月15日 6時01分
"JAPAN and ARMAGEDDON"
George Benedict Zabelka
'Ich bin ein Berliner' Obama JFK
2 hours ago
Obama speaks to NHK before Hiroshima visit
US President Barack Obama has spoken to NHK ahead of his arrival in Japan. In an exclusive interview, Obama outlined his wish for a world without nuclear weapons, and spoke about the horrors of war.
Obama will arrive in Japan on Wednesday to attend the Group of Seven Summit in the Ise-Shima region.
On Friday, he willl travel to Hiroshima, becoming the first sitting US President to visit the atomic-bombed city.
When asked about the reason why he decided to visit, Obama said that now is the appropriate time.
He said, "The G7 will be hosted close to Hiroshima, and the Peace Memorial. When I first visited Japan, I said that this was something that I thought I might be interested in doing. And since I only have a few months left in office, I thought it was a good time for me to reflect on the nature of war."
Obama added, "My purpose is not to simply revisit the past, but to affirm that innocent people die in a war, on all sides, that we should do everything we can to try to promote peace and dialogue around the world, that we should continue to strive for a world without nuclear weapons- that is something that I worked on since I first came into office."
Obama said he did not intend to offer an apology in his message to survivors of the atomic bombing.
He said, "I think that it's important to recognize that in the midst of war, leaders make all kinds of decisions. It's a job of historians to ask questions and examine them, but I know as somebody who has now sat in this position for the last seven and a half years, that every leader makes very difficult decisions, particularly during war time."
The president said he instead thinks about how the former adversaries came together to form one of the closest partnerships, and become the closest allies, in the world.
A senior US official says Obama will make a brief visit to the Peace Memorial Park in Hiroshima on Friday where he will offer flowers and pay tribute to the victims.
www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20160522_03/
Former U.S. envoy to Japan Roos says he urged Obama to visit Hiroshima
MAY 7, 2016
SAN FRANCISCO – After becoming the first U.S. representative to attend Hiroshima’s annual ceremony in 2010 to mark the 1945 U.S. atomic bombing, former U.S. Ambassador to Japan John Roos revealed Friday that he had recommended to President Barack Obama that the U.S. leader also visit the city.
“I think that it’s important for every American to go there, and I think every president,” Roos said.
Roos said he told Obama that attending the Peace Memorial Ceremony on the 65th anniversary of the Aug. 6, 1945, atomic bombing had been an “emotional” and “powerful” experience.
“When I was walking out of the ceremony, the survivors that are, obviously, elderly, at this stage, applauded,” Roos said, noting that he had faced no calls in Japan for a U.S. apology for the bombing.
Roos made the comments as U.S. officials said the White House is in the final stages of considering the first visit by a sitting president to Hiroshima during Obama’s trip to Japan later this month to attend the Group of Seven summit in Mie Prefecture.
Roos, a lawyer, served as U.S. envoy to Japan from 2009 to 2013 and in 2012 became the first American ambassador to attend a similar ceremony in Nagasaki.
Roos said there were concerns prior to his visit that going to Hiroshima could have been perceived as an apology. He said, however, “Neither the government nor the Japanese people were asking for an apology.”
Referring to a call by Secretary of State John Kerry for “everyone” to visit Hiroshima, Roos said: “It’s a very powerful statement about the destructiveness of nuclear weapons.
“But, it’s also a story of the strength of the Japanese people, the resilience, restoration,” Roos said.
Kerry became the first U.S. Cabinet member to visit Hiroshima while he attended the G-7 foreign ministerial talks there last month.
Obama is “someone who has a deep respect for history” and for the Japanese people, Roos said.
www.japantimes.co.jp/news/2016/05/07/national/politics-diplomacy/former-u-s-envoy-japan-roos-says-urged-obama-visit-hiroshima/#.V0DB2FXRjDd
オバマ大統領広島訪問 キャンベル前次官補「非常に大きな出来事」
05/18 12:35
5月27日のアメリカ・オバマ大統領の広島訪問について、キャンベル前国務次官補が、FNNのインタビューに応じ、「非常に大きな出来事」と、訪問成功に期待を示した。
アメリカのキャンベル前国務次官補は、「あらかじめ立てた計画にとどまらず、広島訪問という経験が、オバマ大統領の心をどう動かすのかに、関心が集まるだろう」と述べた。
第1次オバマ政権で、東アジア政策を担当したキャンベル前国務次官補は17日、オバマ大統領の広島訪問について、「現職大統領として、初めての訪問であり、非常に大きな出来事だ」としたうえで、これまでのところ予定されていない、被爆者との対話なども、訪問中に、その場の判断で設定される可能性もあると指摘した。
また、「大統領が歴史の恐ろしい現実を理解することについて、明確なメッセージを発信し、未来への希望について語るだろう」と話し、大統領の訪問成功に期待を示した。
www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00325036.html
"President Obama, go to Hiroshima"
Op-Ed, CNN.com
April 23, 2016
Author: Ambassador Wendy R. Sherman, Senior Fellow, Belfer Center for Science and International Affairs
belfercenter.hks.harvard.edu/publication/26565/president_obama_go_to_hiroshima.html
edition.cnn.com/2016/04/23/opinions/obama-should-visit-hiroshima-sherman/
>Belfer Center for Science and International Affairs
The Atomic Bomb and the End of World War II
A Collection of Primary Sources
nsarchive.gwu.edu/NSAEBB/NSAEBB162/
【昭和天皇実録公表】ソ連参戦 「五分」と上奏、重臣ら甘い分析 ソ連頼りの終戦構想へ
www.sankei.com/life/print/140909/lif1409090015-c.html
【昭和天皇実録】「ご聖断」ソ連参戦で決意 報告の18分後「終戦」側近に指示 公表の「実録」時系列から判明
www.sankei.com/life/print/140909/lif1409090011-c.html
>「ご聖断」ソ連参戦で決意
"etched in the minds of the world"
"Obviously, the memories of Hiroshima and Nagasaki are etched in the minds of the world, and I would be honored to have the opportunity to visit those cities at some point during my Presidency."
1 hour ago
Obama talks to NHK about Hiroshima visit
US President Barack Obama gave NHK an exclusive interview ahead of his arrival in Japan. He outlined his wish for a world without nuclear weapons and discussed the horrors of war.
The US President left Washington for Vietnam on Saturday.
After his visit, he will fly to Japan on Wednesday to attend the Group of Seven Summit in the Ise-Shima region.
On Friday, he will travel to Hiroshima, becoming the first sitting US President to visit the atomic-bombed city.
When asked about the reason why he decided to visit, Obama said that now is the appropriate time.
He said, "The G7 will be hosted close to Hiroshima and the Peace Memorial. When I first visited Japan, I said that this was something that I thought I might be interested in doing. And since I only have a few months left in office, I thought it was a good time for me to reflect on the nature of war."
Obama added, "My purpose is not to simply revisit the past, but to affirm that innocent people die in a war, on all sides, that we should do everything we can to try to promote peace and dialogue around the world, that we should continue to strive for a world without nuclear weapons- that is something that I worked on since I first came into office."
Obama said he did not intend to offer an apology in his message to survivors of the atomic bombing.
He said, "I think that it's important to recognize that in the midst of war, leaders make all kinds of decisions. It's a job of historians to ask questions and examine them, but I know as somebody who has now sat in this position for the last seven and a half years, that every leader makes very difficult decisions, particularly during war time."
The president said he instead thinks about how the former adversaries came together to form one of the closest partnerships, and become the closest allies, in the world.
Obama evaluated the current situation of nuclear disarmament worldwide. He said, "I think that we have made some modest progress in at least not seeing a huge increase in nuclear stockpiles. In the major countries that possess nuclear weapons, I think there's been an emphasis not on building up new weapons."
He went on to say, "I've tried to negotiate with Russians, and was able to get, when I first came to office, a START-II treaty that reduced the stockpiles of Russian and US nuclear weapons. I think we can go further but so far Russia has not shown its self interest in doing more."
President Obama says he plans to speak about a world without nuclear weapons when he visits Hiroshima.
A senior US official says Obama will make a brief visit to the Peace Memorial Park in Hiroshima on Friday where he will offer flowers and pay tribute to the victims.
www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20160522_08/
"President Jimmy Carter went to Hiroshima in 1984 – after he left office"
Operation Downfall
www.historylearningsite.co.uk/world-war-two/the-pacific-war-1941-to-1945/operation-downfall/
Henry Stimson to Harry S. Truman, with attached draft press release, July 31, 1945.
President's Secretary's File, Truman Papers.
www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/documents/index.php?documentdate=1945-07-31&documentid=55&studycollectionid=abomb&pagenumber=1
The Decision to Drop the Atomic Bomb
www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
U.S. to donate photographs of A-bomb effects to Hiroshima museum
May 19, 2016 (Mainichi Japan)
mainichi.jp/english/articles/20160519/p2a/00m/0na/018000c
2009 North Korean nuclear test
/en.wikipedia.org/wiki/2009_North_Korean_nuclear_test
日米首脳共同記者会見
平成21年11月13日
www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/200911/13usa_kaiken.html
November 13, 2009
Remarks by President Barack Obama and Prime Minister Yukio Hatoyama of Japan in Joint Press Conference
www.whitehouse.gov/the-press-office/remarks-president-barack-obama-and-prime-minister-yukio-hatoyama-japan-joint-press
日本語訳は英語のニュアンスを殺しているのはなぜ?
2 hours ago
Obama: N.Korea's nuclear issue 'biggest challenge'
US President Barack Obama says North Korea's nuclear program is the biggest challenge for nuclear disarmament.
Obama will arrive in Japan on Wednesday to attend the Group of Seven Summit in the Ise-Shima region.
He will visit Hiroshima on Friday to mourn the victims of the atomic bombing and to deliver a message that he aims to achieve a world without nuclear weapons, as he has been calling for since he took office. He will be the first US president to visit the atomic-bombed city.
In an interview with NHK, Obama said the biggest challenge right now with respect to nuclear weapons is the dangers of North Korea's nuclear program.
He said there has been a continued effort on North Korea's part, not only to develop nuclear weapons but also to deliver them in ways that are reckless and provocative. Obama indicated that the North is the biggest obstacle to achieving a world without nuclear weapons.
Obama said the international community has shunned North Korea for its behavior, but so far the North has not changed its behavior the way it needs to.
He said part of the reason why that is such a concern is that North Korea also has a history of proliferating nuclear technologies, and the international community still has work to do.
Obama also said that North Korea is the worst example, but other parts of the world are still seeing the development of nuclear technologies that could be very dangerous.
www3.nhk.or.jp/nhkworld/en/news/20160522_15/
JAPAN’S SUICIDAL RESISTANCE AND THE BOMB
iipdigital.usembassy.gov/st/english/article/2010/05/20100517122848zjsredna0.5600353.html#axzz49NxcuzvL
どちらもむごい
President’s Visit to Hiroshima Sparks Moral Debate
www.voanews.com/content/obama-visit-to-hiroshima-sparks-moral-debate/3341757.html
Obama’s Historic Visit to Hiroshima Sparks Moral Debate
Published May 23, 2016
www.voanews.com/media/video/3341756.html#relatedInfoContainer
Comments
by: Len from: USA
May 23, 2016 8:59 AM
Did they forget about Pearl Harbor!!! How many people were killed that day when we were not a war. my father was fighting against Japan during the war so they should be sorry for starting it.
Hiroshima & Nagasaki
70 years on, survivors and their families still gravely affected
www.icrc.org/en/hiroshima-nagasaki
"Human Shadow Etched in Stone"
原爆の健康被害報告書 米が公開
2014年(平成26年)1月27日[月曜日] 12時11分
原爆投下直後の広島と長崎で、日米の研究者が原爆の健康への影響について調べた調査の報告書がアメリカのエネルギー省からインターネットで公開されました。
報告書は戦後しばらく機密指定され、一部の研究者にしか知られておらず、公開によって被爆の実態の研究が進むと期待されています。
報告書はアメリカ陸軍が昭和26年にまとめた「原子爆弾の医学的影響」で、昭和20年9月から10月にかけて、アメリカ陸軍所属の医師や日本の医師など、およそ180人が広島と長崎で行った調査結果が、6冊にまとめられています。
このうち、被爆者およそ1万3000人の健康状態を調べた部分には爆心地からの距離やコンクリートの建物で遮られたかどうかなど、条件ごとに爆風や熱線の影響、脱毛や下痢といった放射線の影響がどの程度見られたか、詳細に記されています。
また、報告書の6冊目は、広島の爆心地から4キロ以内にいた子どもたち、およそ1万7000人について、爆心地からの距離と死亡者数の割合などから殺傷能力を分析しており、政治的な配慮から、アメリカ政府が機密指定していました。
報告書はアメリカのエネルギー省のほか、広島市にある放射線影響研究所などに保管されていましたが、一部の研究者にしか知られておらず、公開によって被爆直後の様子や健康への影響の研究に生かせると期待されています。
アメリカ・エネルギー省に公開を働きかけた長崎大学の長瀧重信名誉教授は「被爆70年を前に、被爆者が高齢化するなか、被害の実態を知るうえで貴重な資料で、研究が進むことを期待している」と話しています。
www3.nhk.or.jp/news/html/20140127/k10014794321000.html
The effects of atomic bombs on health and medical services in Hiroshima and Nagasaki
by United States Strategic Bombing Survey
Published 1947
原爆投下エノラ・ゲイ 最後の乗組員死去
(2014年)7月30日 12時18分
広島に原爆を投下したアメリカの爆撃機「エノラ・ゲイ」に搭乗した12人の乗組員のうち、最後の生存者だった航法士の男性が93歳で亡くなりました。
亡くなったのは、1945年8月6日、広島に原爆を投下したアメリカのB29爆撃機「エノラ・ゲイ」の乗組員12人のうち、最後の生き残りだった元航法士のセオドア・バン・カーク氏です。
カーク氏は、アメリカ南部ジョージア州在住で老衰のため、28日、93歳で死去しました。
カーク氏は、2005年に機長のポール・ティベッツ氏らと共同で、原爆の投下によって戦争を終結させ、多くの人たちの命を救ったと原爆投下を正当化する声明を発表していました。
そのうえで、「原爆投下を後悔はしていない。多くの人たちの命を救ったことに誇りを感じている」として、戦争終結のために原爆投下はやむをえなかったと強調しました。
また、カーク氏の息子も、父の死後にアメリカメディアの取材に対し、「父は広島での作戦について後悔していなかった」と話していました。
カーク氏が亡くなったことで、広島と長崎に原爆を投下したアメリカの爆撃機の乗組員は、すべて亡くなったことになります。
www3.nhk.or.jp/news/html/20140730/k10013399311000.html
http://japan.usembassy.gov/e/p/tp-20091004-77.htm
Statement of Ambassador John V. Roos at the Hiroshima Peace Memorial Museum
October 4, 2009
Good afternoon, Konnichiwa. My parents, my son, and I have just visited the Peace Memorial Museum. Like all visitors to this museum, we were deeply moved by what we saw. I am deeply grateful that three generations of my family were able to come here today. And I would like to read to you what I’ve just inscribed in the book. “A visit to Hiroshima is a powerful reminder of the destructiveness of nuclear weapons, and underscores the importance of working together to seek the peace and security of a world without them.” Thank you very much.
Thank you for the visit. My family was deeply moved. Thank you for hosting my family here today. Arigato gozaimasu.
ご両親やご子息までご一緒だったとは
こちらこそ、ありがとう存じます
www.fnn-news.com/sp/news/headlines/articles/CONN00325146.html
オバマ大統領広島訪問 「日本国民の反応にとても心動かされた」
05/19 12:56
アメリカ・ホワイトハウスの大統領副補佐官が、FNNの単独インタビューに応じ、オバマ大統領が広島訪問を発表したあと、「日本国民の前向きな反応に、とても心を動かされた」などと語っていたことを明らかにした。
ローズ副補佐官は「最終的に、オバマ大統領が自ら『広島を訪れたいと考えている』と語り、決定した」と話した。
オバマ大統領の側近でスピーチライターのローズ副補佐官は、オバマ大統領が、2009年の初来日以降、何度も広島を訪れたいと側近に漏らしていたことを明らかにし、G7(先進7カ国)外相会合の広島開催が決まった2015年6月ごろから、訪問の「可能性が高い」として、調整を進めていたと語った。
ローズ副補佐官は「大統領は(広島訪問発表後の)日本国民の反応に、『とても心を動かされた』と語っていた。大統領は、今回の訪問が、日米両国にとり、重要な瞬間になると考えている」と述べた。
またローズ氏は、今回の訪問中に、大統領が被爆者と「会う可能性はある」と述べ、被爆の体験談が記された書籍などを自ら読み込み、訪問の最後に、大統領が一部アドリブで、所感を語ることになるとの見通しを示した。
一方、安倍首相の真珠湾への訪問案が浮上していることについては、期待感を示しながらも、「安倍首相自身が判断することだ」と語った。
現大統領の任期を配慮して適切な時期に
Necessary Evil (aircraft)
Russell E. Gackenbach
World War II vet recalls historic bombing mission
West Point Museum hosted former Army Air Corps officer, navigator of Necessary Evil
Story and photo by Mike Strasser
Assistant Editor
http://www.westpoint.edu/news/SitePages/World%20War%20II%20vet%20recalls%20historic%20bombing%20mission.aspx
"Donald Hornig" "John F. Kennedy"
Unconditional Surrender(sculpture)
en.wikipedia.org/wiki/Unconditional_Surrender_(sculpture)
Women Scientists in the Manhattan Project
Tuesday, October 13, 2015
www.atomicheritage.org/article/women-scientists-manhattan-project
Lilli Hornig's Interview
Date of Interview:
November 4, 2011
manhattanprojectvoices.org/oral-histories/lilli-hornigs-interview
原爆開発の元科学者、米大統領の広島訪問をどう見る?
TBS News
news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2781201.html
https://twitter.com/WhiteHouse/status/736120843328098304?lang=ja
https://www.whitehouse.gov/the-press-office/2016/05/27/remarks-president-obama-and-prime-minister-abe-japan-hiroshima-peace
ReleaseMay 27, 2016
Remarks by President Obama and Prime Minister Abe of Japan at Hiroshima Peace Memorial
Hiroshima Peace Memorial
Hiroshima, Japan
5:45 P.M. JST
>2016年5月25日 19:22
最終更新:2016年5月24日(火) 17時27分
原爆開発の元科学者、米大統領の広島訪問をどう見る?
今週の金曜日にオバマ大統領が訪れる、世界で初めて原爆が投下された街・広島。その広島と長崎に投下された原爆を生み出したのが、第二次大戦中に進められた「マンハッタン計画」です。計画ゆかりの地が国立公園として整備される中、原爆開発に携わった95歳の元科学者は、オバマ大統領の広島訪問をどう見ているのでしょうか。
地平線のかなたに立ち上ぼる巨大なきのこ雲。1945年7月に行われた人類初の核実験「トリニティ実験」です。長崎に投下された原爆と同型の爆弾で実験は行われました。
「信じられない光景でした。科学技術の面からも、そうでなくても、ただただ、すばらしかった。あれ以上のものはその後も見たことがありません」(リリー・ホーニグさん)
70年あまり前の光景をこう振り返るのは、原爆開発計画「マンハッタン計画」に参加した元科学者、リリー・ホーニグさん。現在、95歳です。
「マンハッタン計画」は、ナチス・ドイツによる原爆開発に危機感を持ったアメリカが、「原爆の父」と呼ばれるオッペンハイマー博士をはじめ科学者ら60万人を動員したものです。3年かけて原爆開発に成功しましたが、その直後から科学者の間では原爆を実戦で使用しないよう求める大統領宛ての請願書が広がったといいます。
「科学者の一部は、威力を示すだけで実戦で使わないよう求めましたが、らちがあきませんでした」(リリー・ホーニグさん)
ホーニグさんも請願書に署名したということですが、科学者らの訴えは届くことなく、実験から3週間後、広島・そして長崎に原爆が投下されました。
「原爆の威力を確かめたいという、強烈な思いがあったことは間違いないと思います。砂漠での実験と飛行機から落とすのとでは違いますし、広島型の爆弾は、一度も実験していなかったんです」(リリー・ホーニグさん)
「原爆投下の裏に実験の意図を感じた」と話すホーニグさんですが、同時に「原爆は戦争を早く終わらせ、犠牲者を少なくした」と考えています。
「日本にとっては残念なことだったと思いますが、戦争の最中に起きたことです。もしアメリカが日本本土に侵攻していたら、桁外れの犠牲者が出ていたはずです」(リリー・ホーニグさん)
ホーニグさんが3年間を過ごしたニューメキシコ州・ロスアラモスの研究所などマンハッタン計画ゆかりの地は去年11月、国立公園となったばかりです。原爆賛美を懸念する被爆者や広島・長崎の市長など日本側の要請を受け、被爆者や家族の証言も展示内容に含めることが検討されています。
こうした中、オバマ大統領の広島訪問について、ホーニグさんも「訪問は正しいことだ」と歓迎します。
「行けることなら私も広島に行きたいです。(開発者として)行くのが義務だと思うんです」(リリー・ホーニグさん)
一方、大統領による謝罪については「必要ない」と断言します。
「真珠湾への奇襲や他のたくさんの攻撃について、日本は謝らないでしょう。それが戦争というものです。そしてだからこそ、戦争してはいけないんです」(リリー・ホーニグさん)
(24日14:44)
Transcript for ARCHIVAL VIDEO: Enola Gay Crew Remembers Hiroshima Bombing
http://abcnews.go.com/International/video/archival-video-enola-gay-crew-remembers-hiroshima-bombing-39149240
歴史の伝承として「語り部」の育成についての話題が多く取り上げられますが
そのほかのツールの活用についても、できることはありますね
>「私の式典への出席は日本の皆さんにとって非常に重要なことのようでした。被爆地には行かず、『未来志向の関係を築こう』と口だけで言うのが最も簡単な対応でしょうが、(米国に対する被爆者の)憎しみをできる限り鎮める努力も重要だと私は思うのです」
"Obama looks to Hiroshima visit; Abe won't go to Pearl Harbor"
"National Park Service" "Manhattan Project"
Geodesic Capital launches new fund to bridge Japan and US
www.techinasia.com/former-us-ambassador-andreessen-horowitz-partner-335m-fund
リオ五輪開会式 広島追悼の計画が見送りに
(2016年)7月5日 21時04分
リオデジャネイロオリンピックの開幕が1か月後に迫りました。日本時間の来月6日午前8時から始まる開会式では、広島に原爆が投下された8時15分に合わせて参加者が黙とうをささげる計画があったことが、NHKの取材で明らかになりましたが、アメリカに対する批判と受け取られかねないとして懸念の声が上がり、最終的に見送られたということです。
続きを読む
これは、開会式の総合演出を手がけるブラジルの映画監督、フェルナンド・メイレリス氏が、NHKのインタビューで明らかにしたものです。
この中でメイレリス氏は、開会式が来月5日(日本時間の6日午前8時)から始まることを踏まえ、「原爆が投下された8時15分に、世界中の人たちと一緒に1分間の黙とうをささげたかった。平和のメッセージをショーに盛り込み、人類最大の悲劇について共有したかった」と述べ、開会式で追悼を行う計画だったことを明らかにしました。
しかし、組織委員会で検討した結果、「アメリカに対する批判だと受け取られかねない」と懸念する意見が出され、最終的には見送られたということです。
オリンピック憲章では、政治などの理由に基づく、国や個人に対する差別はオリンピックと相いれないとうたっており、広島の犠牲者を追悼することについても、政治的な意味合いを持ちかねないとの判断があったとみられます。
これについて、大会の組織委員会は「いろいろな議論はあったが、組織委員会としては開会式で追悼は行わないことを支持する」と話していますが、追悼の取りやめに至るまでの経緯は明らかにしていません。
www3.nhk.or.jp/news/html/20160705/k10010584591000.htm
The atomic bomb exploded at 8:15 AM, 6 August in Hiroshima, which was 8:15 PM, 5 August in Rio de Janeiro local time. The coincidence that the opportunity to reaffirm humanity's profound desire for peace.
20 May 2016
ルース氏は、政治利用することもされることからも、慎重に距離をとっておられたと思います。
そうした配慮は慰霊という行為を見世物にするのではなく、あくまでも一人の人間として誠実に厳粛に向き合うということ、その一点を凝視してこられた、そう受け止めてきた日本人もいます。
>「広島、長崎では原爆がこの70年間、被爆者に影響を与え続けているという話をして、十分われわれの意図は理解してもらったと思う。核の廃絶を目指すようなテーマパークになっていくのではないかという印象を受けた。
今後もそういう方向でわれわれもずっと主張し続けていきたい。当初は公園化に反対する気持ちがあったが、意義があると認識を新たにした」
折鶴だけではなくて・・・主張だけでもなくて・・・
US Diplomat Honored for Changing US Policy on Hiroshima
Posted June 23rd, 2011
An association of U.S. diplomats has given its Constructive Dissent Award to a U.S. official who persuaded the State Department to stop boycotting the annual Hiroshima Peace Memorial Ceremony in Japan.
Joel Ehrendreich is a U.S. Foreign Service Officer currently posted at the embassy in Singapore.
The American Foreign Service Association says when Ehrendreich worked in Tokyo in 2005, he was tasked with formally turning down the ambassador's invitation to the Hiroshima ceremonies.
Hiroshima's mayor had always believed it would be appropriate for the highest-ranking U.S. diplomat to attend. The State Department disagreed.
Ehrendreich said it made no sense to him that the United States should boycott the ceremonies. He spent five years trying to persuade the State Department to change its policy.
Last year, John Roos became the first U.S. ambassador to Japan to go to the Hiroshima ceremony.
The association says Ehrendreich helped strengthen U.S.-Japan relations.
The annual Hiroshima Peace Memorial Ceremony is held every August to mark the anniversary of the United States dropping an atomic bomb on the city in 1945, hastening the end of World War II.
http://blogs.voanews.com/breaking-news/2011/06/23/us-diplomat-honored-for-changing-us-policy-on-hiroshima/
“爆撃中心点の碑” 除幕式
長岡空襲から71年となるのに合わせて、アメリカ軍が爆撃の中心とした地点に碑が立てられ、除幕式が行われました。
式典は、空襲の遺族や市の関係者などおよそ60人が出席して長岡市坂之上町にある明治公園の敷地内で行われ、代表者たちが除幕すると、爆撃の中心点を示す碑がお目見えしました。
市によりますと、現在の明治公園の辺りが爆撃の中心となったという事実は、20年ほど前に公開されたアメリカ軍の資料で明らかになり、この事実を後世に伝えようと、碑を建てることになったということです。
碑には、「リト・モザイク」と呼ばれる精密な航空写真を用いたアメリカ軍の作戦計画図が描かれ、住宅が密集する黄色い円で囲われた直径2.4キロメートルの区域に集中的に焼い弾が落とされたことが示されています。
碑を建てた長岡市の森民夫市長は「空襲を経験した人が高齢化し少なくなっている。この碑で、若い世代に空襲の悲惨さを語り継ぎたい」と話していました。
除幕式に出席した遺族会代表の金子登美さんは「まちの中心部で多くの人が亡くなったので、碑に描かれた地図を見ると、アメリカ軍の作戦はうまくいったんだと思います。戦争になると人間は残酷になり恐ろしい」と話していました。
08月01日 16時07分
www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/1034429251.html?t=1470037883847
ケネディ大使 空襲犠牲者追悼
およそ1500人の長岡空襲の犠牲者を追悼する献花台にアメリカのケネディ駐日大使が国の代表として訪れ、花を添えるとともに哀悼の意を表しました。
アメリカのケネディ駐日大使は2日から長岡市を訪れ、2日夜は戦争の犠牲者への慰霊の願いなどが込められた長岡花火を見学し、3日はアオーレ長岡で森民夫市長と面会しました。
交流を続けているお互いの都市の高校生も同席する中、森市長からは栃尾地区の伝統工芸品の手まりが、ケネディ大使からは父親のジョン・F・ケネディ元大統領に関連する書籍が贈られました。
このあとケネディ大使は太平洋戦争末期の8月1日アメリカ軍の空襲で亡くなった長岡空襲の犠牲者を追悼する献花台を訪れました。
白菊などでつくられた花輪を受け取ると犠牲者1486人の名前が書かれた献花台の前に進み、両手で台の上に置き一礼しました。
献花のあとケネディ大使は「命を失った方々を悼み、平和に対する献身の気持ちを新たにする機会となった。長岡市民と共に両国のために力を合わせていきたい」と話していました。
ケネディ大使はアメリカの代表として長岡を訪れたということで、献花の公務を終えたあと長岡を離れたということです。
08月03日 11時45分
www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/1034414631.html
ケネディ大使 参列見送りへ
08月04日 19時17分
広島市は、6日の原爆の日に行われる平和記念式典に参列する各国の来賓を発表しました。
アメリカのケネディ駐日大使は公務で帰国しているため就任以来初めて式典の参列を見送ることになりました。
広島市によりますと、6日に行われる平和記念式典に来賓として参列する国は91か国で、100か国と過去最高となった被爆70年の去年に比べて9か国少なくなりました。
このうち、アメリカは、ケネディ駐日大使が公務で帰国しているため参列を見送ると連絡があったということで、臨時代理大使が出席することになりました。
ケネディ駐日大使が出席を見送るのは就任以来初めてで、アメリカの駐日大使が出席しないのは平成23年以来5年ぶりです。
はじめての参列となるのはアラブ首長国連邦など4か国で、核保有国では中国は欠席するということです。
また、国連からはキム・ウォンス事務次長が参列しパン・ギムン事務総長のメッセージを代読することになっています。
参列する各国の大使らは、5日から原爆資料館の見学や被爆体験の聴講など市が主催する行事に参加した後、6日の平和記念式典に参列することになっています。
www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20160804/4597221.html
長崎「原爆の日」、ケネディ大使明言「大統領が訪問したい場所」
8月9日、長崎は原爆投下から71年を迎えました。長崎市の田上市長は平和宣言で、アメリカのオバマ大統領が被爆地・広島を訪問したことを評価し各国の指導者にも被爆地を訪れるよう呼びかけました。
7万4000人もの命を奪った原爆投下から71年。長崎は祈りの朝を迎えました。被爆者の平均年齢は、80歳を超え高齢化が進んでいます。
「8月になったら夜ごと眠れないですよ。亡くなった方のお祈りをするために生かされてるんですよ」(被爆者)
「6人亡くなってます。熱かったと思いますよ」
平和祈念式典では、この1年間に亡くなった被爆者らの名前が記された死没者名簿が奉安されました。式典には、アメリカなど核保有国を含む53か国の代表が参列しました。平和宣言で田上長崎市長は、アメリカのオバマ大統領の広島訪問を評価。各国の指導者に被爆地を訪れるよう求めました。
「核保有国をはじめとする各国のリーダーの皆さん、長崎や広島に来て下さい。原子雲の下で人間に何が起きたのかを知って下さい。事実を知ること、それこそが核兵器のない未来を考えるスタートラインです」(【平和宣言】田上富久長崎市長)
歴史的な出来事となったオバマ大統領の広島訪問から2か月あまり。その実現に大きく関わったとされるキャロライン・ケネディ駐日大使が、JNNの取材に応じました。ケネディ大使は核軍縮に対する具体的な言及こそなかったものの、アメリカの現職大統領が初めて被爆地を訪問した意義を強調しました。
「大統領の訪問、安倍首相・日本国民・被爆者から受けた歓迎、これら全てが核なき世界へ働きかけようとする大統領自身の決意を強めました」(キャロライン・ケネディ駐日米国大使)
長崎市は、オバマ大統領にもう1つの被爆地・長崎にも来てほしいと要請しています。長崎訪問の可能性についてケネディ駐日大使は・・・
「長崎は大統領がいつか訪問したい場所です。しかし、大統領在任中に訪問できるかは分かりません。けれども軍縮問題に大きな関心を寄せていますし、オバマ大統領は広島訪問にとても感銘を受けていたので、いつか長崎も訪問したいと望んでいると思います」(キャロライン・ケネディ駐日米国大使)
核なき世界の実現を掲げるオバマ大統領の長崎訪問が広島に続いて実現すれば、核兵器廃絶に向けた大きな流れになるとして被爆地・長崎はその動向に注目しています。(09日18:10)
news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2841194.html
"ドレイパーはウォール街の投資銀行の経営者の出身。関心事は日本の民主化よりもビジネスだった。アメリカの投資銀行や大企業は戦前、日本に巨額の投資を行っていて、鉄道や電力などのインフラ建設や、関東大震災の際の復興資金だった。その額は5億ドルで、現在の価値で80億ドルにのぼるという。"
真珠湾で初 日米双方の戦没者を追悼する式典開催へ
11月18日 13時37分
旧日本軍による真珠湾攻撃から75年となることし、ハワイ・ホノルルの日本総領事館は、旧日本軍を含む日米双方の戦没者を追悼する式典を現地で初めて開催することになりました。式典にはアメリカ軍の関係者も出席する予定で、日本総領事館は「日米の友好関係のさらなる発展につなげたい」としています。
ホノルルの真珠湾では、毎年12月に旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を追悼する式典が行われ、元アメリカ兵などが参加しています。
これまでの式典はアメリカ側の戦没者を追悼することが主な目的だったことから、ホノルルの日本総領事館は真珠湾攻撃から75年の節目となることし、旧日本軍を含む日米双方の戦没者を追悼する式典を現地で初めて開催することになりました。
関係者によりますと、ことしの式典は来月8日に真珠湾をのぞむ場所で開かれ、戦没者の名簿を並べて追悼する予定だということです。
アメリカ軍の関係者も出席する予定で、ホノルルの日本総領事館は「日米両国の友好関係のさらなる発展に向けた1つの機会としたい」と話しています。
きっかけは静岡の医師 25年前から活動
今回の式典の開催は、静岡市に住む医師の菅野寛也さんによる地道な活動がきっかけとなりました。
昭和20年に静岡市で空襲を体験した菅野さんは、戦没者は国籍を問わず一緒に追悼すべきだと考え、25年前から真珠湾に出向いて日米双方の戦没者を追悼する取り組みを個人で行ってきました。
こうした活動はアメリカでも注目され、数年前からは軍の関係者も参加するようになったということで、今回、日本総領事館が間を取り持って式典の開催が決まりました。
来月の式典に出席する予定の菅野さんは、「日米の戦没者の追悼式を個人で始めたころはアメリカ人に冷たい態度を取られたが、少しずつ理解を得て、アメリカ側にも認識されるようになった。長年の取り組みが今回の公的な追悼式の開催につながり、感無量です」と話しています。
www3.nhk.or.jp/news/html/20161118/k10010773931000.html
安倍首相 今月下旬にハワイへ 真珠湾攻撃の犠牲者慰霊
12月5日 18時47分
安倍総理大臣は、今月下旬、ハワイを訪れ、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する意向を固めました。関係者によりますと、アメリカのオバマ大統領も安倍総理大臣とともに犠牲者を慰霊するということです。
太平洋戦争の発端となった旧日本軍による真珠湾攻撃は、75年前の昭和16年12月、旧日本軍の空母部隊などが、ハワイのオアフ島にある真珠湾のアメリカ軍基地を攻撃したもので、アメリカ軍の兵士などを中心に多数の犠牲者が出ました。
安倍総理大臣は、戦後70年余りが経過し、ことし5月にアメリカのオバマ大統領の広島訪問も実現した中、今月下旬にハワイのオアフ島を訪れ、真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊する意向を固めました。
関係者によりますと、安倍総理大臣は、真珠湾攻撃で海底に沈んだ戦艦アリゾナの上につくられたアリゾナ記念館で献花することにしていて、同じ時期にハワイを訪れるアメリカのオバマ大統領も、安倍総理大臣とともに犠牲者を慰霊するということです。
また、安倍総理大臣は、これに合わせて、来月下旬に任期切れを迎えるオバマ大統領との間で最後の日米首脳会談を行う予定だということです。
安倍総理大臣がハワイ訪問を決めた背景には、アメリカのトランプ次期大統領が、選挙期間中、日本を含む同盟国との関係見直しに言及してきたことなども踏まえて、日米の信頼関係を深め、新政権の発足後も、強固な同盟関係を堅持する狙いもあるものと見られます。
www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796011000.html?utm_int=news_contents_news-main_001
では、政治部の岩田(明子)記者に聞きます
岩田さん、年末のハワイ訪問を表明した安倍総理大臣ですけれども、これなぜ、年末というタイミングで訪問すること決めたんでしょうか
年末の休暇でオバマ大統領がハワイに滞在することになっています
安倍総理大臣としては、ふたりで犠牲者を慰霊するには絶好の機械だとして、この時期の訪問を決断したものとみられます
関係者によりますと、安倍総理大臣は去年、戦後70年の総理大臣談話を発表するころから、真珠湾訪問を検討していたということです
ただ、訪問はみずからの判断で行うべきものだとして、慎重にタイミングを図っていました
そして安倍総理大臣は先月、APECの首脳会議に出席するため、ペルーを訪問した際、オバマ大統領に対し、大統領が年末にハワイに滞在している際に、真珠湾を訪れ、一緒に犠牲者を慰霊したいという考えを初めて打診しました
これに対してオバマ大統領は、二国間関係にとって意義深いとして、歓迎する考えを示す一方、あなたにとって強いられるものであってはならない、こう述べたということなんです
あなたにとって強いられるものであってはならないというオバマ大統領の言葉ですが、これはどういう意味なんでしょうか
今年5月に、オバマ大統領が広島を訪問したことと、今回のハワイ訪問はリンクしていない、こういう意味だと思います
オバマ大統領の広島訪問について、日本政府としてはあくまでも大統領の核なき世界の実現への意欲を受け入れたという立場です
改めてこの安倍総理大臣の訪問の狙いはなんなんでしょう
オバマ大統領との4年間の総括、また、二度と戦争を繰り返してはならないという決意の表明、そして、強固な日米同盟を国際社会に示す狙いがあるものとみられます
安倍総理大臣はハワイで行うオバマ大統領との最後の首脳会談について、さきほど、記者団に対し、この4年間を総括し、未来に向けて日米協力の重要性を発信する機会としたいと述べました
安倍総理大臣は就任以来、日米同盟を外交・安全保障政策の基軸に据え、オバマ大統領との間で関係強化に取り組み、戦後70年の去年は、アメリカ議会での演説や、総理大臣談話の閣議決定などを通じて、双方の国内で、こうした認識が共有されるように努めてきたとしています
安倍総理大臣としては、オバマ大統領が来年1月に退任することも踏まえ、これまでの4年間の双方の取り組みを再評価し、トランプ氏の新政権でも、こうした関係を堅持することにつなげたいという狙いもあるものとみられます
ここまで安倍総理大臣の真珠湾訪問についてお伝えしました
日本放送協会19時冒頭
米報道官 ハワイで日米首脳会談を発表
12月5日 20時23分
アメリカ・ホワイトハウスのアーネスト報道官は声明を出し、オバマ大統領が今月27日にハワイで安倍総理大臣と会談すると発表しました。そのうえでオバマ大統領は安倍総理大臣とともに、太平洋戦争の発端となった75年前の旧日本軍による真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊するため海底に沈んだ戦艦アリゾナの上につくられたアリゾナ記念館を訪れるとしています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161205/k10010796101000.html
>安倍首相、第2次世界大戦で戦死した米兵を追悼する記念碑訪問
04/30 06:34
安倍首相は29日、第2次世界大戦で戦死したアメリカ兵を追悼する記念碑を訪れ、黙とうした。
安倍首相は、「パールハーバー」と刻まれたモニュメントの前で、しばらく身じろぎもせず、たたずんでいた。
安倍首相は、議会での演説で、記念碑訪問に触れ、「歴史とは、実に取り返しのつかない、苛烈なものだ。深い悔悟を胸に、黙とうをささげた」と述べた。
www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00291411.html
"a rainbow shower tree planted by Akihito in 1960 when he was Crown Prince"
"The couple visited Punchbowl Cemetery to lay a wreath and pause for a moment of silence."
20090715
Japan's Emperor Pays Respects at U.S. War Cemetery
June 25, 1994|Reuters
アムステルダムのダム広場での両陛下の長い黙祷でオランダの方々の日本に対する悪感情が一気に氷解したと解釈する一部の方々もおられますので、昔とは違って、今は日本のウルトラ保守のみなさんに対抗する国民の良識も健全な時代でしょうし、なるべくはやくおねがいします
ここからは政治部官邸クラブの原記者にききます
原さん、今回の安倍総理大臣の真珠湾訪問ですね、どんな狙いがあると、原さんはみていますか
戦後70年あまりが経過するなかで、今年5月にはアメリカのオバマ大統領の広島訪問もあったわけなんですけれども、日本の総理大臣として、はじめて真珠湾を訪れることで、両国の和解をより確かなものとして、両国関係の安定化につなげていきたい、その弾みにしたいという考えがあったんだと思います
アメリカのトランプ次期大統領、選挙戦の期間中、日米の同盟関係の変化、見直しにも示唆するかのような発言をしてきたんですけれども、安倍総理大臣としましては、トランプ次期大統領の発言も念頭におきながら、地域や平和の安定における日米同盟の意義、これをオバマ大統領と確認することで、トランプ次期政権発足後もこうした関係が堅持されるように促していきたいという狙いもあるんじゃないかと思います
なるほどね
ただ、現職総理の訪問については、国内でも一部には慎重な声もあると思うんですけれども、なんでこのタイミングでそれを決断するということになったと思いますか
そうですね
最も大きかったのはオバマ大統領が休暇でハワイに滞在していまして、首脳間のスケジュール管理も含めて両政府間の調整が、障害が少なかったということがあげられると思います
関係者によりますと安倍総理大臣は戦後70年の総理大臣談話、去年、閣議決定したわけなんですけれども、このころから真珠湾を訪れることを検討していたということなんですね
ただ、日米関係にマイナスの影響を与えないためにも慎重にタイミングを図っていたということで、先月、ペルーでAPECアジア太平洋経済協力会議の首脳会議が行われた際に、オバマ大統領に対して、初めて真珠湾を訪れたいと
それに合わせて首脳会談も行いたいという考えを伝えたんです
あのときに初めて声をかけたと
そうなんですね
このときにオバマ大統領はまず歓迎する考えを示したうえで、慰霊を目的にした訪問について、あなたにとって強いられるものであってはならないと述べたということなんです
自らの広島訪問とは一切関係なく、訪問はあくまでも安倍総理大臣の判断として行ってほしいという意図があったんではないかと思われます
なるほどね
現職の総理大臣として初めての訪問ということですけれども、そこでどういうメッセージを打ち出そうとしているんでしょうか
安倍総理大臣は今夜、記者団に対して、二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない、未来に向けた決意を示したい
同時に日米の和解の価値を発信する機会にしたいと述べました
安倍総理大臣としましては日本を取り巻く安全保障環境、これ、厳しさを増すなかで、日米両国が法の支配ですとか民主主義など普遍的な価値を共有しながら、地域の平和と安定に貢献していく姿勢をアピールしたいという狙いがあると思うんです
同時に、日米同盟が周辺国との関係を安定化させることを目的としているんだということを訴えていきたいということだと思います
なるほど、はい
では、アメリカ側はこれをどう受け止めているのか
ワシントン支局の油井記者に聞きます
アメリカの受け止めですね、これはどうなっているんでしょうか
なんらかの反応ってあったんでしょうか
はい
ホワイトハウスは先ほど声明を出し、オバマ大統領が今月27日に、ハワイで安倍総理大臣と会談すると発表しました
日米の首脳が同盟関係を強化するために努めてきた双方の取り組みを確認する機会になるとしています
オバマ大統領は今年5月、被爆地、広島を訪問し、戦争のすべての犠牲者に哀悼の意を示しました
この広島訪問を受けて、アメリカ政府高官は安倍総理大臣も真珠湾を訪問するだろうという見通しを話していました
ハワイでは今週7日、真珠湾攻撃から75年の式典が開かれます
しかし、アメリカ政府内では、この式典に安倍総理大臣を招待すると、
日本側に謝罪を求めるものになりかねないという慎重な意見がありました
このため訪問をオバマ大統領の休暇中の今月下旬とした背景には、日本側に謝罪などを押し付けることがないように、アメリカ側が配慮した可能性もあります
なるほど
油井さん、アメリカでは大統領選挙の結果、来月、トランプ政権が誕生する
つまり、政権が交代するわけなんですが、そうしたタイミングでの今回の真珠湾の訪問ですね
今後の日米関係にやっぱりなんらかの影響を及ぼすというふうにみていますか
はい
新政権にも良い影響を及ぼすものとみられます
といいますのも、トランプ次期大統領は、オバマ大統領が広島を訪問したことについて、さきほどのVTRでもありましたが、オバマ大統領は
真珠湾の奇襲について議論したのか、何千人ものアメリカ人の命が失われているのだと指摘していたからなんです
アメリカ国内では、トランプ氏のように、アメリカの大統領が広島を訪問したのに、日本の総理大臣は真珠湾を訪問しないのかという声があります
それだけに、安倍総理大臣の真珠湾訪問は、アメリカでも広く歓迎されるものとみられます
オバマ大統領は今年5月に広島を訪問する際、かつて激しい戦いを交わした両国が、世界の中でも最も緊密な同盟関係を築いてきたことの意義を強調したいと語っていました
ホワイトハウスは今回の真珠湾訪問でも、敵国から緊密な同盟へと生まれかわった和解の力を内外にアピールしたいとしています
はい
では、続いて真珠湾があるハワイで取材している神津記者に聞きます
神津さん、今回の安倍総理大臣の訪問ですが、現地ではどういった声が聞かれましたか
はい、こちらは午前2時をまわったところです
ハワイでは今月7日に真珠湾攻撃から75年を迎えるのにあわせて連日催しが開かれ、アメリカの退役軍人など各地から多くの人が集まっています
今回、安倍総理大臣が真珠湾を訪れることについて、ハワイに住む男性は、とても素敵なことでいいニュースだと思うと歓迎していました
また、ハワイに住む日本人の女性は、今年、オバマ大統領が広島を訪れていたので、それに対して安倍総理大臣が真珠湾を訪れることによって、はじめてお互いが平和のためになにが必要かを学ぶことができるのだと思うと話していました
今月8日にはホノルルの日本総領事館とアメリカ海軍が主催したはじめての合同の追悼式典が企画されていて、日米の元兵士たちが招待されています
このほかの式典でも、75年の月日を経て、日米の友好関係が強調されているものが多く、日本の現職の総理大臣がはじめて真珠湾を訪れることは、現地では好意的に受け止められるのではないかと思います
はい、中継でした
ふたたび、原さんに聞いていきますが、さきほどのワシントンからの中継では、今回の訪問がトランプ新政権にもいい影響があると思われるというコメントがありましたけれども、政府としては、今回の訪問が、今後の日米同盟にどういう影響を与えるというふうにみているんでしょうか
そうですね、トランプ氏は日本に駐留するアメリカ軍の駐留経費も言及
してきましたので、政府としては、今回の安倍総理大臣の真珠湾訪問を
日米同盟にプラスの影響を与えるものとしたいという考えなんです
そして両国関係の、両国の信頼関係、これを国民レヴェルの強固なものとすることによって、同盟関係を一層強化して、ひきつづき、していきたい考えなんですね
そのうえで日本の外交安全保障政策、これをトランプ新政権の関係者にも積極的に伝えて理解を求める努力をしていくことになるとも思います
来週には安倍総理、プーチン大統領と首脳会談行いますよね
アメリカとの関係も含めてなんですが、今後の、安倍外交、どういう形のものになっていくと思われますか
安倍総理大臣、今日、開かれました、政府与党連絡会議で、北方領土問題を含む平和条約交渉について、一回の会談で解決できるような簡単な
問題ではないが着実に前進させていきたいと述べたんです
北方領土交渉をめぐる日露両国間の交渉の難しさが、ここから窺えると思います
一方、日本とロシアの間の平和条約交渉というのは、ロシアによるクリミア併合などの影響を受けたように、アメリカの外交方針、また、アメリカとロシア、アメリカと中国との関係に大きな影響を受けることは避けられないんですね
安倍総理大臣としては自らがすすめてきた地球儀を俯瞰する外交、これを継続するためにも、まずはトランプ新政権の外交方針がどのような方向に向かっていくのか、これを慎重に見極めることにしています
そして、アメリカの外交安全保障政策が、日本の国益にも適うものとなるようにはたらきかけを続けていくものとみられます
20161205/k10010796231000.html
あと四半世紀したら真珠湾攻撃100年
生き証人が御健在での記念式典も限られてくる
それなのに、クネクネの髪型がどうのこうのという特集に熱心な日本のみなさん
軍事拠点を標的にした真珠湾攻撃と市民をも標的にした広島や長崎への原子爆弾投下は質的に異なるという一点に執着し、安倍総理大臣は真珠湾で慰霊するなら靖国神社に参拝しろと要求する方々
さまざまな理由で開戦の通告が遅れただけだと事の重大性を一言で済ます暢気な方々
そういうどうしようもない論理構造で脳味噌ができているから
またまた大失敗したいんですね
暗記な歴史は無意味
>暗記よりも思考力の向上を重視した教育の実施
google books
LIFE 1943年8月16日
HOW STRONG IS JAPAN?
戦時下のプロパガンダとはいえ今も根底では名残りが
秘史スク-プ・ノンフィクション 外務省の"犯罪"--弄ばれた日系諜報組織「敞之館」の悲劇 / 下嶋 哲朗 / p276~296
TOYOTA TRI John Roos
John Roos Nortre Dame
>現地では好意的に受け止められるのではないかと思います
概ねそのような雰囲気があったのは事実でしょうが、戦争の結果にきれいな正解はありませんので、すべて人に鋭い記憶を刻み続けていくのが現実です
許す許さないとは別にいろんな角度からよく考えて整理して、殺し合うことで終えた戦争の意味を、極端な意見にふりまわされることなく自分の頭で解く、そうでないと時代の空気に右顧左眄して・・・
そこに正義を見いだしてしまうと、人は自分の狂気を制御しにくいものです
Japan's Abe offers 'everlasting condolences' at Pearl Harbor | Fox News
www.foxnews.com › politics › 2016/12/27
2016/12/27 - Does Japanese PM owe US an apology for Pearl Harbor attack? ... Obama did not apologize at Hiroshima in May, a visit that he and Abe used to emphasize their elusive aspirations for a nuclear-free ...
Pearl Harbor survivor wants Abe to apologize in Hawaii | The Japan Times
www.japantimes.co.jp › news › national
2016/12/26 - U.S. Navy veteran Louis Conter, who survived Japan's 1941 Pearl Harbor attack, says Abe should offer an apology. “I have no bad feeling toward the Japanese,” Conter, 95, said in a recent ...
Japanese PM to Take Non-apology Tour to Pearl Harbor - VOA News
www.voanews.com › japanese-prime-mi...
2016/12/21 - Abe is a perceived nationalist who embraces a revisionist view of history that portrays Japan not as the imperialistic aggressor in World War II, but as a nation that tried to push back against ...
Remorse But No Apology From Japanese Leader at Pearl Harbor | Military.com
www.military.com › 2016/12/28 › remor...
2016/12/28 - Japanese Prime Minister Abe, joined by President Obama, greets WWII Pearl Harbor survivors on Kilo Pier overlooking the USS Arizona Memorial in Joint Base Pearl Harbor-Hickam, Hawaii, Tuesday, ...
"三国人には絶対真似できない戦後の生粋の近代日本人特有の凄味・・・"
"日本人には絶対真似できない戦後の生粋のアメリカ人の凄味・・・"
どちらかといえばいじわるっていうよりきわめてしんせつだった
だれのおかげでめしくわせてもらえたか
Presidential Grip and Grin Leaves Japan's Leader Wide-eyed
February 10, 2017 7:35 PM
Steve Herman
会心のショットですね!
日米両首脳の会談前の握手のシーンが長かったのは、記者のみなさんの写真撮影の求めに応じる際に、日本の記者が何度も何度も、総理、お願いします、と声をかけてカメラ目線をおねだりし続けたたまでのこと。
トランプ大統領が安倍総理に、なんて言っているの? 私のほうを見てって そんなおしゃべりする時間もあったというだけ、音声も拾われています。
ようやく撮影が終わってほっとした安倍総理のほんの一瞬の表情、0.1秒くらい。
日本の記者みなさんも安倍総理こっちこっち連呼ばかりでなく、実りある会談を期待しています、トランプ大統領閣下、グレートな決意、笑顔でお願いします、ぐらい言って大爆笑を誘ったらよかったのにね。
Midlands observes 75th anniversary of the Doolittle Raid
Columbia Star-2017/02/23
James “Jimmy” Doolittle who had arrived in the Midlands to recruit volunteers for a top-secret mission. Training ... Loss of men and airplanes were deeply-felt casualties; however, the audacious Doolittle Raid positively altered ...
HR history: Doolittle raid, punching back at Japan, born in Hampton ...
Daily Press-2017/02/01
"The Doolittle raid on Japan was the most audacious military operation in U.S. history," says James M. Scott, author of the 2016 Pulitzer Prize finalist book "Target Tokyo: Jimmy Doolittle and the Raid that Avenged Pearl ...
Medford Native Joins Doolittle Bombing Raid on Tokyo
Jefferson Public Radio-2017/02/16
In 1937, a 23-year-old native of Medford, Ore., Robert G. Emmens, joined the U.S. Army Air Corps and five years later co-piloted one of the 16 B-25 bombers in the famous Doolittle Raid on Japan during World War II.
When the war came to Dorr
WZZM13.com-2017/02/23
“The Doolittle Raid didn't do much damage, but it was an actual attack on the Japanese homeland, forcing their military to scramble,” said Unsworth. “Cosmetically, the attack gave the United States the boost of morale it needed.”.
The Age of Strike Carrier Is Over
The National Interest Online (blog)-2017/02/22
There are three major exceptions to this rule; Doolittle's raid, the offloading of the Enterprise air group to Henderson Field during the Solomon Islands operation, and the strikes against the Japanese redoubts and the home ...
Last living Doolittle Raider recalls America's revenge attack
CNN-2016/09/30
Of nearly 10,000 B-25s built by North American Aviation, Show Me (which was not on the Doolittle Raid) is among fewer than 50 that can still fly. From our Georgia airport, it's about 300 miles to Eglin Air Force Base in Florida, ...
GO GUIDE: Hear the Boston Gay Men's Chorus
Enterprise News-17 時間前
Historian Gary Hylander, a visiting professor at Stonehill College, will discuss the Doolittle Raid on Tokyo in April 1942 at 7 p.m. Thursday, March 16, at the Abington Public Library, 600 Gliniewicz Way. For more information .
For the Denton Record-Chronicle
Denton Record Chronicle-16 時間前
AP reporter Joseph Dyman witnessed Doolittle's raid on Tokyo from a Japanese prison camp. In the Kula Gulf, near New Georgia in the Pacific on Aug 2 1943, a Japanese destroyer rammed a torpedo boat carrying the ...
Former resident to speak in Enid on Doolittle's Raiders
Enid News & Eagle-2017/02/19
The late Robert L. “Bob” Hite of Enid was one of the survivors of Doolittle's daring and dangerous bombing raid on Japan. Hite was captured and imprisoned by the Japanese for 40 months. The air raid was conducted by 80 ...
Historian to present at Abington Public Library
Wicked Local Abington-2017/02/17
Hylander will discuss the Doolittle Raid, which took place during World War II. This raid was a United States air assault on Tokyo in April 1942, led by Lieutenant Colonel James "Jimmy" Doolittle. The purpose of the raid was to ...
本土復帰 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org › wiki › 本土復帰
本土復帰(ほんどふっき)とは、第二次世界大戦における日本の敗戦(日本の降伏)により、連合国軍(主に米軍)に施政権が移った、伊豆諸島、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、沖縄県が日本に復帰したことを言う。
概要 · サンフランシスコ講和条約発効前に復帰 · サンフランシスコ講和条約発効後に復帰
沖縄返還 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org › wiki › 沖縄返還
沖縄返還(おきなわへんかん)は、1972年(昭和47年)5月15日に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本国に ... 関連項目. 奄美群島の歴史 · 先島諸島の歴史 · 日本の歴史(時代区分). カテゴリ ...
小笠原返還(1968)
www.ffortune.net › ogasawara1968
2004/04/04 - これにより戦後アメリカに占領されていた小笠原諸島が22年ぶりに日本に返されることになりました( 実際の返還は同年6月26日)。 太平洋戦争終了後アメリカは昭和21年1月9日の覚え書きで奄美・沖縄・小笠原 ...
日本人なら必ず理解しておきたい「沖縄本土復帰」について、まとめ | ...
https://fukusuke.tokyo › ライフ
2015/04/11 - 5月15日は沖縄本土復帰記念日です。1972年5月15日に沖縄はアメリカ合衆国から日本へ返還されまし ... この条約により、連合国による日本本土の占領は終了しましたが、沖縄や小笠原諸島、奄美大島は本土復帰 ...
昭和28年(1953)12月|奄美大島が返還される:日本のあゆみ - 国立公文書館
www.archives.go.jp › ayumi › kobetsu
昭和28年(1953)12月24日、奄美群島の復帰協定が日米間で調印され、翌25日、復帰が実現しました。奄美群島については、沖縄や小笠原諸島などとともに、サンフランシスコ平和条約第3条で、アメリカを施政権者とする信託 ...
"psychological warfare" site:cgsc.contentdm.oclc.org
Japan "psychological warfare" site:cgsc.contentdm.oclc.org
Japanese psychology site:cgsc.contentdm.oclc.org
「国民栄養の現状」レポート:「国民栄養調査」とは - 国立研究開発法人 医薬基盤・健康 ...
www.nibiohn.go.jp › abou_kokugen
国民栄養調査(現在の国民健康・栄養調査)の始まりは戦後の貧困状態にあった昭和20(1945)年に海外からの食糧援助を受けるための基礎資料を得る目的で連合国軍司令部(GHQ)の指令に基づく調査を実施したことに端を発し ...
栄養調査|情報のひろば|国民栄養調査 - 国立研究開発法人 医薬基盤・健康 ...
www.nibiohn.go.jp › nns › kokumin
国民栄養調査は、第二次世界大戦後の昭和20年に、各国から食料援助を受けるのに必要な基礎データを得るために、 連合軍最高司令部(GHQ)の指令に基づいて実施されたのが始まりです。昭和27年には栄養改善法が制定され ...
[PDF]はじめに一国民健康 ・ 栄養調査の沿革一 - 第一出版
daiichi-shuppan.co.jp › pdf › b158-pref
はじめに一国民健康 ・ 栄養調査の沿革一. 国民健康 ・ 栄養調査の前身である国民栄養調査は, 昭和 20年8月の終戦後 GHQ. の覚書きによ り開始された。 終戦直後のわが国の食料事情は極めて劣悪で, 各地に. 栄養欠乏症が多数 ...
[PDF]はじめにー国民健康 ・ 栄養調査の沿革一 - 第一出版
daiichi-shuppan.co.jp › book › pdf
はじめにー国民健康 ・ 栄養調査の沿革一. 国民健康 ・ 栄養調査の前身である国民栄養調査は, 昭和 20年8月の終戦後 GHQ. の覚書きによ り 開始された。 兼冬戦直後のわが国の食料事情は極めて劣悪で, 各地に. 栄養欠乏症が ...
公衆衛生 GHQ
和食が健康的なら体格が貧弱で視力が悪くて歯並びがよくないことを説明できない
被爆者らが攻撃想定訓練中止要求
政府や県が雲仙市で実施する予定の海外からの武力攻撃を想定した住民保護訓練について、被爆者団体のメンバーなどが「内容が非現実的だ」として、県などに対し訓練を中止するよう求めました。
この訓練は、海外から組織的・計画的な武力行使を受ける事態を想定した初めてのもので、弾道ミサイルが陸上に着弾するなどの想定のもと、雲仙市の多比良港をメイン会場に今月20日に行われる予定でしたが、九州北部での豪雨を受け延期が発表されています。
13日は県内の被爆者団体など13の市民団体のメンバーが県庁を訪れ、政府や県などに訓練の中止を求める「申し入れ書」を、県の担当者に手渡しました。
市民団体は「訓練の内容は非現実的だ」としていて、具体的にはミサイルが発射されてから着弾するまでの間はわずかしかなく避難の時間はないうえ、仮に核兵器が使われた場合、着弾後に避難してもどれだけ有効性があるかは疑問だと指摘しています。
対応した県の担当部署の職員は「課長らが業務で対応できないので、要望の内容を改めて伝えたいと思います」と話していました。
長崎県平和運動センター被爆者連絡協議会の川野浩一議長は「現実性のない訓練をする前に、ミサイルが発射されないよう、政府は外交努力をしてほしい」と話していました。
07/13 17:47
www3.nhk.or.jp/lnews/k/nagasaki/5034993071.html
東京都23区部においても頻繁に訓練を実施していただきたい
米国防省が軍人の遺骨を調査
09月04日 17時02分
太平洋戦争の末期に佐伯市の佐伯湾に墜落し、戦死したアメリカ軍戦闘機のパイロットの遺骨が市内の墓に埋葬されている可能性が高いことが分かり、アメリカの国防省の職員が訪れて詳しい調査を行っています。
太平洋戦争末期の昭和20年、アメリカ軍の戦闘機が旧日本海軍の基地があった佐伯市が襲来し、2機が佐伯湾に墜落しました。
平成7年に、このうち1機のエンジンとプロペラなどが海から引き上げられ、日米の友好の証しにしようと去年、アメリカ側に返還されました。
その後、アメリカ国防省の調査で、この機体にはローレン・F・イシュレイ少尉が搭乗していたことが分かったほか、佐伯市の歴史研究グループが調べたところ、少尉の遺体は市内の無縁墓地に埋葬された可能性が高いことが判明しました。
このため、研究グループから情報提供を受けた国防省が、きのうから、詳しい調査のため、職員4人を市内の墓地に派遣しています。
4日は国防省の調査官が地元の住民から当時の話を聞き取ったり、遺体が見つかった場所を確認したりしました。
調査官によりますと、今後、専門家を派遣し、墓を掘り起こして遺骨のDNA鑑定を行うことなどを検討するということです。
調査官を案内した歴史研究グループの河野豊さんは「戦闘機の発見からパイロットの遺骨につながる可能性があり、日米友好の新たな形になると期待したい」と話していました。
oita/5073595411.html
てんこもり野郎さんと生き字引さんのお導き、だけ。
etheses.lse.ac.uk › ...
Searching for a Balance: Britain's Trade Policy towards Japan, 1950-54 Noriko Yokoi - LSE Theses Online
BY N YOKOI - 1998 - Cited by 1 - Related articles
Dec 18, 2016 - Japan's Membership of the ECAFE and the Colombo Plan. 203. Conclusion. 206 ...... the British delegation met the representatives of the major wheat exporters, the United States, Canada and Australia
Chivalry over Tokyo: The WWII story of Hap Halloran and Hideichi Kaiho (Part I)
https://www.dcourier.com/news/2017/jun/21/chivalry-over-tokyo-wwii-story-hap-halloran/
Chivalry over Tokyo: The WWII story of Hap Halloran and Hideichi Kaiho (Part 2)
https://www.dcourier.com/news/2017/jun/22/column-chivalry-over-tokyo-wwii-story-hap-halloran/
Letter: Enemies' kindness remembered
https://www.dcourier.com/news/2017/jul/11/letter-enemies-kindness-remembered/
978-0991229048
What's wrong with English education in Japan? Pull up a chair - Japan ...
https://japantoday.com/.../whats-wrong-with-english-education-in-ja...
2014/10/07 - When you speak to foreign English educators in Japan, one thing becomes crystal clear: English education in Japan isn't working. ... mandatory in Japanese schools, the percentage of students who emerge with actual English abilities are surprisingly low. ... In my opinion, the lack of individualism and competition within the classroom puts Japanese students at a distinct disadvantage.
What's wrong with Japanese education? - Japan Today
https://japantoday.com/.../whats-wrong-with-japanese-education
2012/03/23 - What is next -- childhood obesity considered as an educational problem? Another very obvious supposed problem in Japan is poor English communication skills among the students and the general population at large.
Japan's latest English-proficiency scores disappoint | The Japan Times
https://www.japantimes.co.jp/.../japans-latest-english-proficiency-sco...
2017/04/06 - The government's plan to improve the English proficiency of students has yielded dismal results, according to the education ministry's latest survey of junior high and high school students. The fiscal 2016 survey on English ...
Disappointing levels of English | The Japan Times
https://www.japantimes.co.jp/opinion/.../disappointing-levels-english...
2015/03/28 - The education ministry reported last month that high school English-proficiency scores fell far short of its goals. That report will come as no surprise to most people in Japan, but it is additional evidence that the English ...
Japan shows regional disparities in students' English ability- Nikkei ...
asia.nikkei.com/.../Education/Japan-shows-regional-disparities-in-st...
2016/04/05 - TOKYO -- A wide gap in students' English-language ability separates the best- and worst-performing areas of ... or higher on the Test in Practical English Proficiency, or Eiken for short, the education ministry reported Monday.
[PDF]Distinctive Features of Japanese Education ... - 国立教育政策研究所
https://www.nier.go.jp/English/educationjapan/pdf/201103DFJE.pdf
characteristics and features of the Japanese education system to readers from other countries is not an easy task. In the process .... the abilities and aptitudes of their children. A part of these ... wishes and opinions on the management of the schools such as exists in British schools' governing bodies. 2. .... According to Ichikawa, these features constitute both advantages and disadvantages to. Japanese ...
両陛下 渡来人ゆかりの神社訪問
09月20日 16時50分
天皇皇后両陛下は、20日埼玉県日高市を訪れ、朝鮮半島からの渡来人ゆかりの神社などを訪ねられました。
両陛下は、20日から私的な旅行で埼玉県を訪れていて、はじめに日高市にある高麗神社を訪ねられました。
高麗神社は、7世紀に朝鮮半島の高句麗から渡来してこの地域を治め発展の礎を築いたとされる高麗王若光がまつられていて、出世や開運の神社として知られています。
両陛下は、若光から60代目の子孫にあたる宮司の案内で参道をゆっくりと進み、本殿の前で玉串をささげて拝礼されたということです。
両陛下は、続いて、神社の隣にある国の重要文化財の「高麗家住宅」を視察されました。
この建物は、1600年ごろに建てられ、改修を重ねながら高麗家の住まいとして使われてきたもので、天皇陛下は、かやぶき屋根や土間を見て、「いろんなものがよく残っていますね」と話されたということです。
このあと両陛下は、全国有数のヒガンバナの群生地として知られる「巾着田曼珠沙華公園」に足を運ばれました。
公園では、およそ500万本のヒガンバナが見頃を迎えていて、両陛下は、園内を散策しながら真っ赤なじゅうたんを敷き詰めたような秋の景色を楽しまれていました。
両陛下は、2日間埼玉県に滞在し、21日は、深谷市を訪ねられます。
shutoken-news/20170920/0000774.html
足利学校で伝統儀式「釋奠」体験
09月23日 15時54分
日本最古の学校として知られる栃木県足利市の「足利学校」で、子どもたちが孔子などを祭る「釋奠(せきてん)」と呼ばれる伝統の儀式を体験しました。
儒学など中国の学問が教えられていた足利学校では、孔子やその弟子たちの業績をたたえ、供え物をささげる「釋奠」と呼ばれる儀式が100年あまり前から行われています。
この「釋奠」を体験する催しが開かれ、小学生と中学生あわせて12人が参加しました。
「ひちりき」や「りゅうてき」などが厳かに奏でられる中、子どもたちは孔子の像の前にひとりずつ進み出て、野菜や魚などを載せた祭器を供えました。
そして、代表の中学生が「孔子の教えは、東のわが国にまで及び、慈しみは私たちの子孫にまで伝わるものです」という意味の祝文を読み上げました。
参加した中学2年生の男子生徒は、「地元の伝統を残していくためには、若い世代が参加しないといけないと思います。うまくできてよかったです」と話していました。
史跡足利学校事務所の齋藤和行次長は、「子どもたちには若いうちから、地元の伝統行事に親しんでもらって文化を継承してほしい」と話していました。
shutoken/20170923/1000000897.html
「クローン文化財」初の展覧会
09月23日 07時10分
壁画や仏像など歴史的価値の高い美術品を、最新のデジタル技術と伝統的な修復技法を駆使してよみがえらせた「クローン文化財」を一堂に集めて紹介する初めての展覧会が、23日から東京で開かれます。
「クローン文化財」は、劣化が進んだり破損して失われたりした歴史的価値の高い美術品を、最新のデジタル技術と伝統的な修復技法を組み合わせて質感に至るまで精巧によみがえらせたもので、東京芸術大学が国内外の壁画や仏像などの再現や復元を進めています。
大学ではこれまでの成果を広く知ってもらおうと、この「クローン文化財」を一堂に集めて紹介する初めての展覧会を開くことになり、22日、内覧会を行いました。
会場には、一見、本物と変わらないおよそ70点が展示され、このうち中国・敦煌の唐の時代の洞窟内部を再現したものは、壁を彩る仏画やあでやかな仏像だけでなく、土壁のざらついた質感や微妙な凹凸まで忠実に再現しています。
また、奈良・法隆寺の国宝「釈迦三尊像」を再現したものは、数百枚の画像データをもとに3Dプリンターで型を取って銅を鋳造し、表面を特殊な薬品に漬けて酸化させて古びた雰囲気を表しています。
展覧会を企画した東京芸術大学大学院の宮廻正明教授は「クローン文化財は美術品の保存や公開のありかたを変える可能性があり、活用に期待したい」と話していました。
この展覧会は東京・上野にある東京芸術大学大学美術館で23日から来月26日まで開かれます。
shutoken-news/20170923/0000890.html
英語圏という幻想
麗しの郷里 はるか ~埼玉県 日高市 - NHKオンライン
www.nhk.or.jp/kotabi-blog/100/259240.html
2016/12/18 - 埼玉県南西部、日高市の高麗(こま)の里。高麗とは、古代、朝鮮半島から渡来した人たちが開いた「高麗郡」に由来するといわれます。里にある「高麗神社」は、その歴史を、守り伝えてきました。里が紅葉に包まれる秋、暮らしの風景を残したい ...
高句麗 建国 朱蒙 BSフジ
>李氏は「退位される前に韓国へいらして、この間の両国がほどけなかったしがらみを解いてくだされば、両国関係の発展に大きな助けになる。それだけの雰囲気が早く醸成されることを望む」と語った。文在寅(ムンジェイン)政権として、訪韓実現の雰囲気を盛り上げていきたい考えも示した。
雰囲気が早く醸成されることを望む
現代によみがえる遺跡 「クローン文化財」展始まる 東京 写真12枚 国際 ...
www.afpbb.com/articles/-/3143952?pid=19397086
3 日前 - 東京藝術大学大学美術館で開催された「素心伝心―クローン文化財 失われた刻の再生」展で展示された北朝鮮の高句麗江西大墓の復元壁画(2017年9月22日撮影)。(c)AFPBB News/Yoko Akiyoshi. 【9月22日 AFPBB News】奈良県 ...
本物そっくり「クローン文化財」初の展覧会 | NHKニュース - NHKオンライン
www3.nhk.or.jp/news/html/20170923/k10011152911000.html
2 日前 - 壁画や仏像など歴史的価値の高い美術品を最新のデジタル技術と伝統的な修復技法を駆使してよみがえらせた「クローン文化財」を、一堂に集めて紹介する…
(文化往来)東京芸大が「クローン文化財」展覧会 :日本経済新聞
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO19960600U7A810C1BC8000/
デジタル技術などで本物そっくりに復元した文化財の複製品を集めた展覧会を今秋、東京芸術大学が開く。高精細印刷や3Dプリンター ... 東京芸大が「クローン文化財」展覧会. 2017/8/15付 ... アフガニスタンの仏教壁画など国内外の著名な文化財の複製品約70点を展示する。 ... 米国株は小幅続落 北朝鮮リスクが心理冷やす 米金... 特殊鋼の国内 ...
シルクロード特別企画展「素心伝心 クローン文化財 失われた刻の再生 ...
130th.geidai.ac.jp/specialprogram/005/
シルクロード特別企画展「素心伝心 クローン
文化財 失われた刻の再生」. 2017.9.23( ... バーミヤンからシルクロードを経て、その終着地である奈良法隆寺に至るまでの「壁画の道」をたどる特別企画展。本学の持つ特許技術 ... 高句麗壁画(北朝鮮) ・法隆寺金堂 ...
>雰囲気が早く醸成されることを望む
プロローグとしての高麗神社訪問で怒涛の雰囲気醸成翼賛会
夢の超特急
夢のマイホーム
夢の海外旅行
そして、夢の所得倍増
1960年代、日本には夢が溢れていました
敗戦の廃墟から、わずか20年余り、あらゆる夢を実現したこの成長を、世界は日本の奇跡と呼びました
シリーズ、戦後70年 ニッポンの肖像
戦後、豊かさを求めてきたわたしたち
今月は2回にわたって、その歩みをみつめます
今夜は日本を世界2位の経済大国に押し上げた高度成長の時代です
明日は今日よりも豊かになれる
日本人の誰もがそう信じることができた時代、高度成長
この高度成長は、ある理論によって導かれました
その理論を打ち立てたのは、ひとりの大蔵官僚、下村治です
下村は、高度成長を振り返り、こう語っています
下村治(大蔵官僚):本当に、文字通り、千載一遇の幸運を、われわれは、幸いに100%に近い形で、自分のものとして活かすことができたということじゃないでしょうかねえ
下村のいう「千載一遇の幸運」とは、なんだったのか
日本は、幸運をどう実力に変えたのか
小松勇五郎(通産官僚):「自動車みたいに高度の技術は日本には無理です」
そのときに、(外国から)説教を食らいましてね、やっぱり不愉快でしたね、まあ、今にみておれと
池田勇人(総理大臣):10年で(所得)を2倍にすることは何でもない
あなた方のエネルギー、活力、想像力創造力というものは、世界の歴史に、どこに今まであったでございましょうか
今夜は「高度成長」、その奇跡の真実を解き明かします
戦後70年 ニッポンの肖像 豊かさを求めて
第1回 “高度成長” 何が奇跡だったのか
わたしたちの来し方をみつめ、これからを考えようというシリーズ
戦後70年、ニッポンの肖像
どうすれば、ひとりひとりが、本当の豊かさを実感することができるのか
今月は、暮らし、そして、人生に直結する、経済の歩みをふりかえります
こちらをご覧ください
日本の戦後70年を、経済成長率示しました
今から時を遡ると、本当に、高い成長率が続いた時代があったんですね
1955年から20年近くにわたって、平均、9.1%、10%を超えることもありました
高度成長期です
当時、外国から、日本の奇跡と驚きをもってみられました
なぜ、この奇跡を達成することができたのか
今夜は、そこを解き明かし、明日への指針をさぐっていきます
高度成長は1955年にスタートしましたが、実は、その前、終戦直後の廃墟から立ち直る状況のなかで、その礎は生まれました
高度成長など、誰も想像さえしなかった終戦直後の日本
闇市で、メモを片手にモノの値段を書き留める男がいました
男は大蔵官僚でした
しかし、病気がちで出世コースからは外れていました
男の名は、下村治
のちに、高度成長理論を打ち立てる人物
闇市で、下村はある発見をします
客は乏しい財布をやりくりしながらも、旺盛にモノを買い求め、店先には粗末ながらもモノが溢れていました
消費欲と生産意欲、経済成長の最も大切なふたつの要素を、下村はどん底の日本にみてとりました
この発見が、のちの高度成長理論の出発点となりました
生涯、黒子に徹した下村の晩年の貴重なインタビュー(証言現代史 下村治 高度成長のシナリオ)が残っています
下村の持論は経済成長の目的は単に数字を追い求めるものではないというものでした
下村治(元大蔵官僚):貧乏と失業の問題、そういうような重圧があるために、間違って大きな戦争に駆り立てられるような気持ちにみんながなってしまった、と
成長によって解決される、あるいは、解消されるという問題がいくらでもある
しかし、下村の理論は、所得倍増という言葉で、日本経済を力強く牽引するまでには、まだ10年以上の時を待たなければなりませんでした
そのころの日本経済は、マッカーサーの占領政策により瀕死の状態に追い詰められていました
最大の産業だった軍需産業は粉々に破壊されます
さらに、マッカーサーは経済の民主化実現のため、財閥企業にとどまらず、あらゆる大企業の解体の準備をすすめていました
工業生産は戦前の4割にまで落ち込みます
この容赦ない占領政策に対し、待ったをかける人物がアメリカ本国に現れました
陸軍次官、ウィリアム・ドレイパーです
ウィリアム・ドレイパー:わたしは現状を把握するために、日本に行く必要が出てきました
やるべき仕事ができたのです
ドレイパーはウォール街の投資銀行の経営者の出身
関心事は日本の民主化よりもビジネスでした
アメリカの投資銀行や大企業は、戦前、日本に巨額の投資を行っていました
鉄道や電力などのインフラ建設や関東大震災の復興資金です
その額は5億㌦、現在の価値で実に80億㌦にも上ります
マーク・メツラー(テキサス大学教授 歴史学):ウォール街にとって最も重要なことは、戦前に行った投資をできるだけ早く確実に回収することでした
かれらは自分たちの資産だけでなく、顧客が投資した資産を守る必要もあったのです
なんとしても資金を回収したいドレイパーは、マッカーサーに再三、経済政策を見直すよう勧告しましたが、マッカーサーは聞く耳を持ちませんでした
このとき、瀕死の日本経済を救う幸運が訪れます
東西冷戦の深刻化でした
アメリカでは日本を反共の砦にするため、懲罰よりも経済復興を優先させる考えが一気に台頭します
ドレイパーは機を逃さず日本を訪れ、占領政策の転換をマッカーサーに強く求めました
(1948年3月 羽田空港 ドレイパー来日時の映像)
ウィリアム・ドレイパー3世(ドレイパーの息子 投資会社経営):マッカーサーはそれほど反論しませんでした
彼は軍人で経済の事がわからず、父の助言に頼らざるを得ませんでした
父は根っからの資本主義者でした
日本経済が繁栄すれば、それはアメリカの経済にとって大きなメリットになると考えていたのです
会談から2年後に起こった朝鮮戦争で、日本経済は大きく息を吹き返します
懲罰から復興支援に180度方針を変えたアメリカは、日本企業から大量の軍事物資を購入します
鉄鋼、機械などの生産が急拡大
GNPの伸び率は1950年から3年連続で10%を超えました
(特需景気によるボーナスの支給)
しかし、この好景気は長くは続きませんでした
街に不況の嵐 東京(当時のニュース映画のタイトル)
「街に吹く不況の風は日ごとに失業者の数を増やしその厳しさを物語っているようです」
朝鮮戦争終結と同時に特需というカンフル剤は切れました
日本にはまだ自力で成長する力はなかったのです
一刻も早く国の成長を支える基幹産業を興すことが必要でした
産業政策を担っていたのは通産省です
官僚たちは連日、議論を重ねていました
資源のない日本は、なにかを作って、生き残るしかありません
目の前にある道はふたつでした
ひとつは繊維などの軽工業の強化
軽工業は軍需産業に指定されなかったため、戦後、すぐに復興
特に繊維は、安い人件費を武器に、輸出は好調でした
もうひとつの選択は重工業化です
しかし、自動車や家電など民間産業は、戦争で大きく立ち遅れ、戦後も工場の操業が制限されたため、全く進んでいませんでした
当時の議論の様子を、官僚たちが後に語った貴重な録音が(機械振興協会に)残されています
佐橋滋(元通産相事務次官):それはおそろしいスピードで、織物は復活したわけですよね
本当に、売りまくりましたからね
ところがいかにもそれはそのね、世界中の国々は、先進国というのは工業製品を作るんであって、繊維なんてものは、開発途上国がようやく工業に手を差し伸べることのできた初頭段階ぐらいに思っとったから
大慈弥嘉久(元通産相事務次官):重化学工業化というのは技術革新の余地が多いというんで、重化学工業しかないということでまとまったんです
要するに企業の国際競争力なんだと
で、それにはやはり重工業しかないんだと
官僚たちが選んだのは重工業への道でした
茨の道であっても、付加価値が高い重工業の方が経済成長の伸びしろが期待でき、大量の労働力を吸収できます
両角良彦(元通産相事務次官 95):誰だって日本を一流国にしたいと
戦に負けた、それを、その負担を、あるいは、その恥を、元に戻したい
あるいは取り返したいと
そういうことはね、無意識のうちに、みんな、そこに、あるわけです
我々にとって一番くるのは、やはり、工業力でやれることはやろうじゃないかって
なぜかっていうと、それは、やはり、日本人にはそういう能力があるんですよ
官僚たちに重工業化に踏み切らせたのは、戦争の遺産ともいうべき大量の技術者の存在でした
日本は戦時中、技術者の養成に力を注ぎ、軍の教育機関や大学の工学部では多くの若者が学んでいました
戦時中、最高のエリートを集め、技術者教育を施した組織がこの場所にありました
東京帝国大学第二工学部、僅か9年間だけ存在した学部です
?:ここに、戦中の昭和17年(~昭和26年)に東京帝国大学の第二工学部が、ここに(千葉県千葉市弥生町)ありました
その化学の教室として使われていた建物ですね
戦争遂行のためにつくられたこの学部は、戦後まもなく廃止され、幻の戦犯学部とも呼ばれました
教壇には、戦闘機の設計者や船舶のエンジニアなどが立ち、学生たちは実践的な知識を叩き込まれました
東京帝国大学第二工学部で学んだ経営者がいます
91歳になる黒田彰一さん(黒田精工 最高顧問)です
戦争中に家業を継いだ黒田さんは、今では海外に9つ拠点を持つ世界的な精密機器メーカーに育て上げました
黒田彰一:ゼロ戦のゲージ、みんな、うちが作りました
大学での専攻は兵器の製造を学ぶ造兵学科
魚雷や大砲など、兵器に使われる機械を精密に作るための理論を学びました
戦争中はゼロ戦のゲージ、精密測定機器の製造を一手に任されていました
戦後も、高い精度を誇るその技術は、自動車づくりに必要な特殊な金型や精密工作機械の開発に活かされました
黒田彰一:(第二工学部は)新設校のバラックなんですから、ある意味じゃ、雰囲気とすりゃ、荘重な趣が全くないんですよ
でも、地面は沢山ありますから、戦車の操縦なんかもできましたからね
兵器っていうのが、一番、あの、精密なんですよ
で、非常におもしろいですね
技術っていうか、まあ、工学っていうのは、どっちにも使えるわけですよ
兵器にもね、医学のためのアレにも
使うのは人間ですから
東京大学第二工学部の卒業生たちです
ダイキン工業社長
三菱商事社長
日本製鋼所社長
三井造船社長
マツダ社長
ソニー社長
日産自動車社長
富士通社長
デンソー社長
昭和電工社長
日立製作所社長
鹿島建設社長
最高峰の技術者教育は、自動車、家電、造船など、のちの高度成長を牽引する人材を数多く育てていました
通産省の官僚たちは、戦争がはからずも育てていたこの技術者たちを活かすことで、重工業化という困難な道を切り開こうとしたのです
自動車は国産時代(当時のニュース映画のタイトル 動画)
戦後、再出発した国産自動車は、めきめき…世界的水準を…
通産省が取り組んだのは自動車産業の育成でした
自動車産業は鉄鋼、ガラス、ゴムなどの裾野が広いため、成功すれば重工業全体が拡大し、莫大な雇用を生み出せます
通産省は、欧米に負けない車が生産できるまでの時間稼ぎとして、徹底的な保護貿易を行いました
輸入車には40%もの関税をかけました
日本市場を狙う欧米から激しく関税の引き下げを迫られましたが、楯となって自動車産業を守り抜きました
小松勇五郎(元通産相事務次官):今から考えたら、考えられないような、輸入制限、高率関税、かけましてね、保護したわけです
それがお気に召さないんですねえ
で、そのときに、お説教、食いましてねえ
自動車みたいに、高度の技術、資本主義産業に今から行こうたって無理です
自動車が欲しければ買いなさいと
それを買うお金は、日本が繊維や雑貨、得意なものでね、稼いだらいいじゃないですか
やっぱり、不愉快でしたねえ
で、やっぱりね、おなかのなかではね、まあ、今に見ておれと
通産省はのちに日本のものづくりを大きく発展させる法律(機械工業振興法 指定予定業種概要)を、このころに制定しました
最終製品をつくるメーカーだけでなく、大企業に部品を供給するメーカーも支援しようとしました
資金繰りが苦しい中小企業でも、低い金利で融資を受けられるようになり、思い切った設備投資が可能となりました
山本重信(元通産事務次官):これは、もう、相当、担当者がみんな努力してですね、どっちかいうと中小、中堅企業でですね、機械設備なんか遅れているようなところにですね、もう、世界最高の水準をいくような特殊なものを導入してですね、製品のレヴェルアップをですね、まあ、やろうっていうんで
精密機器メーカーの黒田さんの会社も、この政策の恩恵を受けました
当時の金額で2000万円、現在の価値でいえば、1億2000万円の融資を受け、イギリスなどから最新の研削盤を購入
海外の機械を徹底的に研究し、改良を加えた独自の機械を開発
さらに、技を磨きました
黒田彰一:やっぱり「研削」というのは、精密加工にとって一番大事ですからね
「研削」はずいぶん勉強しましたね
モデルマシーンとしてね
あとは自分で作りましたけどね
日本の経済成長率は1955年、8.8%を記録しました
これが高度成長の出発点です
しかし、当時は誰もこの成長が、これから20年近くも続くとは考えていませんでした
ただし、ひとりをのぞいては
のちに、高度成長理論を打ち立てる大蔵官僚、下村治は、この好景気は歴史的な経済成長のはじまりになることを見抜いていました
--高度成長前夜、終戦からの10年をご覧いただきましたけれども、この時代に、のちの高度成長への重要な礎がつくられていった感じがありますねえ
スタジオには、作家の五木寛之さん(82)、そして、東京大学第二工学部のご出身で、大手自動車部品メーカー、デンソーの経営者だった石丸典生さん(86)にお越しいただきました
よろしくおねがいたします
--五木さんは、当時は、どんな気持ちでいらっしゃったでしょうか
五木寛之:戦後、ちょうど、中学生から高校生になっていくっていう、その過程なんですね
敗戦の詔勅を、中学校の校庭で、全員集まって聞いたときに、そのあとにね、校長先生が声涙ともに下る演説をされたわけですよね
日本は負けたと
だけど、負けたのは、それは日本人の魂が負けたんじゃないと
精神が負けたんじゃないと
つまり、科学技術っていうか、アメリカの物質と科学技術に負けたんだと
だから、今後、君達はね、大人になって、アメリカに負けない科学技術の国にしなきゃいけないっていう訓示をなさったんですよね
そのことを、なんかねえ、一種の違和感を覚えながら、すごく鮮明に覚えていますね
--石丸さんは、そのころは、大学生で
石丸典生:そうですねえ
--あの第二工学部で技術を学ばれていたと
そのときの教育っていうのは、どういう感じだったんでしょうか
石丸典生:そうね、第一工学部と第二工学部の違いっていうのはよくいうんですがね、何が違うかっていうと、第一工学部っていうのはやっぱり学者っていいますか、基礎工学を教えることが主眼であってね
で、第二工学部はですね、若い先生が来たとかですね、実際に工場で働いていた先生が、学科の先生になったものです
どちらかっていうと、実践的なね、教育が多かったんですよ
--それは戦後を引っ張っていく人がたくさん生まれてくるのは、そういうこと関係がありますかね
石丸典生:あると思うんです、わたしは、ええ
東大だけじゃなくてですね、各大学もですね、技術者の養成には戦時中から非常に力を入れておりましたし、だから、そういう技術者っていうのは、たくさんいたわけですね
というのはですね、文系の方は戦争に行って亡くなる方が多かったかもしれませんけど、技術者はですね、軍需産業のためにですね、戦争にも行かない人が多かったわけですよ
--そうするとね、ぜひ、伺いたいのは、兵器に通じていた技術を、石丸さんたちは、どういう気持ちで、新しい時代のモノを生み出そうとしておられたんでしょうか
石丸典生:兵器だってですね、平和産業だってね、基礎にある技術はね、全く共通したものですからね
戦後は、そのエネルギーは全部民間に向かったと考えればいいと
五木寛之:それはね、ある意味では、敗戦と同時に、日本という国がリセットされて、全く一からスタートしたような錯覚があるんだけれども、本当はそうではないんじゃないかっていうふうに思うんですね
戦後の日本の復興っていうのはね、戦前、戦中に、育てられた人材と技術と思想と、そういうものが戦後にね、実を結んだっていう、もう、それに尽きると思いますね
石丸典生:だいたい、技術っていうものはね、途切れないものなんですよ
ちょっと、そういう意味ではね、その、いわゆる文化とは違うところがありましてね
文化っていうのは、突然変異がいくらでもできるんですけど、技術っていうのは積み重ねなんですね
科学は継続していくものです
だから、戦前のものが必ず引き継がれていると
五木寛之:技術力がある、と
しかもね、、技術力だけじゃだめなんで、ひとつの経済をちゃんと立案して遂行していくうえでのプログラムっていうか、計画を立てて、その計画だけじゃなくて、経験が必要なんですね
そういうものが全部ね、戦後の驚くべき経済発展のね、礎になっているっていうふうに、僕は、みてる
--なるほど、はい
さあ、いよいよですねえ、高度成長へ突入します
復興期の日本が、なぜ、奇跡といわれるような世界も羨む成長を実現することができたのでしょうか
♪わたしのとなりのおじさんは 神田の生まれで チャキチャキ江戸っ子 お祭りさわぎが大好きで ねじりはちまき そろいのゆかた 雨が降ろうが ヤリが降ろうが 朝から晩まで おみこしかついで ワッショイワッショイ ワッショイワッショイ 景気をつけろ 塩まいておくれ ワッショイ
日本は1955年から2年連続で高成長を記録していました
しかし、日本人の多くが、いづれまた大きな落ち込みが来ることを覚悟していました
(下村治 大蔵官僚は)一刻も早く日本の成長を支える理論を打ち立てようと、論文の執筆を急いでいた
しかし、死の病と恐れられた肺結核に斃れていた
それでも、病床で執筆を続けた
下村恭民(下村治氏のご子息 開発経済学者):病気との競争という感じで書いていたんだと思いますけど
でも、本人も鉛筆で書くこともなかなか難しかったので、最後は普通の文章は口述筆記で、母に書かせていたということでしたけどね
3年間の闘病から奇跡的に回復した下村は、論文(経済変動の乗数分析)を完成させました
この理論をもとに、下村が導き出した予測は、成長率10%
しかも、それが、10年近く続くという途方もないものでした
しかし、この予測は、のちに実際に起こった成長と見事に一致しています
病気で失った時間を取り返すかのように、下村はあらゆる雑誌に寄稿し、日本経済に潜む成長力の高さを訴え始めました
下村治:まあ、誇大妄想みたいなように受け取られたきらいがあるんじゃないですかねえ
ほとんど、まともに受け取られなかったですねえ
そんなことはできるはずがないっていうような感じだったと思いますけども
1956年の経済白書も悲観論を語っていました
有名な一節、「もはや戦後ではない」
この言葉はゼロからの戦後復興が一区切りついたこの時期、、もう、今までのような経済成長は期待できない、という意味でした
当時、経済企画庁でこの白書の作成に携わった金森久雄さん(元経済企画庁研究員)
金森さんも下村の高度成長論は荒唐無稽だと感じていました
--きょうは、よろしくおねがいいたします
金森久雄:「もはや戦後ではない」という経済白書の議論っていうのはね、そんなに高い成長力が日本に在るっていうぐあいに、みんな思わなかったわけです
ところが、日本がそんなに高い潜在成長力を持ってるというのを考えたのは、これはやっぱり、下村さんの、天才だと思いますね、うん
なぜ、下村は、ただひとり、日本経済の成長を信じることができたのか
あたらしい資源の利用…企業者の創造的活動によって…このような企業者の創造的な活動…決定される投資が歴史的時間の…比例感応投資…予測感応投資…独立投資…
(クローズアップされた論文の一部)
ケインズ理論を学んだ下村は、それを発展させ、経済成長の起爆剤は民間企業の設備投資だという結論に至りました
終戦直後から、下村は工場を歩き、貧弱な設備でも工夫を凝らし、ひとつでも多くの製品を送り出そうとする生産者の姿を目に焼き付けていました
生産意欲は溢れている
あとは企業の設備投資を促す政策を打ち出せさえすれば、飛躍的な成長が自然に始まると考えていたのです
たとえば、鉄鋼メーカーが設備投資によって質の良い鉄を安く作れるようになれば、鉄を使う自動車や家電製品も価格が下がる
自動車が安くなると、それを買い求める人々が増え、自動車メーカーも増産のために設備投資を行う
すると、今度は鉄の需要が増え、鉄鋼メーカーは新たな設備投資に向かう
この循環が、あらゆる産業でおこれば、爆発的に日本の経済は成長する
これが下村理論の核心です
下村治:産業界の設備投資が、イノヴェーションの力で経済を推進していく
そうすれば、その結果として、どういうような成長が出てくるか、いうような形で、展望をつくったということなんです
1958年、夏、孤軍奮闘を続けていた下村は、ひとりの政治家と運命的な出会いを(赤坂プリンスホテルで)はたします
政策の勉強会にブレーンとして招かれたのです
待っていたのは、衆議院議員、池田勇人でした
池田勇人は、大蔵大臣や通産大臣を歴任するなど、将来を嘱望された政治家でした
池田勇人:税金が高いから死ぬといのは、どうかと思いますが、とにかくまあ、インフレ率…
しかし、相次ぐ失言で(貧乏人は麦を食え 中小企業の倒産や自殺は止むを得ない)、次第に総理大臣の器では無いとみられるようになっていました
総理の座を目指すため、目玉となる経済政策を探していた池田は、下村の高度成長論に飛びつきました
池田は数式が並ぶ難解な下村の理論を、完全には理解できなかったといいます
しかし、日本には高い成長力が潜んでいるという下村の考えには、強く共感しました
難解な下村の理論を、誰にでも理解できる言葉に置き換えます(所得倍増 10年内に)
「所得倍増」でした
1960年7月、所得倍増論を掲げた池田、総理大臣に就任しました
(第一次池田内閣の集合写真)、
--もし実現しなかった場合は責任を取るかという質問に対しては、どうお答えになりますか?
池田勇人総理大臣:これはね、政治家はね、一言一句、一挙手一投足、責任を取ります
総裁が責任を負います
池田は下村の理論どおり、企業の設備投資を促すための政策を次々に打ち出していきます
税収の6%にもあたる1000億円という法人税と所得税の大減税を断行
さらに、銀行の貸出金利を引き下げ、企業が融資を受けやすい環境をつくりました
資金が生まれた企業は、こぞって強気の設備投資に走り出しました
精密機器メーカーの黒田さんの会社も、この時期、大きな設備投資にふみきりました
2億円余りを投じて、最新の工作機械を並べた工場を相次いで建設します
自動車や家電用のモーターに必要な金型の量産体制を整えました
黒田彰一:まず、人間がやっているものは機械化する
で、機械化するものは自動化すると
あの時代はね、本当に、(売り上げが)3年で倍にならなきゃ、人並みじゃないみたいに銀行まで言ってましたからね
すごいですよ
池田の政策から僅か1年で、設備投資の額は全産業で28%、自動車では35%増えました
そしてこのとき、日本経済にとって、最大の幸運が訪れようとしていました
人口ボーナスという現象です
終戦直後のベビーブームの世代が働く年齢に達していました
しかも、子供は少なく、高齢化も進んでいませんでした
上と下の世代が少なく、働く世代が極めて多いという人口構造の出現
これが、人口ボーナスです
人口ボーナスは、途上国が先進国に生まれ変わる過程で、たった一度だけ起こる現象だといわれます
働く世代は子供にお金がかからず、高齢者向けの負担も少なく、収入の多くを消費と貯蓄にまわすことができました
人々の旺盛な消費は大量生産される製品をのみこみ、貯蓄は銀行を通じて企業の設備投資の資金に変わります
企業の大増産と巨大な国内市場、いよいよ、高度成長が本格的に始まります
企業は、欧米から猿マネとバカにされようと、たゆまぬ技術革新で大量生産とコストダウンを実現
消費者は毎年重さが増す給料袋を手に、次はなにを買おうか悩むのが喜びでした
2軒に1軒しかなかったテレビは、ほぼ、すべての家庭にいきわたり、高嶺の花だった自動車も4分の1の家庭が持つようになりました
豊かさを求めて走り出した国民を、池田のダミ声は鼓舞し続けます
池田勇人:ニッポン人、すなわち、世界一、勤勉な、世界一流の、いい頭を持ち、そうして自由主義経済のもとで行くならば、10年で2倍にすることは、なんでもない
いつまでも後進国でおるわけにはいきません
国民のみなさん、いっしょに、行こうじゃありませんか?
高度成長、真っ只中の1964 年10月、東京オリンピックが開催されました
この開会式への出席が、池田の総理大臣としての最後の仕事となりました
癌に冒されていた池田は、このあと辞任を表明し、翌年、息を引き取りました
池田の死から3年後の1968年、日本のGNPは52兆円を突破し、所得倍増を達成
世界2位の経済大国に躍り出ました
ひとりの天才の理論が、日本が蓄えてきた実力を引き出し、一瞬の好機を捉えました
実力と幸運が、これ以上ないタイミングで結び付ついて成し遂げられた日本の奇跡でした
下村治(大蔵官僚):本当に、文字通り、千載一遇と言っていいような幸運に恵まれた
その幸運を、われわれは、幸いに100%に近い形で、自分のものとして活かすことができたということじゃないでしょうかねえ
--1960年代を中心に高度経済成長期の日本をごらんいただきました
所得倍増の時代、想像つかないですけれども、どういう時代だったんでしょうか
石丸典生:とにかくみなさんがね、欲しいものね、たくさんあったっていいますか
また、そういう、たくさん欲しいものがですね、企業が提供できたっていうのがね、やっぱり、その、最大の原因だと思うんですよ
とにかく、需要があればですね、企業はモノを必死になって作りますからね
五木寛之:いやあ、今、伺っていて、戦争中のスローガンのひとつに、「欲しがりません、勝つまでは」っていうふうにね、イヤっていうくらいにねえ(石丸典生さんと目を合わせて頷きあう)
--なるほど
五木寛之:で、戦争、勝てなかったでしょ
そのかわり、経済的な復興を成し遂げて、一応、なんか、こう、再び立ち上がったっていう実感があったから、さあ、これで欲しいモノは、買っていいんだっていう、そういう感じになったんじゃないかなって
いやあ、それは欲しいものは山ほどありましたよ
いろんなもん、どんどん出てくるし
物質的な、もう、刺激されるもの多すぎて
石丸典生:そうですよね
五木寛之:ほんとに、夢にまでいろいろ見ましたもん
--ちょっと、データがあるんですけれども、乗用車は60年から70年の10年間で、生産台数が19倍、輸出が100倍に増えたと
すごいですよねえ
どうしてここまで強い産業になることができたと
五木寛之:「需要」だと思いますね、みんなの
自動車、乗りたい
それで、ガールフレンドでも隣に乗せて、湘南の海岸を、こう、音楽流しながら走りたいとかね、エアコンがついてりゃ、最高とか、あるじゃないですか
石丸典生:ちょっとそれと同じような話ですけれどね
1960年代はですね、日本の住宅は非常に貧弱だったんです
クーラーは無いし、家庭には
ところが、自動車にはちゃんとヒーターもあればね、エアコンもあるんですよ
でね、立派なオーディオがあって、ウチの奥さんに邪魔されずに、ひとり楽しむことができた
そのようなことでも、自動車が売れたと思いますよ
単なる「足」じゃなくて
--人がいて、欲しいというのがあり、それに応えるということで、こう…
石丸典生:そうそうそうそう、そうですね
人間に欲望があって、それに対する応えるだけの能力があったと
だから、高度成長できたんですよ
五木寛之:池田さんは、所得倍増って言いましたよね
政治生命かかっているわけですよ
相当無理してね、国民の実質賃金を上げたと思うんですよ
実質賃金があがるっていうことはですね、企業の利益をある程度圧縮しなきゃいけないんです
つまり、そこはね、労働者にたくさん払って、会社の儲けとか剰余金とか積み立てたりしないで、苦しくても頑張っていこうと
そこにはね、今、最近、こう、強欲な資本主義とかっていわれてますけど、ある健全なモラルがあったと思うんですよね
それは、働く人たちの方が大事だっていう形で
--なるほど
下村治さんは、千載一遇の幸運を活かすことができたと仰ってましたけれども
五木寛之:戦争中に神風が吹かずに、戦後に吹いたっていう感じがありますねえ
石丸典生:運っていうのはね、ひとりでにね来るもんじゃなしに、こちらから掴みに行かなきゃね、無い、というふうに、わたしは考えておるんですよ
運も確かにありますよ
まあ、でも、できるだけ、幸運は自分で掴むように努力しなくちゃ
その努力がどうしてできるかって、やっぱり、普段からのね、実力に拠るわけですよ
実力が無ければね、幸運だって掴めないですよね、うん
--これからは幸運は来るんでしょうか?
五木寛之:いやあ、それは、いつまでもね、もう一度、成長期が来るっていうふうに考えるのは間違っていると思います
今、わたしたちは、戦後70年っていいますけど、70歳になっているって思いたいんですよ、国全体が
70歳というのは、人生の円熟期に入っていくところですよね
若い人と同じように体力を維持しようとしても、それは無理ですし
円熟した人間ができることっていうのが、あるんです
それは20歳の青年には無理なことなんです
そのことをちゃんとやった方がいいなあっていうふうに思いますね
--なるほど
おふたり、どうも、ありがとうございました
高度成長のあまりに早いスピードは、社会に歪みも生んでいました
「くたばれGNP」という言葉も生まれ、成長自体を否定する声が出てきます
所得倍増という目標を達成し、もはや、経済で人々の心をひとつにすることは難しくなってきました
陰りが見え始めた高度成長に引導を渡したのが、1973年の石油ショックでした
戦後初めて、マイナス成長を記録しました
かつて、誰よりも強く日本の成長力を信じた下村治
一転して、もはや、経済成長は望めないと主張し始めました
企業の生産性はピークに達したとみていました
下村治:日本の経済が落ち着くべき姿が、どこにあるか
金森久雄:下村さんが、今度は日本の経済はゼロ成長が続くと見通しを出したわけですね
これに対して下村さんは、「わたしの説が変わっただけじゃないんだ」と
「日本の経済が変わったんだ」ということを言われたわけですね
しかし、下村の予測ははずれました
予期せぬ巨大な力が出現したのです
石油ショック後、企業体質を強化し、再び成長軌道に乗った日本経済に、世界からマネーが押し寄せます
地道なものづくりをあざ笑うほどの力を持つマネーの誘惑に、日本はかられていきました
そして今度は、マネーが日本の右肩上がりの数字を支えていくことになるのです
May 30, 2015 2100-2149
【オリンピズム】64年東京のいまを歩く(5)総理の娘は「疲労困パニオン」 良家の子女に訪れた疾風怒濤の日々(1/2ページ) - ...
www.sankei.com › clm1505050009-n1
May 5, 2015 · ジョン・F・ケネディが大統領だった時代の空気を思い切り吸って、池田紀子は米国「遊学」 から戻った。待っていたのは日本オリンピック委員会(JOC)総務主事の青木半治…
[PDF] 傾斜生産 - 東京大学
www.computer-services.e.u-tokyo.ac.jp › ...
by 三輪芳朗 · Cited by 1 · Related articles
経済復興 日本は、高度経済成長への足がかりをどのようにつかんだか。
荒廃した日本経済を立て直すために、政府のとった政策が、石炭・鉄鋼・電力・肥料などの基幹産業に資金や資材を重点的に配分する傾斜生産方式であった。そしてその資金面を担当したのが復興金融金庫である。この傾斜生産方式により生産は回復したが、復興金融金庫の融資資金が日本銀行引きうけの復興金融金庫債によっておこなわれたため、通貨膨張によりはげしいインフレーション(復金インフレ)が進行した。
「わっ、来たっ、2万円」
先月10日、2万円の大台を、株価は15年ぶりに突破しました
久ぶりの活況に沸く株式市場
かつて、その2倍近い株価をつけた時代がありました
1980年代のバブルです
未曽有の好景気に踊った日本
不動産価格が急騰
株価も38000円を超え、史上最高値をつけました
しかし、バブルは崩壊し、日本は20年にも及ぶ停滞の時代に入っていきます
なぜ、バブルは生まれ膨らみはじけたのか
なぜ、日本経済は長い停滞から抜け出せなかったのか
シリーズ戦後70年 日本の肖像、豊かさを求めてきたわたしたち
今夜は、世界第2位の経済大国の座を掴んだ日本が経験した。バブルとその後の ”失われた20年” です
日本人は、なぜ、突然、バブルに熱狂したのか
わたしたちは100人を超える当事者を改めて取材
バブルの深層を探りました
山一證券 元副社長:そんな無茶するなと腹に思っていても、 うまくいっているからいいじゃないのと
日本銀行 元理事:おれたちは、バブルの戦犯だなと
その後、なぜ、”失われた20年” に陥ったのか
日本経済を牽引してきた企業のトップたちが、語りました
三洋電機 元会長:ちょっと油断している間に、こんなに中国の企業が成長していったんだなと
オリックス 元会長:新しいものに挑戦するっていうのが経営だと思うんだけど、まったく逆のことが経営になってしまったのが、過去20年だろうと思いますね
新日鉄住金 名誉会長:”失われた20年” とか ”30年” という言葉は大嫌いなんです
失われてはいないんですよ
バブルと ”失われた20年” 、今夜は世界経済が大きく変化した80年代以降、日本と日本人に何が起きていたのか、みつめます
-----わたしたちの来し方を振り返り、これからを考えるシリーズ、戦後70年、日本の肖像
前回の高度成長の時代に続き、今夜はバブルとその後の ”失われた20年” をみつめます
-----わたしは、もう、物心ついたときには、”失われた20年” だったんですけれども、バブルって、どういう時代だったんでしょう
-----若い人には、実感、湧かないかもしれないですね
こちらをちょっと見てください
経済の体温計といわれる株価の推移です
ごらんのように右肩上がりを続けていますけれども、80年代後半、突然、急激に上昇
(38,915円)
過熱した時期があります
これがバブルです
当時は、財テクという言葉が流行るなど、日本中が熱くなった、こんな時代でした
1986年、財テクで名を成した経営者を取材した番組です
(NHK特集 世界の中の日本 1986年放送)
そこに世界の金融業者の間で、KITAマネーの異名をとる人物がいました
当時、世界に名が知れ渡っていたこの人物、阪和興業の北茂社長です
本業は鉄や金属を扱う鉄鋼商社
この頃、積極的な資金運用で、財テクを拡大させていました
社長室の隣につくられたディーリングルーム
世界の金融市場で、財テクを駆使し巨額の利益を上げていました
--今日は1 日で、どれくらい儲けたんでしょう
北茂社長(当時):1億くらいじゃないかな
-3-1億㌦?
北茂社長(当時):1億円、たいしたことない
5億儲かることもあるし、楽な商売ですよ、ねえ
北社長は、なぜ、財テクにのめり込んでいったのか
阪和興業は、戦後まもない1947年、大阪の焼野原から立ち上がろうと、北さんと二人の兄が設立した会社でした
操業30年を記念してつくられた記録映画(世界に伸びる 阪和興業)です
日本の高度成長を支えた鉄鋼の流通を担い、急速に売り上げを伸ばしました
国内外に30近い拠点を展開、社員は1000人を超えていました
社員教育に自ら取り組む北さんの姿が映されています
当時の社訓です
社訓
一. 誠実と努力で信用を高めよう
一. 若さと根性で仕事の第一人者になろう
一. 創意と協調で効率化に努めよう
一. 社業を高揚し幸福な家庭を築こう
一. 使命を自覚し社会に貢献しよう
第一に掲げられた誠実と努力、その堅実な経営は、様変わりしていきます
(買おうと思ってもモノが無い 第一次オイルショック 1973年)
1970 年代、二度のオイルショックを境に、日本の高度成長に陰りが見え始めます
鉄鋼の需要もそれまでのような増加が望めない時代がこようとしていました
創業以来、右肩あがりを続けていた本業の売上高は、80年代、横ばいに転じました
会社の幹部だった新宅国昭さん(70)です
経営者の傍らで、会社が変わっていく様子を見てきたといいます
新宅国昭(阪和興業 元幹部):それまであった社是とか社訓を全部下ろさせて、”利益第一主義” という「のぼり」を各フロアに掲示させるのというのが、第一にやったこと
1981年、北社長が行った講演(「過去をふりかえって 80年代を考える」)の記録です
そのなかで、こう、述べています
北社長(当時):今からの商売では、売買益はあまり増えません
こういった事態を、どう克服していくのか
それが問題であります
売り上げの伸びが止まり、利益が減るのを、何かで補っていく方法を考えざるを得ないのではないかと思います
新宅国昭(阪和興業 元幹部):会社はもっともっと立派な会社になるんだと
自分の財テクの貢献がなければ、一般の会社と同じかそれ以下になってしまうよと
(金融市場で大きな変化が)
(海外からの資金調達)
(金利の自由な設定)
(金融自由化)
・・・略・・・
¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬
アメリカ元財務次官補 ディビット・マルフォードさん(77):日本の金融市場を自由化することで、巨額な資金を抱える日本の投資家たちに、投資の選択肢を広げたかったのです
アメリカの金融機関の日本市場への参入を拡大させようという狙いもありました
金融自由化でもたらされた新たな投資手法は、日本企業を財テクにかりたてました
阪和興業は、当時、日本より金利の低かった海外の市場から資金を調達
その資金を、今度は金利の高い国内の銀行預金や株式、為替で運用し、増やしていったのです
財テクを始めて5年が経った1989年、運用資金を年々増やした阪和興業の利益は、本業の2倍以上に膨れ上がっていました
なぜ、それほどまで阪和興業の利益は膨らんだのか
深くかかわっていた企業があります
四大証券の一つ、山一證券です
取引の詳細や幹部社員の証言を記録した未公開の内部資料を見ることができました
山一證券と阪和国業との間で繰り返し行われていた取引がありました
違法な取引、ニギリです
利回りを保証し(5.5%以上)、損をさせないと約束するかわりに、巨額の取引(資金50億円)をもちかけていたのです
阪和興業との間で、ニギリが始まる直前とみられる1985年の山一證券です
株式市場は活況を呈していました
当時の株式部長、石原弘康さん(78)
のちに副社長になった人物です
初めて応じたインタビューで、ニギリに走ったワケを語りました
金融自由化で証券会社の顧客獲得競争に拍車がかかっていたといいます
石原弘康さん(山一證券 株式部長 当時):ふつうのノーマルな商いをしてればよかったんだけれど、競争が、そこで起きちゃって
「そんな無茶すんなよ」っていうのは腹に思っていても、うまくいってんだから、いいじゃないのと
だから、その時、ひどく叱責したり、「それはダメだ」というような雰囲気もなかったと
当時、阪和興業を担当していた幹部の証言(山一證券 内部資料)
運用総額は1500億円にのぼっていたと語っています
通常の大きさを超えていた
幹部自ら、その異常さに気づいていました
財テクブームの陰で密かに行われていたニギリ
株価は急激な上昇をみせていきます
1985年、1万円台だった株価は、4年後、3倍以上に上がっていったのです
同じ頃、都心の一等地でも異常な事態が進んでいました
自動車販売から不動産業に乗り出した麻布建物の(元社長の)渡辺喜太郎さん(81)
渡辺喜太郎(麻布建物 元社長):これが発祥の地
港区麻布に駐車場用の土地を持っていた渡辺さん
1980年代後半、銀行から巨額の融資を持ちかけられるようになったといいます
渡辺喜太郎(麻布建物 元社長):銀行が「まだ貸せる、まだ貸せる」ってんで、銀行が「使え、使え」って来たんです
それを促したのも金融自由化でした
それまで企業への融資で利益をあげていた銀行
多くの企業が自ら市場で資金調達をするようになり、新たな融資先の開拓を迫られました
目を付けたのが地価の上昇で業績を伸ばしていた不動産業への融資でした
渡辺喜太郎(麻布建物 元社長):(ゴルフを楽しまれていて)あっ、いけねえ、ダメだあ
渡辺さんは、銀行の融資をもとに都心に100か所以上、土地を購入
ハワイのリゾートホテルやゴルフ場も相次いで買収し、資産は一時、7000億円を超えました
渡辺喜太郎(麻布建物 元社長):家だって、1000坪買ってさあ、迎賓館造ってさあ、ねえ、プール造って、テニスコート造ってさ、住んでたんだから
まあ、いい時代だね、いい時代ですよ
-----1980年代、バブルが膨らんでいった時代をご覧いただきました
スタジオには作家で元経済企画庁長官の堺屋太一さん、そして、バブルについてお詳しい経済学者(早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問)の野口悠紀雄さんに来ていただいています
よろしくおねがいします
おふたりはバブルの時代、どんなことが印象に残っていますか
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):まず、わたしはね、とにかく忙しくてね、やたらと、その、クラブとかねえ、バーに呼ばれて、ワイワイ騒いで、もう夜中の2時3時、タクシーが来ないから待ってるっちゅうてねえ
-----えー、そんなに、飲んで食べて?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):ええ
-----すごくお金も使われました?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):いや、わたしは使わないけれどもね、不動産屋さんなんかがね、使こうてたわけですね
-----へえー
-----いろんな人たちが商売を始められた?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):みんな不動産屋になっていた
-----ええっ?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):だから、この株のこともさることながら、東京の不動産屋さん、ちょっと自宅持っているだけね、たちまちそれを担保にしたら、もう何十億借りて、そして次の土地を買って、また何十億借りて
-----へえ
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):だからもう、非常にね、ちょっと回せばいつでも儲かるというねえ、仕掛けができてたんですね
-----桁が違いますね
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):違うんですよねえ
野口悠紀雄(経済学者):あり得ないことが起きてるという感じでしたね
要するに低い金利で資金を調達して預金すればそれで利益が出てしまう
これはあり得ないんですよね
だけど、そういうことが行われた
地価が上がりますね
そうすると、ゴルフ場の開発がものすごく利益を生むことになるわけです
で、全く元手無しにですね、会員を集めて会員権を売ると、銀行からは簡単に融資をしてくれる
それでゴルフ場ができてしまうわけですね
-----おふたりは冷静だったんですか?
そんななかで
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):わたしはねえ、これはおかしいなと思いましたね
このバブルっていうのはね、こんなにみんな浮かれてていいのかっていう気がしました
-----野口さんは?
野口悠紀雄(経済学者):わたしは1987年に、ある雑誌に「日本の土地の地価はバブルで膨らんでいる」という論文を書きました
たぶん、このときの不動産価格の上昇をバブルだと指摘したのは、これが初めてのことだったと思うんですけれど
ただ、この論文は非常に強い非難を浴びました
つまり、地価がバブルを起こすはずがないというんですね
そして、まあ、株は上がったり下がったりはするけれど、土地っていうのは、日本は土地が少ないんだから増えていくのは当たり前であるということでですね、非常に強い非難を浴びたことがありますね
-----はああ
-----先ほどのビデオを見ておりますとね、企業の関係者、銀行や証券の人も含めて、なんかこう、ぐるぐる回るように財テクに走っていったっていう感じがあるんですが
(バブルの熱狂)
野口悠紀雄(経済学者):先ほどの阪和興業のあれでも、最初に鉄の生産が伸びなくなったっていうことがありましたよね
そこが重要なんです
つまり、本業が伸びなくなってしまったんですよ
だから、どこでも儲けを出さなくてはいけないということがあってですね、それと、さきほどの金融自由化の歪みが重なって財テクということが生じたんですね
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):企業は金融に走り、一方で素人は不動産に走ったというのが、いちばん、あの、シナリオですね
-----そのようにして、このバブルが生まれてきて、そのバブルがある時期、急激に膨らんでいきます
実はここにもワケがあります
-----ちょっとこちらをごらんください
さきほどVTRで観ましたオイルショックによる高度成長の終焉、金融自由化に加えて、もうひとつ大きなできごとが引き金となりました
それは、プラザ合意です
-----バブルの番人を果たすべき日銀の当時の幹部たちが、そのときの内情を明らかにしました
(バブル崩壊の構図)
-----なぜ、バブルは急激に膨らみ崩壊へと至ったのか
1980年代半ば以降の動きをごらんいただきました
-----日銀がバブルの警戒感を強めながらも利上げに踏み切れなかったと
そのことを、どうごらんになりますでしょうか、野口さん
野口悠紀雄(経済学者):金融緩和が行われてですね、そしてそれから脱却できなかった
これがひとつの大きな原因であることは間違いないと思います
構造的な要因があったと、わたしは思います
それは、日本の金融機関の問題なんですね
つまり、金融機関が資金の運用先を失ってたということなんですよ
つまり、日本の金融機関、特に銀行ですね
これは戦後の復興期、高度成長期を続けて、企業に設備投資の資金を供給する
こういう非常に重要な役割を果たしてきたわけですよね
しかし、高度成長が終わって、そういう資金の需要が無くなった
しかし、預金は入ってくるわけですね
で、従って、その資金を運用しなくてはいけない
で、それが、そのための、その運用先として、不動産というのが一番手っ取り早い、あの、対象だったんですね
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):わたしはね、むしろ、日本国内のね、雰囲気、そして、人口構造、そういったものがね、バアーっと盛り上げてきた、そういう感じがしましたね
-----日本の、中の
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):ええ
人口構造がね、ちょうど、団塊の世代が30代後半から40代になった
それで、管理職、窓際族っていわれたんですが、管理職になった
そしたらね、なんかやれと
お前もなんか考えろと
プロジェクトとかいっぱい作ったんですね
それで、なにもしなかったら、お前、無能やというので、なんか探して、ここに土地ありますよ、ここに、こういう債権ありますよ、なんか持っていくと
おそらく、日銀が0.5%ぐらい上げたとしても、公定歩合を上げたとしてもね、あのバブルは止まらなかったと
-----あの、そういう状況の中で、日本でとても大きなバブルが起きた、その、バブルの本質っていうのはなんだったと思われますか?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):アメリカと日本との時代の差
日本が製造業をどんどん伸ばしていて、アメリカが衰えてきた
まあ、それで輸出が伸びて日本は成長するとみんなに思われていた
それを日本はね、日本が強いからアメリカ市場に食い込めるんだと、こう、勘違いしてたんですね
1979年、アメリカで出版された Japan as No.1
日本の製造業の強さに注目が集まっていました
戦後、圧倒的な存在だったアメリカを抜いて、日本の自動車、そして半導体が、世界のトップに躍り出ました
一方、アメリカでは自動車工場の閉鎖が相次ぎ、製造業の競争力が低下していきます
このとき、アメリカでは製造業から金融や情報産業などへの産業構造への転換が始まっていたのです
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):1970年代の末から1980年代にかけて、アメリカで製造業、規格大量生産の製造業はダメだと
それまでね、技術の進歩というのは、大型化、大量化、高速化だったんですよ
なんでもね、大きなもの作ったらいい、それで、たくさん作ったらいい、そいで、早く作ったらいい
ところがね、1980年代になると、ぴたっとこの方向が停まって、これ、途端に、省エネルギー、情報化、そして、多様化の技術になったんですよ
野口悠紀雄(経済学者):世界経済の構造と技術が変化し始めたんです
このころは、まだわからなかったんですが、ですから、アメリカで製造業が衰退し、サービス産業が成長するっていうのが、それが正しい方向だったんです、今からみれば
金融の自由化っていうのはですね、さきほどの、市場が重要か組織が重要かといえば、市場が重要な経済に移りつつあるから、金利も自由化せざるを得なくなってきたんですよ
ですから、そういう意味では、世界史的な流れだったんですね
-----そこがバブルが起きていくことにも関係をしていたと
野口悠紀雄(経済学者):われわれの目には、アメリカ経済が弱くなったとしか見えなかったんです
特にアメリカに対して日本は非常に強くなったという考えは、だれでもが持っていたと思いますね
そういう考えが根底にあったために、地価が上昇しても株価が上昇しても、当たり前だというふうに考えられていたと思います
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):日本はこれから21世紀にかけて大成長する
だから、土地は上がる、株は上がるというような神話ができたんです
-----ははあ
さて、急激なバブルとその崩壊後、時代はいわゆる ”失われた20年” に入ってまいります
実は、世界はこのバブルと軌を一にして、大転換の時代を迎えていました
(バブルが最高潮に達した1989年、世界は激動の時代を迎えていた)
(ベルリンの壁崩壊)
(米ソ冷戦終結)
(広がる資本主義)
(韓国など新興国台頭)
三星精神(韓国の企業に勤める方が社訓を大きな声で暗唱する映像)
一 創造精神
一 道徳精神
一 第一主義
(中国資本主義経済へ参入 10 億人の労働力 世界の工場へ)
(日本では金融機関破綻相次ぐ)
(企業倒産時代)
(相次ぐリストラ 炊き出しに集まる人や路上生活者の様子の映像)
(非正規雇用拡大 ハケンの怒り 我慢の限界!等のプラカードを持つデモの映像)
(長引くデフレ 低価格帯の商品)
“失われた20年” は、こうして過ぎた
-----“失われた20年” を物語るひとつのデータをごらんいただきます
国家の経済規模を示す名目GDPです
日本のバブル崩壊後のGDPは、ほとんど変わっていません
一方、韓国は4倍、中国は16倍と、急激に成長していることがわかります
“失われた20年” 日本はどんな環境の変化に直面したんでしょうか
大手電機メーカーの会長が語りました
日本で60年以上続いた家電ブランドが、おととし、姿を消しました
大手電機メーカー、三洋電機です
世界に名を知られるブランドを消滅させるに至った電気メーカーの元会長、井植敏(83)さんが、引退後初めて、わたしたちのインタビューに応じました
井植敏(三洋電機 元会長):だから、なんか、三洋の文字がどっかに残っていないかなというふうにね、いつも思う、やっぱり
街の中、こう見渡しても、もう無くなってしまう、今まで目に入っていたものが無くなってしまうっていうのは、ものすごくさびしいということやわね
“失われた20年” と呼ばれる時代、経済成長を牽引してきた企業に、どんな試練が襲いかかったのか
三洋は、戦後まもない1947年、井植さんの父親で、松下幸之助の義理の弟にあたる井植歳男が創業
国産初の噴流式洗濯機を製造するなど、ユニークな技術開発で会社は急成長しました
社名を掲げたパビリオンを出した70年の大阪万博
人を丸ごと洗う未来の家電、人間洗濯機が話題となりました
世界のトップ企業をめざし、1986年、社長に就任した井植さん
しかし、その思いとは裏腹にグローバル競争の荒波にのまれていきます
1990年代、韓国の一企業からグローバル企業に変貌を遂げたのが、サムスンでした
イ・ゴンヒ会長(サムスン);すべての商品を安く良く早く作る
それができる企業が良い企業なのです
技術力を飛躍的に高め世界市場へ進出したサムスン
日本の技術者のヘッドハントが、それを加速させました
中国でも、のちに世界有数の家電メーカーとなるハイアールが台頭していました
井植さんが視察に訪れたのは、2001年
その直前まで、10年以上、このメーカーの存在に気づいていませんでした
井植敏(三洋電機 元会長):中国のハイアールと
ハイアールなんて、全然、知りもしなかった
はあ、こんなに、わたしらがね、ちょっと油断している間に、こんなに中国の企業は成長していったんだなと
なんでもっと早く、こういうことに気がつかなかったのかというのが、80年代のジャパン アズ ナンバーワン というのが、自分では意識していなかったけれども、やっぱり、どこかにあったのかなという反省をものすごくさせられたと
中国や韓国の台頭に、なぜ、気づけなかったのか
洗濯機の営業の最前線にいたひとり、三洋電機元社員、西澤正城さん(50)です
当時、日本企業は国内市場での戦いに明け暮れていたといいます
西澤正城(三洋電機 元社員):バブル崩壊前のやはり良かった日本市場、これがもう一回来るんだっていう、やっぱり、日本市場ありきで、ビジネスをやってましたよね
われわれも、とにかくコストをとにかく下げることばっかり、作る側も意識して、流通さん(家電量販店)は流通さんのほうでも、とにかく他者よりも安く仕入れなきゃならないということで、ほんとにもう、お互いに消耗戦を繰り返していたっていうのが、その(バブル)崩壊後の姿でしょうね
誰も得してないんですよね
熾烈さを増すコスト競争
そこから抜け出そうと、各メーカーは新機能の開発に舵を切っていきました
三洋は洗濯機の音や消費電力を抑える僅かな機能の差を巡って開発競争を続けました
西澤正城(三洋電機 元社員):結局、日本市場ありきなんですよ
で、グローバルスタンダードどうのこうのって、海外メーカーが2000年、2005年ぐらいですかね、ドーンっと来た時に、はい、日本の商品って持ってったら、「そんなのいりへんや、そんな機能」っていう商品ばっかりがあった
高い機能が、逆にグローバル競争の足かせとなりました
機能を詰め込んだ分だけ、中国、韓国に、価格で差をつけられていったのです
1993年以降の三洋、サムスン、ハイアールの売り上げの伸び率
三洋を尻目に、サムスンは5倍、ハイアールは90倍という驚異的な成長を遂げました
2000年代に入ると、アメリカシリコンバレーで進む画期的なテクノロジーが日本企業を追い詰めていきます
ITを駆使した技術革新です
これまでのものづくりの概念を大きく変えるものでした
アップルが市場に次々と投入する新商品が世界のスタンダードとなっていきました
(2004年)
スティーブ・ジョブス氏(アップル):なぜ iPod が存在し、アップルが市場を圧倒しているか考えてみましょう
携帯音楽プレーヤーを発明し、市場を牛耳っていた日本メーカーが、今の市場に適したソフトウェアを、作ることも考えることもできなかった
iPod はソフトウェアなのです
井植敏(三洋電機 元会長):日本の消費者は非常に厳しい “選択視” を持っておると
だから、日本で勝てるものは世界中にいけるという
それは、確かにハードウェアでは、そうであったんかもしれないけど、そこにシステムであるとかソフトウェアが絡んできたことによって、ものすごく変わっていったんだと思うね
だから、ハードウェアの時代のことを、自分たちは意識しすぎてしまっているのかもしれないね
海外で苦戦を強いられ、国内でも消耗戦に明け暮れた日本企業
三洋は大幅な人員削減を余儀なくされ、それが会社の体力をさらに削いでいったのです
井植敏(三洋電機 元会長):人を大切にしていくという日本企業であったのが、やっぱり、もっと効率化、効率化っていうほうに走っていきすぎてしまったという点もあったんだろうと思うのね
希望退職やらいろんなことをやったけども、結局、いい人たちから先に辞められてしまうわけであってね、それはたいへんなことになってしまうわね
2012年、三洋の洗濯機と冷蔵庫部門は、中国のハイアールに買収されました
西澤さんは、今、ハイアールの洗濯機部門のアジア統括として、グローバル企業の厳しさを痛感しています
西澤正城(三洋電機 元社員):まさか、僕、そこ(ハイアール)に行くとは思いませんでしたけどね
まあ、負けますわ
あのスピード感には、日本のメーカー
根回しとか、日本の、独特の、やっぱり、交渉術ですけど、こんなもの、グローバルスタンダードと違うんですよね
「答え、先、言え」っていう話ですよね
三洋は結局、パナソニックの傘下に入りました
三洋というブランドは、日本から消えました
井植敏(三洋電機 元会長):親父の戒名は「三洋院」(父上の墓参の様子と共に)
“失われた20年” なぜ、会社は生き抜けなかったのか
井植さんは引退した今も自らに問い続けています
井植敏(三洋電機 元会長):アメリカにね、追いつけ追い越せというね、そういう目標をみんな持ってたんやと思うのね
だけども、それが達成してしまって、ジャパン アズ ナンバーワン と言われたときに、でも、そのことがやっぱりもう、ひとつの終わりが来たんだと思うのね
ぼやくことというのは、自分たちが愚かだったということやからね
もう、そのグローバルスタンダードの中に日本は入っていく、日本の企業も入っていかなければならないということを言われているんだから、資本主義社会の中に入っていっているわけやから、それに合ったように、やっぱり、会社そのものを、どうして作り上げていくかということを考えなければならない
大転換を受けての激しいグローバル競争のなかで、多くの日本企業が苦戦を強いられてきました
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):このバブルが崩壊した1991年からね、そのころに、日本は世界生産のだいたい15%から16%占めていたんです
今、8%になっているんですね、世界生産の
その間に、中国は2%から10%ぐらいに膨れ上がっている
アメリカはね、25あったのが22で、踏みとどまっているんですよ
要するにね、日本の「ひとり負け」なんですね
-----ええっ?
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):低成長っていうことなんですけれども、何がそれを起こしていたかっていうとね、日本の、今、三洋電機の井植さんが仰ったようにね、日本の事業が、全部、遅いんです
日本は非常に丁寧にひとつずつ積み上げて、それで答えを出して、それからでないと動けない
これは官僚主導であり、企業のヒエラルキー(階級制度)でありね、そういったもので、がんじがらめで、なかなか早く動けない
ま、これが、今のスピードの時代に追いつかなくなった
これが大きな一つの問題ですね
-----はい
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):で、もうひとつは、バブルの処理がね、ものすごく遅れたんです
阪神大震災がやっとおさまったときに、山一とか北海道拓殖銀行が崩れて、もう、えらいことやと言い出して、そして結局、1989年、わたしが経済企画庁長官になったときにですね、なんとかせえ、と言われたんですよ
だからね、日本はその間、ずーっと、不良債権を銀行が積んで、そして、その不良債権の腐敗物を積んだ船団が護送船団方式で守られて、ずっと航海してた
これがね、日本が立ち遅れた一番の、始めの原因ですね
野口悠紀雄(経済学者:なぜ、この違いが出てきたかというと、アメリカは直接金融なんです
従って、問題があるとですね、資金が調達できなくなるんです
ですから、すぐに処理しないと潰れちゃうんですよ
でも、日本は間接金融(銀行などを通じて資金を調達する)なのでね、要するに、融資が続く限りは大丈夫なんです
だから、問題は隠せるんです
それは、金融だけではなくて、たとえば、今、議論しているような製造業についても、構造的に問題があるとわかっていてもですね、日本の企業であれば、銀行が融資している限り生き延びるんですよね、問題が先送りできるんです
-----世界の転換期、日本経済に、なにが起きていたんでしょうか
野口悠紀雄(経済学者:大きな変化は、中国が工業化したということなんです
で、なぜ、先進国の製造業が中国に勝てないのかという理由は非常に簡単でして、中国では賃金が低いからなんですよね
-----安く製品ができる
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):今まで発展途上国は、製造業できないと
規格大量生産の製造業はできないと言われていたんですよ
それがね、1980年代から1990年代にかけて、あっと言う間にできるようになった
それはなぜかというとね、まず、中国をやろうとしたのは、人がいても技術が無い、そしてお金が無いという、この3つが揃わなきゃいけないんですね
それで、お金もねえ、アメリカ金融自由化で、証券会社が手数料で食えなくなって、中国へ長期で投資する、投資銀行に変わった(アメリカの投資銀行が中国に資金)
アメリカのお金が中国にどっと流れてねえ、製造業をできるようにした
そして、技術の方はねえ、コンピューターが普及して、いっぺんに複雑な製造業ができるということになったんですねえ
これで、いっぺんに追いつかれたんですよ
野口悠紀雄(経済学者):で、従って、同じことやってはいけないんです
これは、1990年代以降の世界経済の大きな法則ですよ
中国の安い賃金を利用しなくてはいけないんですよね
で、さきほど、アップルが出てきましたねえ
ITを使ったっていう説明がありましたけれども、もちろん、それもそうなんです、それも第二の変化ですが、ただ、アップルは、製造面で中国を使っているんです
安い中国を使ってんです
だから、中国と競争しないで、中国を利用したんです
(アメリカ企業の新戦略)
-----あの、そこのところなんですけれども、アメリカ企業は、かなり頑張って踏みとどまっている
野口悠紀雄(経済学者):その理由は、スマートフォンという新しい機械を発明したんです
発明したことの価値です、それを設計したことの価値です
そして、それを売ると、ブランド力を用いていると
この両端だけで、やっているんです
そういう企業が、非常に高い利益率を出せるようになったんです
-----日本企業を巡るさまざまな問題点のご指摘がありましたけれども、実はバブル崩壊直後から、企業経営者も会社のありかたを巡る根本的な議論を始めていました
グローバル競争に負けないために、企業はどうあるべきか
バブル崩壊直後の1992年、企業経営者による議論が始まっていました
メンバーは経済団体のひとつ、経済同友会に所属していた16人
興銀、新日鉄、日産など、日本を代表する企業の経営者たちです
終身雇用、日本的経営、年功序列
宮内義彦(オリックス):国際競争力において出てくる問題は生産性である
生産性を上げるためには雇用に手をつけざるを得ない
牛尾治朗(ウシオ電機):終身雇用などの日本的雇用の維持にはコストがかかる
経済成長が3%以下とみられている1990年代においては維持できない
塙義一(日産自動車):経営環境が厳しいからといって終身雇用を一方的に廃止することは従業員との契約違反である
今井敬(新日鉄):今まで日本のやり方が果たしてきた良さは十分に認識すべき
企業の論理から終身雇用などの雇用形態を変えるのは企業の身勝手だと思う
日本的経営をめぐってぶつかった議論
経営者たちは、その後、グローバル経済の荒波の中で、さまざまな模索を迫られていきます
この議論で、日本的経営の見直しを訴えたオリックス元会長の宮内義彦さんです
利益を最優先に掲げる、いわゆるアメリカ的経営に転換すべきだと主張してきました
宮内義彦(オリックス シニアチェアマン):従業員を大事にするなんていうのは、まあ、経営者からいって、当たり前のことだけれども、企業の業績をものすごく悪くしてまでもね、最後まで従業員と共にいるということが、ホントの企業の存続にとっていいことか
やはり、企業というのは、経済活動で社会に奉仕するというのが企業だと思いますから、あまり社会的ないろんな要請を背負い過ぎると、本当の目的を忘れてしまう
ですから、そういう社会的要請をなるべく外してほしいという、それなら、アメリカ型だと言われるかもわかんないんですけども、どちらかというと、やはり、株主中心に効率を上げていくというのが企業の姿だと
アメリカ的経営では、なにより株主を重視し
・・・略・・・
製造業派遣の解禁提言
派遣切りをやめろー(デモの映像)
非正規雇用が拡大し、格差が広がったとの批判が相次ぎました
これに対し、宮内さんは、企業がより自由に競争できる環境が整えば、問題が解消していくと反論しました
宮内義彦(オリックス シニアチェアマン):規制改革をすれば格差が生じるって、ちょっと待ってくださいよと
全然、それは議論が違うじゃないかと
経済活動である限りは、お互いに競争する、切磋琢磨すると
お互いに努力して、よりいいものを作っていく、より安いものを作っていく、見たことも無いものを作っていくというね、そういう競争をして、経済のパイを大きくするのが、われわれ企業の仕事だと思うんです
われわれは生産側なんです
生産側は(生産を)最大に大きくすることが、ぼくは社会にとってプラスだと思うんです
しかし、2008年、宮内さんの信念を揺るがす事態が起きました
世界を巻き込んだ金融危機、リーマンショックです
機関投資家などの株主が、宮内さんの会社の株を、突然、売り浴びせ、株価が急落
目先の利益を追う株主に愕然としたといいます
宮内義彦(オリックス シニアチェアマン):あのときの、機関投資家の行動ですね
あれを見ますと、本当にがっくりきますね、ええ
わたくしは、会社のオーナーとしての株主というものが、現在のように機関投資家がほとんどであり、なおかつ、機関投資家はファンドマネージャーという成績に基づいて評価される人によって運営されているということが続くとですね、この、資本主義の本当のシステム、長期的なビジョンとかというものは崩れていきはしないかと
だから、逆いうと、経営者が株主のために仕事をするのでなく、経営者が会社を株主から守らなきゃいけないなと
株主の不評を買ってでもね、先行投資するならするという勇気を持たないとね、いけないと
1年にわたる議論で、日本的経営を守るべきだと主張した経営者のひとりが、わたしたちの取材に応じました
新日鉄の社長をつとめ、さらに経団連会長を歴任した今井敬さんです
今井敬(新日鉄住金 名誉会長):やっぱり、その、会社にいて働けばね、賃金は増えると
それで、豊かになると、そういうことで、終身雇用とかね、それから、ベースアップとかね、そういうのは当然だったわけです
これは、雇用する者の責任だということで、ぼくらは理解してましたから
ステークホルダー(利害関係者)の中でお得意さん、これはもう当然、大事でしょ
それから、地域、これもやっぱり、そこで仕事をしていくには大事でしょ
で、あとはね、株主と従業員なんですよ
やっぱり、企業が勝ち残ってね、いくために、一番大事なものを大事にすると
株主ではないと思います
株主はイヤになったら売っちゃうわけですから
しかし、今井さんは雇用を重視する日本的経営を維持していく難しさに、次々と直面していきました
バブル崩壊まもない1993年、今井さんは、新日鉄の社長に就任
人員削減をしなければならない事態に陥りました
急激に進んでいた円高などによって、業績が悪化していたのです
やむなく下した7000人規模の人員削減
それでも今井さんは、社員の生活を守ろうとしたと語りました
今井敬(新日鉄住金 名誉会長):どういうふうに、この、解雇しないでね、60(歳)までの、ぼくらが約束してた賃金をですね、払っていけるかが、最大の関心事だった
よそに出向してもらってね、そうすると賃金、下がるんですよ
で、その分を、ぼくら会社から補填すると
会社で雇用者を維持することはできませんでしたけども、少なくとも収入の面では、迷惑をかけないようなことを、ありとあらゆることをやりました
金融機関の破綻が相次いだ1998年、今井さんは、財界トップである経団連会長の重責を担います
雇用を守るには、企業の形を大胆に変えてでも競争力を高める必要がある
今井さんは企業の合併や統合を後押しする制度改革を、国に働きかけました
今井敬(新日鉄住金 名誉会長):結局、個々の会社単位じゃなくて、会社対会社、つまり、業界のこれの合併とか、そういうことで生産性をあげようと、そういうこともやってもらったんですね
ですから、非常にね、僕は、“失われた20年” とか “30年” という言葉、大嫌いなんですよ
失われてはいないんですよ
日本のこれからの発展の基礎を作ったと
こういうふうに解釈しているんです
-----今も、経営者たちが模索し続けているという状況を、どうごらんになりましたか?
野口悠紀雄(経済学者):今のVTRの中で、経営者の方々が議論していたことはですね、結局、こういうことなんですね
つまり、雇用を維持するっていうことは、はたして、私企業としての義務なのかどうかということですね、まず
そして、その、従業員の利益が重要なのか、株主の利益が重要なのか、どっちなのかということを、まあ、議論されていたわけですよね、いろいろ立場も違う方がいらしたわけですが
世界は変わったわけですよね
そういう中で、たとえばですよ、仮に、雇用の維持が重要だと考えたにしても、果たしてそれが実現できるのかどうかという問題があるわけですよね
理想は、どっちがいいかってことじゃなくて、条件が変わったときに、それを実現できるかどうか、そこが問題なんですよ(経営者に求められている変化)
かわるビジョンが何か、それを考えるのが、わたくしは、経営者の役割だと思うんですね
つまり、言い方を変えると、条件が大きく変わった場合の、新しい企業のビジネスモデルは何か、そして、それを実現するために、従業員にどれだけの痛みを許してもらえるか
そういうことを考えながら、企業の形を変えていく、それが、わたくしは、今の日本の企業の一番大きな責任だと思いますね
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):経営者とかね、政治家とかいうんじゃなしにね、日本国民が大転換しなきゃいけない
それはね、新しい倫理観をつくるということだと思うんです(新しい価値観を)
江戸時代の倫理観は天下泰平、社会の安定が大事でした
それが、明治時代になって、富国強兵、殖産興業ということに変わる
そして、戦後はね、豊かさと安全と平等ということに変わっていく
で、今度はね、新しい次の3番目の日本は、楽しい日本、豊かさを競うんじゃなしにね、新しい価値観、楽しい日本を目指すようなね、日本にしなきゃいけない
それは、幸せの尺度を変えることだと思うんです
-----あの、2回にわたってですね、この国の経済の70年の歩みを見てきたんですけども、これからを考えますとですね、人口減少社会に入っていっていまして、特に働く年齢の人たちが減っていきます
こういうなかで、どうすれば、わたしたちは本当の豊かさを実感できるのか
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):日本の経済構造が全く変わりましてね、労働力不足で土地余りになってくる
そういう社会を想定しなきゃいけない
わたしたちは、ずっと、土地は足りない、人は多いという社会で生きてきたんですが
-----これまで
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):はい
これをね、今度は、土地は余っている、過疎地帯がいっぱい出てくると
だけど、人手は足りないと
こういう社会はどうしたらいいかという問題なんですね
野口悠紀雄(経済学者):さきほど、企業にとって、雇用の維持が重要だと言いました
確かに、これまではそうだったんです
しかし、そのことはですね、実は、今の日本で、大きく変わろうとしているんです
つまり、それはですね、労働力人口が減少しているんですね
その反面で、高齢者人口が増加してんです
従って、経済全体の構造が大きく違います
これはですね、要するに簡単にいえば、人手不足経済に陥るということです
180度、転換したんです、もう、既に転換しているんです
労働供給の減少が問題なんです
今後の日本が直面する問題はそれです
-----そうすると、何が問われてくる?
野口悠紀雄(経済学者):そういう条件のもとで、日本が、経済が成り立つためには、生産性の高い産業ができなくてはいけないんです
それによって、全体の生産性を維持しなきゃいけない
ですから、今、アメリカの経済統計をみますとね、サービス産業のなかでも、小売りとか金融なんかと並んで、高度専門技術サービスとかですね、そういう分類ができてんですよ
そこが成長しているんです
そういう意味では、これまで、製造業とか第2次産業、サービス産業は第3次産業といっていましたけれど、まあ、その中間みたいなものだといってもいいですよね
だから、今、2.5次産業っていってもいいんでしょうねえ
で、アメリカで成長しているのは、実は、ここなんです
製造業でもないし、従来のサービス産業でもありません
その典型が、グーグルです
グーグルってのは、何をやってるかっていいますと、広告業ですね
検索エンジンっていう、非常に高度の技術があって、リンクした形で広告を出してるからなんです
ですから、そういう意味でいうと、製造業に近いといってもいいと思うんですよね
そういう意味でいうと、グーグルも2.5次産業ですね
-----新しい枠が…
野口悠紀雄(経済学者):新しい枠が、日本人の能力っていうのは、決して劣っていないので、要するにそのための環境ができてないんですよ
だから、それができればですね、日本というのは、また大発展できるというふうに、わたくしは信じています
-----今まで、わたしたちは、その、何度も転換点にさしかかって、それに気づかず、あるいは対応が遅れるっていうことをずっと見てきましたよね
今も、ものすごく大きな転換点
野口悠紀雄(経済学者):ものすごく大きな転換点
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):今こそね、もう、最終的転換点
これから10年経って、団塊の世代が後期高齢者になったらね、もう、日本はね、沈むしかないんですよ、このままで行ったら
-----転換のエネルギーが残っていない?
野口悠紀雄(経済学者):最後のチャンスということ
堺屋太一(作家 元経済企画庁長官):ラストチャンス
野口悠紀雄(経済学者):そうだと思います、わたくしも
今が最後のチャンスだと思います
堺屋太一:ここ数年が最後のチャンスです
日本が熱狂したあのバブルから30年
バブルのリスクを孕む金融緩和は、世界中に広がり、膨張するマネーをいかにコントロールするかが、今、問われています
桂木明夫(リーマン・ブラザーズ証券 日本法人 元社長 62):バブル、ミニバブルが起きて、それがはじけるのは資本主義である以上、もうしょうがない
金融緩和が行われていくとなると、いい意味ではマーケットが上がっていくけれども、一方で下がるリスクという負のリスクが高まっていくんだと思うんですね
まあ、それが、やはり繰り返されているということだと思うんです
人口減少が加速する日本、豊かさをどう掴むのか
先月(2015年4月27日)、経済同友会の代表に就任した三菱ケミカルホールディングス会長の小林喜光さん(68)
小林喜光(三菱ケミカルホールディングス会長 経済同友会会長):日本は財政悪化や人口減少などを考えますと分岐点ではなく、崖っぷちに立っているという認識をすべきだと思います
小林さんが掲げるキーワード、それは持続可能性です
収益、技術開発という従来の軸に加え、人口減少、地球環境の悪化など、迫りくる危機に立ち向かうために、持続可能性を重視した経営を模索しています
小林喜光(三菱ケミカルホールディングス会長 経済同友会会長):今の時代に最も要求されているのは、サスティナビリティー(持続可能性)
環境問題も含め、ありとあらゆるものが、次の世代、次の世代に向かって、悪いものを残さないっていう、模索の時代だと思うんですよ
非常につらい
で、それは、単純に今までモノを作り儲ければいいってんじゃないだろう
社会はこういう方向で今後動いていくであろう、であれば、こういう手を打たなきゃいけないという、まあ、そういう時代に、ぼくに限らず、みんな同じことで悩んでいるということじゃないかと思うんですよ
70年前、戦争の焼野原から立ち上がった日本
明日は今日よりも良くなる
力を合せて奇跡の成長を成し遂げました
その後の長い混迷の時代にも、わたしたちは数々の苦難に立ち向かってきました
日本人が築き上げてきた戦後70年
未来に踏み出すための、道しるべです
2015/5/31 2100-2215
-----バブルの番人を果たすべき日銀の当時の幹部たちが、そのときの内情を明らかにしました
2017年10月29日 19:15
https://tokumei10.blogspot.jp/2014/08/blog-post_43.html?showComment=1509272151891#c9139062558158629851
の次に、以下の2件が挿入されます。
送信時のトラブルです。
なお、省略された箇所が存在する理由は、音声が壊れて内容が採取不能、特に意味をもちません。
いち早くバブルを察知しながら、バブルの膨張を許してしまったという日銀元幹部が取材に応じました
1980年代後半、日本銀行の理事だった佃亮二さん(81)です
国内外の経済情勢が激しく変化するなかで、対応が後手に回ったと当時の心境を初めて語りました
佃亮二(日本銀行 元理事):俺たちは、バブルの戦犯だなあと
なんであのときに、きちっとしたことを言えなかったかねという話を、今だからだけど、話してますよ
バブルの引き金とされるプラザ合意
1985年9月、アメリカが求めるドル安を先進5か国が協調して目指すことを決めました
背景にあったのは、当時、巨額に膨れ上がっていたアメリカの貿易赤字です
とりわけ深刻だったのは日米貿易摩擦でした
アメリカでは自動車などの輸入が増大(アメリカの市民が日本車をぶち壊す当時の映像)
批判が強まっていました
そのため、日本に対して円高誘導、そして、金融緩和を求めたのです
アメリカにとって円高が進むことは、日本からの輸入価格の上昇につながり、輸入を抑える効果が期待できます
そして、円高が定着したあと、日本が金融緩和を行えば、国内の資金量が増え、景気が刺激されます
すると、日本へのアメリカ製品の輸出も拡大できるという狙いです
プラザ合意の当事者、アメリカの中央銀行、FRB元議長のポール・ボルカーさん(87)
当時の日本の強さを語りました
ポール・ボルカー(FRB元議長のポール):日本は強大な経済大国でした
ナンバーワンだった
日本の産業には、この時期、競争力でも効率性でもアメリカは太刀打ちできませんでした
世界一のアメリカが、日本に追い越されてしまう事態だったのです
アメリカの要求を日本は受け入れざるを得なかったと、交渉にあたった大蔵省、元財務官の大場智満さん(86)が打ち明けました
大場智満(大蔵省 元財務官僚):日本はね、アメリカの核の傘の下だと
日米同盟でね、日本の経済力が強くなってきたのもね、アメリカの軍事力が、まあ、日本をカヴァーしてくれているからだということは、ぼくは、もう、じゅうぶん、わかっているわけですよ
だから、まとめなければいけないというのは、非常に強く思っていましたね、うん
プラザ合意から4ケ月が経った1986年1月、日銀は金融緩和に動き出します
手段は公定歩合の引き下げ
1月(4.5%)、3月(4%)、4月(3.5%)と立て続けに金利を下げました
日銀が銀行に貸し出す際の金利、公定歩合
これを引き下げる利下げを行えば、銀行に資金が流れやすくなり、市場の資金の量が増えていくのです
「この1年間に1平方㍍あたり67万円余だった土地の価格が133万円とほぼ2倍になりました」
「異常な上がり方です」
(1986年 NHKニュース)
短期間に繰り返された利下げ
銀行による不動産業への融資が拡大し地価の上昇が加速していきました
(東京都調べの東京商業地の地価上昇のグラフ)
日銀のなかで、バブルへの警戒感が強まり出したのは、このときだったと、当時、理事だった佃さんは語りました
佃亮二(日本銀行 元理事):かなり目立って、金融機関の行動が積極化してきたなと
少なくとも、これ以上、公定歩合を下げる必要はないというのは、まあ、あの、われわれの、共通した認識、行内の、共通した認識だったと思うんですよね
しかし、不動産業への異常な融資の動きに気づきながら、日銀はこのあとも利下げを続けていくことになります
それは、なぜか
プラザ合意を受けて進んだ円高
1ドル240円台だった円は、1年経った1986年9月、150円台まで進んでいました
これが日本国内の輸出産業を直撃します
いわゆる円高不況です
宮澤大蔵大臣がアメリカに飛びました(1986年9月5日)
アメリカ、ベーカー財務長官(当時)に、これ以上、円高が進まないよう協力を求めるためです
急遽行われた日米蔵相会談
しかし、ベーカー財務長官(当時)は、アメリカが期待するほど貿易赤字は減っていないことなどを理由に、その場で回答しませんでした
逆に、日本に対し、要求を突き付けました
そのひとつが、さらなる利下げでした
対応を迫られた日銀
さらなる利下げは回避すべきとの声があがりました
その中心にいたのが、日本銀行生え抜きの副総裁、三重野康さんでした
生前、三重野さんが政策運営の実状を語った内部資料(三重野康氏オーラルヒストリー)
を情報公開請求で入手しました
決定権のある大蔵省出身の澄田智総裁に進言した際の詳細が明らかになりました
利下げはすべきではないと時間をかけて説明していました
三重野康(日本銀行 元総裁):都心の地価の上昇ももちろんすごい、貴金属とかそういうものを見ても、マネーゲーム的な動きがさらに少しずつ大きくなりつつあるわけだから、国内の経済情勢からみて、公定歩合の引き下げは不可だ
(三重野康氏オーラルヒストリー)
しかし、1か月後の1986年10月31日
澄田智日本銀行総裁(当時):金融政策面でも、もう一段の金利の引き下げをはかることが
先行きの内需拡大、内需振興にとって、より有効である
澄田総裁は再び利下げに踏み切りました
同じ日、大蔵省のトップである宮澤大臣が、ベーカー長官と同意した共同声明(「宮澤・ベーカー共同声明」)を発表
円高の進行を抑えていくことで、アメリカの合意を取り付け、その代わり、利下げを行ったというものでした
宮澤蔵相(当時):「これ以上の円高はない」ということについての合意ということですね
共同声明に利下げを盛り込むことは、日銀生え抜きの三重野さんには、知らされていなかったといいます
三重野康(日本銀行 元総裁):われわれは、こんなこと知らないです
宮澤さんと澄田さんがどういう話をしたのかよく分からないんですね
どっちにしろ、国内的な要因で(公定歩合を)下げたというよりは、対外的な配慮で下げたわけです
(三重野康氏オーラルヒストリー)
その後も、日銀による利下げは行われました
(1986年11月、公定歩合 3%)
1987年2月、公定歩合は戦後最低の水準(2.5%)まで低下しました
銀行からの不動産融資に一段と拍車がかかり、東京の地価がさらに上がっていきました
地価の上昇は郊外にも広がりました
日銀の理事たちの間で、ひとつの議論が持ち上がっていました
早く、利上げに転じるべきではないか
しかし、その矢先、1987年10月、ブラックマンデー、ニューヨーク市場を株価の大暴落が襲いました
株価が下がり続けて止まらない(ニューヨーク証券取引所の当時の映像と音声の翻訳)
株価急落はアメリカから日本、そして、世界へと伝播していきました
ここで、景気を冷やす利上げに踏み切れば、再び金融市場の混乱を引き起こしかねない
利上げの気運が一気にしぼんだといいます
佃亮二(日本銀行 元理事):がらっと変わってしまいましたね
あのブラックマンデーでね
それで、こと、公定歩合に関する限りは、ぱったりと腰が抜けたように、そうした議論が行われなくなったと
結局、日銀は、2年あまり利上げを行いませんでした
ようやく、利上げに動いたのは、1989年5月(3.25%)
その間、バブルの膨張は続きました
熱狂のまま年末を迎えた東京証券取引所
株価は3万円を突破していました
(1989年12月29日 東京証券取引所大納会の映像)
戦後、日本で続いた高度成長の終焉
アメリカを起点に世界で進んだ金融自由化
そして、プラザ合意後の金融緩和
その折り重なり(高度成長の終焉 金融自由化 プラザ合意)のなかで、バブルは極限を迎えたのです
年が明けた1990年1月、株式市場で異変が始まりました
株価が下落に転じたのです
財テクを進めてきた阪和興業の北社長(当時)、巨額の損失を出し辞任しました
会社はその後、本業への回帰を掲げましたが、経営の立て直しに8年の歳月を要しました
山一證券 社長(当時):わたしが悪いんであって、社員は悪くありませんからっ
(山一證券 社長会見 1997年11月)
顧客獲得に明け暮れ、ニギリを拡大させた山一證券
損失隠しを続け、自主廃業に追い込まれました
行平からの指針
① 客とトラブらないこと。訴訟…
② 粛々と引っ張れ
③ 担当営業マンの責任にしない
(内部の記録の拡大画像)
問題の先送りを続けた経営幹部の責任は重い
元副社長は、そう語りました
石原弘康(山一證券 元副社長);経営方針の本当の根幹を徹夜してもディスカッションするとか、琴線に触れても、思い切って発言して(社長に)直言するとか、そういう後悔はものすごく残っている
あれだけのことになるんなら
なんとなく中途半端で、なんとなくその流れの中で、なんとかうまくやっていこうという、こういう判断がね、結果的に一番悪い結果になってしまった
地下も急落していきました
日銀の利上げ、さらに大蔵省による不動産融資の総量規制で、銀行の姿勢が一変しました
一時は7000億円まで資産を膨らませた麻布建物の渡辺喜太郎さん
バブル崩壊で、会社は破綻に追い込まれました
渡辺喜太郎(麻布建物 元社長):ジェットコースターみたいなもんだよ、ダァーッって上がってさ
で、ある日、銀行が急に蛇口をバチッと閉めるから、ガサーァツと落っこちるわけ
いやあ、そんとき、イヤですよ、イヤですよ、ものすごくイヤ、
公定歩合引き上げのタイミングを逃し、バブル膨張を許した日銀
国内外の経済情勢に翻弄され続けた日々を、日銀の元理事は、今も問い続けています
佃亮二(日本銀行 元理事):その当時に、理事を一緒にやっていた男は、ときどき、酒を飲むんだけど、「おい、俺たちはバブルの戦犯だな」と
やっぱりあのとき、やるべきことはやらなければいけなかった
それがやれなかったと
そのことが非常に残念だという以外にないですね
>大場智満(大蔵省 元財務官僚):日本はね、アメリカの核の傘の下だと
日米同盟でね、日本の経済力が強くなってきたのもね、アメリカの軍事力が、まあ、日本をカヴァーしてくれているからだということは、ぼくは、もう、じゅうぶん、わかっているわけですよ
だから、まとめなければいけないというのは、非常に強く思っていましたね、うん
Computers, Inc.: Japan's Challenge to IBM on JSTOR
https://www.jstor.org/stable/j.ctt1tfjc49 -
This account of efforts to build a domestic Japanese computer industry is enlivened with quotations from industrial ... Japanese users were eager to purchase these computers and thus flooded MITI's office with applications to import them.
Industry And Trade Summary: Computers, Peripherals, And Computer ...
https://books.google.co.jp/books?isbn=0788115405 -
Julie Throne - 1994
Table 7 Computer hardware products: U.S. imports for consumption, by principal sources 1989-93 (Million dollars) Source ... Products from the United States account for 78 percent of Japan's total computer hardware imports.156 IBM's long ...
Japan and the Internet Revolution - 23 ページ - Google
https://books.google.co.jp/books?isbn=1403990077 -
K. Coates, C. Holroyd - 2003 - Business & Economics
puter, MITI was able to strongly encourage Japanese companies who wished to buy a foreign computer to buy a Japanese ... Although many firms and even some government offices lobbied for permission to import IBM computers, MITI only ...
米帝様に承認されることが、とてつもない喜びとなる一種の**
原爆資料館本館の展示内容 検討
Tue, 07 Nov 2017 16:40:05 +0900
来年7月の本館の再オープンにあわせて原爆資料館では展示をリニューアルしますが、その内容を検討する会議を7日に開き、被爆後の惨状をより伝えるため、入り口に全身に大やけどをした人の大きな写真を展示するなどの方針を示しました。原爆資料館では来年7月にリニューアルされたあとの本館のあり方について、遺品の展示を増やすなどして被爆の実相をより伝えていきたいとし、専門家を交えた検討会議の議論を踏まえて展示内容の検討を進めています。7日、広島市中区で開かれた会議では主に壁面に展示する写真の内容について議論が行われました。このなかで資料館の担当者は、全身に大やけどをした被爆者の大きな写真を入り口に展示するほか、ひん死の状態で救護所に運び込まれた人の写真を集めたコーナーを設けるなどして、被爆後の惨状をより伝えていく方針を示しました。また、被爆者が原爆投下直後の様子を描いた絵をあわせて展示することで写真で伝えきれない部分を補っていくと説明しました。出席した委員からは、悲惨な写真を見ることができない子どもへの配慮が必要だとか、写真で紹介した人のその後についての情報も加えた方がいいという意見などが出されました。会議のあと、原爆資料館の志賀賢治館長は「一人一人の苦しみが分かる資料を選びたいというポイントは理解してもらえた。議論を整理してもう1度、意見を聞きたい」と話していました。
20171107/5316561.html
生々しさの演出を超えた歴史の理解と活かす教訓
折鶴を象徴として導くことができる意味とそれを超えた智慧
日本人も日本人に対しても、それ以外の地域の人間に対しても、とてつもなく残酷だった事実も併せて伝える工夫をしたらよい
足利学校で孔子をたたえる儀式
11月23日 14時57分
日本で最も古い学校として知られる栃木県足利市の足利学校で、中国の思想家孔子の功績をたたえる「釋奠」という儀式が行われました。
儒学など中国で生まれた学問が教えられた足利学校では、孔子や弟子たちの功績をたたえて、100年あまり前から「釋奠」という儀式が行われています。
23日は、地元の保存会のメンバーなどおよそ30人が、雅楽が奏でられる中、孔子の像の前にひとりひとり歩み出て、米や野菜、魚などの供え物をささげました。
そして、代表者が「孔子の教えは、東のわが国にまで及び、慈しみは私たちの子孫にまで伝わるものです」という内容の祝文を読み上げました。
きょうの足利市は、あいにくの雨模様でしたが、市民などが集まり、厳かな儀式を見守っていました。
史跡足利学校釋奠保存委員会の間宵勉会長は「足利の歴史を感じながら、伝統を守っていくことが大事だと思う。学問のまち足利として、若い世代にもつないでいきたい」と話していました。
shutoken-news/20171123/0004022.html
「孔子の教えは、東のわが国にまで及び、慈しみは私たちの子孫にまで伝わるものです」
Q&A | Japan's Wartime and Postwar Periods Recorded
https://www.jacar.go.jp/english/glossary_en/tochikiko-henten/qa/
You can search maps for documents related to repatriation of civilians and troops of the army and navy deployed overseas at the conclusion of the Second World War.
科学者や技術者は軍事研究ばかりしていたの? | Japan's Wartime and ...
https://www.jacar.go.jp/english/glossary_en/tochikiko-henten/qa/qa33.html
そんなことはありません。戦後、役立ったり高く評価されたりした研究もたくさんあります。 戦前戦中期の科学技術というと、ゼロ戦(零式艦上戦闘機)や戦艦大和などの軍事技術ばかりを思い浮かべるかもしれませんが、そのような兵器開発とは直接に結びつかない様々な研究がおこなわれていました。 戦前および戦中期における科学技術の一例として、日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹の研究、抗生物質ペニシリンの開発、コシヒカリの育成の3つを紹介します。 湯川秀樹は、1929(昭和4)年に京都帝国大学 ...
>大場智満(大蔵省 元財務官僚):日本はね、アメリカの核の傘の下だと
日米同盟でね、日本の経済力が強くなってきたのもね、アメリカの軍事力が、まあ、日本をカヴァーしてくれているからだということは、ぼくは、もう、じゅうぶん、わかっているわけですよ
だから、まとめなければいけないというのは、非常に強く思っていましたね、うん
2017年10月30日 8:19
I’ll talk to Prime Minister Abe of Japan and others — great guy, friend of mine — and there will be a little smile on their face. And the smile is, “I can’t believe we’ve been able to take advantage of the United States for so long.” So those days are over.
Issued on: March 22, 2018
>両角良彦(元通産相事務次官 95):誰だって日本を一流国にしたいと
戦に負けた、それを、その負担を、あるいは、その恥を、元に戻したい
あるいは取り返したいと
そういうことはね、無意識のうちに、みんな、そこに、あるわけです
我々にとって一番くるのは、やはり、工業力でやれることはやろうじゃないかって
なぜかっていうと、それは、やはり、日本人にはそういう能力があるんですよ
Journal of the Social and Economic History Society
books.google
学術研究会議の研究班が動員の対象としたのはまさしく科学研究であり,その中心となったのは文部省所管の教育研究機関の ... 設立された学術研究会議は,国際学術 協力機関である万国学術研究会議(後,万国学術協会会議に改称)の日本支部として, ...
2006
Forgiveness is always possible
憎しみ鎮める努力、 重要 米代表として初の被爆地訪問~ルース前駐日大使に聞く
2014年08月08日(最終更新 2014年08月08日 13時57分)
「原爆の日」に米政府代表として初めて広島、長崎の式典に出席したジョン・ルース前駐日米大使(59)が、西日本新聞などのインタビューに応じ、出席に至った背景などについて語った。ルース氏は被爆地の公式訪問が自らの考えだったとし、米国に対する被爆者の「憎しみを鎮める努力が重要だ」と述べた。 (ワシントン山崎健)
‐広島の式典には2010年、長崎の式典には12年に初めて出席されました。
「2009年8月の着任後、家族とともに初めて広島に行きました。被爆地の広島、長崎には以前から強い関心があり、実際、広島で私たちは心を揺さぶられました。そこでもっと公式な形で広島、長崎を訪問しようと決心したのです」
‐国務省からは反対されなかったのですか。
「オバマ大統領が最優先課題に掲げる『核なき世界』の実現に貢献できると確信していました。大統領も全面的に私を支持してくれ、出席の決定は難しいことではありませんでした。米国内からも非常に肯定的な反応が寄せられました」
‐実際に式典に出席して何を感じましたか。
「私が席に着くと、被爆者や遺族の方々が拍手で迎えてくれました。あれほど胸を打たれた瞬間はありません。終生忘れることはないでしょう。式典後、皆さんと面会し、原爆の歴史を世界が学び、決して忘れないことが重要だと再認識しました」
‐原爆投下をめぐっては米国人と日本人の歴史観に違いがあります。
「大切なのは過去から学び、原爆の悲劇を繰り返さず、核廃絶を実現する方法を見いだすことです。米国は原爆を投下した唯一の国であり、日本は唯一の被爆国。両国が役割を担い、可能なことを積み重ねていくことが必要だと考えます」
「私の式典への出席は日本の皆さんにとって非常に重要なことのようでした。被爆地には行かず、『未来志向の関係を築こう』と口だけで言うのが最も簡単な対応でしょうが、(米国に対する被爆者の)憎しみをできる限り鎮める努力も重要だと私は思うのです」
‐オバマ氏は任期中に被爆地に行くでしょうか。
「大統領は『任期中に広島、長崎を訪問する機会を持つことができれば光栄なことだ』と語っています。タイミングなどの問題もありますが、大統領は明らかに訪問することを望んでいると、私は思っています」
× ×
米サンフランシスコ出身。法律事務所を経営する弁護士だったが、2008年の大統領選でオバマ氏を支援。09年8月から13年8月まで駐日米大使を務めた。現在は故郷に戻り、企業コンサルタント会社を経営している。
=2014/08/07付 西日本新聞朝刊=
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/106596/
元駐日大使が東芝議長支持 米国のルース氏声明 - 産経ニュース
https://www.sankei.com › 経済 › 産業・ビジネス
4 日前 — 元駐日米大使のジョン・ルース氏は19日までに、東芝が昨年開いた株主総会の運営を巡り一部株主から辞任を迫られている東芝の永山治取締役会議長の続投を支持する声明を出した。ルース氏は永山氏とともにソニー(現 ...
「前向きな変革の代理人」…元駐日米国大使、東芝 ... - 読売新聞
https://www.yomiuri.co.jp › economy
4 日前 — ルース氏は永山氏と同時期に、ソニー(現ソニーグループ)の社外取締役を務めたことがある。 声明は、永山氏を「現状維持の守護者ではなく、前向きな変革の代理人だ」と評価。東芝の議長として「多くの企業統治や事業 ...
ソニー取締役に前駐日米大使のルース氏ら: 日本経済新聞
https://www.nikkei.com › article
2014/05/13 — 前駐日米国大使のジョン・ルース氏、元経済産業事務次官の松永和夫氏、三井住友フィナンシャルグループの宮田孝一社長ら5人が新たに取締役に就任する ... ソニーの吉田憲一郎最高財務責任者(CFO)や東レ・ダウコーニングの桜井恵理子会長. ... 東芝社外取4人が声明、会社側の取締役候補リストに異議.
かすり傷でもなく軽症でも重症でも重体でもなく
しかも巻き添えをくう人さえおらず
外れないどころか急所
今回、巣食いざまがすべて明るみに出るわけではない
1995年(平成7年)3月20日
巣食いざまがすべて明らかになったわけではなかった
冒頭で引用元されていた記事
もう、今では、読めない
https://tokumei10.blogspot.com/2014/08/blog-post_43.html?showComment=1624424302815#c2948485773443267801
ここにしか、残っていない
歴史的な出来事だったのに
生まれてきた時期のちょっとした差で
大切な節目の発言までもが下水道って
はかない
まー、いつの時代も、そういうものね
nii.ac.jp
https://toyo.repo.nii.ac.jp › ...PDF
田中清玄と中東 東京大学法学部附属近代日本法 政史料センター所蔵文書の分析を通して
キーワード: 田中清玄,中東,アブダビ,民間外交,エネルギ- ... とはいえ,1960年の安保では田中は反日共系. 全学連に資金援助を行い,その主流派幹部の世.
jcp.or.jp
https://www.jcp.or.jp › akahata › aik4
ニセ「左翼」への「泳がせ政策」とは? - 日本共産党
2006/09/21 — この国会突入は、職業的反共右翼の田中清玄の指導のもとで唐牛 ... 集団に対しても同じである」と証言し、暴力集団への資金提供を正当化しています。
isis.ne.jp
https://1000ya.isis.ne.jp › ...
田中清玄自伝 - 千夜千冊
2006/02/21 — 60年安保のときに全学連に巨額の資金を提供したらしい。石油危機のときにはアメリカの意向にさからって中東の石油を日本に持ちこんだ。禅僧の山本玄峰や ...
ismedia.jp
https://jbpress.ismedia.jp › articles
安保闘争から50年、学生が動けば社会は変わる - JBpress
2010/06/17 — そのために全国で580万人が安保反対のデモに参加しました。 そのほかに特筆すべき勢力として、田中清玄*1がいたと思いますが、どういう形で絡んでいた ...
jnpc.or.jp
https://www.jnpc.or.jp › interviews
頬白き若者たちの戦い もう一つの60年安保 | 取材ノート | 日本記者クラブ JapanNationalPressClub (JNPC)
「安保闘争」という日本の政治と社会を揺さぶった現象を、60年安保では学生 ... 後に全学連の唐牛健太郎委員長に、右翼の田中清玄氏から金が流れていたと暴露されたが ...
文藝春秋 - Volume 85, Issue 11 - Page 95
books.google.co.uk
2007 ·
訳もわからず「アンポ、ハンターイ」と口真似をしたという幼き日の安倍総理も、命をかけた政治家の気迫というものを、実感をもって知っているはずだ。だが、今日までの安倍政権の運営をみると、「千万人といえども吾ゆかん」という気概が不足していたの ...
学校で教わらなかった 日本史「その後」の謎
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雑学総研 · 2016
そのとき、私邸で遊んでいた晋三は、デモ隊のシュプレヒコールを真似て「アンポ、ハンターイ!」と足踏みした。晋一二の父である安倍晋太郎は息子のそのような行動を見かねて「『アンポ、サンセイ』といいなさい」ととがめたが、岸は孫を叱ることもせず、 ...
Aera - Issues 790-802 - Page 26
books.google.co.uk › books
2003 ·
そのころ、晋三はまだ 5 つ。洋子に連れられて安保反対のデモ隊に取り囲まれた岸邸を訪れると、デモ隊のシュプレヒコールのまねをして「アンポ、ハンターイ!」と座敷の中を駆け回るので困ったと、洋子は語っている。めったに秘書は随行しない「岸のバッヂ ...
ドキュメント昭和天皇 - 第 8 巻 - 63 ページ
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田中伸尚 · 1984
侍従長及び予、次官、陪席。 11110 「田中清玄に御会いを願う。週刊朝日に同氏の記事あり、御覧に入れる。明日生研(生物学研究所)にて謁を給ふ事、御許を得たり。右は(宮内)大臣、次官(大金益次郎)、侍従長、同意なり。これは次官の熱心なる希望に ...
田中清玄自伝 - 142 ページ
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田中清玄 · 1993
田中清玄 142 ええ。場所は生物学御研究所の接見室で、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、藤田尚徳侍従長、木下道雄侍従次長、入江相政侍従、徳川義寛侍従、戸田康英侍従らがご陪席でした。大金さんは「君が思うことをお上にお話ししてくれて結構だ。
>2014年8月15日金曜日
三国人には絶対真似できない戦後の生粋の近代日本人特有の凄味・・・
8年後にこれを読んで、日本にはまだ未来はあるかなと思ったが、
この3年余の間の新型コロナウイルス―ワクチン接種80%の状況から
少数民族へ転落かしらと危惧する
>日本人はほぼ全員、自分がテロカルトサマナだと知らないテロカルトサマナなんですよ。キムチも全員ね。(爆wwwwwwww
この時期に旧統一教会の問題が、安倍元首相の暗殺を契機に大々的に取り上げられるようになったのを
奇貨として、宗教組織をサービス業として商業活動に伴う納税とcomplianceを義務付ければいい
「宗教・信仰の自由」は「犯罪の自由」ではないし「組織を作る自由」でもない
個人に属する権利だと思う
今後も「血と種による宗教・政治」で日本人三千万人が食べていくことができるのだろうか
全員が、自由な個の力を発揮できる体制でないと日本人・日本国は消滅の道をたどるのではないだろうか
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