Burning!ですな。(w
中国・シャングリラ 200棟以上焼ける
1月11日 19時36分
観光地として人気がある中国雲南省のシャングリラで、旅館から火が出て伝統的な住宅などに燃え広がり、200棟以上が焼けました。
中国南西部・雲南省、シャングリラの旧市街地で現地時間の11日午前1時すぎ、旅館から火が出て、風にあおられて燃え広がりました。
地元の消防や軍などおよそ2000人が出て消火や救助に当たりましたが、現場は空気が乾燥し、木造住宅が密集していたこともあり、火は数時間燃え続け、地元政府によりますと242棟の住宅や商店が焼けました。
これまでのところ、けが人などは報告されていません。
3000メートル以上の高地にあるこの地域には少数民族のチベット族が多く住み、豊かな自然と独特の文化で知られていて、特に火災のあった旧市街地はおよそ1300年の歴史があるとされ、観光地として外国人にも人気があります。
今回の火災では伝統的な建築物のほか、仏教文化の芸術品も焼失したということで、地元政府は被害額は日本円で17億円以上に上るとして、出火原因や被害状況の確認を急いでいます。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140111/k10014431671000.html
で、煙を吸うとラリっちゃうわけですね。(爆wwwww
シャングリラ(シャングリ・ラ、英語: Shangri-La)は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷(ユートピア)の名称。ここから転じて、一般的に理想郷と同義として扱われている。
失われた地平線
概要
小説は11章からなる本文と、プロローグとエピローグからなる。本文は英国のパスクル駐在領事だったヒュウ・コンウェイが、熱病で一度記憶を失って 重慶の慈善病院で作家のラザフォードに発見され、上海から日本経由でサンフランシスコへ向かう一緒の船旅の中で記憶を取り戻し、語った特異な経験をラザ フォードが書き留めて原稿の形に纏めたものである。そしてプロローグとエピローグで、ラザフォードから原稿を受け取った話者である精神病学者がその前後の 経緯を説明する形になっている。
あらすじ1931年に革命騒ぎで混乱したアフガニスタンのパスクルから80人の白人居住者を避難させる任務に就いていた37歳のコンウェイは、最後の3人 (若い副領事マリンソン、東方伝道会のミス・プリンクロウ、アメリカ人のバーナード)とともに政府手配の小型機に乗った。だが、その操縦士は本来の操縦士 とは別人で、飛行機は目的地ペシャワールではなく、チベット奥地へ飛んだ。そして飛行機は最後に乱暴な着陸をし、操縦士は近くにラマ教の僧院があることを言い残して死んだ。夜が明けて、中国人張の一行が来て、4人をシャングリラの僧院に案内した。
僧院は近代的な施設で、集中冷暖房設備、アメリカ製のバスタブ、膨大な書籍を擁する図書室、グランドピアノ、ハープシコードなどを備えていた。食料 はすぐ下の谷間で潤沢に生産され、近くには標高8500mを超えるカラカル山がそびえていた。また豊富な金鉱があって、外部からの必要なモノの購入に不自 由しなかった。ここでは人々は平和でストレスのない生活をしていて、年をとるのが非常に遅かった。4人は外部に出る手段がないままに、シャングリラにとど まり、特にコンウェイはこの地を好ましくなっていった。
しばらくしてコンウェイは最高位のラマ僧「大ラマ」と会う機会を与えられ、いろいろと話を聞いた。この僧院は1734年に53歳でこの地に来たカプチン会所 属のカトリック神父ペローによって創建され、その後、土地になじんで次第に性格を変えていった。そしてこの大ラマは齢250歳以上という長寿の奇跡を手に 入れたペロー神父その人だった。また、大ラマの話で、シャングリラではできる限り一定の数で新しい人を迎えるように務めてきたが、この20年ほど新来者が なかったので、信徒の一人が思いきって谷を出て補充の人員を連れてこようと提案し、大ラマの許しを得て計画を練り、偶然も手伝ってコンウェイら4人をここ に連れてくることになったという事情も分かった。
張は今や何一つ隠さず、僧院の決まりや習わしを自由に語ってくれた。また、僧院の何人かと知り合い、中にはショパンの直弟子を称するフランス人もい て、耳慣れた曲以外にもまだ出版されてないショパンの幾つかの作品までピアノで披露、楽譜に書き起こし、コンウェイはそれを御復習いして飽くことを知らな かった。 大ラマとの面会も3回、4回と回を重ね、広範な話題で心置きなく話し合い、心を交わした。こうしてコンウェイは次第に心身一体の満足を疼くほどまでに覚え るようになった。
さらに時間が経ち、外部に出る唯一の機会である、その地に物資を運ぶ運送業者が来ることになった。そのころになると、コンウェイだけでなく、ミス・ プリンクロウとバーナードもそれぞれの理由でこの地に居残ることに心を決め、一人マリンソンだけが帰心矢のごとくだった。マリンソンは僧院の満州娘、羅珍 と恋仲に陥っていた。張によれば、羅珍は1884年に18歳でここに来たというから、若くは見えるが実際はかなりの高齢である。
そして何回目かの大ラマとの面会の機会に、大ラマはいよいよ自分の死期が近づいたことを告げ、シャングリラの歴史と運命をコンウェイの手に委ねたい と言い残して、寂滅した。一人シャングリラを出るマリンソンは、運送業者の待つ場所までの山道の難所を一人では通れないというので、コンウェイが一緒に行 く。そして谷を出たところで運送業者の一団と羅珍に会う。コンウェイの手記はそこで終わっている。
エピローグでは、最後にコンウェイがバンコックから寄越した手紙にこれから北西方面に長い旅に出るとあったのを頼りに、ラザフォードがコンウェイの跡を追い、手記の裏付を探る旅をする。『コンウェイは果たして、シャングリラを尋ねあてるだろうか』。
、、、(w
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イラン議会重鎮 米と協力の可能性示唆
イランの外交・安全保障に強い影響力を持つ保守強硬派の議会の重鎮は、NHKとの単独インタビューで、内戦が続くシリアでアルカイダにつながる武装勢力が台頭し周辺諸国にも広がっている問題について、武装勢力を抑え込むため、長年対立してきたアメリカと協力する可能性を初めて示唆しました。
イランの首都テヘランで、11日、イラン議会の保守強硬派の重鎮でシリアのアサド大統領とも関係の深いボルジェルディ国家安全保障・外交委員長がNHKとのインタビューに応じました。
この中でボルジェルディ委員長は、シリア内戦について、「サウジアラビアなどは反政府勢力に多くの資金援助を行ったが、失敗に終わった」と述べ、アサド政権が倒れる可能性は低いという認識を示しました。
そのうえで、反政府勢力の間で国際テロ組織アルカイダにつながる武装勢力が台頭し、イラクなど周辺国にも広がっていることに懸念を示し、「イランとアメリカの政策は整合性がとれる部分がある。アメリカとの直接交渉は、今は核問題に専念しているが、将来はこの問題も非常に重要になる」と述べ、武装勢力を抑え込むためにアメリカと協力する可能性を初めて示唆しました。
一方、今月22日に開催が予定されているシリアの和平を目指す国際会議については、「正式に招待されればイランは参加するだろう。ただ、シリアの次の指導者は選挙で選ぶべきであり、アサド大統領をはじめから排除する前提は受け入れられない」と述べ、同盟関係にあるアサド政権を支持する立場を強調しました。
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