2014年5月16日金曜日

橘玲のロシア寄りのポジション・トークが興味深い件

陰謀論者が知るべき肝心の事実に関する記載が欠如してるけどね。(爆wwwwwwww
橘玲氏の説以外にも色々あるわけで・・・





以下こぴぺ





2014年5月15日
「キリスト教の正統は、ローマではなくロシアにある」
バチカンが隠ぺいしつづける不都合な歴史
[橘玲の世界投資見聞録]

イエス・キリストが磔刑に処せられたのは12使徒の1人ユダが裏切ったからだ――。新約聖書にこう書かれたことで、ヨーロッパではユダヤ人は裏切り者(キリストの敵)と見なされ、迫害の対象となった。だがちょっと考えればわかるように、イエス自身が「ユダヤ人の王」を名乗り、弟子のほとんどもユダヤ人だったのだから、これは言い掛かりもはなはだしい。キリスト教を受容する過程のなかで、いつのまにかイエスや弟子たちが自分たちと同じ民族になり、ユダヤ人差別を正当化するためにユダだけがユダヤ人とされたのだ。

キリスト教の歴史のなかで、こうした史実の改変はあちこちで行なわれている。

私たちは欧米経由でキリスト教を理解しているため、無意識のうちにヨーロッパ中心主義を当然のものとしてしまう。宗教革命以前は西ヨーロッパのキリスト教はカトリックだったから、これはカトリック(バチカン)中心史観でもある。

それでは、バチカンが隠蔽し改竄しなければならなかった歴史とはいったい何だろう。

それは、「もうひとつのローマ」の存在だ。
初期キリスト教の歴史はいきなり帝都ローマへ

イエスの死後、キリスト教は邪教としてローマ帝国の弾圧にさらされる。なかでも“暴君”ネロがローマ大火をキリスト教徒による放火として信者を処刑し、初代ローマ教皇ペテロが逆さ十字にかけられて殉教したことは広く知られている。こうした逸話から、カトリック史観では、初期キリスト教の歴史はエルサレムからいきなり帝都ローマへと移ってしまう。

しかしこれは、徒歩やロバで移動するしかなかった当時の交通事情を考えればあり得ない話だ。

キリスト教は、ユダヤ教の選民思想を否定することですべての民族に開かれたグローバル宗教となった。だがこれは、当のユダヤ人にとってはキリスト教を積極的に信仰する理由がない、ということでもある。わざわざ自分たちの既得権(全知全能の神によって選ばれた民族)を放棄する必要はないからだ。

それでは初期のキリスト教はどこで、誰に対して布教を行なったのだろう。

どこで、というのは地図を見れば明らかだ。エルサレム(ユダヤの土地)で布教が進まないのであれば、まずは近くの都市を目指すほかないない。

当時、エルサレムからもっとも近いローマ帝国の大都市はアレクサンドリアだった。その名のとおりアレクサンドロス大王のエジプト遠征によってつくられた都市で、クレオパトラの死とともにローマ帝国に編入された。

アレクサンドリアに次いでエルサレムに近い大都市は、地中海に面したアナトリア半島(現在のトルコ)西端のアンティオキアだった。アンティオキアはアレクサンドロス大王の後継者の1人ニカトル(セレウコス1世)が築いたセレウコス帝国(セレウコス朝シリア)の首都で、シルクロードの出発点として繁栄し、ローマ、アレクサンドリアと並んでローマ帝国の三大都市とされた。

それでは、初期のキリスト教は誰に対して布教したのか。

アレクサンドロスやアンティオキアはアレクサンドロス大王の遠征によって誕生した都市だ。マケドニアの王子として生まれたアレクサンドロスは、アリストテレスを家庭教師とした古代ギリシア文明の正統な後継者だった。この古代ギリシア文明が、アレクサンドロス大王の東方遠征によって各地に伝播し、古代オリエント文化と融合したのがヘレニズム文化だ。

アレクサンドリアもアンティオキアもヘレニズムを代表する都市で、ひとびとはギリシア語を話し、ギリシアの学問や古典に親しみ、オリンポスの神々を信仰していた。すなわち、彼らは「ギリシア人」だった。

イエスの生きた紀元前後は、アテネやスパルタといった古代ギリシアのポリスは衰退し、文化や学問の中心はアレクサンドリアをはじめとする地中海沿岸の諸都市に移っていた。キリストの教えを最初に受容したのは、こうしたヘレニズム(ギリシア)の知識人たちだった。

初期のキリスト教は、「ギリシア人の宗教」として始まった。だからこそ新約聖書は、ギリシア語で書かれているのだ。

「ヨーロッパ文明は、ヘブライズム(キリスト教)とヘレニズム(古代ギリシア文明)の融合だ」といわれる。だがここでいう「ヘレニズム」は、ルネサンスの時期に西ヨーロッパで“再発見”された古典古代のことを指している。だがこれも歴史の歪曲で、イエスの死の直後から、アレクサンドリアやアンティオキアといったギリシア人の都市でキリスト教とヘレニズムは融合していた。

その当時、ローマは政治の中心ではあっても文化はなかった。ローマのひとびとはラテン語を使っていたが、知識層はギリシア語でギリシアの古典を学んでいた。そんなローマに、文化の中心だったギリシア(ヘレニズム)世界から最先端の思想/宗教としてキリスト教が伝えられたからこそ、弾圧にもかかわらず急速に信者を増やしていったのだ。

キリスト教の画期は、紀元330年にコンスタンティヌス帝が都をコンステンティノポリス(現在のイスタンブール)に移し、キリスト教を公認したことだった。コンスタンティノス帝は、この新しい都を「新ローマ」と呼んだ。

この遷都によって、ローマ世界にはキリスト教の5つの「聖地」が生まれた。

イエス自らが布教を行ない殉教したエルサレム、帝国の首都ローマ、初期のキリスト教が拠点としたアレクサンドリアとアンティオキア、そして帝国の新首都であるコンスタンティノポリスだ。

ローマ帝国の国教となったキリスト教は、第1回のニケヤ公会議(325年)を皮切りに7回の全地公会議によって教義の統一と組織の整備を図ることになる。381年のコンスタンティノポリス公会議では5つの聖地に総主教区を置くとともに、その序列がローマ、コンスタンティノポリス(新ローマ)、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムと決められた。だがこの頃から、地中海世界を統一した古代ローマの体制(パクス・ロマーナ)が揺らぎ始める。

まず、4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅亡(476年)する。これによってローマ総主教区(バチカン)は政治的・軍事的な力をすべて失い危機的状況に立たされる。

このときバチカンが選んだのは、宗教的権威によって生き残りを図る道だった。そのためには、ローマが「キリスト教の5つの総主教区のひとつ」では都合が悪い。蛮族の王に対して“法王”を名乗るためには、バチカンが神の唯一の「地上での代理人」でなければならない。こうしてローマ総主教区は残りの4つの総主教区から袂を分かちカトリックとなった。

歴史の次の大きなうねりはムハンマドに始まる7世紀のイスラム勃興だった。アラビア半島を統一した後、エルサレムを征服したイスラム勢力はその勢いで東ローマ帝国を攻めるが頑強な抵抗に会い、進路を南にとってエジプトから北アフリカ、イベリア半島(現在のスペイン)南部にまで勢力を拡げる。これによってキリスト教の5大総主教区のうちエルサレムとアレクサンドリアの2つが異教徒の手に落ち、イスラムと対峙する最前線となったアンティオキアも荒廃・衰退していく。

北アフリカを失ったことはキリスト教だけでなく、東ローマ帝国にとっても深刻な事態だった。当時の北アフリカはゆたかな穀倉地帯で、コンスタンティノポリスで消費される小麦はエジプトから運ばれてきたからだ。
キエフ大公国のウラジミール大公がギリシア正教を国教に

南側をイスラム勢力に抑えられてしまった以上、東ローマ帝国もキリスト教も北を目指すほかはない。

現在のルーマニアやウクライナのある黒海北岸は当時は蛮族の土地だったが、ゲルマン人が西へと移動し、フン族の勢力が衰退すると、北からスラブ民族が流入してくるようになった。東ローマ(ビザンティン)帝国は北方に勢力を伸ばすためにキリスト教の布教にちからを入れ、スラブ民族を馴致してウクライナを新たな穀倉地帯にしようとした。

8世紀になるとキエフ(現在のウクライナ)にルーシという東スラブ人の国が生まれた。キエフ大公国とも呼ばれるこの国は、10世紀末のウラジミール大公の時代に最盛期を迎える。

国土の統一を成し遂げたウラジミール公は、王国にふさわしい宗教を取り入れようと考えた。このときの選択肢は、イスラム教、カトリック、ギリシア正教の3つだった。

宣教師たちの話を聞いたウラジミール公は、イスラム教はたくさんの妻を持てるのはいいが、酒を飲んではいけないというのでは人生の楽しみがなくなってしまうと却下した。カトリックとギリシア正教は、調査団をローマ(バチカン)とコンスタンティノポリス(アヤソフィア)に派遣してどちらが荘厳かで決めることにした――。このよく知られた話は後世の創作のようだが、ウラジミール公の使節がアヤソフィアを訪れたのは事実で、次のような報告が残されている。

彼ら(ビザンティン人)は、自分たちの教会(アヤソフィア)へ私たちを連れてゆきました。私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはそのような美しい光景はなく、それを語ることもできません……。私たちはその美しさを忘れることはできません(『ロシア原初年代記』987年/井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』より)。

全盛期のビザンティン帝国は、文化の程度においても、絢爛豪華さにおいても、戦争と内乱によって財政が破綻していたローマ(バチカン)を圧倒していた。

ウラジミール大公が正教の洗礼を受けたのは、ビザンティン帝国皇帝バシレウス2世の妹アンナを妻として娶ったからだ。ビザンティン皇帝と親族関係を結ぶという栄誉に感激したウラジミール公は、5人の妻と800人の妾と縁を切ってアンナをただ1人の妻とし、さらには妻へのプレゼントとしてギリシア正教を国教とし、国民全員に洗礼を受けさせた。

「ロシアはギリシアから生まれた」

スラブ民族がビザンティン人に知られるようになるのは9世紀で、それまでは文字も持たない遊牧民(蛮族)だった。帝国の北縁に住むようになった彼らに最初に布教を行なったのが正教の修道士・聖キリルで、聖書を彼らの言葉に翻訳するためにギリシア文字とヘブライ文字を組み合わせた「キリル文字」、すなわち現在のロシア文字を考案した。

聖キリルたちの伝道によって945年にブルガリアがキリスト教を国教とし総主教座が設置される。次いでキエフ(ウクライナ)やセルビアにもキリスト教は浸透し正教の教えはスラブ民族の文化や生活と一体化していく。

その後、キエフ朝は分裂し、さらにはモンゴルの襲来を受け、ロシアは混乱期を迎える。だがモンゴルは宗教にまったく関心を示さなかったため、この時期も正教は勢力を拡げ、モスクワ朝がタタールのくびき(モンゴル支配)を脱してロシアを再統一すると、総主教座もキエフからモスクワへと引き継がれる。ウクライナ問題がこじれるのは、ロシア人からすると、そこが他国(別の主権国家)ではなくロシア(ルーシ)の一部だからだ。

ビザンティンとロシア(スラブ民族)の歴史をたどると、この国の奇妙な出自が見えてくる。

ロシアというのは、ビザンティン人によって“発見”されるまでは文字もなければ文化もない蛮族の集団でしかなかった。それが聖キリルによって文字を与えられ、正教に改宗することで文明の光に浴し、ようやく“ひと”として認められるようになったのだ。

前回述べたように、ビザンティン帝国というのはギリシア人の国だった。だとすれば、「ロシアはギリシアから生まれた」ことになる。

モンゴルに支配されたことをロシアの屈辱の歴史とする見方がある。だがそれ以上に、自分たちの文字も文化も宗教も、すなわちアイデンティティのすべてがギリシアからの借り物だということの方が彼らにとって深刻な問題ではないだろうか。

だがここで、(ロシアにとって)ものすごく都合のいいことが起きる。1453年にビザンティン帝国がオスマントルコに攻め滅ぼされてしまったのだ。

ビザンティン帝国滅亡後の1473年、ロシア(モスクワ朝)のイワン3世はビザンティン最後の皇帝の姪を妃に迎える。このことによって、ロシアはビザンティン帝国の正統な後継者を名乗ることになった。イワン3世は「大公」から「皇帝」となり、ビザンティン帝国の双頭の鷲を紋章に掲げた。

コンスタンティノポリスの陥落で、正教の4つの総主教区はすべてイスラムの手に落ちた。正教の主座はロシア帝国に移り、モスクワはローマ、コンスタンティノポリスに次ぐ「第三のローマ」になった。

“ビザンティン史観”に立つと、ヨーロッパのまったく別の姿が見えてくる。

ローマ帝国の正統は、コンスタンティノポリス(新ローマ)を経てモスクワ(第三のローマ)に継承された。キリスト教の正統である総主教の座もローマ(バチカン)ではなくモスクワにある。

ドストエフスキーの長編小説に登場する帝政ロシア末期の知識人たちは、西欧近代との遭遇によって、農奴制の「遅れたロシア」と神に愛でられた「聖なるロシア」に引き裂かれて煩悶する。帝政ロシア→ソ連→ロシアの歴史は、ずっとこの「自虐」と「自尊」のあいだで揺れてきた。

そう考えると、西ヨーロッパとロシアの関係がたんなる政治的な利害得失ではないことがわかるだろう。ロシアにとって、欧米の“カトリック史観”は歴史の歪曲でしかない。それは歴史と宗教の正統をめぐる根本的な対立なのだ。

<執筆・ 橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術 至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。

最新刊『タックスヘイヴン TAX HAVEN』(幻冬舎)が発売。
http://diamond.jp/articles/-/531087



2014年5月9日
ビザンティン帝国=ギリシアが答えだった
[橘玲の世界投資見聞録]

私が高校で世界史を学んだ頃は、ヨーロッパ中世は暗黒の時代とされ、そのなかでもビザンティン帝国というのはよくわからないものの筆頭だった。

古代ローマ帝国は紀元1世紀から2世紀にかけて即位した5人の皇帝(五賢帝)の時代に最盛期を迎えたのち、混乱と分裂に陥る。これを収束させたのがコンスタンティヌス1世で、ササン朝ペルシアの侵略に備えるため330年に首都を東西交易の要衝だったビザンティウムに移すとともに、キリスト教を公認した。これがヨーロッパ史の古代と中世を分ける画期となった。

ローマ帝国の新首都ビザンティウムは、コンスタンティヌス1世の死後、コンスタンティノポリス(コンスタンティヌスの都)と改名されたが、その後も帝国の混乱はつづき、テオドシウス1世の死後、395年に東西に分裂することになる。

西ローマ帝国は4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動に耐えられずに476年に滅亡し、その領土からイギリス、フランス、ドイツ、スペイン、イタリアなど西ヨーロッパ諸国が生まれた。それに対して後世、ビザンティン帝国と呼ばれるようになった東ローマ帝国は、オスマントルコの侵略に苦しんだあげく最後には領土がコンスタンティノポリスの城壁の中だけになり、1453年にメフメト2世率いる10万のオスマントルコ軍に攻められ滅亡した。

最盛期のビザンティン帝国の領土は現在のトルコ(アナトリア半島)を中心に、バルカン半島から黒海周辺(ブルガリア、ルーマニア)、地中海東岸(シリア)まで広がっていたが、近代の成立とともに“世界の中心”となった西ヨーロッパに比べて影が薄く、第一次世界大戦の原因になるまで世界史の教科書にもほとんど登場しない。
東ローマ帝国のギリシア正教

「ビザンティン帝国って何だろう」と疑問に思ったのはギリシアの首都アテネを訪れたときだった。

西ローマ帝国(西ヨーロッパ)と東ローマ帝国(ビザンティン帝国)は、キリスト教を国教としながらも、カトリックと正教のいずれを正統とするかで分かれることはよく知られている。正教の代表はギリシア正教なのだから、アテネにはローマ(バチカン)のサン・ピエトロ大聖堂に匹敵する壮麗な教会があるにちがいないと思っていた。

アテネの街の中心にはたしかに正教の教会があったが、たまたま外壁の修復工事中ということもあって外観は思いのほかみすぼらしく、教会の壁にはイコン(聖像)が描かれステンドグラスが嵌められていたものの、サン・ピエトロ大聖堂の威容とは比ぶべくもなかった。

その後、トルコのイスタンブールを訪れて、自分がとんでもない勘違いをしていたことに気がついた。

イスタンブールのシンボル、ブルーモスク(スリタンアフメト・モスク)の隣にアヤソフィア博物館がある。ビザンティン建築の最高傑作とされる建物で、天井が巨大なドームになっており、漆喰や大理石の壁がはがれた部分からキリストのモザイク画が覗いている。

ここはもともとキリスト教の教会で、オスマントルコ時代にモスクとして使われていたため、壁に上塗りしてキリストのイコンを隠していたのだ。

イスタンブールはいうまでもなくコンスタンティノポリスのトルコ名で、ブルーモスクのある中心部はかつてはビザンティン帝国の宮殿が建ち並んでいた。その当時、アヤソフィア聖堂は正教の首座(カトリックにおけるバチカン)で、主教(同じくローマ教皇)はここにいたのだ。考えてみれば当たり前だけれど、正教はビザンティン帝国の国教なのだから、信仰の中心はコンスタンティノポリスだったのだ。

ところで、正教はなぜ「ギリシア正教」と呼ばれるのだろうか。

コンスタンティノポリスが陥落してビザンティン帝国が滅亡すると、首座を失った正教はロシアや東ヨーロッパ各地へと散っていく。

ロシアをモンゴルの支配(タタールのくびき)から解放したイヴァン3世(大帝)は、ビザンティン帝国の滅亡を見て「正教の正統はロシアの地に移された」と宣言した。それに対抗して、ギリシアもまたアテネの地を正教の首座にしようとしたのだろうか。

だが歴史を見れば、これもまた間違っていることがわかる。ギリシアがオスマン帝国の支配から逃れたのは1827年だから、それまでは堂々と正教を奉じることはできなかったのだ(オスマントルコでもキリスト教徒であることは認められていた)。
カッパドキアに住んでいた修道士の正体とは?

カッパドキアは侵食によってつくられた広大な奇岩地帯で、キノコや煙突のような巨岩に無数の洞窟が穿たれている。

火山岩は柔らかく、洞窟をつくって教会や住居にするのが容易だった。こうした洞窟の一部は現在は改装されてホテルになっているが、もともとはローマ帝国の弾圧を逃れて移り住んだキリスト教の修道士たちが隠れ住んだ場所だった。なかでももっとも有名なのがギョレメ国立公園で、洞窟内部にはいまもキリストを描いた壁画が多数残されている。

ところで、ここで暮らしていた修道士とはいったい誰だろう?

洞窟教会の装飾は正教に特有のイコンで、そこに書かれた文字はラテン語ではなくギリシア語だ。カッパドキアの洞窟で神に祈りを捧げていたキリスト教の修道士はギリシア人だったのだ。

カッパドキアのもうひとつの観光名所は、1965年に発見された巨大な地下都市カイマクルだ。

岩盤層を穿ってつくられた都市は地下8階、深さ65メートルに及び、地下1階にワイン製造所、その下に食堂や居間、寝室などがつくられ、最下層は十字架の形に掘られた教会になっている。まだ発見されていないものを含めれば、カッパドキア周辺にはこうした地下都市が数千あり、10万人以上が暮らしていたと考えられている。

こうした都市も最初は地下教会としてつくられたのだから、キリスト教がローマ帝国に公認されれば不要になるはずだが、この地はペルシアやアラブ、トルコなど異民族の侵略に常に晒されており、外敵の脅威が深刻になるにしたがってギリシア人の正教徒たちは逆に地下を掘り進めていった。ワイン製造所が真っ先につくられたのは、それが聖餐に必要だからというよりも、水に毒を入れられることを恐れたからだと考えられている(彼らは井戸を使わずブドウから水分をとったのだ)。

アナトリア半島の東岸はエーゲ海をはさんでバルカン半島と向いあっており、アテネを発ってエーゲ海を北上し、マラルメ海からボスポラス海峡を抜ければ黒海に至る。古代ギリシア・ローマ時代には、この一帯に海洋民族であるギリシア人の植民都市が次々とつくられた。

私たちはギリシアというと古代都市アテネのあったバルカン半島南端を思い浮かべるが、アテネとスパルタが覇を競った紀元前5世紀のペロポネソス戦争でポリスは荒廃し、ギリシア文明の中心はシチリアや南イタリア、地中海東岸、黒海南岸などに点在する植民都市に移っていった。

黒海とエーゲ海を結ぶ海の要衝であるボスポラス海峡に都市が建設されたのは紀元前667年で、彼らの王ビュザンタスにちなんでビュザンティオンと名づけられた。コンスタンティヌス1世の遷都は紀元後330年だから、およそ1000年にわたってここはギリシア人の土地だったことになる。

476年に西ローマ帝国が滅亡すると、コンスタンティノポリスのひとびとは当然のごとく、自分たちがローマ帝国の正統だと考えた。ところで、そう考えたのはいったい誰だろう。それはいうまでもなく、帝国の首都の住人であったギリシア人だ。だからこそ東ローマ帝国の国教として彼ら(ギリシア人)が奉じていた宗教が「ギリシア正教」と呼ばれるようになった。

東ローマ帝国はギリシア人の国、というか、ギリシアそのものだった。彼らは最後まで自分たちの国を「ローマ帝国」だと考えていたが、西ヨーロッパにはローマ法王がおり、法王から戴冠を受けた神聖ローマ帝国の皇帝がいたのだから、ギリシア人の国が「ローマ」では都合が悪い。それで西ヨーロッパでは、この帝国を「ビザンティン」と呼ぶようになったのだ。

ビザンティン帝国はギリシア人の国

歴史家・井上浩一氏の『生き残った帝国ビザンティン』(講談社学術文庫)によれば、最盛期のビザンティン帝国は高度に発達した官僚国家で、国民の教育レベルもきわめて高かった。

教会や修道院には初級学校が置かれ、そこでは読み書き算盤が徹底的に教え込まれた。中等教育に進めば、生徒はホメロスの詩でギリシア語の正しい綴りを学んだ。ホメロスはビザンティン教養人の常識で、官僚であれば誰でもホメロスの詩を暗唱できた。ギリシア語の勉強は紀元前1世紀の文法書を使って行なわれたから、彼らはプラトンやアリストテレスなど古代ギリシアの哲人たちと同じ文章を書いた。高等教育になると、算術・幾何・天文学・音楽などの一般教育科目が教えられた。中世の西ヨーロッパでは読み書きできるのは教会の司祭などごく一部にかぎられていたから、彼我の文明の差にはすさまじいものがあった。

古代ギリシア・ローマの文化や芸術は、ビザンティン帝国と、その跡を継いだオスマントルコに伝えられた。15世紀なかばに大航海時代が始まり、それにともなって地中海貿易が活発化してフィレンツェなどイタリアの海洋都市が勃興すると、彼らがビザンティンやイスラムの文化に触れたことでルネサンスの時代が幕を開けたのだ。

ビザンティン帝国がギリシア人の国であることは中世ヨーロッパの常識だった。

962年にローマ教皇から戴冠を受けたのち、ドイツ王オットー1世はビザンティン帝国に使節を送ったが、その目的は自分も「ローマ皇帝」の名称を使いたいというものだった。それ以前にフランク王カール(大帝)も「皇帝」を名乗ったが、当時はまだビザンティン帝国の皇帝こそが真の「ローマ皇帝」だと考えられていたのだ。

西ヨーロッパには複数の王がいたが、ビザンティン帝国は神政一致の専制国家で皇帝は全能の神によって選ばれるのだから、「ローマ皇帝は地上にただ1人」としてオットー1世の申し出を断わった。ビザンティン側が激怒して交渉が決裂したのは、ローマ教皇の親書に、ビザンティン皇帝ニケフォロス2世のことを「ギリシア人の皇帝」と書いてあったからだ。

1400年、オスマントルコの圧迫で滅亡寸前に追い詰められたビザンティン皇帝マヌエルは、西ヨーロッパの君主たちの支援を受けるべくフランスとイギリスを訪れた。フランス王シャルル6世も、イングランド王ヘンリー4世も、遠路はるばるやってきた「ギリシア人の皇帝」を大歓迎した。オットーの戴冠から500年を経て西ヨーロッパとビザンティンの力関係は完全に逆転し、マヌエルは自分が「ギリシア人の皇帝」であることを黙って受け入れたのだ。

コンスタンティヌス1世の遷都からビザンティン帝国滅亡までの1000年間、ギリシアの首都も正教の首座もコンスタンティノポリスにあった。アテネのあるバルカン半島南端はギリシアの辺境で、その中心はアナトリア半島だった。

ビザンティン帝国ではギリシア語が公用語で、ひとびとは自分たちが古代ギリシアの後継者だと考えていたのだから、ヨーロッパ人が彼らのことを「ギリシア人」と呼ぶのは当たり前だ。だがそれにもかかわらず、そこは「ローマ帝国」で支配者は「ローマ皇帝」でなければならなかった。

ビザンティン帝国がギリシアだとわかって、ようやくいろんな謎が解けたのだ。

http://diamond.jp/articles/-/52761

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匿名 さんのコメント...

出版社を設立するよう見城に勧めたのが五木寛之(wiki)、
「幻冬舎」は五木寛之 命名。
~「幻冬」は厳冬に通じ、「冬に耐え強い芽を」、厳しい冬を生き抜いて大きく成長せよとの気持ちが込められております。~ 五木寛之 早稲田ロシア文学