2013年8月20日火曜日

黒田直希さん(35)=大阪府高槻市真上町死去


2013年 8月 19日 18:30 JST 更新
35歳男性も死亡、死者3人に=京都・福知山の爆発事故—府警

京都府福知山市の花火大会会場での屋台爆発事故で、府警福知山署は19日、黒田直希さん(35)=大阪府高槻市真上町=が同日午後1時56分、入院先の京都第一赤十字病院で死亡したと発表した。この事故で亡くなったのは3人目。

同署によると、黒田さんは全身にやけどを負い、福知山市民病院に入院していたが、その後京都第一赤十字病院に搬送されていた。今回の事故では京都府京丹波町の竹内弘美さん(44)と同町の山名空君10)が亡くなっている。 
[時事通信社]
http://jp.wsj.com/article/JJ10571395620761883751716547197963677176027.html





→尊勝院ダラニ塔




地蔵院(じぞういん)は大阪府高槻市にある真言宗大覚寺派仏教寺院。山号は峰尾山。本尊は地蔵菩薩摂津国八十八箇所第四十八番札所。

歴史

創建の年月は不詳だが、寺伝によると天平年間(729749年)に行基が創建したと伝えられている。 その後火災に遭い寺伝や堂宇などを焼失したが、慶長年間(15961615年)に槇尾の明忍和尚が真言律宗として再興、その後の寛文7年(1667年)に教存律師により堂宇等が造営され、これが中興とされている。幕末に40年ほど無住職の状態が続き荒れていたが、明治2年に実玄和尚が入山し、大修理が加えられている。現在の本堂は1987年(昭和62年)に改築されたものである。



叡尊
(興正菩薩)

叡尊 1201年 - 1290年9月29日
諡号 興正菩薩
生地 大和国
宗派 真言律宗
弟子 忍性、信空など
著作 『感身学正記』

叡尊(えいそん・えいぞん、建仁元年(1201年) - 正応3年8月25日(1290年9月29日))は、鎌倉時代中期の真言律宗の僧。字は思円(しえん)。謚号は興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。戒律を復興し、奈良西大寺を復興した僧として知られる。


醍醐寺


、、、(爆w


以下参考資料

生涯・年譜

  • 建保5年(1217年)醍醐寺阿闍梨叡賢に師事して出家
  • 元仁元年(1224年)高野山に入り真言密教を学ぶ。
  • 嘉禎元年(1235年戒律の復興を志して西大寺宝塔院持斎僧となり、『四分律行事鈔』を学ぶ。
  • 嘉禎2年(1236年覚盛円晴(えんせい)、有厳(うごん)らと東大寺で自誓受戒[注釈 1]。地頭の侵奪により西大寺が荒廃したために海龍王寺に移る。
  • 暦仁元年(1238年)持戒のあり方をめぐり海龍王寺の衆僧と対立したために西大寺に戻る。西大寺の復興に努め、結界・布薩する。
  • 仁治元年(1240年)西大寺に入寺した忍性文殊菩薩信仰に大きな影響を受ける。額安寺西宿で最初の文殊供養(文殊図像を安置)をおこない、近傍の非人に斎戒を授ける。
  • 仁治2年(1241年)三輪宿で文殊供養をおこなう。
  • 仁治3年(1242年)和爾宿・北山宿で文殊供養をおこなう。額安寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。奈良の獄屋の囚人に斎戒沐浴させる。
  • 寛元元年(1243年)額安寺西宿・三輪宿で文殊供養をおこなう。
  • 寛元2年(1244年)河内諸宿で文殊供養をおこない、非人に施粥をおこなう。
  • 寛元3年(1245年)家原寺で別受戒(受戒後9年を経た僧侶が受ける戒法)をうける。法華寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
  • 寛元4年(1246年)道明寺で授戒をおこなう。
  • 寛元5年・宝治元年(1247年)仏師善円に念持仏・愛染明王坐像をつくらせる。
  • 建長元年(1249年)仏師善慶に京都清凉寺釈迦如来像の模刻をつくらせ西大寺四王堂に安置する。
  • 建長2年(1250年)絵師堯尊に文殊菩薩画像・十六羅漢・十六尊者など21幅を描かせる。
  • 建長6年(1254年)西琳寺で授戒をおこなう。聖徳太子講式』執筆。太子講をはじめる(以後、毎年恒例となる)。
  • 建長7年(1255年)円仁唐の五台山から将来した『上宮太子勝鬘経疏義私鈔』を四天王寺で筆写し法隆寺に奉納する。
  • 正嘉2年(1258年)絵師堯尊に金剛界曼荼羅を描かせる。
  • 文応元年(1260年)絵師堯尊に胎蔵界曼荼羅を描かせる。
  • 弘長元年(1261年)浄住寺授戒と『四分律行事鈔』の講義をおこなう。北条実時の使者が訪れ関東への下向を懇請する。[注釈 2]
  • 弘長2年(1262年)太子講を諸所でおこなう。2月より関東へ下向し、新清凉寺(釈迦堂)に逗留、忍性・頼玄らの応援を得て授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。北条実時・北条時頼に拝謁し授戒する。[注釈 3]7月に西大寺へ帰る。弟子の性海による『関東往還記』がその記録である。
  • 文永3年(1266年)河内真福寺で非人救済をおこなう。
  • 文永元年(1264年)光明真言を導入し、密教化をすすめる。
  • 文永5年(1268年)般若寺再建のために文殊菩薩像(仏師善慶・善春が造像)開眼供養をおこなう。異国の難を払うため四天王寺で勤行をする。
  • 文永6年(1269年)般若寺落慶供養をおこない、周辺で非人・癩者の救済をおこなう。紀伊の金剛宝寺で授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
  • 文永10年(1273年)蒙古襲来(元寇)に際して伊勢神宮に参籠し大般若経を転読する。
  • 文永11年(1274年)蒙古襲来に際して四天王寺で亀山天皇の行幸を得て百座仁王会を修する。
  • 文永12年・建治元年(1275年)伊勢神宮に参籠する。
  • 建治2年(1276年)仏師善春に大黒天像をつくらせる。
  • 弘安2年(1279年)亀山上皇以下公卿らに授戒と『梵網経古迹記』の講義をおこなう。
  • 弘安3年(1280年)伊勢神宮に参籠する。弟子らが仏師善春に80歳を迎えた叡尊の寿像を造らせる。(西大寺蔵の興正菩薩坐像)
  • 弘安4年(1281年)蒙古襲来に際して亀山上皇の御幸を西大寺に迎え、石清水八幡宮で尊勝陀羅尼を読誦する。
  • 弘安7年(1284年)宇治橋修造の朝命を受け殺生禁断のために宇治川の網代を破却する。後深草上皇以下公卿らに授戒をおこなう。
  • 弘安8年(1285年)院宣により四天王寺別当[注釈 4]に就任する。
  • 弘安9年(1286年)宇治橋を修築、橋南方の浮島に十三重石塔婆を建立する。
  • 正応3年(1290年)西大寺で病を発し秋に示寂。
  • 正安2年(1300年)伏見上皇の院宣により行基菩薩の先例により興正菩薩の尊号がおくられる。

主な活動

授戒聖徳太子信仰・文殊信仰・真言密教(光明真言などの宗教行為による殺生禁断・慈善救済・宇治橋の修繕[注釈 5]などを行い、非人癩病者から後嵯峨上皇亀山上皇後深草上皇に至るまで貴賎を問わず帰依を受けた。
60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた(その時の記録が、随行の弟子性海(しょうかい)による奈良から鎌倉への約半年間の旅・滞在記「関東往還記」(かんとうおうげんき、または、-おうかんき)である)。国分寺法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきたへの授戒を開いた。晩年の弘安5年(1282年)に、四天王寺別当の地位を巡って天台座主延暦寺)の最源園城寺長吏隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受け両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。著名な弟子に忍性信空などが居る。
一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生のためにまず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあった。 一方で叡尊自身も慈善活動の為とはいえ権力と癒着し木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、戒律に対する考えの違いもあり日蓮から「律国賊」と批判された。
日本律宗の祖である鑑真が「四分律」を奉じたのに対して、叡尊は真言宗を開いた空海が重んじた「十誦律」を奉じている。同時に戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において、社会活動や布教に熱を入れすぎ、教学が疎かになっているのを「慈悲ニ過ギタ…」と[注釈 6]窘(なだ)めたり、元寇に際しては西大寺や四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷鎮護国家密教儀典を行っている[1]

著述に「感身学正記」、「興正菩薩御教誡聴聞集」、「表無表章詳体文集」、「梵網経古迹記輔行文集」などがある。

3 件のコメント:

ほたる さんのコメント...

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130819/waf13081921170021-n1.htm

匿名 さんのコメント...

醍醐(だいご)とは、10世紀頃の日本で製造されていた
乳製品である。牛乳を煮詰め熟成させて作られるチーズ
様の高級食品と考えられている。

仏教の大乗経典『大般涅槃経』(だいはつねはんきょう)
の中に、五味として順に乳→酪→生酥→熟酥→醍醐と精製
され一番美味しいものとして、涅槃経も同じく最後で最上
の教えであることをたとえとして書かれている。
これを五味相生の譬(ごみそうしょうのたとえ)という。
「からこさんは、中国からおいでになり、 大磯の浜辺から
秦野に移住した」と伝える。定着した土地は、
乳牛(ちゅうし)と呼ばれ、乳牛を飼うことを教えたと言
い伝えられている。

かつては、唐子明神社(現在の郷社・曽屋神社)が存在した。
曽屋神社の由来は、乳牛から蘇をつくる屋敷からきたとされ、
神社近くの市役所前の道「デーゴ道」などの形で、醍醐の名
残が認められる。

ついでに
飛鳥から吉野(w

ミネ さんのコメント...

>2013年8月20日 20:22
ついでにカルピスサルピスでピースっすなwwww
年代はさておき