2013年9月12日木曜日

梨木神社

京都御苑の東隣にあり、ハギの名所として知られる梨木神社(京都市上京区)が境内の土地を業者に貸し、マンションの建設計画を業者が進めていることが10日、分かった。同神社は「本殿などの改修費用を借地料収入で確保する」と説明している。

計画では、境内約8100平方メートルのうち、参道があり、駐車場として使っている南側部分約2100平方メートルを、下京区のマンション開発業者に60年間の期限付きで貸す。業者は地上3階(最高部は13メートル)と地下1階で、35室の分譲マンションを建設し、2015年に完成する予定だ。

梨木神社は昨年、所属する神社本庁(東京都)に建設計画を伝えた。しかし、参道上に建設し、御所に近いため承認を得られず、同庁を離脱した。

多田隆男宮司(62)によると、京都三名水の一つとされる「染井の井戸」は現状のまま残る。神社は2011年、老朽化した築130年の本殿や拝殿などを約1億3千万円かけて改修。社務所や能舞台などの改修も予定しているが、寄進が集まっていない。

市によると、現地は高さ15メートル以下ならマンションなどを建設できる地域。都市計画法に基づく歴史遺産型美観地区のため屋根や軒の設置が必要で、周辺と調和した色合いにしなければならない。市眺望景観創生条例で京都御苑から見える眺望を建造物で阻害しないよう求めている。

梨木神社は1885年の創建。王政復古を唱え、明治維新の原動力となったといわれる三條実萬・実美の父子を祭神としてまつる。

09月11日 08時30分 京都新聞
http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130911000014

梨木神社爆破事件(なしのきじんじゃばくはじけん)とは、1977年1月1日に、京都市上京区にある梨木神社で起こされた、爆弾ゲリラ事件。
日本の新左翼活動家である加藤三郎が起こした事件である
梨木神社は、1885年久邇宮朝彦親王の令旨に基づき、旧三条邸に創建された神社で、明治維新に貢献した三条実万を祀っている。その後、息子の三条実美も合祀した。
加藤は、三条実美を「日本帝国主義の担い手となる明治政府の最高権力者(太政大臣)」として非難し、彼を祀る梨木神社の爆破を決意した。
事件の概要1977年1月1日午後8時45分頃、加藤が事前に設置した消火器爆弾が梨木神社本殿にて炸裂し火の手が上がった。宮司禰宜が直ちに消火活動を行ったため、本殿の一部を焦がすに止まった。この日はまさに元日当日であったが、夜であったため初詣の参拝客はおらず、怪我人はいなかった。その後の調べで、消火器の破片などが見つかったことから、消火器爆弾による爆破事件と断定された。
1月5日に、加藤は「闇の土蜘蛛」「浮穴媛のこどもたち」名義の犯行声明文を マスコミに郵送した。犯行声明文には「三条実美の三つの罪状(搾取と抑圧の明治政府樹立、他民族に対する侵略、反体制運動の弾圧)により、爆破の刑に処す る」旨が記されていた。「闇の土蜘蛛」はともかく「浮穴媛のこどもたち」のようなテロ組織らしくない名称を敢えて入れたのは、「父権的天皇制」に対するアンチテーゼの意図があったという。



加藤 三郎(かとう さぶろう、1948年7月25日 - )は、日本の新左翼の元活動家で、神社本庁爆破事件など数多くの反日武装闘争を実行した。指名手配中にインド神秘家バグワン・シュリ・ラジニーシに弟子入りしたことから「スワミ・プレム・デパム」の宗教名もある。

出生と少年時代1948年7月25日、岐阜県武儀郡神渕村(現・加茂郡七宗町)で天理教の教会を営む両親の三男として生まれる。幼少時より天理教陽気ぐらしの教義に親しみ、弱者のために生きていく価値観を育む一方、兄が成績優秀であったため、兄に対するある種の劣等感を持ちながら成長していった。
1964年、岐阜県立加茂高等学校に入学すると、「生きることの意義」を見い出すために文学に傾倒していった。
ベ平連に参加高校3年生の時、小田実ベ平連参加を呼びかける檄文に触れ、「名古屋ベ平連」に参加することになった。高校卒業後は、土工アルバイトをする中で、多くの在日韓国・朝鮮人と知り合い日本の民族問題に関心を持つきっかけとなった。
1969年より美濃加茂市を拠点にベ平連活動をすることになり、4月に「みのかもベ平連」を旗揚げした。この「みのかもベ平連」はヴィルヘルム・ライヒの『性と文化の革命』の影響を受け、コミューン志向を強めていくことになる。
反日思想との出会い1970年頃から、朴慶植の『朝鮮人強制連行の記録』や太田龍の『辺境最深部に向かって退却せよ』を読んだことで、「日本帝国主義の悪行」を知り、「犯罪民族・日本人」の「罪深さ」を痛感し、過激な反日思想を培っていった(反日思想の詳細については、「日本原住民論」「反日亡国論」を参照)。同時期、北海道で自生しているを発見、マリファナを精製して活動資金を捻出しようとしたが、名古屋の地下街で大麻所持の現行犯により逮捕され、そのときに太田龍の著書を持っていたことから、自身が「反日主義者」であることが警察に露見した。
1974年8月30日、三菱重工爆破事件連続企業爆破事件の最初の事件)が起きると、加藤は事件を起こした東アジア反日武装戦線の刊行物『腹腹時計』を読み、彼らの反日闘争に強い衝撃を受けた。やげて加藤の頭には「武装闘争」の四文字がよぎり始めた。
非合法活動の開始手始めに、坂上田村麻呂の墓や明治天皇関連施設にペンキで 落書き(加藤の表現によれば「ペンキゲリラ闘争」)をすることにした。坂上田村麻呂は「桓武期の蝦夷侵略軍の総大将」、明治天皇は「アイヌモシリを侵略し た天皇」というのが攻撃の理由であった。1975年5月に決行し、新聞社にも犯行声明の電話をかけたが、報道されることはなかった。
続いて、1976年1月6日には平安神宮放火事件も起こしたが、この事件もほとんど報道されなかった。
加藤は「反天皇制闘争」を黙殺して葬り去ろうとする「天皇制日本国家の陰謀」に対して、ますます敵対意識を強め、黙殺できないくらいの大きな事件、「爆弾闘争」へと傾斜していった。
爆弾闘争の開始1976年春に、爆弾の材料となる除草剤を購入したものの、なかなか踏ん切りがつかず、一時的にどこかに隠すことにした。7月2日夜に岐阜県可児郡可児町(現可児市)の工場跡に隠そうとしたが、警察に見つかった。隙を見て脱出に成功したものの、除草剤などは放置した。警察は加藤を爆発物取締罰則違反で指名手配し、加藤の交友関係を調べていくうちに北海道庁爆破事件の犯人として大森勝久が浮上したため、8月に大森を逮捕した。
加藤は自分自身が指名手配の身となったこと、自分の不始末により友人の大森が逮捕されたことに自責の念を感じ、腹を括って爆弾闘争に専念することになった。
加藤が起こした爆弾事件は以下の通りである。様々な組織名があるが、全て加藤の単独犯行である。
反日思想からの離脱とラジニーシとの出会い1978年の正月三箇日に明治神宮尿を飛び散らせる「糞尿爆弾」の製造に取り掛かっていたが、1978年1月1日に潜伏先のアパートで誤爆してしまった。糞尿を飛び散らせることを目的とした爆弾であったため威力が小さく、軽傷ですんだが、自身は糞尿まみれとなってしまい、彼の心の方は深い傷を負った。
この誤爆事件以降、爆弾闘争は止め、ひたすら各地を転々とする逃亡生活をおくった。逃亡生活中、以前愛読してしたライヒの著書を再読していくうちに、「反日思想」からの離脱を自覚するに至った。
そして、ある書店で『生命の歓喜―バグワン・シュリ・ラジネーシとの対話 ダルシャン日誌』という本が目に入った。この本はインドの神秘家ラジニーシが弟子や訪問者の質問に回答していく宗教書であった。加藤はラジニーシ思想に感 化され、遂にラジニーシのサニヤシン(弟子)になることを決意し、「スワミ・プレム・デパム」の宗教名をもらうことになった。なおこのとき、漫画家・漫画 原作者の久住昌之と同門している(久住の宗教名は「スワミ・デバ・ヤス」)。
逮捕及びその後1983年5月、加藤は逮捕された。逮捕時はラジニーシのペンダントを身に付け合掌するなど、「修行僧」のような身振りをしていたことが話題となった。
加藤は現住建造物等放火罪等の罪状で起訴された。加藤と弁護人は、平安神宮の放火箇所は「非現住建造物」であり、殺人罪並の量刑である現住建造物等放火罪の適用は不当と主張したが、裁判所はこれを認めず、一・二審とも懲役18年の判決が下った。1989年7月、最高裁は上告を棄却し刑が確定した。
2002年12月に釈放され、現在は岐阜県内で自給自足の生活を送っている。


、、、(w

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

1981年 見真大師 削除
加藤三郎