2013年9月11日水曜日

船後正道氏@元富山税務署長死去

船後正道氏死去(元環境事務次官)

船後 正道氏(ふなご・まさみち=元環境事務次官)3日午前8時50分、肺炎のため死去、92歳。奈良県出身。葬儀は近親者で済ませた。(2013/09/10-17:45)
http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2013091000768






大阪財務局と近畿財務局の思い出

元近畿財務局長(昭和41年7月~42年8月)
船 後 正 道

32年に及ぶ役人生活で地方勤務の経験は,3度で約4年間であった。昭和21年2月から2年足らずの富山税務署長と,引き続き22年12月から1年間の大阪財務局勤務,最後は41年7月から1年間の近畿財務局長である。税務署の時も,管財支所と地方部を兼務したから,私の比較的短い地方勤務は,すべて財務系統の仕事に関係したことになる。

当時の管財支所は,旧軍用財産と賠償指定機械の管理に当たっていたが,後者については占領軍の監督を受けていた。埃があるの錆が出たのと,口やかましいサージャントのご機嫌を取り結ぶために,時々一杯やるのが支所長の主な仕事であった。地方部は21年11月の開設である。金融緊急措置令,企業再建整備法関係などの事務のほかに,政府小切手の認証という変わった仕事があった。「俺の判コがなければ県の予算は執行できない」など,県の課長をしていた内務省の同期の仲間に威張ったものであるが,評判の悪い割には実効の挙がらぬ制度であった。富山と金沢の初代部長は,照田弘久金沢地方専売局長の兼務であった。照田さんの大阪財務局転任後,正式に地方部長心得を命ぜられるまでの間は,私は照田部長私製?の次長という辞令を頂戴していた。次長?のあった地方部は富山だけではあるまいか。当時は社会全体が激しく揺れていた時代であった。次々と生起する行政ニーズに対して,組織や人事がついて行けなかったのである。

大阪財務局勤務の当初も,私の履歴書には記入されていないポストである。署長拝命直前に父をなくしたという家庭事情から,郷里の大阪財務局勤務は私の希望であったが,当時の人事慣行として2度目の署長勤めを予期していた。ところがいただいた辞令は総務部企画課長となっていた。聞いたこともない課である。それもそのはず企画とは名ばかりで,労組対策が主な仕事であった。その実情はこうである。21年の2・1ストのあと,全財労組は急激に左傾しつつあった。これはその後,23年3月ストヘとエスカレートし,やがて5月には全財分裂へと発展していくのであるが,当時の大阪では,組合交渉は部長の専属事項となっていた。団体交渉事項の範囲が広く,当時の財務局組織では適当な窓口がなかったのに加えて,人事にも介入した労組相手の仕事には,スタッフのなり手がなかったのである。このような事情から設けられた課であったが,本省との関係ではヤミの課であった。私の課長ポストが認知されたのは,8月に財務局官制が改められ,総務部に総務課が設けられた時である。当時の財務局庁舎は,大阪城堀端に焼け残った旧造兵廠の建物であった。点在する建物に各部が入居していたから不便極まりなかったが,お堀に面した窓からは鮒や鯉が釣れた。市中の混雑から隔絶された別天地であった。仕事はきつかったが,結構楽しかった。私は,各部連絡に駆け回りながら,独身時代最後の1年を,このボロ庁舎で送ったのである。

翌24年は財務・国税分離の年である。私は主税局で国税庁創設の事務に従っていた。分離についてはGHQの覚書も出たが,国税側からみれば,当時の本省及びブロックの徴税機構は,既に管理能力の限界を超えていたのである。戦後大蔵省の地方機構はめまぐるしく変遷するが,思えば私は終始第一線にあってその渦の中にいたことになる。

近畿財務局長を拝命したのは,40年不況の後をうけて戦後初の公債発行に踏み切った年である。その年の1月から,大蔵省では省を挙げて財政新時代のキャンペーンと,公共事業の施行促進に取り組んでいた。しかし後にして思えば,私の赴任した頃景気は既に回復過程に入っていたのである。関西財界には,前年の山陽特殊鋼倒産の余波などがまだ残っていたけれども,人々の関心は45年開催に決定した万国博覧会に向けられつつあった。やがて翌年春の財務局長会議の頃には,過熱警戒の声すら聞かれるような情勢になっていた。日本経済の構造も,前途に対する人々の意識も現在とは大きく違っていたのである。財務局も分離後17年を経過し,組織は整備され職員は充実していた。思えば古き良き時代であった。私の在任期間は,あまり問題のない平凡な1年であったように思う。印象に残ることといえば,証券会社の免許制移行に伴う廃業,合併,神戸証券取引所の解散などであろうか。

当時の庁舎は大手前の第一合同庁舎で,新しい第二合同庁舎は建設中であった。ここに移転を決めたのは私の在任中であるが,職員多数の意見が反対だったのは,今思えばおかしいことである。財務部庁舎も概ね整備が終わっていた。残されていた大津は42年2月に竣工,最後の奈良は離任後の43年3月である。奈良の庁舎は,当時市内に散在していた国の出先機関を集め,合同庁舎として建設した。県単位の庁舎では,エレベーター,冷暖房付第1号のはずである。

一昨年私は,亡くなられた市川晃さんのあとを受けて,財務局OBで組織するなにわ会の会長をお引き受けした。古参会員の殆どは,私の在局当時の課長さんたちであった。戦災直後の日銀,三和,野村の3か所分散時代を知っている人は数少なくなっていて,現在は旧造兵廠組が幅をきかせていた。やがて時代は,大手前庁舎組へと移って行くであろう。私も元気でいて,皆さん方とのお付き合いを続けていきたいものだと念じている。

、、、(w

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