船差し押さえ 商船三井が中国側に約40億円
4月23日 23時36分
日中戦争前後の船の賃貸料を巡る賠償訴訟で、支払いに応じていないとして「商船三井」が中国の裁判所に船を差し押さえられた問題で、商船三井側が、裁判所の決定に基づく29億円余りに金利分を加えたおよそ40億円を供託金という形で中国側に支払ったことが分かりました。
この訴訟は、日中戦争前後の貨物船の賃貸料などが未払いだとして、中国の船会社の関係者が日本の船会社に賠償を求めていたもので、この会社を吸収合併した商船三井は2007年、中国の裁判所から日本円で29億円余りの支払いを命じられました。
商船三井は示談の可能性を探り支払いに応じていなかったところ、今月19日になって、所有する鉄鉱石運搬船「BAOSTEEL EMOTION(バオスティール・エモーション)」を浙江省の港で中国の裁判所に差し押さえられました。
こうした事態を受けて商船三井は対応を検討してきましたが、関係者によりますと、23日、裁判所の決定に基づく29億円余りに金利分を加えたおよそ40億円を裁判所への供託金という形で中国側に支払ったいうことです。
商船三井としては、このまま差し押さえが続けば業務に支障が出かねないとして、支払いに応じることで事態の打開を図ったものとみられます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140423/k10013981571000.html
商船三井問題】中国側が報じた“2隻の船の歴史”
2014.04.22 ニュース
商船三井の大型運搬船が中国で差し押さえられた問題で、菅義偉官房長官は「極めて遺憾」とコメント、日本政府は強い不満を表明している。一方、商船三井側も「原告側に示談交渉を働きかけていたところでした」(同社プレスリリースより)と戸惑いを見せている状況だ。
一方、中国政府はこの件に関し、政府報道官は「日中間の戦争賠償の問題とは関係なく、一般的な商業契約をめぐる民事訴訟にすぎない」と発言している。中国メディアも、この一件を大きく報じ、およそ70年前の大同海運(商船三井の前身)と中国側の船主(中威輪船公司)の契約関係や経緯について詳しく説明している。
陳順通氏
中威輪船の創業者・陳順通氏
日本のマスコミでは詳しく報じられていないが、中国側の説明によると以下の通りだ。この説明がどこまで正しいかは不明だが、先の大戦中の「戦時徴用」の問題が改めて浮き彫りになっている。
■1895年、浙江省寧波に生まれた陳順通氏が、国民党の北伐(1926-1928年)において物資輸送で大きな功績を残したのち、中威輪船公司を設立。今回、問題になった2隻の運搬船のうち、「順豊」(約6000トン)は当時、中国で最大級で、陳氏は「中国の初代船王」と呼ばれた。香港特別行政区の初代行政長官・董建華氏の父親も、当時陳氏の助手をしていたという
■1936年6月および10月に、大同海運は中威輪船公司から「順豊」と「新太平」(約5000トン)を定期傭船する契約を締結。傭船期間は1年。この時、中威側は船に保険をかけていたという
■傭船期間が満了したが、2隻の船の行方を中威側は把握できなかった。1939年、大同側は2隻が日本政府により、戦時徴用されたと連絡。翌年、陳氏は訪日し、大同側に説明を求めると、同社は「1938年8月22日に日本政府により2隻の船は戦時徴用された」と正式に通告した。
■2隻の船の所有権は当時の逓信省に移った。逓信省は大同海運にこの2隻の船を借し出すという形にして、大同側が引き続き運用。大同側は日本政府に傭船料を支払っていたという。
■1938年12月21日、「新太平」が北海道沖で座礁し、沈没。中威側がかけていた船体保険の保険料は大同側が受け取った。一方、「順豊」も1944年12月25日、西南太平洋沖で連合国側に雷撃され沈没。
■1947年、陳氏が戦勝国からの情報で、2隻がともに沈没していたことをはじめて知る。2年後、陳氏は上海市内で逝去。遺言で「引き続き日本に損害賠償を求めるよう」息子の陳洽群氏に託す。
■1960~70年代にかけ、香港に移民した陳洽群氏は日本を訪問し、日本政府に調査を依頼。その後、日本政府に調停を申し立てたり、損害賠償請求を起こしたが、棄却される。陳洽群氏はこの数十年間、調査や弁護士費用など、経費約60万ドルがかかったという。
■中国で1987年に民法の時効がはじめて設定され、この一件も1988年末に時効になることから、陳洽群氏は上海海事法院に債務不履行等による損害賠償請求を提起した。総勢56人にもおよぶ中国、香港、台湾、アメリカの著名な弁護士によって弁護団が結成された。この人数は中国の民事訴訟史上、最大。
■1992年、陳洽群氏が逝去。長男・陳震氏、次女・陳春秉氏が父と祖父の遺志を継ぎ、訴訟を引き継ぐ。
■提起から20年を経て、2007年に商船三井側に約29億円の損害賠償を命ずる一審判決が出る。商船三井側は控訴するが、2010年に一審判決を支持する二審判決が出て、さらに2011年に最高人民法院(最高裁に相当)に再審の申立を行うが、却下された。
以上が中国メディアによる、今回の一件の解説だ。日中双方で食い違いが見られるが、果たして真実は……。
http://nikkan-spa.jp/629048
石田貞二 太洋海運 大同海運
石田貞二 金剛峰寺
泉 智等(いずみ ちとう、1849年2月3日(嘉永2年1月11日) - 1928年(昭和3年)9月26日)は、真言宗の僧。書家。阿波国麻植郡鴨島町鴨島殿郷(現徳島県吉野川市)出身。花桝伊兵衛の五男。幼名は直蔵。号は物外(ぶつがい)。 1860年(万延元年)、12歳で出家する。1864年(元治元年)の頃より、徳島の芝「秋邨塾」で柴秋邨に漢籍を学ぶ。その後、1868年(明治元年)から1872年(明治5年)まで高野山で、1873年(明治6年)から1877年(明治10年)まで京都で仏教学を学ぶ。
1879年(明治12年)より真言宗布教師として全国を巡錫し、、1900年(明治33年)に京都仁和寺の第35世門跡に就任、1908年(明治41年)に京都泉涌寺の第147代長老となる。1914年(大正3年)に真言宗京都中学(現洛南高等学校・附属中学校)校長に就任。1923年(大正12年)に高野山派管長となり、同年に総本山金剛峯寺第388世座主となる。その翌年に真言宗連合総裁となった。1925年(大正14年)、三派合同古義真言宗管長となる。真言宗京都大学(現種智院大学)総理、高野山大学の総理もつとめた。
1928年(昭和3年)9月26日に没する。現在は高野山大師教会本部玄関前に銅像がある。また、詩や書の作品を残しており、画は水墨山水を得意とした。
勝田銀次郎 石田貞二
勝田銀次郎 青山学院
青山学院 メソジスト
太洋日本汽船株式会社(たいようにほんきせん)は、兵庫県神戸市中央区に本社を置く海運会社。大手海運会社・川崎汽船の子会社である。
概要
- 企業名 太洋日本汽船株式会社
- 代表者 取締役社長 長谷川 陽一
- 沿革
- 1917年 太洋海運株式会社として設立
- 2000年 神戸日本汽船と合併し、現社名となる
- 資本金 400,000,000円
- 本社所在地
- 本社 兵庫県神戸市中央区海岸通2-2-3
川崎汽船株式会社(かわさききせん、英: Kawasaki Kisen Kaisha,Ltd.)は、東京都千代田区に本社を置く(登記上の本店は兵庫県神戸市中央区)日本の大手海運会社である。東証一部上場。通称は“K”Line。
概要1919年4月10日、川崎造船所(現川崎重工業)の船舶部が独立する形で、同社の現物出資によって設立された。規模では、日本郵船・商船三井に次いで国内第3位である(2004年3月末時点で363隻を運航)。上位2社に比べるとコンテナ船への依存率が高いと言われている。この他、石炭、鉄鉱石などの不定期貨物船、自動車運搬船、LNGタンカー、石油タンカーなどを運航している。ちなみに、日本で初めて自動車専用船を導入したのは同社である。
ファンネルマーク(船の煙突部分につける会社のマーク)は、赤地に白の K 。
旧第一勧銀グループのメンバーであり、故にみずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)をメインバンクとしている。
コンテナ船事業では、韓国の韓進海運、台湾の陽明海運、中国のコスコ・コンテナラインと海運アライアンス「CKYHグループ」を組んでいる。
、、、(爆w
4 件のコメント:
>石田貞二 太洋海運 大同海運
でぐぐっちゃダメ!ってポインタがががwww
やっぱあの天才高校生スプリンターは(ry
何故かこの漫画を思い出しますたw
https://www.google.co.jp/search?num=100&q=%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC+%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E3%82%86%E3%81%86&oq=%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC+%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E3%82%86%E3%81%86&gs_l
東京市場 丸紅、中国穀物部門社員が中国当局に拘束されたとの報道
ロイター通信によると、丸紅が中国穀物部門社員3人が中国当局に拘束されたと発表している。先日の商船三井の問題もあり、日系企業との摩擦が気になる状況。為替市場は目立った反応を示していない。
王相殷(釜山広域市姉妹都市委員会顧問)商船三井 関釜フェリー
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi
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