2014年4月2日水曜日

寒河江・慈恩寺 「二童子像」頭部が実は逆

「二童子像」頭部が実は逆でした 寒河江・慈恩寺、修復完了し不動堂に安置

寒河江市の慈恩寺本堂東隣の不動堂に安置されており、昨年11月から京都市の専門業者に修復に出していた県指定有形文化財「二童子(にどうし)像」(2体)の作業が終わった。修復の結果、製作時期が当初の見方より古く、 さらに2体の頭部が入れ替わっていたことが判明した。二童子像は4月1日から公開される。

不動堂は1635(寛永2)年に建てられ、東北36不動尊第1番札所となっている。 二童子像は、不動明王立像(県指定有形文化財)の両脇に控える脇侍(きょうじ)で、正面から見て右が「矜羯羅(こんがら)」、左が「制●迦(せいたか)」と呼ばれている。 2体は欠損箇所があるなど、傷みが激しいことから修復に出し、3月28日に作業が完了した。

修復を手掛けた「泉企画」の泉谷申一さん(京都市)によると、鎌倉時代末期とされていた製作時期が、50年以上さかのぼる1200年代の鎌倉中期ということが判明。作風などから運慶、快慶らに代表される慶派の仏師によるものの可能性があるという。二童子像の頭部が入れ替わっていたことも分かり、首と胴の接合部分が合致した。関係者は火災などで持ち出された際に入れ間違えたのではないかとみている。

作業では新たに岩座をつくり、欠損していた玉眼や脚、まとっている裳を補完し、本来の姿に近づけた。制●迦が持っていたとされるハスの花も加え、ずれが生じていた矜羯羅の両手もそろえた。 泉谷さんは「貴重な仏像で、一木造りとなっている。不動明王と同じ時代に、京など中央から訪れた仏師が慈恩寺に来て、東北地方特有のカツラの木を用いてつくったのではないか」と話す。

二童子像は、山形DCに向け、県と市の補助を受けて修復。慈恩寺では1979(昭和54)年の木造聖観音立像を皮切りに国・県指定の仏像修復を進めており、今回ですべて完了した。

●…口ヘンに屯

2014年04月01日 15:49
http://yamagata-np.jp/news/201404/01/kj_2014040100014.php






鎌倉時代研究にとっての西園寺は、公経が関東申次の役をもったことで
九条兼実と共に不可欠な存在ではあるが
一般には、九条兼実よりは知られてあらず、網野善彦さんが、瀬戸内海流通に関係してその存在に注意を促してはいるが、あの金閣寺が元は西園寺公経の建てた寺屋敷だったということもほとんど知られていない
しかし、西園寺公経の北山殿または西園寺はとてつもないものだったようだ
元は神祇伯仲資王(仲資王(保元2年(1157)~貞応元年(1222))は、神祇官の長官である神祇伯を世襲した、花山天皇皇子清仁親王の子延信(のぶざね)王に始まる伯家の白川家当主)の所有地で、極めて辺鄙なところだったが、西園寺公経が夢で源氏中将の病を養った遺跡とみて、思いを募らせ、尾張にあった自分の松枝荘と交換して整備したという
山容を変え、泉水を湛え、阿弥陀如来を安置した西園寺を本堂とし、多くの殿堂と豪壮な別荘を建て、人境外の仙園と喧伝されたという


金閣寺は元々は白川伯王家の所有地だったわけです。(爆wwwwwwwww


1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

慈恩DEジオン@ガンダムでっか
シオンでもいいのかなw

白川さんの所有地と交換した尾張の土地
交換したほうはどうなってるんだろうね?