2013年8月29日木曜日

ヒマワリとウグイス 疋田氏@埋縄と白山信仰@越前と織田信長

不明の女子中学生?空き地に遺体 三重、殺人事件で捜査

29日午後2時半ごろ、三重県朝日町埋縄(うずなわ)の空き地で、パトロール中の男性警察官が10代ぐらいの女性の遺体を発見した。三重県警は現場の状況などから、女性は25日から行方が分からなくなっている同県四日市市の中学3年の女子生徒(15)の可能性が高いとみて、殺人事件として捜査を始めた。

県警によると、女性は下着を着用していたほかは衣服をつけず、仰向けに倒れていた。目立った外傷は確認できず、死後数日程度とみられるという。また、所持していたとみられる携帯電話やかばん、財布も現場周辺からは見つかっていない。県警は30日に司法解剖して死因を調べる。

行方不明になっている女子生徒は25日夜、友人の女子中学生と2人で四日市市の四日市港で開かれた「四日市花火大会」を見に行った。

その後、家に帰るため午後10時半ごろ、朝日町のJR関西線朝日駅で下車。近くのスーパーで友人と別れたのを最後に、連絡がとれなくなった。

そのころ、女子生徒の姉がメールをすると「帰るよ」と返信があったが、午後11時すぎに電話をした時には出なかった。女子生徒は当時、花柄のタンクトップに上着、黒色のミニスカートを着用し、サンダルを履いていたという。

27日午後7時ごろに四日市北署に父親から捜索願が出され、署で周辺を捜索していた。

現場は朝日駅から西に約800メートルの住宅地近くの空き地。空き地の前は県道で、近くにミカン畑などがあり、たまに人が行くことはあるが、ふだんは人通りがほとんどない場所だという。
http://www.asahi.com/national/update/0829/NGY201308290008.html

これはまた非常に重要なフラグですなあ。(爆w












第六章 若越中世社会の形成
第二節 北国武士団の形成と領主制
三 越前斎藤氏
疋田系斎藤氏

越前斎藤氏は、疋田系斎藤氏と河合系斎藤氏に分かれて発展した。前者は為延の子孫、後者は則光の子孫である。為延・則光以降の世代についても、『尊卑分脈』の記載を中心に考察する(図96 疋田系・河合系両斎藤氏の系譜)。  まず疋田系斎藤氏である。『尊卑分脈』の為延の傍注には「疋田斎藤始」とあり、その子為輔の子が方上四郎大夫を名のっている。為輔の弟為頼の子が頼基・成真・為永で、それぞれ竹田四郎大夫・宇田五郎・疋田掃部大夫を称した。これらの名のりは、為延の子孫が各自の代になって本拠と定めた地、いわゆる名字の地にもとづく。本領とし屋敷を構える地名をとって名のりとする、これが名字(のち苗字とも書いた)である。彼らはここに来て、公式の場で使う藤原という本姓やそこから派生した斎藤という姓以外に、日常用の疋田・方上・竹田などの姓を名のりはじめたのである。さらに竹田氏から大谷氏が、宇田氏から葦崎・志比氏が、疋田氏から千田・熊坂氏が分立した。
疋田・方上・竹田・宇田などの所在地について、疋田は『姓氏家系大辞典』のいう敦賀郡疋田(敦賀市疋田)でなく、坂井郡金津町の北疋田・南疋田、竹田・千田・宇田はそれぞれ丸岡町の里竹田、北千田・千田・宇田の付近、方上は鯖江市北東部の旧今立郡片上村に相当するという見解がある(浅香年木『治承・寿永の内乱論序説』)。足羽郡との郡境に近い今立郡の方上を除くと、あとはみな越前平野の東北隅、竹田川中流域に集中しているという説である。この判断は現在地名や敦賀疋田の地形的特徴、近世地誌類にみえる利仁将軍伝承地などを総合したもので、合理的な根拠をもっている。加えて、「白山豊原寺縁起」(豊原春雄家文書『資料編』四)を重視している。
豊原寺は丸岡町の市街地から東へ約四キロメートルの山間にある廃寺で、泰澄の草創といわれている。中世では平泉寺(勝山市)・大谷寺(朝日町)とともに、越前を代表した白山系の大寺であった。縁起の末尾には元禄十六年(一七〇三)の年紀があるが、内容は応永二十三年(一四一六)までのことを述べており、原型は十五世紀中葉には成立していたようである。縁起の第三段には、利仁の崇敬のあとをうけて豊原寺が「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」によって支えられてきたとあり、続いて天治元年(一一二四)疋田以成が豊原寺を再興した事情が述べられている。
図97 以成関係者の系譜

図97 以成関係者の系譜

記述にあらわれる以成の関係者の系譜は図97のとおりである。まさに『尊卑分脈』の当該部分と照応する。また縁起は、疋田為永の娘を妻にし、以成を生ませた大江通景の肩書きを伊勢守としている。これも事実であって、彼は天治元年当時には前伊勢守で白河院の院庁の主典代であった(『高野御幸記』同年十月二十一日条)。「白山豊原寺縁起」には、東国群党蜂起にあたり利仁がこの豊原寺と鞍馬寺に参篭して鎮圧の成功を祈願した記事があり、「鞍馬蓋寺縁起」を下敷きにした跡が明瞭である。ゆえに、史料としてのオリジナリティや信憑性については慎重を要するが、一応『尊卑分脈』とは別系統の所伝が越前在地に存在しており、それを基本に、「鞍馬蓋寺縁起」などを付加したものと考えておきたい。
「白山豊原寺縁起」は、利仁の母秦豊国の娘を「当国押領使長畝大夫豊国の娘(字豊閇姫)」としている。長畝は丸岡町長畝にあたり、これを荘域内部に包含していたのが長講堂領坂北荘である。この点は、彼らの祖貞正や為延の拠点を越前北部に想定したこれまでの叙述と矛盾しない。


第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
第一節 院政期の越前・若狭
二 在地諸勢力
越前斎藤氏

利仁将軍を伝説的始祖とする越前斎藤氏は、疋田系と河合系の二流に分かれて発展した(通1 六章二節参照)。前者はその苗字から判断して、坂井郡金津町の北疋田・南疋田、丸岡町の里竹田・北千田・千田・宇田の付近を主たる本拠とし、越前平野の東北隅の竹田川中流域にほぼ集中している。後者は九頭竜川と日野川の合流点北東地域および福井市八幡町から一王子町の一帯を初期の本拠とし、福井市街東北の松本、福井市の南東方の稲津町・小稲津町、市域南端の東大味町・西大味町のあたりに進出した(通1 図98)。
両斎藤氏を比べると、在地により強い基盤を形成したのは河合系らしい。『尊卑分脈』に「河合斎藤の始め」とある助宗は、中央の史料に「越前国住人輔宗」とみえ(資1 「本朝世紀」康和五年二月三十日条)、その孫実澄も「当国住人新介実澄」として登場する(資1 「吉記」養和元年九月十日条)。そして『尊卑分脈』では、助宗の父則重は「越前権介」「吉原介」、実澄は「越前介」と注記されている。
これらの「介」は、当時「在国司職」とよばれた越前の在庁官人の筆頭者・最有力者の地位を表わす。すなわち、国守が任国に赴任しない遥任制がさらに進行したこの時期、現地の国務執務組織たる留守所は、郡司級の豪族が結集した「官人」と、国衙の諸機構を分掌する専門家集団の「在庁」によって運営されるようになっていた。合わせて広義の在庁官人であるが、前者は「在庁」を統轄しながら、国内大社の神事への関与をはじめ、国司の機能を在地で体現する役割を果たしていた。彼らは国司四等官の介以下の任用国司になぞらえ介・権守・権介などの肩書をもつようになるが、これらは国守の補任と代々の相伝によるもので、県召の除目(朝廷の除目)とは直接関係がない。
越前留守所を構成する在庁官人については、平安末の「在庁」である「糺二郎大夫為俊」「安二郎大夫忠俊」(資1 「源平盛衰記」爾四)、鎌倉前期の建保六年(一二一八)の留守所下文に連署する「散位大江朝臣」「散位伊部宿」「散位品治宿」などが知られるに過ぎない(資2 妙法院文書一号)。糺為俊は日野川中流右岸、鯖江市域の糺の地を本拠とする人物だろうし、大江・伊部・品治各氏は古代以来の当地の名族である(『姓氏家系大辞典』)。ともあれ、留守所筆頭の介を名乗る河合系斎藤氏が、国衙に結集したこの国の在地領主たちのなかで最高の威勢を誇るものであったことは動かない。
「在国司」の国内神事への関与と関わって注目されるのは、平安末から鎌倉初期の斎藤系図に「白山長吏」または「白山平泉寺長吏」の注記をもつ者が四人いることである(『尊卑分脈』)。同時期斎藤一族が平泉寺の在地側責任者たる長吏の地位を世襲していたようで、その継承順は、賢厳(疋田斎藤)―広命(河合斎藤)―斉命(河合斎藤)―実暹(河合斎藤)と推定されている。ここでも河合系斎藤氏が優勢である。河合系斎藤氏が「在国司」として国内大社の神事統轄の主体になったのであれば、白山平泉寺の長吏の地位に手を伸ばすこともさして不思議ではない。平泉寺の掌握は、信仰や祭祀の領域においても、斎藤氏が国内在地諸勢力のなかで優越的な地歩を獲得していたことを意味する。
なお安元三年(一一七七)四月から五月にかけて、都とその周辺では山門の強訴、天台座主明雲の所領没収と配流の決定、配流中の明雲の僧徒による奪還などの政治的緊張が連続している。加賀の目代藤原師経の白山宮への非法に端を発する事件だが、そのなかで、近江・美濃・越前三か国の各国守に「国内武士」の調査上申が命ぜられた(資1 「玉葉」同年五月二十九日条)。山門への対抗の必要からであろうが、名簿を作成して国守に送付したのは各国衙在庁であり、その作業の越前での責任者も河合系斎藤氏であっただろう。
越前斎藤氏が在地で率いた兵力については、平泉寺長吏斉命の場合「一党五十余人」(延慶本『平家物語』)、稲津実澄で「一党五十余騎」(長門本『平家物語』)とみえている。そもそも日本の合戦について通常語られる動員数や死傷者数は、さまざまな先入観や非学問的通念の産物で、異常に誇張されている。右の場合も、誇大がつきものの軍記物にみえる数字であることを思えば、むしろ彼らの動員可能の上限を越えているかもしれない。


第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
第七節 中世前期の信仰と宗教
一 越前・若越の顕密寺社の展開
白山信仰

越前では、若狭のように国衙を中核とする祈秩序を展望しうる史料に恵まれていない。そこで、越前で強い力をふるった平泉寺を中心とする白山信仰についてみておこう。 
写真71 大野郡白山社(勝山市平泉寺)

写真71 大野郡白山社(勝山市平泉寺)

白山信仰そのものは原始的な山岳信仰に由来するが、平安初期の密教の展開のなかでそれと習合していくこととなる。『白山之記』によれば、天長九年(八三二)には白山に登拝する加賀・越前・美濃の三馬場が開けていたとする。ほぼこのころに宗叡(八〇九~八四)が越前白山で苦行を行なっており(『三代実録』元慶八年三月二十六日条)、九世紀初頭に越前馬場が成立していたことは確実である。また十一世紀中ごろに成立した『法華験記』には、立山・白山などの霊所で祈願した越中の海運法師の説話や泰澄伝承が登場しているし、天喜年間(一〇五三~五八)には日泰上人が越前白山の竜池の水を汲んだという。こうした密教験者の活動のなかで、白山の山岳信仰は仏教と習合し、やがて本地垂迹説によって教理的に体系化されていった。しかもそのさい、白山での験者の修行の場はほとんどが「越前白山」と記されており、白山信仰の仏教化は三馬場のなかでも越前馬場によって主導された。
長寛三年(一一六五)ごろに成立した『白山之記』によれば、白山は次のような構成となっている。まず白山の最高峰である御前峰には白山妙理大菩薩を、その北の大汝峰には高祖太男知大明神、南の別山には別山大行事を祀っており、それぞれの本地は十一面観音・阿弥陀・聖観音とされている。またそれぞれの山上には宝殿が設けられており、末代上人の勧進によって鳥羽院や越前国足羽の住人の願となる鰐口や錫杖が安置された。末代は富士上人とも号し、富士山に数百回登山して山上に大日寺を構えた験者で、鳥羽院の信任厚い人物である(『本朝世紀』久安五年四月十六日条)。末代は、白山の宝殿に鰐口や錫杖を奉納して白山信仰の仏教化に積極的に関わるとともに、鳥羽院と白山とを結びつけた人物でもあった。
白山信仰の越前での中心が、「平清水」「白山社」「白山平泉寺」などとよばれた平泉寺である。大治五年(一一三〇)前後に鳥羽院は、院宣によってその側近である園城寺の覚宗を検校に任じて社務を執行させた。ほぼ同時期、鳥羽院は加賀馬場の白山宮でも、神主職の上に検校職を設置して側近の信縁を補任している。鳥羽院が末代を介して白山に仏具を奉納したことと、平泉寺や加賀白山宮に積極的に介入したこととは、密接な連関があろう。
しかし、事態は必ずしも鳥羽院の思惑どおりには進まなかった。久安三年(一一四七)、加賀白山宮は延暦寺の末寺となって国衙・院権力のもとから自立しようとしたし、平泉寺も同年に住僧らが園城寺長吏覚宗の支配の過酷さに反発して自らを延暦寺の末寺に寄進した。延暦寺は鳥羽院に平泉寺の末寺化を認めるよう迫り、覚宗の没後に延暦寺末寺とするとの院宣を得た(資1 「百練抄」同年四月七日・五月四日条など)。覚宗は仁平二年(一一五二)に没しているので、まもなく平泉寺は延暦寺の末寺となったであろう。一般にこうした末寺化は国衙との政治的経済的軋轢が原因となることが多いが、平泉寺の場合も伊勢神宮役夫工米など一国平均役に対する抵抗が延暦寺末寺化の背景にあった。
こうして平泉寺は、延暦寺と結びながら地域の権門寺院としての地歩を固めていったが、そのなかで軍事集団としての性格も強めていった。養和元年(一一八一)九月に平通盛軍が木曾義仲追討のため越前から加賀に進撃したところ、平泉寺長吏斉明は平家方から寝返って、背後から通盛軍を襲撃して敗退に追い込んでいる。ところが寿永二年(一一八三)四月の平維盛を将とする追討軍との南条郡燧城合戦では、斉明は逆に平氏に内応して源氏を破り、さらに加賀国へと侵攻している。結局、斉明は倶利伽羅峠の戦いに勝利した木曾義仲に捕らえられ処刑されたが、北陸道での戦いで平泉寺が重要な軍事的役割を果たしたことがわかる。
こうした平泉寺の軍事集団化の背後には、武士団の寺院内への流入があった。平泉寺の長吏斉明は越前に勢力をもつ武士団である河合系斎藤氏の出身で、叔父には白山長吏広命が、甥にも平泉寺長吏実暹がおり、特に実暹の場合、長吏職を「相伝の所帯」と称している(「天台座主記」)。しかも斉明とほぼ同時期に疋田系斎藤氏からも平泉寺長吏賢厳が出ており、この時期に越前斎藤氏が平泉寺を掌握していたことがわかる。その過程では寺僧同士の殺し合いもおきており(資1 「百練抄」嘉応二年閏四月三日条)、平泉寺内での厳しい武力対決を経るなかで斎藤氏一族の覇権が確立したのであろう。こうした武士団の流入がある以上、平泉寺の軍事集団化は必然であった(本章一節二参照)。 
写真72 平泉寺境内古図

写真72 平泉寺境内古図

丸岡町東部にあった豊原寺も治承・寿永の内乱や南北朝内乱で僧兵が活躍するが、ここも越前斎藤氏と密接なつながりがあった。「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」や利仁将軍の子孫が帰依渇仰したといわれ、疋田以成とその一族が豊原寺の発展におおいに寄与している(資4 豊原春雄家文書一号)。おそらく斎藤氏は外護者の位置にとどまらず、平泉寺と同様、豊原寺内部にまで進出したはずである。両寺の中世的発展とその武装化は、在地武士団に支えられていた。
中世平泉寺の重要な所領に吉田郡藤島荘がある。これは最終的には源頼朝の寄進によって平泉寺領となったが、斉明の兄弟に「藤島右衛門尉助延」という藤島を名乗る人物がいたこと、藤島荘は平家没官領とされており、内乱以前は平氏与党の支配下にあったらしいこと、内乱後、源頼朝が藤島荘を平泉寺に寄進していること、以上の事実からすれば、内乱以前の段階から平泉寺が藤島荘と関わりをもっていた可能性も高い。平泉寺における斎藤一族の覇権の確立の背後には、藤島荘の権益があったとも考えられる。
さて天台座主慈円は、平和を回復するには仏法興隆の必要があるとして、建久六年(一一九五)から無動寺大乗院で勧学講を開催した。その費用を捻出すべく、慈円は東大寺大仏供養のために上洛していた源頼朝と交渉して、藤島荘から上がる年貢のうち一〇〇〇石を勧学講に充てることを認めさせた。建暦二年(一二一二)の目録によれば、藤島荘の年貢四八〇〇石のうち、平泉寺の寺用が一〇〇〇石、勧学講など延暦寺の仏事用途が二八〇〇石、本家である青蓮院得分が一〇〇〇石となっていたし、綿三〇〇〇両も勧学講と本家に充てられていた。藤島荘の年貢米の実に八割近くが延暦寺に奪われているのである。しかも平泉寺はこれ以外にも末寺役を負担していた。
延暦寺の内部ではその後、藤島荘や平泉寺長吏職をめぐって梶井門跡と青蓮院門跡との間で紛議がおこり、建保二年(一二一四)には青蓮院門徒が離山する騒ぎとなっている(「天台座主記」)。平泉寺や藤島荘が天台座主の進止(支配)なのか、それとも青蓮院の別相伝なのかに紛争の原因があったが、結局、慈円・青蓮院側の主張が通ったようである。しかし文永二年に園城寺焼打ちを咎めて、幕府が座主最仁(梶井門跡)を改易して澄覚を補任したさい、藤島荘と平泉寺は座主澄覚の進止とされた(「新抄」)。
これに対し平泉寺は、重い負担に不満をつのらせ、延暦寺の支配下から離脱の動きをみせるようになる。そして藤島荘などを押領するとともに、末寺役の納入を拒絶するようになった(「門葉記」)。建武四年(一三三七)平泉寺衆徒は新田義貞の追討に協力して藤島城に篭もるとともに義貞調伏の呪咀を行なったが、そのさい、平泉寺は延暦寺と争ってきた藤島荘の領知を北朝側に認めさせた(『太平記』巻二〇)。しかしその奪還は必ずしも容易に実現せず、これ以後も藤島荘は青蓮院の支配下にあったらしい(「華頂要略」巻二〇)。しかしそのなかで延暦寺との本末関係は次第に実質的意味あいを失い、平泉寺は地域の有力権門寺院として自立し、その最盛期を迎えることになる。
白山系寺院にはこのほかに、丹生郡大谷寺、今立郡大滝寺・長泉寺、坂井郡豊原寺・千手寺などがあった。なかでも豊原寺衆徒は僧兵として勇名を馳せており、平泉寺とともに越前を代表する大寺である。織田信長の焼打ちや明治期の神仏分離の影響もあって現在は廃寺となっているが、平泉寺と同様、故地には厖大な寺坊跡が残されている。十五世紀中ごろに成立したと考えられる「白山豊原寺縁起」によれば(資4 豊原春雄家文書一号)、寛喜元年(一二二九)豊原寺は延暦寺と本末関係を結んで妙法院門跡領となっている。従来は園城寺や興福寺とも宗教的交流があったが、以後は山僧(延暦寺の僧)を学頭に迎えて天台宗への純化を図ったという。また嘉暦元年(一三二六)と至徳二年(一三八五)には平泉寺と相論となり、いずれが本寺であるかを争ったが、最終的に豊原寺の主張が裁許されたという。
写真73 坂井郡豊原寺跡(丸岡町豊原)

写真73 坂井郡豊原寺跡(丸岡町豊原)

平泉寺との本末をめぐる同様の動きは、越知山大谷寺でもみえる。越知山は泰澄が白山を開く前に最初に修行をした霊地といわれ、平安後期の木像十一面観音像・阿弥陀像・聖観音像を伝えている。これは白山三所権現の本地仏としては最古の遺存例である。ところがこの越知山でも平泉寺の「本寺」であるとの主張が登場するようになる。その前提となったのは、越知山が泰澄の最初の修行地であり、また彼の入定地でもあるという伝承だが、泰澄伝のなかでこうした伝承が登場するのは鎌倉期の末になってからである。このころから大谷寺も白山信仰の主導権争いに名乗りを挙げたのである。越前の白山信仰は平泉寺を中心に展開したが、地域寺院としての自立化はむしろ寺院間の矛盾を顕在化させ、政治的・宗教的な葛藤を激化させることになった。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

検校
長吏

...

匿名 さんのコメント...

ニュースで見た時に
ホームセンターの名前に桑、マークは鳩
安定のファミマは映ってるわで
お腹いっぱいです...。