2013年8月15日木曜日

靖國寺の仕掛け人は昭和天皇にDISられ身内のカルトに殺された田中義一@曹洞宗閥








また昭和天皇にも「(この事件を犯人不明としてその責任者を単に行政処分で終らせたといふことは、帝国の陸軍の綱紀を維持する所以でないといふことを御軫念になり、田中総理に対し)お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と強く叱責され、「(奥には入って鈴木侍従長に)田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ。」[5]と勅勘をこうむったため、田中は涙を流して恐懼し、翌・1929年(昭和4年)7月に内閣総辞職した。


総辞職後狭心症の既往があった田中に天皇の叱責はやはり堪えた。退任後の田中はあまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症で帰らぬ人となった[6] 田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶える事になった。
昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても一切口を挟まないことを決意した[7]

コレが示唆してるのは

1.田中を殺すことによりまだナイーブだった昭和天皇の心に付け入り昭和天皇が政府の方針に逆らわないように仕向けた。

2.昭和天皇が政府の方針に今後口を出したとしてもその事実を隠蔽するための口実として田中の死を利用した。

3.両方


さすが殺人カルト。あくどいのう・・・(爆wwwww






田中義一 = 曹洞宗閥DE長州

、、、(爆w

8 件のコメント:

月夜 さんのコメント...

>狭心症
基本心臓は刺激電導系
薬でも電気でも色々と

本当は心臓でなくても
致死量のアルコールとか

その時代、司法解剖なんてなかったでしょうし

今でも
事件性ないと判断されたら
脳血管性疾患否定で心疾患とみなされますし

あぁ、プーチン閣下より
オソロシア

匿名 さんのコメント...

昭和天皇のポツダム宣言受諾があっての、今の日本であるのに、70年近く経過して、いまだにきちんと整理して認識できないこと、我が国の認識そのものがあいまいであることが根本的な原因となって、そのことが多くの誤解を生み、たいへん残念なことになっている。

よその国の「せい」にするのは簡単。
でも、楽で簡単なことと必要なことは全く別で、一生懸命に簡単なことをしても、必要なことをしなければ、意味がない。
困ったときほど、一生懸命楽なことをして、必要なことをしない、ということはよくやりがちで後悔する。
70年近くも、それでよい、はずはない。

さまざまな歴史の局面が織りなす大きな流れのなかで、決断という選択によって生み出される「現実」を生きるわけで、昭和天皇の決断によって生かされてきたことの意味を、大切にしたい。

一億総玉砕だったら、ここは誰もいない国になっていたわけ。

団長さんもみなさんも、いない国に・・

匿名 さんのコメント...

はたして日本は国家として統一した意思を持っているのか。昭和天皇は軍や政治を掌握しきれているのか。
盧溝橋事件やヒューゲッセン事件を経て、英国政府は疑念を抱き始めた。
秩父宮が日本へ出発した直後の1937年9月24日、英国外務省が作成したレポートは、彼らの疑念を如実に表している。
天皇を頂点とする、日本の政治システムの分析だった。
「憲法の理論上、大元帥の天皇は陸海軍を統帥しているが、実際には、皇族や宮内省、軍部の意見を受けて行動する。(中略)従って、天皇を取り巻くアドバイザーが、その意思に影響を及ぼし、日本の政策を決定していく」
昭和天皇の性格分析を見てみる。
「周囲の人間の操り人間とならないためには、強い個性が求められるが、今の天皇は、それを持ち合わせていない。彼は気立てが良く、従順な性格だが、特に知的で明敏には見えない。(中略)天皇は弟の秩父宮のような自由も与えられず、自分の意見を形成する機会も持てなかった。(中略)大正天皇が発狂したとき、(注・英文では when the Emperor Taisho became too mad to carry out his Imperial functions) 彼は摂政に就任し、25歳で天皇に即位した。(中略)個人としての天皇は、自由主義や穏健主義の傾向が見られる。重大局面では、軍部に対抗して行動し、1932年、上海(事変)からの日本軍撤兵は、天皇に拠る所が大きかった」(1937年9月24日、英国外務省報告)
秩父宮や吉田茂はことあるごとに昭和天皇の名を挙げ、和平を働きかけてくる。吉田の日英秘密交渉しかり、秩父宮の国王への書簡しかりだ。
しかし、盧溝橋事件に続く軍の暴走は、彼らの努力を無にしてしまった。
当の天皇は彼らが喧伝するほど強い意思や権力を持っていないのではないか。
明治維新の頃から情報収集してきた英国は日本の権力構造を見抜き切っていた。
そして、英国は秩父宮について、もう一つの情報も握っていた。
1938年2月、ネヴィル・チェンバレン内閣のイーデン外務大臣が退任した。後任はエドワード・ハリファックス卿、オックスフォード大学を卒業し、下院議員から閣僚を歴任してきた名門出身の人物だ。
就任直後、彼の元に、ある十ページの文書が届けられた。タイトルこそ、「日本支配層に於ける水面下の分裂、その内政・外交上の影響」とそっけないが、中身は、皇室の深刻な派閥抗争を伝えるものだった。それによると、宮中では、それぞれ昭和天皇と秩父宮を中心とする二大勢力が対立を深めているという。
天皇を支持するのは元老を始め、薩摩・長州の藩閥、資本家、大地主など、すでに富と権力を保持する者だ。欧米と友好関係を保ち、現体制を維持することが彼らの利益に適うことでもあった。
これに対し、秩父宮を取り巻いたのは、桜会、神兵隊など陸軍の将校、北一輝など右翼運動家、今の天皇に不満を抱く皇族だ。彼らにとり、現状を打破するには、クーデターでの体制転覆もやむを得なかった。
事態をややこしくしたのは、昭和天皇と秩父宮の母、貞明皇太后だった。
大正天皇が崩御した時、皇后は四十代だったが、ハリファックス卿への報告は、彼女の異性関係(注・英文では illicit relation) まで記述している。
また貞明皇太后が秩父宮をことさら贔屓し、かわいがっていた事、しばしば天皇に政治的助言を与え、それを天皇が嫌がっている事などを紹介した。
昭和天皇は周囲の環境の産物であるとして、こう指摘した。
「自分の地位の脆さ、目前や見えざる敵の存在に、昭和天皇は不安定になり、疑り深くなっている。(中略)二・二六事件は力ずくで彼を追放しようとして失敗した企てだった」(1938年3月12日、英国外務省報告)
二・二六事件の当日、一報を受けた昭和天皇が、悲痛な声で「とうとうやったか‥私の不徳のいたす所だ」とつぶやいたことは、戦後、侍従が証言している。
また、二・二六事件の決起将校と秩父宮が結びついていたとする「秩父宮黒幕説」も流された。
これらの報告書は、秩父宮を黒幕と名指しこそはしないが、彼を擁立して体制変革を狙う勢力が、宮中に存在すると結論づけている。
ジョージ6世戴冠式では英国は秩父宮を最大級の国賓として迎え、日英友好を演出した。その華やかな会場の裏では天皇家の内幕を冷徹に見つめていたのだった。

editions:2CEadjyJkQYC

匿名 さんのコメント...

http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/52028404.html

匿名 さんのコメント...

http://www.britishpathe.com/video/japanese-state-visit-aka-hirohito-welcomed-by-king

匿名 さんのコメント...

>
1.田中を殺すことによりまだナイーブだった昭和天皇の心に付け入り昭和天皇が政府の方針に逆らわないように仕向けた。

2.昭和天皇が政府の方針に今後口を出したとしてもその事実を隠蔽するための口実として田中の死を利用した。

3.両方

さすが殺人カルト。あくどいのう・・・

匿名 さんのコメント...

"一億総特攻などということでは、その後の戦局はどうなるかなど、理論的には妙なことになる"

匿名 さんのコメント...

二・二六事件犠牲の秘書官献花祭
02月26日 19時08分

陸軍の青年将校らが政府要人を殺害した「二・二六事件」から26日で83年です。
事件当時、総理大臣の身代わりとして犠牲になった福井市出身の秘書官、松尾伝蔵をしのび、地元の人たちが花を手向けました。

「二・二六」事件は昭和11年2月26日、「昭和維新」を掲げた陸軍の青年将校らが1400人あまりの兵を率いて東京の中枢を占拠したもので、政府要人など9人が殺害されました。
事件では福井市出身の総理大臣、岡田啓介も襲撃を受けましたが、秘書官の松尾伝蔵が身代わりとなり、難を逃れました。
松尾と岡田の2人が学んだ福井市の旭小学校では、故人をしのび、毎年2月26日に花を供える献花祭を行っていて、26日は2人の銅像がある福井駅前に児童と地元の住民などおよそ60人が集まりました。
子どもたちは、旭小学校の水野英一郎校長から伝えられている松尾の人柄や、事件当時の状況などを聞いたあと、銅像に白い菊の花を手向けました。
そして全員で、松尾の遺徳を偲んで作られた「松尾大佐の歌」を歌って、改めて平和を願っていました。
花を手向けた女子児童は「人のために自分を犠牲にするのはすごいことだと思う。これからも平和な日本が続いてほしいです」と話していました。
fukui/20190226/3050001578.html>