2014年6月1日日曜日

賀茂鶴式





要するに鶴でも鸛でも烏でもなく「鴨」ですね、わかります。
今のとこはまだネギを背負ってるようですが、さっさと止めさせるべきですね。(爆wwwwwwww




賀茂氏(かもうじ/し、加茂氏鴨氏加毛氏とも)は、「賀茂(加茂・鴨・加毛)」をとする氏族

天神系(賀茂県主)

八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡愛宕郡を支配した。子孫は上賀茂下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。
氏人には鴨長明(下鴨社家)、賀茂真淵(上賀茂社家)がいる。

出自に関する諸説

山城国葛野の賀茂県主は、大和国葛城の地祇系賀茂氏が山城に進出したものとする説がある。『山城国風土記』逸文では、賀茂県主の祖の賀茂建角身命は神武天皇の先導をした後、大和の葛城を通って山城国へ至ったとしている。しかし、『鴨氏始祖伝』では鴨氏には複数あり、葛城と葛野の賀茂氏は別の氏族であるとしている。また、『出雲風土記』では意宇郡舎人郷 賀茂神戸とあり、また現在の島根県安来市には賀茂神社があり、祖神である一言主の同一神、言代主の活躍地である東部出雲に属することから、ここを本貫とする説もある。

地祇系(三輪氏族)

大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣
大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。
姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇684年)13年に朝臣姓を賜与された。
平安時代中期には陰陽博士賀茂忠行を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道宗家となり、子孫は暦道を伝えた。賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲儒学者に転じた慶滋保胤がいる。
室町時代には、嫡流勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代に断絶した。なお、庶流幸徳井家江戸時代地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道の宗家の地位を奪われ、中期以降は陰陽助を務めた。

備前鴨(加茂)氏

平城京跡出土の木簡(735年(天平7年)から747年(天平19年)までの間の木の札)に、「備前国児嶋郡賀 茂郷・鴨直君麻呂調塩三斗」 と墨で書かれたものがある。賀茂郷の鴨の君麻呂という豪族が、三斗という大量の塩を奈良に送っており、鴨神社の荘園の預り主であったということが窺える。 なお、当時の賀茂郷が現在の荘内と宇野・玉・日比・渋川までの範囲であり、南北共に海に面していた。当時の製塩土器である師楽式土器の分布状態から見ると、南岸で製塩されたものとされているが、下加茂村は北岸という地理的利便性から、こちら側でも製塩されたものと思われる。
鴨直君麻呂との関係は不明であるが、「宇喜多氏系図」(備前藩大森景頼所蔵)や岡山の歴史書などには、宇喜多氏の系譜を汲むとされる加茂次郎の名前が見え、備前児島半島を東児島、中児島、西児島と分けた中の、中児島に住んだとされる。
1903年明治36年)まで児島郡上加茂村下加茂村があったが、合併して荘内村となった。なお、鴨神社や加茂神社があり、両神社の間を鴨川が流れている。特に鴨神社は平安期初頭に創建され、大和国葛上郡加茂の高鴨神社から味鋤高日子根命を祭神として勧請した。延喜初年の創建とされる児島郡内最古の神社であり、延喜式神名帳では備前国式内23社の内の1社である。

備中連島(戦国時代以前は備前国児島郡都羅郷)の、連嶋町史(昭和31年発行、発行者 連島町誌編纂会)第八章 連島の古城址に、北茂城の城主として、1735年(享保20年)に編纂された『古戦場備中府志』(平川親忠著)巻の五 浅口郡の条下には、当城主に吉備大臣嫡孫右京太夫光栄としている。伝云、孝謙天皇天平勝宝四年五月賀茂朝臣を賜る、天文暦数を掌る、一家両道を兼ねて宝器を保つ、暦道を以て其子光栄に伝へ天文道を以て弟子安部の晴明に伝う、自此己後両道相分つ云々と記述されている。この伝云う記事は『右大臣吉備公傳纂釈』より引用したものと思われ、重野安繹『右大臣吉備公傳纂釈』(『岡山県通史』上編374頁 編著永山卯三郎)には、或いは伝う陰陽道博士賀茂保憲吉備公の裔なり、天文博士を兼ね、973年~975年(天延中)に暦を造り暦道を其子光栄に伝へ天文道を安部晴明に伝うとの記事があることから、右京太夫光栄は賀茂光栄であったことになるが、納得し兼ねるとしている。


、、、(w


大神氏(おおみわうじ/し)は、「大神」をとする氏族
大神神社奈良県桜井市三輪)をまつる大和国磯城地方(のちの大和国城上郡城下郡。現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。姓(カバネ)は初めだったが、天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜った。








で、問題は・・・








→奈良県御所市鴨神1110

高鴨神社(たかかもじんじゃ)は、奈良県御所市金剛山東山麓にある神社式内社名神大社)。社格は県社。京都の賀茂神社上賀茂神社下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社と称する。4月中旬から5月初旬にかけて500種2200鉢以上の日本サクラソウが咲く。

金剛山修験道の開祖役小角(役行者)が修行した山として知られている。役行者は今から約1,300年前、16歳の時から、この山で修行し、全国各地の霊山へ駆け巡ったと伝えられる。山頂付近には役行者が開いたとされる転法輪寺真言宗醍醐派、葛城修験道大本山)がある。近くには一言主を祭神とする葛木神社がある。

金剛山周辺には太平記の英雄楠木正成の城であった千早城上赤坂城下赤坂城の城跡や楠公誕生地など、正成ゆかりの史跡が点在している。楠木正成の菩提寺であった観心寺には、正成が少年期に学問を修めた記録が残っている。また古来より金剛山鎮守と称された、建水分神社楠木氏氏神であり、本殿重要文化財)は正成が再建したもので、境内にある摂社の南木神社は正成を祀る最古の神社である。


楠木 正成(くすのき まさしげ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将
建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に活躍。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担い、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。鎌倉幕府からは「悪党」と呼ばれた。後醍醐天皇の側近として名和長年結城親光千種忠顕らとともに「三木一草」とよばれた[1]明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、明治13年1880年)には正一位を追贈された。

出自

河内の土豪説

太平記巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[2][3]
楠木氏橘氏の後裔とされる[4]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を仮りたとする説もある[5][4]。太平記巻第三には楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[4]
また観世系図によれば観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[6]

得宗被官説

筧雅博は、楠木氏の出自は、駿河国とした[7][4]。 その理由として                                                 ①楠木正成の地元である河内の金剛 山西麓から観心寺荘一帯に「楠木」の字(あざ)はない。                                                                                         ②鎌倉幕府が正応6年(1293年)7月に駿河国の荘園入江荘のうち長崎郷の一部と楠木村を鶴岡八幡宮に寄進、したと言う記録があり楠木村に北条得宗被官の楠木氏が居住したと想定できる。 なお、現在でも駿河の国(静岡市清水区)には長崎と楠木と言う地名が隣接して存在している
③観心寺荘の地頭だった安達氏は1285年入江荘と深い関係にある鎌倉幕府の有力御家人長崎氏に滅ぼされ、同荘は得宗家に組み込まれたとみられる。それゆえ出自が長崎氏と同郷の楠木氏が観心寺荘に移ったのではないかと思われる。
④楠木正成を攻める鎌倉幕府の大軍が京都を埋めた元弘3年(正慶2年、1333年)閏2月の公家二条道平の日記である後光明照院関白記に「くすの木の ねハかまくらに成るものを 枝をきりにと 何の出るらん」と言う落首が記録されている[8]、この落首は「楠木氏の出身は鎌倉(東国の得宗家)にあるのに、枝(正成)を切りになぜ出かけるのか」という意とされ、河内へ出軍する幕府軍を嘲笑したものとされる[4]

網野善彦は、楠木氏はもとは武蔵国御家人北条氏被官で、得宗領河内国観心寺地頭職にかかわって河内に移ったと推定した[9]。正成は幼少時に観心寺で仏典を学んだと伝わる[7]
また『吾妻鏡』には楠木氏が玉井、忍(おし)、岡部、滝瀬ら武蔵猪俣党とならぶ将軍随兵と記されている[10]

悪党・非御家人説

永仁3年(1295年)東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした[11]
林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした[12][13]兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした[13]
元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収した[7]。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある[7][14]佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた[14]。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした[15]

正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人 だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはな いとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている[16]


橘氏(たちばなうじ/し)は、「橘」をとする氏族
県犬養三千代(橘三千代)葛城王(橘諸兄)を祖とする皇別氏族で、飛鳥時代末から宿禰(のち朝臣)姓を称した。




























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4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

http://jp.jnocnews.jp/news/show.aspx?id=52427

『毛沢東選集』を信奉しながら中国経済を学び、
神保町の古書店で魯迅の本を探す早稲田大学の学生であった。

匿名 さんのコメント...

「鵜」水戸方面

>青山幸利の家臣には鵜飼石斎という南朝正統論の儒学者
>鵜飼石斎 祖先は近江国甲賀郡  
>石斎の子 錬斎・称斎
>鵜飼錬斎 鵜飼称斎 徳川光圀 大日本史

>大日本史 鵜飼吉左衛門 鵜飼幸吉

>甲賀 鵜飼氏   
甲賀五十三家 六角氏

匿名 さんのコメント...

>鵜飼錬斎 
 崎門派(山崎闇斎)
 山崎闇斎 垂加神道
 垂加神道 吉川神道 吉田神道

>吉川神道
  ja.wikipedia.org/wiki/吉川惟足
 ※『堺市史』による 
  trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/2714005100/2714005100100070?hid=ht002200
 (四二)吉川惟足
  其先は佐々木秀義に出で、近江野洲郡吉川が其舊領地である。(舊=旧)
 祖父廣末は、德川家康に隸して小田原の役に戰死した。
 此時父廣元堺にあり、壯年に及んで江戸に抵り、仕官を求めてならず病歿 --- 以下略

>崎門学
 平泉澄編『闇齋先生と日本精神』至文堂 1932年
 平泉澄『万物流転』至文堂 1936年 / 皇學館大学出版部 1983年
  
 呉竹会(折本龍則)とか 一水会  とか

ご近所 さんのコメント...

>橘
向かいの部屋の隣に居るオッサンがこの苗字DEATH^^
ちなみに向かいの部屋は、前に紹介した吉本芸人今田某の幼馴染de元運転手と同じく苗字ですみだw

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