長吏 - Google 検索 via kwout
今はエタ・ヒニンのボス格とだれる「長吏」ですが・・・
元々は・・・
長吏なんて称号は元々は
本山修験宗総本山 聖護院門跡の長老最高職者
だけに許された称号だったわけです。(爆w
要するにエタ・ヒニンのボス格、修験者・密教僧のラスボス・最終ケツモチは明治天皇以前の旧本家って話です。(爆wwwww
「長吏(チヤウリ)」
室町時代の古辞書である『運歩色葉集』(1548年)の「知」部に、
長吏(リ) 。〔元亀二年本65七〕〔静嘉堂本76八〕〔天正十七年本上38ウ四〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載する。
古写本『庭訓徃來』十月三日の状に、
聖道者一寺検校執行別當長吏学頭座主院主執當先立阿闍梨法橋律師〔至徳三年本〕
聖道者一寺檢校執行別當長吏學頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔宝徳三年本〕
聖道者一寺檢校執行別當長吏学頭座主院主執當先達阿闍梨法橋律師〔建部傳内本〕
聖道者(ニハ)一寺ノ檢校執行別當長吏(リ)學頭(トウ)座主院主執(シツ)當先達阿闍梨法橋法眼律師〔山田俊雄藏本〕
聖道(シヤウダウ)者(ハ)一寺ノ検校(ケンケフ)執(シ )行別當長吏(リ)学頭(カクトウ)座主院主執(シツ)當先達(タチ)阿闍梨法橋(ケフ)律師〔経覺筆本〕
聖道ハ者一寺ノ檢校(ケンゲウ)。執行(シユキヤウ)。別當。長吏(リ)。学頭(カクトウ)。座主(ザス)。院主。執當(シツタウ)。先達(せンタツ)。阿闍梨( シヤリ)。法橋(ホツケウ)。律師(リツシ)〔文明四年本〕
と見え、至徳三年本・宝徳三年本・建部傳内本・山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本が「長吏」とし、訓みは、山田俊雄藏本・経覺筆本・文明四年本に「(チヤウ)リ」と記載する。
古辞書では、鎌倉時代の三卷本『色葉字類抄』(1177-81年)と十巻本『伊呂波字類抄』には、
長吏 チヤウリ。〔黒川本・官職門上57ウ一〕
長短 〃壽。〃命。〃事。〃行。〃吏。〃途。〃慶。〃圖。〃跪。〃指。〃堤。〃者。〃生。〃松。〃興。〃官。〃案冩官符宣旨官為長案又留官符案文。〔卷第二・畳字門473二〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載する。
室町時代の古写本『下學集』(1444年成立・元和本(1617年))には、標記語「長吏」の語は未収載にする。次に広本『節用集』(1476(文明六)年頃成立)に、
長吏(チヤウ・ヲサ、リ/ナガシ、トモガラ)[平去・上] 。〔態藝門175四〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載する。印度本系統の弘治二年本・永祿二年本・尭空本・両足院本『節用集』には、
長吏(チヤウリ) 。〔弘・人倫門49二〕〔永・人倫門50三〕
長吏(チヤウリ) ―者。〔尭・人倫門46二〕〔両・人倫門54四〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載する。また、易林本『節用集』に、
長吏(チヤウリ) 。〔言辞門48六〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載する。
このように、上記当代の古辞書においては、標記語「長吏」の語を以て収載し、これを、古写本『庭訓徃來』及び、下記真字本が収載しているのである。但し、広本『節用集』の語注記は、大いに異なっている。
さて、真字本『庭訓往来註』十月三日の状には、
624長吏 三井寺ハ用∨之東寺用∨之也。〔謙堂文庫蔵五五左④〕
とあって、標記語「長吏」の語を収載し、語注記は「三井寺はこれを用い、東寺これを用いるなり」と記載する。
古版『庭訓徃来註』では、
聖道(シヤウダウ)一寺ノ検校(ケンゲフ)執(シユ)行別當(タウ)長吏(チヤウリ)學頭(ガクトウ)座主(サス)院主(インジユ)執頭(シツタウ)先達(せンダツ)阿闍梨(アジヤリ)法橋(ホツケウ) 聖道ハ一寺ノ検校(ケンケウ)執(シユ)行別當(ベツトウ)金剛峯寺ナンドニハ。一寺ノ主ヲ検校(ケンゲフ)ト云。叡山(ヱイザン)ニハ。座主(ザス)ト云ナリ。東寺長者ト申也。書冩(シヨシヤ)ニハ院主(インジユ)ト云ナリ。其外長吏(チヤウリ)学頭(ガクトウ)別(ベツ)當ナンド云事例(レイ)儀也。執當(シツタウ)先達(せンダツ)ハ。山伏(ブシ)ノ度ヲ蹈(フミ)タル人ナリ。阿闍梨(アシヤリ)法橋(ヒツキフハ)ノ名也。〔下32ウ四~七〕
とあって、この標記語「長吏」とし、語注記は「聖道は、一寺の検校(ケンケウ)・執(シユ)行・別當(ベツトウ)。金剛峯寺なんどには、一寺の主を検校(ケンゲフ)と云ふ。叡山(ヱイザン)には、座主(ザス)と云ふなり。東寺、長者と申すなり。書冩(シヨシヤ)には、院主(インジユ)と云ふなり」と記載する。
時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
時代は降って、江戸時代の訂誤『庭訓徃來捷注』(寛政十二年版)に、
長吏(ちやうり)/長吏 三井寺にある役僧なり。〔84ウ一・二〕
とあって、この標記語「長吏」の語をもって収載し、語注記は上記の如く記載する。これを頭書訓読『庭訓徃來精注鈔』『庭訓徃來講釈』には、
聖道(しやうだう)者(ハ)一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきよう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(ざす)院主(いんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)烹橋(ほつきやう)律師(りつし)/聖道者。一寺。検校執行。別當。長吏。學頭。座主。院主。執當。先達。阿闍梨。法橋律師▲長吏ハ勧修寺(くハんしゆじ)西園寺(さいをんし)の住持(ちうち)の称(せう)。〔61ウ四、62オ二〕
聖道(しやうだう)者(ハ)一寺(いちじの)検校(けんげう)執行(しゆきやう)別當(べつたう)長吏(ちやうり)學頭(がくとう)座主(さす)院主(ゐんじゆ)執當(しつたう)先達(せんだつ)阿闍梨(あじやり)法橋(ほつけう)律師(りつし)▲長吏ハ勧修寺(くわんしゆし)西園寺(さいをんじ)の住持(ぢうぢ)の称。〔110ウ四、111オ五・六〕
とあって、標記語「長吏」の語をもって収載し、その語注記は、「長吏は、勧修寺(くわんしゆし)西園寺(さいをんじ)の住持(ぢうぢ)の称」と記載する。
当代の『日葡辞書』(1603-04年成立)に、
Cho チャウリ(長吏) Votona.(長) 他の人々が認めている頭(かしら),または,長.〔邦訳128l〕
とあって、標記語「長吏」の語の意味は「Votona.(長) 他の人々が認めている頭(かしら),または,長」と記載する。明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ちゃう-り〔名〕【長吏】寺務を統ぶる長(をさ)。即ち寺主。(勸修寺、園城寺等に)源平盛衰記記、三十四、木曾可二追討一由事「法皇は、天台座主明雲僧正、寺の長吏、八條宮を法住寺の御所に招請し」〔1283-3〕
とあって、標記語「ちゃう-り〔名〕【長吏】」の語を収載する。
これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちょう-り【長吏】 〔名〕
①中国で、吏(下級役人)の中で六百石以上の比較的俸禄・官位の高い役人。
②専門的な能力・技術をもって朝廷につかえる集団の構成員のうち、特にす ぐれたもの。
③仏語。一寺院首席としてその寺務を統理、総管する地位。また、その地位にある僧。特に、園城寺・勧修寺・延暦寺の横川楞厳院(よこかわりょ うごいん)などで用いた称。他の寺院の座主(ざす)・検校(けんぎょう)・別当などにあたる。
④中世、畿内、近国で、非人集団を統率する頭の称。特に、江 戸時代、大坂で、与力・同心に属して犯罪人の探索や逮捕などの目明かしの仕事に当たった非人の頭の称。非人の居住地として、鳶田・千日・天満・天王寺が決 められ、それぞれの集団の四人の長を称した。
⑤江戸時代、主として関東での穢多(えた)の別称。もと賤民統制の職名であったが、身分の称となった。穢多頭 弾左衛門の支配をうける地方在住の穢多を在方(ざいかた)長吏といい、それを支配するものを長吏小頭と呼んだ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
これを現代の『日本国語大辞典』第二版に、標記語「ちょう-り【長吏】 〔名〕
①中国で、吏(下級役人)の中で六百石以上の比較的俸禄・官位の高い役人。
②専門的な能力・技術をもって朝廷につかえる集団の構成員のうち、特にす ぐれたもの。
③仏語。一寺院首席としてその寺務を統理、総管する地位。また、その地位にある僧。特に、園城寺・勧修寺・延暦寺の横川楞厳院(よこかわりょ うごいん)などで用いた称。他の寺院の座主(ざす)・検校(けんぎょう)・別当などにあたる。
④中世、畿内、近国で、非人集団を統率する頭の称。特に、江 戸時代、大坂で、与力・同心に属して犯罪人の探索や逮捕などの目明かしの仕事に当たった非人の頭の称。非人の居住地として、鳶田・千日・天満・天王寺が決 められ、それぞれの集団の四人の長を称した。
⑤江戸時代、主として関東での穢多(えた)の別称。もと賤民統制の職名であったが、身分の称となった。穢多頭 弾左衛門の支配をうける地方在住の穢多を在方(ざいかた)長吏といい、それを支配するものを長吏小頭と呼んだ」」とあって、『庭訓徃來』のこの語用例は未記載にする。
[ことばの実際]
雜色時澤、爲使節上洛是園城寺長吏、僧正房覺、痢病危急之由、依有其聞、被訪申之故也武衛、日來御祈祷等事、被仰付〈云云〉《訓み下し》雑色時沢、使節トシテ上洛ス。是レ園城寺ノ長吏(リ)、僧正房覚、痢病危急ノ由、其ノ聞エ有ルニ依テ、之ヲ訪ヒ申サルルガ故ナリ。武衛、日来御祈祷等ノ事、仰セ付ケラルト〈云云〉。《『吾妻鏡』元暦元年五月十二日の条、》
長吏 (賎民)
長吏(ちょうり)とは日本における賎民の呼称の一つで、中世には穢多(かわた)・非人の頭目を指したが、江戸時代には穢多または非人・非人頭を指してその範囲は地域によって差異があった。
中世の長吏
中世の非人身分の様子を窺い知ることができる奈良坂・清水坂両宿非人争論(鎌倉時代中期)からは興福寺・清水寺支配下の末宿ごとに一人の長吏が統率しており、支配下の宿の有力長吏は両坂の本宿に詰めていた。本宿では長吏―長吏の下座―長吏法師(小法師)―若小法師という階層があり、一﨟・二﨟という﨟次があり惣後見という制度があった。このことから非人宿の構成も同業者の組織である座として構成されていたと見られる。近世の長吏
『日葡辞書』においては「死んだ獣の皮を剥いだり、牛の皮を剥いだりする人、あるいは癩病人にたいして監督権をもっている頭」とある。また穢多(Yetta)の項に「長吏に同じ。いろいろな仕事の中でも死んだ牛や馬の皮を剥ぎ、その皮でさまざまの者を作るのを職とする身分の卑しい人々」とある。長吏も穢多も同じ内容を指しているが穢多の場合皮革業が強調されていて職能的である。江戸時代の長吏の内容は地域ごとに異なる。各地の長吏
- 穢多・かわたを意味した地域
- 町離、丁離とも言われ、鶴岡では牢屋番、犯人の護送、断罪の後始末を行い、酒田では罪人と葬具の取り扱いに従事。また双方で目明し(岡っ引き)もした。長吏と非人の間に支配関係はなかった。
- 町離ともいい、天正16年(1588年)に松本城下の出入口にそれまで在方で皮革及び皮革製品の生産に従事していたかわたが集住させられて清掃・警察の下働き。刑吏の仕事を命ぜられて成立した。海津(松代)・小諸・上田等の諸城下にも同様に配置された。また陣屋・代官所の ある町村にも牢守として配され、各宿場出入り口には長吏屋敷が置かれた。また、領地境・国境の要地の宿駅にも長吏が置かれて、いずれも清掃・警察の下働 き・刑吏の仕事を命ぜられた。このように政策としての長吏屋敷の配置であったため、成立期には1戸~数戸の小規模集落が圧倒的だった。城下に頭と年寄がお り、各地に組頭、その下に各地の長吏が組織されるという階級制度が採用されていた。長吏は非人を支配しなかった。
- かわたの事を長吏と呼んでいた。その頭は山口にいて、二ヶ国の長吏を支配した。非人は長吏の支配を受けていた。
- 非人・非人頭を意味した地域
- 以下の地域では大都市に非人の大居住地がありその頭たる長吏が仲間の非人と村々の非人番を支配した。大坂・堺・奈良とも長吏及び配下の非人は町奉行所与力・同心の下で警察・刑吏の下働きに使役された。穢多(かわた)とは全く独立した身分であった。
- 大坂四ヶ所は「垣外」とも言われ天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所の居住地よりなりそれらの間に上下関係はなかった。このうち道頓堀垣外には多数のキリスト教信者が住んでいたがその殆どが寛永8年(1631年)の弾圧で棄教者(転び)となったが二三人が改宗を拒んでマカオへ追放されており、追放された非人が癩病患者であった事から、大坂などの長吏は先述の『日葡辞書』の説明の後半に該当することが判る。各垣外には長吏―二老―組頭・小頭―若キ者―弟子という階層があって長吏は世襲制だった。
- 5人の長吏があった。
- 伊賀など
参考文献
- 『部落史用語辞典』 小林 茂、三浦 圭一、脇田 修、芳賀 登、森 杉夫、柏書房、1990年。ISBN 978-4760105670。
- 『兵庫の部落史〈第1巻〉近世部落の成立と展開 (のじぎく文庫)』 臼井 寿光、神戸新聞総合出版センター、1991年。ISBN 4-87521-697-1。
、、、(w
5 件のコメント:
すると廃仏毀釈は。
四民平等で消滅したはずの制度が復活してるわけですし。。まあ、徳川イエズスも非人の側も、どちらも白山支配の駒だったんでしょうけど、だからこそ、自分たちが駒の一つだとは気付かなかったんでしょうな
田布施コネクション確立は同和革命だったんでしょうね。
そのお陰で日本に限らず、世界中が現在、散々DEATH。
治世能力が無い輩が利権を握るとどうなるか。
我が日本国に限る話では無いDEATH
だって、生存環境が失われるんだからw
http://www3.nhk.or.jp/lnews/otsu/2064463231.html?t=1400309054589
民家火災、住宅など7棟燃える 東京・府中:朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/articles/ASK3R3SHYK3RUTIL01Q.html
2017年3月23日12時36分
火災で焼けた民家=23日午前10時49分、東京都府中市本宿町1丁目、根津弥撮影
23日午前9時40分ごろ、東京都府中市本宿町1丁目の民家から出火、木造2階建て約100平方メートルが全焼した。隣接する2階建て住宅にも燃え移り、約80平方メートルが全焼した。東京消防庁によると、ほかに周囲の住宅など計5棟にも延焼した。けが人はなかった。現場はJR南武線西府駅から西に約200メートルの住宅街の一角。
自宅が燃えた女性(79)は、テレビを見ていた時に火事に気づいた。「突然バーンという音がして外を見たら、隣の家から真っ赤な炎が上がっていた。急いで家を飛び出し、火事だと叫んだ。火が家まできてしまい、どうしようもない」と肩を落とした。(根津弥)
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