邦人一家4人、事故で死傷=警察追跡の車と衝突-米西部
【ロサンゼルス時事】米西部アリゾナ州のグランドキャニオン国立公園近くの幹線道路で3月28日、安川電機社員でイリノイ州駐在の平山朝啓さん(50)の家族4人が乗った車が対向車と衝突し、平山さんら3人が死亡、小学生の長女(9)が重傷を負った。警察車両に追跡されていた車が対向車線から進入してきたのが事故原因とみられる。
安川電機などによると、平山さんのほか、妻幸代さん(42)と高校生の長男湧樹君(16)が死亡。相手の車が炎上するなど激しい衝撃だったとみられ、3人とも即死状態だったという。長女は入院し手当てを受けている。
平山さんは2013年4月、イリノイ州にある同社の米国法人本社に赴任。産業機械関係の事業全般を担当していた。同年7月から家族も渡米しており、春休みを利用し、グランドキャニオン周辺を観光中に事故に遭ったとみられる。
湧樹君が通うイリノイ州の高校関係者は取材に対し「英語などを一生懸命勉強し、クラスメートからも尊敬されていた。みんな大変ショックを受けている」と話した。(2014/04/02-06:29)
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014040200049
同様、何らかの見せしめでしょうなあ・・・
株式会社安川電機(やすかわでんき)は、福岡県北九州市八幡西区に本社を置く、産業用ロボット等メカトロニクス製品の製造を行うメーカーである。第一勧銀グループ。産業用ロボットの生産台数で世界1位を誇る。サーボモーターやインバーターも共に世界首位。東京証券取引所一部・福岡証券取引所上場。
概要明治鉱業を興した安川敬一郎により、明治鉱業の電気用品の開発・製造を行うことを目的に設立された。安川敬一郎により設立された会社は、九州製鋼(1934年に日本製鐵に統合)、明治紡績、黒崎窯業(現黒崎播磨)がある。また明治専門学校(現九州工業大学)も鉱山技術者養成のために設立されたものである。なお明治鉱業は、地質部が独立した明治コンサルタントとして現在も残っている。アルファベットの社銘板は「YASKAWA」と表記される。
安川 敬一郎(やすかわ けいいちろう、嘉永2年4月18日(1849年5月10日) - 昭和9年(1934年)11月30日)は日本の武士(黒田福岡藩士)、戦前の政治家、実業家。貴族院議員、衆議院議員。大正9年(1920年)1月13日、男爵授爵。勲三等瑞宝章。地方財閥・安川財閥の創始者であり、国士的な実業家として知られる。号は撫松。
経歴
黒田藩士足桂で、代々亀井昭陽の学問の正系を継いだ家柄で儒学者の徳永省易の四男として福岡城下に生まれる。
1864年(元治元年)安川岡右衛門に16歳で婿入りし、1866年(慶応2年)、岡右衛門の四女の峰と18歳で結婚し家督を相続、名を藤四郎から敬一郎に改める。藩校・修猶館(現・福岡県立修猷館高等学校)に学ぶ。1868年(慶応4年)3月藩の祐筆に登用され、6月学問所下級教員となり、1869年(明治2年)1月藩命により京都に留学、9月に帰藩して執政局に出仕、1870年(明治3年)10月静岡に留学を命ぜられ1871年(明治4年)5月東京滞在中、7月長兄の徳永織人が贋札事件の責任を取って切腹したため帰藩し、10月再び東京に留学、1872年(明治5年)7月慶應義塾に入学、1874年(明治7年)2月三兄の幾島徳が官軍小隊長として、江藤新平、島義勇の佐賀の乱鎮圧のため佐賀に向かう途中、三瀬峠にて戦死したとの連絡を受け、慶應義塾を中途退学し急遽帰郷した。
帰郷後、学業を断念して幾島の仕事を引き継ぐことになり、炭坑経営に着手した。1877年(明治10年)に芦屋で石炭販売業を始め、1880年(明治13年)相田炭鉱及び庄司炭鉱を経営。1886年(明治19年)店を若松に移転。同年明治炭鉱を開発する。1889年(明治22年)平岡浩太郎と共に赤池炭鉱を開発する。1893年(明治26年)二男松本健次郎と「安川松本商店」を設立、父である安川は炭鉱経営、松本はその販売と分担し親子二人三脚体制を築く。1896年(明治29年)門司に事務所を設置、その後支店を東京、大阪、神戸に拡大していった。
同志的な繁がりがあった平岡浩太郎により、1881年(明治14年)に福岡に玄洋社が創設されると社員となり、安川の炭鉱経営による豊富な資金が、その後の玄洋社の活動を支えた。辛亥革命が起こると、頭山満の大きな採算反対を顧みず、孫文を神戸から東京に迎え、自分の隣家を孫文の隠家に借り4年間、毎月孫文に5百円の生活費を提供していた。また、漠冶萍公司との共同事業として辛亥革命後、中国から銑鉄の供給を受けることとし、艦船用厚板製造を主たる目的として中国との合弁企業を始めた(後の西八幡の九州製鋼株式会社)。その他、著書『撫松餘鎮』(昭和10年出版)では黒龍会の活動を記した。
1907年(明治40年)技術者養成を目的とし、明治専門学校を戸畑に設立。1908年(明治41年)松本及び三男の安川清三郎と共に明治鉱業株式合資会社を設立。1909年(明治42年)4月明治専門学校開校。1910年(明治43年)松本と共に「明治専門学校附属小学校(現:明治学園)」を創立。1912年(大正元年)[元号要検証]、反袁世凱を掲げて中華民国前臨時大総統として亡命した孫文を戸畑の明治専門学校に迎え、返礼に「世界平和」と書いた書が贈られた。
大正3年(1914年)、衆議院に補欠当選し、1920年(大正9年)1月13日これまでの功績により男爵の爵位を授爵。1924年(大正13年)貴族院男爵議員に互選される。公正会に所属。功により勲三等に叙し、瑞宝章を賜る。その後1918年(大正7年)にかけ明治紡績、安川電機、九州製鋼(のち八幡製鐵所が買収)、黒崎窯業を設立する。また、九州鉄道取締役、若松築港社長、筑豊石炭鉱業組合総長、明治鉱業社長、九州製鋼会長等を務め、1922年(大正11年)4月経済界から引退した。
安川第五郎は子(五男)。
設立した会社・学校
- 安川電機
- 黒崎窯業(現・黒崎播磨)
- 若松築港(現・若築建設)
- 九州製鋼(八幡製鉄所(のち八幡製鉄として法人化)買収・合併を経て、現・新日鐵住金)
- 九州鉄道(国鉄九州路線部門を経て、現・JR九州)
- 明治鉱業(地質部は明治コンサルタントとして独立)
- 明治専門学校(現・九州工業大学、明治学園小学校・中学校・高等学校)
参考文献
- 日記、安川宛書簡、安川の書簡草稿、安川の意見書類など関係史料は、北九州市立自然史・歴史博物館に安川家から寄贈され、公開されている。
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥(安川家 九州財界の重鎮)』 角川書店 1983年 129-133頁
- 有馬学編『近代日本の企業家と政治---安川敬一郎とその時代』吉川弘文館、2009年。ISBN 978-4-642-03790-7
関連項目
、、、(爆wwwwwwwwwww
7 件のコメント:
平山周
平山周 安川敬一郎 孫文
島津 黒田藩 蘭癖
黒田長溥 杉山茂丸
杉山茂丸 若松 芦屋 吉田磯吉
二代目はクリスチャン(但し養子)
吉田磯吉 吉田敬太郎 若松 バブテスト
飼い主による玄洋社人脈のパージ
玄洋社人脈による裏切り者に対する報復・見せしめ
どちらなんでしょうか?
それとも両方ともが進行中?w
素朴な疑問なんですが・・・この場合、対向車線から突っ込んできた車の運転手は、薬!? コントロールされていたにしても、どうやって対象物を認識できたのか、興味がわくところ・・・。 何色の車に乗ってたんだろう? というか、サインは何だったんだろう?
ご冥福をお祈りします。
ラジコンとかそーいう小さい奴じゃなくて
工業用モーターの会社
ポンプやコンプレッサー、ジェネレーターを回したりとかね
日立とかも同じような製品作ってますが
第4の産業革命に備える
12月12日 20時30分
http://www3.nhk.or.jp/news/business_tokushu/2014_1212.html
安川電機が中間に新工場
海外での産業用ロボットの需要が高まっていることから北九州市に本社がある大手産業機械メーカー安川電機は生産性を向上させるため中間市に新たに工場を建設することになりました。
工場が建設されるのは中間市上底井野にある安川電機中間事業所の4万平方メートルあまりの敷地です。
安川電機によりますと中国やアメリカなどでは自動車産業を中心に工場の自動化への投資が活発で大型ロボットへの需要が高まっているということです。
このため安川電機では生産性を向上させようと中間事業所にあるロボット部品製造工場に隣接して新たに組み立て工場を建設することになりました。
新工場が稼働すると組み立てのために北九州市八幡西区の工場に運ぶ輸送コストが減り部品製造から組み立てまで同じ場所で一貫生産が可能になることから国内で生産する産業用ロボットの台数を1か月あたり2200台から300台増やすことができる見通しだということです。
新工場は年内に工事に着工し来年夏に完成予定だということです。
12月14日 21時05分
http://www3.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/5023920731.html?t=1418802090268
コメントを投稿