2013年5月27日月曜日

加速装置は最黒沌(w



加速器施設、被曝30人に…電磁石に過大電流

茨城県東海村の加速器実験施設「J(ジェイ)―PARC(パーク)」内の原子核素粒子実験施設で起きた放射性物質の漏出事故で、日本原子力研究開発機構は26日、新たに24人の内部被曝(ひばく)が判明したと発表した。

これで計30人の内部被曝が確認された。

事故当時、施設内にいた55人のうち、26日までに新たに29人の検査を実施。24人の被曝量は0・1~1・7ミリ・シーベルトだった。原子力機構は、健康には影響がないレベルだとしている。49人が検査を終え、27日に残り6人の検査を行う。

また、実験施設を管理する高エネルギー加速器研究機構などの調査で、事故の引き金となった陽子ビームの出力の異常は、陽子の量を調節する電磁石に過大な電流が流れたのが原因とみられることがわかった。同機構は近く、電磁石用の電源を製造した国内メーカーを呼び、原因を調べる。
(2013年5月27日00時16分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20130526-OYT1T00511.htm

まあ最黒沌辺りになると友愛されたおいらの祖父とかおいら友愛未遂事件(笑)とか関係してくるんでしょうけど・・・(w

まあヴァチカンなり皇室なり王家なり権力者なんてモンは邪魔者を友愛する事により存続してきたわけで、別に恨んでませんけどね。(爆w









谷口シンポジウム

一九七〇年代後半になる と、主としてアメリカの事情によって、物性理論分野で若い人が外国で研究する機会が減って来た。それを補うことを考えていた頃に、谷口シンポジウムの話が始まった。
谷口豊三郎氏は東洋紡社長・会長を歴任した方で、それこそ国際級のスケールで学問を援助された方である。
一九三〇年代、理研と相前後して設置された阪大のサイクロトロンは、谷口氏の私財で創立された財団が建設費全額を負担した。続いて京大のサイクロトロン設置では国と費用を折半した。
戦後は秋月康夫教授、岡潔教授と高校の同級生であった関係で数学の国際シンポジウム援助を続けておられたが、一九七六年数十憶の価値の土地を財団に寄付されて、内外の若い人を主にした参加者二十人程度で特定のトピックスについて長時間議論を行う国際シンポジウムを数学以外の「陽のあたらない」基礎科学分野(谷口氏御自身の表現)でも行う事業を開始された。 くわしい経緯を書く紙面がないが、一九七七年谷口氏にお目にかかって、理論物性学部門を加えていただき、爾後本年までに二十回のシンポジウムを行った。
谷口財団は毎年約三億円を費やして十八分野で同様な企画をサポートしてきたが、谷口氏の当初からの計画に従って資金を使いきり、本年をもって事業を終了、来年解散の予定である。
久保亮五氏を委員長、私を幹事とした運営委員会で毎年の主催者とテーマを選定してきたが、年を追って国際的に名声が高まり、招待されることは名誉であると見なされるようになった。本年のノーベル物理学賞受賞者ラフリン教授も今年五月に開いた会議の出席者の一人であった。
二十年間のこのシンポジウムは、日本の若い研究者と外国の研究者の幾つかの共同研究を生むきっかけを作った。

















、、、(w


新聞記事文庫 塩(4-134)
大阪朝日新聞 1936.3.16(昭和11)
食塩から人工ラヂウム

注射も嚥下も可能

阪大に驚異のサイクロトロン装置

いまや世界学界の興味の焦点、新しき二十世紀の錬金術―それは"元素の人工転換"であり"人工ラヂウム"秘法の発見だ、わが国でも理研はじめ各大学理学部を総動員してハイスピードの陽極線であるいは銀を、あるいは鉄を、銅を、ニッケルをと数万分の一ミリキューリー、成績が良くて何千分の一ミリキューリーのラヂウムをつくり出すのに血眼の実験最中だが、このしみったれた学界を瞠若たらしめてお台所の食塩から一グラムの人工ラヂウムが立ちどころに出来上るほか、従来絶対に不可能視されていたラヂウムの人体注射や、も一つ進んで薬用嚥下までも出来るという理学界ならびに医学界にとって画期的な大装置が新興の大阪帝大理学部に誕生することになった
 これは斯界の機威アメリカのカリフォルニア大学のE・O・ローレンス教授がこの程やっと完成したラヂオ・アクティヴィティ"サイクロトロン"と称するもので極板の直径無慮一メートルに及ぶという巨大な電磁石と、BK放送用の約二倍の二十キロワット一万七千ガウスの強力な短波振動装置により物凄い高速度の陽極線をつくり、これをもって水素原子を破壊せんとするものであるが、関西の工業科学を振興するため幾多の隠れた援助を行ってきた谷口工業奨励会(現在会長は東洋紡取締役谷口豊三郎氏)が各国の学界に魁けて早くも同教授実験室一切の装置を購入して阪大に寄贈することになったもので
来る四月起工し遅くも十月中には完成の予定とあり、またこの輝かしい実験の第一指は同学新進気鋭の理博菊池正士教授が当ることになっている、なお本装置がいかに斯界の驚異であり羨望の的であるかについて菊池教授は十六日左の如く語った
 『これまでわれわれが研究してきた人工ラヂウムは約六十万ヴォルトのコッククラフト式によるもので、せいぜい数千分の一ミリキューリーくらいしか獲られず技術的にみて百万ヴォルトの高圧以上にはほとんど昇すことが出来ませんでしたが、こんどのサイクロトロンでは五百万ヴォルトくらいは優に出せるうえ原素に対する小衡繋を幾度も繰り返して与え得るという特長があるため一グラムの人工ラヂウムさえ即座につくれることが予想されています、しかも原子破壊の素材に食塩を用いこれに重水素の陽極線を放射しますと出来上った人工ラヂウム即ち厳密にいってラヂオ・ソディウムにはナトリウム分を含んだ科学的性質があるため普通のラヂウムでは絶対に不可能だった皮下注射や嚥下などにも利用せられる可能性が十分あり、既にローレンス教授は動物実験で成功したと報じてきています、癌治療などにこのラヂウム嚥下がきくようになれば医学界も大きなショックでしょう』

データ作成:2010.4 神戸大学附属図書館



サイクロトロンを米軍が接収海中投棄した経緯と
阪大には2台と記録された根拠
福井 崇時
2008.5.2. 改定 完成 2009.3.4. 接収時の写真追加
戦後米軍がサイクロトロンを接収廃棄した経緯を述べる。その時の米国公文書記録に大阪帝国大学
には 2 台あると記載された。この間違った記録は訂正されていないので、遅蒔きながら 2 台目が何
かその真相を述べる。接収時に米軍が撮影した写真を示す。理研の 60 インチサイクロトロンの設
計図をロ− レンスから貰ったことになっていたが、実際は渡されずその断り状が仁科先生の部屋で
元理研副理事長の中根良平氏が見つけたと報告された。
第 I 部 サイクロトロン破壊の経緯
1.
接収決定までの連合軍最高司令官総司令部 GHQ/SCAP の動き
a. 科学情報調査団、原爆調査団と指令第 3 号
b. GHQ/SCAP へ仁科博士のサイクロトロン稼動申請と許可
c. ワシントンから緊急電報によるサイクロトロン破壊と原子核研究禁止指令
2.
GHQ/SCAP がサイクロトロン接収破壊決定
a. 京大サイクロトロンの接収
b. 阪大サイクロトロンの接収
3.
通信社へサイクロトロン破壊事前通知
4.
サイクロトロン破壊を報じた新聞記事
a. 朝日新聞東京本社
b. 朝日新聞大阪本社
c. 毎日新聞東京本社
d. 読売報知新聞社
5. サイクロトロン破壊に対する仁科博士の弁明書
第 II 部
チンマーマンは何故「阪大に 2 台」と記録したか
1.
言葉の壁
2.
菊池先生のジョーク
3.
小サイクロトロンとなったベータ線スペクトロメター電磁石
4.
高等学校へ移された電磁石
5.
チンマーマンの記録と実際との照合
6.
結論
謝辞

付録-1 理研、阪大、京大サイクロトロン建設と破壊されるまでの稼動状況
付録-2 サイクロトロン接収時にその作業等を米軍が撮影した写真
資料 緊急指令電報 WX79909 のコピー
第 I 部 サイクロトロン破壊の経緯
1. 接収決定までの連合軍最高司令官総司令部 GHQ/SCAP の動き
この事項については既に小沼、山崎等諸氏により論じられ報告された[1.1-1.6]。これらと重複す
るが GHQ/SCAP の動向を追い、阪大には2台のサイクロトロンがあったと記録するに至る経過をみ
る便宜上記述しておく。
a. 科学情報調査団、原爆調査団と指令第 3 号
連合軍最高司令官総司令部 General Head Quarters, Supreme Commander for the Allied Powers
(GHQ/SCAP)の日本の原子核研究への対応は、昭和 20(1945)年 9 月に KTコンプトン Karl T. COMPTON
と ELモーアランド E. L. MORELAND を団長とする科学情報調査団 Scientific Intelligence Survey
to Japan(アルソス ALSOS)と T F ファーレル T. F. FARRELL 准将[後に JB ニューマン J. B. NEWMAN
Page 2
2
准将と交替]を団長とする原爆調査団 Atomic Bomb Mission Japan とを組織し並行して調査を行
った。広島大学の市川は公開されたマイクロフィルム資料から調査団の行動と記録を科研費(基
盤研究 C)にて詳細に調べ報告した[2.1]。原爆の調査はアルソスは直接行わず原爆調査団にまか
せた。アルソスは、理研と東大を調査し 11 月 1 日に団長コンプトンが長文の報告書を提出した
[2.2,2.3]。原爆調査団は、理研、東大、京大、阪大を調査し 11 月初めに団長ファーマンが報告
した[2.4]。ファーマン報告原案は団員モリソン Phillip MORRISON が書いた[2.5]。
総司令部 GHQ/SCAP は 9 月 22 日付けで日本政府に「指令第 3 号」[3]を発令し、その中で原子核
研究の実験所及び研究所が行っている内容の報告と占領軍査察の受け入れを要求し、ウラニウム
235 及び不安定放射性元素の大量分離を禁止したが原子核研究には特段の制限はしなかった。
コンプトン報告[2.1,2.2]は指令第 3 号と同じ内容で、日本の原爆開発研究は彼等の計算結果を
見ると爆発目的ではなく原子力を石炭の代替とする計画と受け取れる、仁科博士のサイクロトロ
ンは軍用には程遠い装置である、指令第 3 号による制限下で仁科、嵯峨根博士達の研究を許可し
ない理由はないし、我々は許可によって幾つかの利益を得ると信じると非常に好意的な報告だっ
た。
モリソンは日本にはウラニウム資源がないから輸入を制限すればよいし、同位元素分離作業は
査察可能である。仁科、嵯峨根、湯川、荒勝、菊池博士らの研究室には第一級の研究者が居て独
創的業績をあげる能力を持っている。学生への教育は高水準で、研究者交流を行い共同研究をす
れば、査察では得られない金銭以上の価値の効果があり、米国に対する理解を深め他の日本人へ
良い影響を与えてくれると信じると書いている[2.5]。ファ− マンは戦時中の日本政府と軍は原子
核研究に優先度を与えなかったから一流の研究者達は軍事研究に移っていた、彼等は原子核理論
の知識を十分に持っていて条件が許せば原子力開発に能力を発揮するだろうと記し、日本の原子
核研究者の能力を高く評価し、日本にはウラン資源が無いから原子核研究者は原爆開発の意図を
全く持っていなかったと断定し、原子核関連の研究についてはウラン分離等の行為のみを禁止し
他の研究は自由に行ってよいと結論している[2.4]。
b. GHQ/SCAP へ仁科博士のサイクロトロン稼動申請と許可
理研の仁科博士はサイクロトロンの稼動許可を受けるべく昭和 20(1945)年 10 月 15 日付けで申
請書を GHQ/ACAP に提出した[4.1]。60 インチ-サイクロトロンにて発生する中性子及び生成放射化
元素を用いて生物、医学、化学、金属分野の研究を行いたい、計画の詳細は付属文書に示すとあ
り、それには生物分野では炭素を用い植物の光合成機構、燐によるヌクレオチドの生物作用、中
性子の植物遺伝子及び細胞への影響、ヴィタミン B の生化学作用、医学分野では癌への中性子の
作用、燐による白内障の研究、食塩を使って血液循環の診断、化学分野は硫黄、燐、シリコンを
使う化学反応研究、ナトリウム、燐、希元素による微量化学分析、金属分野では拡散及び結晶構
造の研究を行うと記載している。
この申請に対し、総司令部は 10 月 17 日付けで東京中央渉外部より政府へ、「サイクロトロン使
用を目的とする理研仁科博士の申請は、責任を持って指令第 3 号第 8 項の条項を遵守させること
で許可する権限が政府に付与された」と言う覚書を送付した[4.2]。数日後、総司令部は 10 月 27
日付けで 17 日に与えた許可内容を訂正し生物と医学の分野の研究は許可するが化学と冶金の研究
は除外すると伝えてきた[4.3]。
Page 3
3
c. ワシントンから緊急電報によるサイクロトロン破壊と原子核研究
禁止指令
突如、昭和 20(1945)年 10 月 31 日にワシントンから大平洋陸軍総司令部 CINCAFPAC のマッカー
サーMACARTHUR に日本の原子核研究を全面的に禁止する処置をとるべしと言う緊急指令電報
WX79907 が届いた[5]。発信者は統合参謀本部 Joint Chiefs of Staff で、在ハワイの大平洋陸軍
総司令部のニミッツ NIMITZ とウェデマイヤーWEDEMEYER にも伝えられた。その指令は、「これは原
子力研究に対する米軍の政策である、原子力関連の全研究施設を軍が接収し研究者を管理下に置
き、軍が取った行動を統合参謀本部に報告すること、原子力及び関連研究は全て禁止する」と言
う内容だった。その電文コピー『柏-IV-1-41』を「資料」に示す。
マッカーサー総司令部では唐突でしかも指令第 3 号に沿って許可した研究も禁止せよとの厳し
い内容に疑問を持ち問い合わせの電報を統合参謀本部と陸軍長官に送った[6]。この疑問への返答
が 11 月 10 日付けの電報で「指令 WX79907 に従って総司令部がとるべき行動は原子力関連の研究
を完全に禁止し、それらの研究の技術及び実験記録全てを押収し、理研、京大、阪大のサイクロ
トロンを破壊せよ」と指示してきた[7.1]。之に従い GHQ 渉外局は 11 月 19 日、政府に覚書を送り、
理研のサイクロトロン稼動を許可した先の覚書は陸軍長官の指令により破棄し、稼動と研究を停
止させよと命令した[7.2]。
GHQ/SCAP へ上記指令を送付したのは統合参謀本部JCS になっているが実際は陸軍長官 Secretary
of War で、指令送付の齟齬については既に小沼らによって詳しく論考されている[1.1-1.6]。 指
令送付の経緯に関する米国側の資料として、グローヴス Leslie M. GROVES は自らの著書にて詳細
に記述し[8.1]、同じくジョーンズ Vincent C. JONES も詳細に記述している[8.2]。
2. GHQ/SCAP がサイクロトロン接収破壊決定
GHQ/SCAP は JCS の指令に従って担当部局の経済科学局 Economic & Scientific Section 主任
レイモンド C クレーマー Raymond C. Kramer 大佐がジョセフ A オハ− ン Joseph A. O’Hearn 陸軍
少佐に京都大阪へ出張を命じ、その出張には軍用機を含む可能な手段が許されているとオハーン
少佐に伝えた[9]。
高級副官部補佐 H W アレン H.W. Allen 大佐は第 6 軍及び第 8 軍司令部にマッカーサーの命令で
オハ− ン少佐が総司令部代理として科学装置破壊を遂行するので夫々の司令部はオハーン少佐の
作業遂行に必要な対応をとるよう要請をした[10]。
a. 京大サイクロトロンの接収
11 月20 日火曜日午前 10 時、第 136 歩兵連隊の兵士と共に科学技術部のEJドレイク E. J. DRAKE
中佐が京大荒勝文策教授室へ来て核物理学関連施設の所在を確認し研究記録を押収した。査察の
報告には第一印象では荒勝教授は年をとっているように見え、友好的で協力的であったが、後に
なって何かを隠そうとしていると感じたと書いている[11]。サイクロトロンの接収撤去運搬作業
は後述のように、理研、阪大と共に 11 月 24 日午前 10 時を期して行われた。
荒勝研のサイクロトロンは物理学教室建屋1階の端の部屋に設置されていた。キャンパスの構
造上、京大の全建屋は道路に面しているから、物理学教室建屋の周囲を兵士達は劍付き鉄砲を持
ち昼夜厳しく警護した。
接収したサイクロトロンやその他の物を何処へ運んだかは不明である。
Page 4
4
緊急指令電報(ワシントン JCS から GHQ/SCAP へ)WX79907 のコピー
Page 5
5
b. 阪大サイクロトロンの接収
阪大菊池正士研究室へも 11 月 20 日火曜日朝、第 98 歩兵師団のオール Aull 中佐が軍属の G B
チンマーマン G. B. Zimmerman、通訳ケン ヤマダと大阪市立商科大学予科の英語の岡本安章教授
を伴って来た。菊池教授との接見で先生が説明されたことをチンマーマンがまとめて報告してい
る[12.1]。チンマーマンは翌日 21 日も来て菊池先生の案内で研究室内の装置等を調査し各装置と
その所在をリストにし認定タグを付け、そのリストを報告している[12.2]。
軍属チンマーマンはシカゴのユニバーサル石油会社研究部の物理学者で戦略空軍爆撃査察団の
一員だった。彼の報告書には菊池先生が話された物理学教室の状況や菊池先生の研究経歴、先生
の行動として 1943 年 8 月まで大阪で研究活動をしていたが、レーダー開発の為東京目黒の第二海
軍技術廠の研究所へ移つり、我々の訪問1ヶ月前に大阪へ戻っていたと記し、阪大の初めのサイ
クロトロンは 1938 年に建設された小さなモデルでサイクロトロンとして使われたことはなく 1945
年春、甲南高校(専門学校)の部屋を借用して移されていたが、我々が訪れた時には戻されてい
た、この装置はベータ線分析に使用されていた、二つ目の大きなサイクロトロンは 1939 年に完成
し 1942 年春まで研究に使われていた、改良のため、部分的に解体されていた、米国の標準から見
れば小さいが、デューテロンを 5 MeV まで加速する能力がある、菊池教授によれば大学には放射
性元素貯蔵はなく、放射性元素分離は行っていない、ノールウエーから輸入した少量の重水は持
っている、研究室にはサイクロトロンの他、1 MeV ヴァンデグラーフ、600 KVolt コッククロフ
ト、中性子の磁界中での偏向測定用磁石(ラビの実験)とベータ線分析装置がある、これらはこ
こ数年間使用されていない状態であると記し、さらにサイクロトロン建設の経緯、教室の研究費
等にも触れ、海外からの出版物による研究情報は 1941 年 8 月が最後だったと書き、菊池教授から
1934 年-1943 年の間に公表された研究論文別刷全てを提供された。各研究室はエリス Ellis 中尉
引率の兵士により閉鎖され監視されたと記述している。
以上がチンマーマンの報告だが後で述べるように彼の記述には幾つか実際と異なるところがあ
る。多分通訳や岡本教授が物理用語を正確に翻訳できなかったのか、菊池先生の英語およびチン
マーマンらの米語のため意志疎通を欠いたことに原因があると思われる。
11 月 24 日朝、接収の際このベータ線スペクトロメター電磁石は米軍工兵 4 人で持ち上げられ
窓から投げ落された。その程度の重さの電磁石だった。
3. 通信社へサイクロトロン破壊事前通知
GHQ 渉外部は 1945 年 11 月 23 日午後 7 時 30 分、通信社へ事前通知をした[13]。1945 年 11 月 24
日正午に発表するが、それまでは、これから示す内容の如何なる事項も公開及び論評を禁じると
いう条件で以下の事を示した。
合衆国軍が日本の原子研究装置を破壊する という表題。
その内容は凡そ以下の通り。
マッカーサー元帥の命令により第 6 及び第 8 米国占領軍は三都市にある5台のサイクロトロン
と関連装置を含む日本の原子エネルギー研究装置の完全な破壊が本日午前 10 時に開始された。日
本の戦争潜在能力を破壊する連合国の政策による行動である。
GHQ 経済科学局工業部部長、ジョセフ A オハーン少佐がマッカーサー元帥代理として装置の接
収と破壊の作業を行う。日没までに日本の原子研究を大幅に減じることとなる。
Page 6
6
大阪帝大の小さなものから仁科研究室の米国製 200 トンのものまであり、2台が阪大、1台が
京大、2台が理研にある。
帝国政府と装置を所有している科学者には本日午前8時半までこの接収破壊行動を知らさない。
大阪と京都の装置は解体して持ち出し爆砕し海に沈める。理研のはいくつかに切断し海に沈める。
以下、理研を査察したオハーン少佐の記録を基に仁科博士の研究経歴とサイクロトロン建設の
経緯、京大を査察したドレイク中佐の報告[11]を基に荒勝教授の研究経歴とサイクロトロンの現
状、阪大については軍属チンマーマンの報告[12.1]に基づいて菊池教授の研究経歴とサイクロト
ロン建設と現状、物理学教室の状況等が詳細に記述されている。
4. サイクロトロン破壊を報じた新聞記事
a. 朝日新聞東京本社 の記事[14.1]
タイトルは
放射線症も治る傳研の原子爆彈調査
サブタイトルが わが原子施設破壞
サブタイトルの方の記事は凡そ次のような記述。
米軍総司令部発表によれば、第八、第六軍はマッカーサー元帥指令に基き 23 日午前 10 時を期し
東京、大阪、京都にある原子力研究施設の破壊に着手した、日本の戰爭能力を覆滅する方策の一
端であり、破壞する機械類は某高等學校で使用され現在は大阪帝大の研究室にある小さな日本製
のものから、理研仁科研究室の重量 200 トンの米國製のものまであり、合計 5 台、2 台は阪大に、
1 台は京大に、2 台は仁科研究室にある、小さいものは取外して爆碎し、スクラツプとして海に投
棄されるが、仁科研のは仁科博士および彼の研究生によって実験中のものであつた、これは重す
ぎるため分解し海に運ぶことになった
b. 朝日新聞大阪本社の記事[14.2]
タイトルは
日本の原子研究終焉 仁科研究室などの施設破壞
記事は東京本社の記事と同じです。
c. 毎日新聞東京本社の記事[14.3]
特別な取り扱いではなく一般記事と同列で、大きい文字で、仁科研究所等の施設破壊、というタ
イトルで記述は朝日新聞と殆ど同じである。日付けは矢張り 23 日午前 10 時と記載されている。
d. 讀賣報知新聞[14.4]
タイトルは
原子核研究を根絶
記事の概要は
[太平洋米司令部渉外局 24 日發表]
マッカーサー元帥命令で第六軍及び八軍部隊は 24 日午前 10 時より日本の三都市にある 5 個のサ
イクロトロンと関係設備を含む日本の原子力研究施設の完全な破壞を開始した、これは戰爭を起
す潜勢力を根絶する聯合國の方策に基くものである、マッカサー元帥代理のジヨセフ オーハン少
Page 7
7
佐はこの措置により日本は 24 日夕までに原子研究能力を喪失するに至るだろうと語っている、大
阪帝大にある日本製の小さなものと理研仁科研究室にある 200 トンのアメリカ製の巨大なものと
がある、総数 5 箇のうち 2 つは大阪帝大に 1 つは京都帝大に 2 つは仁科研究室にある、大阪と京
都にある小さなのは分解搬出し爆破、屑鉄として海中に投棄されるが、仁科研究室にある大きな
機械は爆藥で破壞するのは困難なため切断し海中投棄される筈である
何れの記事も先の事前通知にて渡された文章の翻訳であるが、朝日新聞と毎日新聞は何故か日
付けが事前通知された日、23 日になっている。讀賣報知新聞は渉外局が伝えた通りの取扱いをし、
渉外局発表の日付けを 24 日として、実際の接収作業が行われた日も正しく 24 日と記述している。
5. サイクロトロン破壊に対する仁科博士の弁明書
仁科博士は 1945 年 12 月 20 日の日付けで GHQ 渉外局宛てにサイクロトロン破壊への抗議弁明
書を書いた。その英文タイプのコピーが柏書房刊の『 GHQ/SCAP トップ・シークレット文書集成 』
に収録れている[15.1]。第一頁上部に手書きで「この弁明書は渉外局宛に書いたがその影響する
ところを考慮すると不十分な疑義となるようだから提出しなかった」と言う主旨が書いてある。
文字の特徴から仁科浩二郎氏は父の筆跡だと断定された。
弁明書には以下のことが記されている。
1945 年 10 月 15 日 GHQ SCAP にサイクロトロン稼動申請をして許可された、11 月 22 日夕刻中央
渉外部からの覚書が来て先の許可取消と研究停止が命令された。11 月 24 日午前8時半 GHQ のオハ
ーン少佐がサイクロトロン破壊を伝え第 8 軍の工兵が昼夜作業して 5 日かかって破壊した。11 月
24 日午後、仁科は理研事務局長井口を伴って中央渉外部へ赴き破壊の現状を伝えその根拠を糺し
た。破壊は米国政府の指令であるという以上の由は伝えられなかった。仁科は米国科学者の意見
を聴取したかを糺した。オハーン少佐は「勿論そうだ」日本に来たコンプトン博士の意見が政府
の行動に反映されていると付け加えた。後日このことは間違いだと判った。今日迄破壊の理由は
全く理解できない。誰か素人集団の単純な「未知への恐怖」によるものだろう。確かにサイクロ
トロンは原爆製造初期の段階での研究に使われたが、今や原爆製造方法が確立したのでサイクロ
トロンは必要ではなくなった。日本には十分なウラニウム資源がないことが明白にされた。先に
サイクロトロン稼動許可を申請したのは、戦前同様戦後の生物及び医学の研究にて国民の生命と
健康増進をはかる目的である。GHQ 科学情報調査団団長コンプトン博士は GHQ に対しサイクロト
ロン運転は許可してよいと報告している。十分な考慮もされずに破壊されたのは我々の想像を越
えるものである。多くの科学者が 10 年を越える努力と少なくない費用で建設したサイクロトロン
の破壊により研究の機会を一瞬にして取り上げられた。「星条旗紙」及び「タイムズ紙」によれば、
原爆製造に参加した科学者達はサイクロトロン破壊を「人類への犯罪となるいわれなき愚かな焚
書のような見苦しい邪悪な行為だ」と言っている。そして「研究装置の有用性と 16 インチ砲の軍
用重要性との区別ができない人物は決定権を持つ地位に就くべきではない」と付言している。ハ
ーバードと MIT の科学者は日本のサイクロトロン破壊を命令した陸軍長官パターソンを告発する
手紙を送った。MIT 学長コンプトンは指令を送信した役人の即刻解任するよう強い言葉で促す手紙
をパターソンに送っている。サイクロトロン破壊がアメリカの科学者間で議論されオハーンがそ
の人達の意見を聞いたと我々に言ったのは本当ではなかったことが明らかになった。米国政府と
GHQ との往復通信で陸軍省が指令したことが明らかになった。ニッポンタイムスはサンフランシス
コ放送が日本のサイクロトロン破壊は省内の過ちの一つとパターソンが述べたと報じたことを記
事にしている。もし、それが事実なら 1.サイクロトロンの完全な復旧、2.生物、医学の研究の為、
先に述べた放射性元素を米国より輸入する措置 を要求する。この要求を中央渉外局から米国政府
へ伝えて欲しい。
Page 8
8
以上が弁明書でその末尾の追伸ではパターソン陸軍長官が来日し 1946 年 1 月 10 日の記者会見
で破壊の責任は自分にあり送付した電文は見ていないし、科学顧問官に意見を聞かなかったと述
べているとある。この追伸は記者会見後に書かれたと思われるが弁明書日付け 12 月 20 日は訂正
されていない。
この弁明書は、来日した米国原爆被害調査委員会の一員ポール S ヘンショウ Paul S. Henshaw
がそのコピーを入手し 1947 年に「日本の科学者サイクロトロン破壊を語る 仁科芳雄」という題
で「原子科学者会報 Bulletin of the Atomic Scientists」に掲載した[15.2]。
第 II 部 チンマーマン ZIMMERMAN は何故「阪大に 2 台」と記録したか
1. 話し言葉の問題
敗戦直後に米国軍人と接触して我々が彼等の米語発音を、また彼等が日本人が話す英語の発音
を聞くのは、双方とも全く耳新しい音声であって、会話では、お互いに話の内容を十分に理解し
ていたとは思えない。また戦前に於ける菊池先生らの物理学研究主流は医学同様ドイツで使用言
語はドイツ語だった。英語圏ではファラデー、マックスウエルらに代表される英国の大学と研究
所が主流で所謂キングス イングリッシュ、キュリーらに始る放射能物理はフランスの大学と研究
所が中心でフランス語という状況だった。
菊池先生と面談した翌日 11 月 21 日に再来訪したチンマーマンを先生は各研究室に案内され 2
階へ来られた時、伊藤先生や渡瀬先生も一緒で福井も加わった。ラビの装置の部屋にオシロスコ
ープが置いてあった。先生が日本製陰極線オシロスコープと言われたが陰極線カソードレイ
cathode-ray は通じたがオシロスコープ oscilloscope が通じなかった。彼はその装置が何か判っ
たので彼は米語の発音してくれたが、我々には全く違った言葉セレスコープのように聞こえた。
次に先生がアルヴァレ ALVAREZ のキャヴィティ マグネトロン cavity magnetron の話をされると
先ずアルヴァレが彼には全く通じない。先生がチョークで床にスペルを書かれて彼は理解し発音
してくれたがアルヴァレとは聞こえなかった。先生が彼に続いて発音をされたが彼は違うと言う。
結局彼流の発音は誰一人できなかった。また我々には彼のキャヴィティと言う発音はキャヴァレ
と聞こえた。当時繁華街で流行し始めた cabaret のような発音なので一同大笑いした。このよう
に米語の発音は我々の日本語的英語発音とは全く違う。t の発音は殆ど聞こえない程ソフトだし、
v,f は確実に唇を使わねば b と s になってしまうなど、彼は教えてくれた。
チンマーマンの態度といい、研究室閉鎖にきた兵隊の態度といい、彼等は戦勝国軍人が敗戦国
の人間に対する優越的な行動を一切せず、むしろ友好的な親しい態度であった。菊池先生を世界
一流の学者だと尊敬していて、我々に対しても大学人で兵隊より高い教育を受けた者だとの認識
をしているようであった。この親しい友人のような態度から菊池先生は学生に教えるようにチン
マーマンに種々の装置について丁寧に説明され、次項で述べるようなジョークもでてきたのでは
ないかと思われる。
SCAP の通訳は多分日系アメリカ人で戦前に渡米移民した人の二世と思われる。彼等の親達の出
身地の語彙、表現、アクセントなどが受け継がれている。その上、戦前の日本では科学用語は一
般化していなかったから物理学用語が語学専門の人達に理解されたかどうか疑問に思われる。広
島原爆被爆についての著述目的で 1976(昭和 51)年に来日し多くの日本人に面接取材をして
1980(昭和 55)年に発刊した『エノラ ゲイ』の著者は「日本語をそのまま英語に訳すことはほと
んど不可能であるということをよく認識していた・・・幸い有能な通訳の助力をうることができ
た・・・」と書いている[16]。敗戦後 30 年経っている時のことである。
Page 9
9
著作の場合は時間をかけて適訳を選べるが、会話では話が流れて行くし、先に書いたように菊
池先生の英語はおそらくドイツ語的発音や表現は、チンマーマンには判り難かったと思う。だか
ら彼の印象に残った言葉や装置の名前を彼自身が知っている知識と対比して解釈し文脈の前後を
合わせて作文し報告書に記載したと思われる。
2. 菊池先生のジョーク
菊池先生はチンマーマンをベータ線分析電磁石の部屋へ案内され実験の目的を説明されると共
に電磁石の形を説明される時に磁石と真空槽全体がビーズワックスで覆われていて磁極の辺りの
型がよく判らないので「ローレンスがサイクロトロンを開発する時に作った電磁石そっくりな型
で例えるとベィビー サイクロトロンの大きさ」と言われた。チンマーマンはベータ線分析電磁石
と記録し同時にサイクロトロンと記録した。
このジョークについて後に『菊池正士業績と追想』の中で伏見康治先生が書いておられる[17]。
「昭和 20 年 8 月の敗戦の後、菊池は大阪に帰った。・・・・・・懸命に守ろうとした祖国が惨め
な敗戦を喫し、しかもそれが原子爆弾によって最後のとどめをさされたということは、原子核物
理学者として特に堪えがたいことであったろう。その悲劇がクライマックスに達したのは米軍兵
士によって阪大のサイクロトロンが爆破して持ち去られるのを手をこまねて傍観しなければなら
なかったことであった。ベータ線のエネルギー分析に使った小さな電磁石を冗談に小サイクロト
ロンと説明したら、それまで誤って持ち去ってしまったと苦笑しながら後に語ったのは、その悲
劇の中の僅かな笑いであった。
・・・・・・・」
3. 小サイクロトロンとなったベータ線スペクトロメター電磁石
菊池研究室ではサイクロトロンの陽子線照射で放射化した 崩壊原子からのベータ線及びガンマ
線スペクトル測定を研究テーマの一つとしていた。伊藤順吉先生の記述によれば菊池先生はエネ
ルギーの低い電子の運動量を磁界中の円運動から求める場合、ウイルソン霧箱中や空気中では散
乱のため不正確となるから真空中で行わねばならぬと主張しておられた[18]。1937 年(昭和 12 年)
伊藤先生は菊池先生の指示により定常磁界(電磁石)中に置いた真空箱内で電子の運動量を測定
するベータ線スペクトロメターを製作し、ラドンがニッケルまたは白金上に沈着してできた Ra-E
からのベータ線スペクトルを測定した[19]。丁度サイクロトロンが完成したので、陽子ビームで
放射化した窒素のベータ線運動量をこの装置で測定しサイクロトロンによる原子核実験の初論文
として報告された[20]。伊藤先生が作られた装置については実験結果と共に報告された[21]。英
国ケンブリッジの研究者が製作した装置と似ている[22]。この電磁石は理学部建屋の中央翼 2 階
の部屋に置かれていた。大きさは高さ約 50cm、幅 30cm(磁極直径 30cm)、長さ約 50cm で真空槽は
磁極間に挿入されていて、真空槽は真空洩れを防ぐため、外側全体が磁極と共に一体となりビー
ズワックスロジンで覆われていた。サイクロトロン運転中断と共に実験は休止された。この電磁
石は研究室に置かれ持ち出されたことはなかった。
4. 高等学校へ移された電磁石
理研ニ号研究阪大分室[23]として奥田毅先生はアルフレッド O ニアーAlfred O. Nier が開発し
たイオン電流を測定する方式の質量譜測定計マス スペクトロメーター[24]の製作を計画し、磁
界は断面が 10cm×10cm の軟鉄角材 5 個で磁極間 5cm になるように角張った C 型電磁石 3 個で形成
Page 10
10
する方式とした。軟鉄は日立製作所で作られ、工作は神戸製鋼所の下請けが行った。元物理図書
室が菊池研究室となった部屋に奥田先生設計の配置図に従って電磁石を置くコンクリート台が設
置された。昭和 19 年 12 月暮れに福井と杉本が理研から運んだ綿巻き銅線を翌年正月福井、杉本、
菅でコイルに仕立てた[23]。
昭和 20 年 3 月 12 日夜半からの空襲で大阪市の大半が焼失した。その後、空襲が激しくなった
ので、芦屋岡本の甲南高等学校へ 5 月中旬にこの電磁石とコイルへの直流電源として使う予定の
渡瀬先生がラビの実験用に設置されていた大きな鉛蓄電池及び充電用水銀整流器とを疎開した
[23]。
甲南高校へは浅田研究室の一部も疎開していた[23,25]。
敗戦後 9 月までに全て中ノ島の菊池研究室に戻された。菊池先生がチンマーマンを研究室へ案
内された時、この電磁石を置いてある部屋には入られなかった。従ってチンマーマンは原物の電
磁石を見ていない。
5. チンマーマン ZIMMERMAN の記録と実際との照合
チンマーマンの記録[12.1]と実際の状況とを照合する。
チンマーマンの記録
実際の状況
初めのサイクロトロンは 1938 年に建設
彼が「初めのサイクロトロン」としたのはベー
タ線スペクトロメター電磁石のこと、製作は 1938
年で、また 28 インチ-サイクロトロン建設完了
の年でもある.
小さなモデルで、サイクロトロンとして稼動 ベータ線スペクトロメター電磁石だからサイク
されなかった
ロトロンでもモデルでもない.しかし、ローレン
スがサイクロトロン開発初期に作った電磁石と
類似の大きさだったからローレンスの開発作業
を彼が記憶していてモデルに仕立てたのかも知
れない.
1945 年春このモデルは甲南高校に移された
「1945 年春」に甲南高校に移されたのはニ号研
究で奥田先生設計製作のマス スペクトロメー
タ電磁石[22]である.彼が「モデル」と書いてい
るのはベーター線スペクトロメター電磁石のこ
とだが、電磁石という言葉が同じだから彼はマ
ス スペクトロメーター電磁石とを完全に混同
している.
甲南高校を Technical College 専門学校と
甲南高校は私立の普通高校で国公立高校と同格.
記述している
専門学校としたのは物理の装置を受入れたから
関係がある専門学校と判断したのか、或いは菊
池先生が説明された私学という言葉を彼流に解
釈したのかも知れない.
我々が訪れた時、この装置は戻されていた
マス スペクトロメーター電磁石は 9 月に戻さ
しかし組立は未完だった
れていた.当然マス スペクトロメーターとして
Page 11
11
は未完でその後、福井と杉本が数カ月かけてマ
ス スペクトロメーターとして完成した[22].彼
は前項で述べたようにこのマス スペクトロメ
ーター電磁石は見ていないから、記述は菊池先
生の説明をそのまま書いたと思われる.
6. 結論
菊池先生が言われたベィビー サイクロトロン(小サイクロトロン)と言う言葉からチンマー
マン ZIMMERMAN はベータ線スペクトロメター電磁石の機能と目的を正確に認識していながらこれ
をサイクロトロンと記録し、その大きさからローレンスがサイクロトロンを開発する際に製作し
た電磁石とローレンスの開発作業を思い出して記述したと思われる。サイクロトロンとして稼動
したことのないモデルとして高等学校へ持って行っていたと書いているのは、ニ号研究のマス ス
ペクトロメーター電磁石とを混同している。斯くしてベータ線スペクトロメター電磁石が「高等
学校へ持ち出されていたモデルの自家製サイクロトロン」となって「阪大の2台目のサイクロト
ロン」として米国の公式記録に記載されることとなった。
謝辞
原稿を読んでもらった友人、特に杉本健三氏、からの貴重な御意見に感謝します。

[1.1] 今村 昌:「科学史の一断面 - 理化学研究所サイクロトロンの破壊とアメリカ科学者の反
撃.」、『 経営情報科学 』 Vol.3 No.3 (1990 年)
[1.2] 小沼 通二、高田容士夫:「理研サイクロトロンの破壊(1945) について」、『日本物理学会
誌』第 46 巻 6 号 496-7 頁 (1991 年 6 月)
[1.3] 小沼 通二、高田容士夫:「日本の原子核研究についての第二次世界大戦後の占領軍政策」、
『 科学史研究 II 』 第 31 巻 138-145 頁 (1992 年)。
[1.4] 小沼 通二、高田容士夫:「第二次世界大戦後の日本の原子核研究と極東委員会」、『 科学
史究 II 』第 32 巻 193-201 頁 (1993 年)
[1.5] 山崎 正勝:「GHQ 史料から見たサイクロトロン破壊」、『 科学史研究 II 』 第34巻 24-26
頁(1995 年)
[1.6] 中山 茂:「1-3. サイクロトロンの破壊」第 1 部 GHQ と非軍事化政策 、『 通史 日本の
科学技術 』第 1 巻 編集代表 中山 茂、編集 後藤邦夫、吉岡 斉 学陽書房 東京 1995 年
6 月 20 日発刊 77-84 頁。
[2.1] 市川 浩: “平成 8 年度-平成 10 年度科学研究費補助金(基盤研究 C)研究成果報告書「第
二次世界大戦期における日本の戦時科学技術研究の実態に関する実証的研究」平成 11 年 3 月(課
題番号:08680075)
市川が調査した原爆調査団に関するマイクロフィルム記録とアルソス報告夫々の幾つかは柏書
房刊の『 GHQ/SCAP トップ シークレット文書集成 』に収められている。
Page 12
12
『 GHQ/SCAP トップ シークレット文書集成 』 柏書房刊
第 I 期『 AG (高級副官部)文書 (Adjutant General Section) 』全 20 巻と別巻(INDEX)
監修:天川晃、編集、解説:荒敬、1993 年 12 月 20 日、INDEX は 1995 年 10 月 20 日発刊
第 II 期 『 行政・法律関係文書 』、
第 III 期 『 経済関係文書 』全 12 巻と別巻(INDEX と解説)
編集:浅井良夫、1997 年 10 月 31 日発刊
第 IV 期 『 原爆と日本の科学技術関係文書 』全 11 巻と別巻(INDEX)
編集:安斎育郎、1998 年 2 月 20 日発刊
これらの記録の引用は、例えば第 I 期の第 2 巻頁 125 の場合、『柏-I-2-125』と記す。
仁科博士と GHQ との間の書簡集(三巻)に理研仁科博士に関係する GHQ の指令や書簡(邦訳)
が収録され、それぞれに番号が付けられているので、引用は『書簡集 巻—頁—番号』、例えば『書
簡集 III-1001-2212』と記す。書簡類の番号は第 I 巻から通しの番号が付けられている。
『仁科芳雄往復書簡集 —現代物理学の開拓— 』 III 、「大サイクロトロン・ニ号研究・戦後
の再出発 1940 – 1951 」 、中根良平・仁科雄一郎.仁科浩二郎・矢崎裕二・江沢洋 編、
協力: 財団法人仁科記念財団 みすず書房 東京 2007 年 2 月 28 日 発行
[2.2] 笹本征男:「科学情報調査—コンプトン調査 The Scientific Intelligence Survey : The
Compton Survey」 中山茂・後藤邦夫・吉岡斉 責任編集『通史・日本の科学技術 1:[占領
期]1945-1952』学陽書房 1995 年 46-55 頁。
[2.3] 20 September 1045. K. T. COMPTON 報告原文のマイクロフィルムコピーは『柏-IV-4-
273-274』、『書簡集 III-1166-1174』
[2.4] 30 September 1945. ファーマン報告 『柏-IV-3-147-150,-4-269-272』
[2.5] 20 Sept. 1945. モリソン報告 『市川報告[1.1]』付表.7 の No.S-18
[3] GHQ/SCAP Directive No.3 指令第 3 号 これは『 GHQ/SCAP トップ シークレット文書集
成 』には含まれていない。
英文原文は他の指令と共に原文マイクロフィルムのコピーが
竹前栄治監修 『 GHQ 指令総集成 』全 15 巻 エムティ出版、東京、 1994.
第 2 巻 SCAPIN 1- 400 、頁 79-81. に収録されている。
この指令は 9 月 22 日に政府へ伝達されていて、1.の総括でこの指令及び記述されている SACP
の要請に応ずる事を政府は遵守すべしと指令し、日本の戦争軍備に関連する物資、生産、保有行
為に対する禁止措置を 2 以下7項にて詳細に指令し、8 項で研究活動への制限条項を述べている。
その 8 項の訳文は小沼通二、高田容士夫:「日本の原子核研究についての第二次世界大戦後の占
領軍政策」、『科学史研究 II 』31 (1992) 138-145. の 139 頁に記載され、『書簡集 III-1168-
1175』にも収録されている。
イ.日本帝国政府は一切の実験所、研究所並に同種の科学及技術機関に付左記情報を含む報告書
を提出すべし。
(1) 名称 (2) 位置 (3) 所有者 (4) 施設の説明 (5) 使用人数 (6) 現在此等の機関に依り
研究せられ居る一切の機関別企画及一千九百四十年以降研究せられたる企画に関する明細表
ロ。日本帝国政府は此等機関に対し正当なる権限を有する聯合軍代表者の視察に常に応ずる様指
令すべし
ハ。日本帝国政府は此等機関に対し毎月一日現在を以て前月中に当該機関の施設及所員が其の為
に使用せられたる諸企画及其の業績を詳細に陳述せる報告書を終戦連絡中央事務局を経由し本司
Page 13
13
令部に提出する様指令すべし
ニ。日本帝国政府は「ウラニウム」より「ウラニウム」二三五の分離を来さしむるか又如何なる
他の放射能を有する不安定元素の大量分離をも来さしむることを目的とする研究又は応用作業を
禁止すべし
小沼等によれば、外務省条約局の仮訳によるもので正確でない部分があるが文部省から各大学へ
同指令に基く命令を伝えるに当たって引用された訳文には誤訳個所は訂正されている。上記の文
章では誤訳部分を訂正し、原文のカタカナ書、旧漢字は現在使っている文字にした。
GHQ/SCAP は我が国を統治する政策、指令、許認可等は日本政府に指示して、政府の名の基にそ
れらを実施、実行する間接統治方法をとった。
[4.1]
15 Oct. 1945. 仁科の請願 『柏-IV-6-125-127』、『書簡集 III-1171-1179』
[4.2]
17 Oct. 1945. 10 月 15 日付仁科の請願に対する許可覚書『柏-IV-6-122-123』、
『書簡集 III-1175-1182』
[4.3]
27 Oct. 1945. 10 月 17 日付許可覚書の内容変更通知覚書『柏-IV-6-117-118』、
『書簡集 III-1178-1187』
[5]
31 0ct. 1945. ワシントン JCS(統合参謀本部)から緊急指令電報 WX79907
『柏-I-1-292,-IV-1-41,-4-194,-4-280』項目分類整理上コピーが 4 枚存在する、
『書簡集 III-1179-1188』
[6]
6 Nov. 1945. 緊急指令電報 WX79907 の内容に対する GHQ/SCAP の疑問を統合参謀本部へ送
った電文、『柏-IV-1-38-40』、Moreland の手書きの電文原稿『柏-IV-1-114-115』
[7.1]
10 Nov. 1945. JCS から WX79907 に沿う行動の具体的指示『柏-IV-1-36,37,-IV-6-80』
[7.2]
19 Nov. 1945. 理研に与えた許可の取り消しと研究禁止の命令を日本政府へ伝えた覚書
『柏-IV-6-109-110』、『書簡集 III-1182-1193』
[8.1]
GROVES, Leslie M., "Now It Can Be Told - The History of The Manhattan Project -."
Da Capo Press (A Subsidiary of Plenum Publishing Corporation): New York (1983). Originally
published: Harper (1962). p.367 CHAPTER 27 “THE DESTRUCTION OF THE JAPANESE CYCLOTRONS”
[8.2]
JONES, Vincent C., "Manhattan, the Army and the Atomic Bomb. (United States Army
in World War II) (Special studies/Center of Military History, Unites States Army)" Center
of Military History, Unites States Army, Washington, D.C. (1985). p.585.“ Destruction of
Japanese Cyclotrons”
[9]
13 Nov.1945. オハーン少佐派遣命令 『柏-IV-6-111-112』
[10] 12 Nov.1945. 第 6、第 8 軍へ破壊作業要請『柏-IV-1-33-34,IV-6-79』
[11] 日付け無し、多分 20 Nov.1945. ドレイク中佐による京大荒勝研査察報告 『柏-IV-1-31』
[12.1] 20 Nov.1945. チンマーマンによる阪大査察報告『柏-IV-1-27-29』
[12.2] 21 Nov.1945. チンマーマンによる装置リスト報告『柏-IV-1-23-26』
[13] 23 Nov.1945. サイクロトロン破壊を通信社へ事前通知(故清水榮京大名誉教授より入手)
『書簡集 III-1185-1196』
[13] サイクロトロン破壊を報じた新聞記事
[14.1] 朝日新聞東京本社 昭和 20 年 11 月 25 日、日曜日、第 2 面(この頃の新聞はタブロイド
版で朝刊は1枚)
[14.2] 朝日新聞大阪本社 昭和 20 年 11 月 25 日、日曜日、第 2 面
Page 14
14
[14.3] 毎日新聞東京本社 昭和 20 年 11 月 25 日、日曜日、第 1 面
[14.4] 読売報知新聞社
昭和 20 年 11 月 25 日、日曜日、第 2 面
[15.1] 20 Dec. 1945. 仁科博士のサイクロトロン破壊に対する弁明書 『柏-IV-6-93-98』、
最終頁の要望と追伸が書簡集に収録され、 『書簡集 III-1198-1209』で「声明」となっている
弁明書の記述と殆ど同じ文面で、仁科博士は 12 月 26 日付けで横田喜三郎宛に「仁科研究室サイ
クロトロン破壊の顛末」として書いています 『書簡集 III-1209-1212』
[15.2] Bulletin of the Atomic Scientists, Vol.3, p.145 and 167 (1947)
“ A JAPANESE SCIENTIST DESCRIBES THE DESTRUCTION OF HIS CYCLOTRONS“
Yoshio Nishina
[16] ゴードン トマス、マックス モーガン ウィッツ:『エノラ ゲイ ドキュメント 原爆
投下』松田銑訳 1980 年7月 15 日 発行 ティビーエス ブリタニカ
[17] 伏見康治:「菊池正士先生略歴」 『菊池正士 業績と追悼』 1978 年 11 月 12 日 発行
菊池記念事業会編集委員会 非売品 頁 103「第 2 部 あゆみ」
[18] 伊藤順吉 『大阪大学の昔のサイクロトロン』 「日本物理学会誌」第 32 巻 第 9 号 (1977)
706-713.
[19] WATASE, Yuzuru and Junkichi ITOH : “ The -ray spectrum of Ra-E.” Proc. Phys.-Math.
Soc. Japan 20 (1938)809-813.
[20] KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI:"The -Ray Spectrum of 13N." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) Short Note.
41-42.
[21] ITOH Junkichi and WATASE Yuzuru :“
-rays emitted from Rn and MsTh-I and Their Daughter
Elements.“ Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 23 (1941) 142-159.
[22] NEARY, G.J. : “ The -ray spectrum of radium E.” Proc. Roy. Soc. London A174 (1940)71-87.
[23] 福井崇時:「理研ニ号研究阪大分室について」
『『技術文化論叢』第 7 号 (2004 年) 40-53..
[24] Nier, Alfred O : “ A Mss-Spectrographic Study of the Isotopes of Argon, Potassium,
Rubidium, Zinc and Cadmium.” Phys. Rev. 50 (1936)1041-1045.
[25] 広島県史 原爆資料編 昭和 47 年 3 月 31 日 発行 広島県編集発行 頁 579.
浅田先生の項に先生の日記が掲載され「研究室の機器図書を三重県名松線沿線の竹原村の公民館
へ自動車(トラック)二台分疎開のこと」とある。
付録-1
理研、阪大、京大のサイクロトロン建設と破壊されるまでの稼動状況
理研
参考文献 1.
辻哲夫 :「仁科芳雄の生涯・1890〜1951.」、「日本物理学会誌 第 45 巻 第 10 号 (1990)
「特集 仁科芳雄生誕百年記念」頁 712-719.
◎ 仁科の全力投入課題はサイクロトロン建設
◎ 1937 年小型(27 インチ, 23 トン)建設開始。
◎ 大型への意欲。1936 年、E. Lawrence が 37 インチ-サイクロトロンを完成したのを知る
◎ 1936 年7月、Lawrence へ手紙「40〜50 インチを作る予定、小型は 2〜3 月後にできる。」
Page 15
15
◎ 1937 年 4 月 3 日、小型完成。放射性同位元素の供給
◎ 大型建設のため、核実験行わず
◎ 1928 年、鉄、コイル、オイル-タンク米国から届く
◎ 1939 年、Lawrence 60 インチ完成
◎ 1940 年 6 月建設行詰まったことを Lawrence に手紙
◎ 1940 年 矢崎為一を派遣
◎ 米国では外来研究者受け入れ禁止
◎ 矢崎は3ヶ月後、60 インチの全設計図を貰って帰国 しかし、実際は下記
中根良平 元理研副理事長 「特集 歴史秘話 サイクロトロンと原爆研究(後編)」
“入手できなかった設計図” 『理研ニュース』No.298 April (2006) p.8
ローレンスは弟子 D. クックセイに設計図のコピーを矢崎為一に渡すよう指示したが、
なかなか来ない、矢崎は 1940 年 11 月の帰国の日となり矢崎は米国滞在中の高嶺俊夫に
貰う事を依頼し帰国した。やがて高嶺にクックセイから「設計図青焼きは作れない」と
の断り状が届き、それが仁科へ送られた。仁科は誰にもこの事を言わなかった。この断
り状を最近仁科先生の部屋(記念財団となっている)で中根たちが見つけた。中根によ
れば仁科先生がドイツハンブルグに留学していた時の共同研究者だった I.I.ラビのコ
ロンビア大学のサイクロトロンが丁度解体修理中で内部を詳しく見せた貰った時の知識
で 1942 年に設計図は自分で描いたらしい
◎ 1944 年1 月、D2 16 MeV 加速
◎ 1945 年 4 月 13 日深夜、空襲、被災
◎ 戦後、仁科 GHQ/SCAP へサイクロトロン利用許可申請、許可そして禁止、接収破壊
参考文献 2.
田島英三「理研のサイクロトロン物語」「日本物理学会誌 第 45 巻 第 10 号 (1990)
「特集 仁科芳雄生誕百年記念」頁 734-737.
◎ 小型 23 トンで中性子照射し放射性核種の性質を調べる
◎ 1940 年初め、矢崎為一、渡辺扶生、飯盛武夫を派遣
◎ Lawrence 1939 年 10 月設置の”ウラン諮問委員会”の中心人物、核エネルギー開発
◎ 矢崎、渡辺、飯盛 Lawrence にあえず
◎ Lawrence の助手より、サイクロトロンの概念設計図、加速機構の論文を託された
◎ 三人は排気速度 600 立/分の Kinney ポンプ1台購入して帰国
◎ 持ち帰った設計図で大型(60 インチ、200 トン)大改造 実際は下記
中根良平 元理研副理事長 「特集 歴史秘話 サイクロトロンと原爆研究(後編)」
“入手できなかった設計図 ” 『理研ニュース』No.298 April (2006) p.8
◎ 1943 年 11 月から調整
◎ 1944 年 2 月 15 日 陽子ビーム Al フォイル窓を通って室内に出された
◎ 1944 年 2 月 2 日戦時研究動員会議に提出書類に、大サイクロトロン建設は「ニ号研究」の一
翼と記載されている
理研 サイクロトロン利用実験報告 文献
Page 16
16
(1) SAGANE,R.:"Radioactivity Induced in Sulphur." Phys.Rev.50, Dec.15(1936)1141-1145.
(2) NAKAIDZUMI,M.,K.MURATI,and Yamamura:"Biological Effects of the Rays produced by a
cyclotron." Nature 140, Aug.28(1937)L359.
(3) NAKAIDZUMI,Masanori,and Kôiti MURATI:"Biological Effects of the Rays produced by a
cyclotron I - Experiments on the spleensof mice." Sci.Pap.Inst.Phys.and Chem.Res.34,March,
No.769(1938)L.357-361.
(4) YASAKI,Tameiti,and Sukeo WATANABE:"Deuteron-induced Radioactivityin Oxygen." Nature
141 April 30(1938)L.787.
(5) SAGANE,R., S. KOJIMA,and M. IkAWA : "Radioactive As Isotopes." Phys. Rev. 54 15 (1938) L.
149-150.
(6) NAKAIDZUMI,Masanori, and Kôiti MURATI:”Effects of Be-D Radiations upon Vicia Faba.” Nature
142, Sept.17 (1938)L.534-535.
(7) SAGANE,R.,S.KOJIMA, G.MIYAMOTO,and M.IkAWA :"Preliminary Report on the Radioactivity
produced in Y, Zr, and Mo." Phys.Rev.54, Oct.1(1938)L.541-542.
(8) NISHINA,Yoshio,and Hiromi NAKAYAMA:"On the Absorption and the Translocation of Sodium in
the Plant." Sci.Pap.Inst.Phys.Chem.Res.34, Nov.1 (1938)1635-1642.
(9) NISHINA,Yoshio,Tameichi,YASAKI,andSukeo,WATANABE:"The installation of a Cyclotron."
Sci.Pap.Inst.Phys.Chem.Res.34 (1938) 1658-1668.
(10)NISHINA,Y.,T.YASAKI,K.KIMURA,and M. IKAWA :"Artificial Production of Uranium Y from
Thorium." Nature 142, Nov.12(1938)L.874.
(11)SAGANE,Ryokichi,Shoji KOJIMA,Goro MIYAMOTO,and Masao IKAWA: "Neutron Induced Radioactivity
in Columbium." Phys.Rev.54,Dec.1(1938)L.970.
(12) 玉木英彦, 皆川理 : "中性子衝撃に依る重い原子核の分裂." 日本数学物理学会誌 第十三巻
第四号 (1939) 277-293.
(13) NISHINA,Y.,T.YASAKI,H.EZOE,K.KIMURA,and M.IKAWEA:"Fission of Thorium by Neutrons."
Nature 144, Sept.23(1939)L.547-548.
(14) 玉木英彦, 皆川理 : "中性子衝撃に依る重い原子核の分裂(II)." 日本数学理学会誌 第十
四巻.第一号 (1940) 106-121.
(15) AMAKI,Toshio,Takeo IIMORI,and Asao SUGIMOTO :"Artificial Radio-activity of Chromium."
Sci.Pap.Inst.Phys.Chem.Res.37, No.975(1940)396-398.
(16) NISHINA,Y.,T.YASAKI,H.EZOE,K.Kimura,M.IKAWA:"Induced -Activity of Uranium by Fast
Neutrons." Phys.Rev.57, June 15(1940)L.1182.
(17) MINAKAWA,O.:"Neutron-Induced Radioactivity of Tungsten." Phys.Rev. 57, June 15 (1940)
L.1189.
(18) YASAKI,Tameichi:"Fission Products and Induced -ray Radioactivity of Uranium by Fast
Neutrons." Sci.Pap.Inst.Phys.Chem.Res.37, July 1, Nos.980-981(1940)457-472.
(19) NISHINA,Y.,T.YASAKI,H.EZOE,K.KIMURA,and M.IKAWA :"Fission Products of Uranium produced
by Fast Neutrons." Nature 146, July 6 (1940) L.24.
(20) NISHINA,Y.,T.YASAKI,K.KIMURA,and M.IKAWA:"Fission Products of Uranium by Fast Neutrons."
Phys.Rev.58, Oct.1(1940)L.660-661.
(21) NISHINA,Y.,T.YASAKI,K.KIMURA,and M.IKAWA:"Fission Products of Uranium by Fast Neutrons."
Phys.Rev.59, Feb.1(1941)L.323-324.
(22) NISHINA,Y.,T.YASAKI,K.KIMURA,and M.IKAWA:"Fission Products of Uranium by Fast
Neutrons." Phys.Rev.59, April 15(1941)L.677.
Page 17
17
(23) MINAKAW,O:"Long-Lived Activity of Rhodium." Phys.Rev.60, Nov.1 (1941)L.689-670.
(24) NISHINA,Y.,K.KIMURA,T.YASAKI,and M.IKAWA :"Einige Spaltprodukte aus der Bestrahlung des
Urans mit schnellen Neutronen." Zeit.f.Phys.119 (1942)195-200.
(25) MINAKAWA, Osamu. "Long Lived Radioactivities Induced in Rhodium and Tungsten by
Neutrons.”Sci.Pap.Inst.Phys.Chem.Res.42,June1,No.116(1944)Phys110 -114.
阪大
参考文献
伊藤順吉「大阪大学の昔のサイクロトロン」日本物理学会誌 第 32 巻 第9号 (1977) 頁
706^713.
◎ 昭和 10(1935)年、菊池正士計画、教室主任八木秀次などの奔走で谷口工業奨励会より 8 万円
の寄付、さらに 4 万円を受けた
◎ 昭和 11(1936)年 12 月、サイクロトロン実験室完成
◎ 昭和 12(1937)年 3 月、電磁石 28 インチ 25 トン 搬入
◎ 昭和 14(1939)年 1 月、サイクロトロンで作った人工放射能第一論文
KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA and Seitaro YAMAGUCHI: “The
Beta-Ray Spectrum of 13N.” Proc.Phys.-Math.Soc.Japan 21 (1939) Short Note pp.41-42.
◎ 60 kW 発電機で 17 kOe まで励磁
◎ イオン半径 30 cm、16 kOe、12 Mhz で D2 を 5MeV 20 mA まで加速
◎ サイクロトロンに関する技術文献は次のが唯一
LIVINGSTON,M.Stanley:”The Magnetic Resonance Accelerator.” Rev. Sci.Instr. 7,January
(1936) 55-68.
◎ 真空技術がお粗末だった
◎ 矢崎為一からの設計図が参考資料 実際は仁科博士が作図したもの
◎ D の真鍮板が放射化、Cu65(d,2n)Zn65
◎ 実験 ベ− タ線スペクトル N13, Na24, Cl28
◎ 実験 ガンマ線スペクトル Na24, Mg27, Al28, Cl38, V52, Mn56
◎ 実験 Short Life Time Li8
阪大 サイクロトロン利用実験報告 文献
(1) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI:"The Beta-Ray Spectrum of 13N." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) Short
Note pp.41-42.
(2) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI:" -Ray Spectrum of 13N." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) 52-58.
(3) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI:" -Ray Spectrum of 24Na." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) Short Notes
259-260.
(4) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI :" -Rays Accompanying the Disintegration of 24Na." Proc. Phys.-Math. Soc.
Page 18
18
Japan 21 (1939) Short Notes. 260-261.
(5) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, Junkichi ITOH, Eiichi TAKEDA, and Seitaro
YAMAGUCHI:"On the Disintegration of 24Na." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) 381-389.
Coll. Pap. Fac. Sci. Osaka Imp. Univ. B 7 (1939) (Reprint from Proc. Phys.-Math. Soc.
Japan 21(1939) 381-389.)
(6) WATASE, Yuzuru, and Junkichi ITOH:"The -ray of 13N." Proc. Phys.-Math. Soc.Japan 21
(1939) 389-394. Coll. Pap. Fac. Sci. Osaka Imp.Univ. B 7 (1939) (Reprint from Proc.
Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) 389-394.)
(7) WATASE, Yuzuru, and Junkichi ITOH:"The -ray spectrum of radio-chlorine." Proc.
Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) 626-632. Coll. Pap. Fac. Sci. Osaka Imp. Univ. B7(1939)
(Reprint from Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 21 (1939) 626-632.)
(8) WATASE, Yuzuru, Junkichi ITOH, and Eiiti TAKEDA.:"Radiations from radioactive 65Zn."
Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 22 (1940) 90-105. Coll. Pap. Fac. Sci. Osaka Imp. Univ.
B 7 (1939) (Reprint from Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 22 (1940) 90-105.)
(9) ITOH, Junkichi :" Analysis of experimental data for
disintegration." Proc.Phys.-
Math. Soc. Japan 22 (1940) 531-550.
(10) WATASE, Yuzuru :" On the disintegration of 13N nucleus." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan
22 (1940) 634-646.
(10’) WATASE, Yuzuru :" Errata: On the Disintegration of 13N Nucleus." Proc. Phys.-Math. Soc.
Japan 22 (1940) 863.
(11) ITOH, Junkichi, and Yuzuru WATASE :" Radioactivity of 65Zn." Proc. Phys.-Math. Soc.
Japan 22 (1940) Short Note 784-785.
(12) ITOH Junkichi and WATASE Yuzuru : “
-rays emitted from Rn and MsTh-I and Their Daughter
Elements “ Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 23 (1941) 142-159.
(13) ITOH, Junkichi :" -rays Emitted from 24Na, 27Mg, 28Al and 38Cl." Proc. Phys.-Math. Soc.
Japan 23 (1941) 605-618.
(14) WATASE, Yuzuru:"A Study of the Disintegrations of 38Cl, 28Al, and 21Na with the Use
of the Method of Coincidence Counting." Proc. Phys.-Math. Soc. Japan 23 (1941) 618-632.
(15) KIKUCHI, Seishi, Yuzuru WATASE, und Junkichi ITOH :" Über die Winkelabhngigkeit der
zwei -Quanten, die von einem Atomkern kaskadenweise ausgestrahlt werden." Zeit. f.
Phys. 119 (1942) 185-187.
(16) 大阪帝國大学理學部原子核研究室(菊池、渡瀬、伊藤、若槻、武田、山口、国府、末弘,
岡崎、小林、小田、赤堀)
:”短壽命の放射性體の半減期の正確な測定”日本數學物理學會誌
第十七巻 第十、十一、十二號
昭和 18 年(1943 年)544-551.
京大
参考文献
嵯峨根遼吉:”高エネルギー粒子(及び量子)発生装置
” 「量子物理学の進歩 第1輯」
1944 年 2 月発行 頁 107-142. 表1 (頁 135-136.)
Page 19
19
◎ 昭和 18 年(1943 年)建設中
100 cm, 80 トン、10 MeV d (重水素核)の予定
◎ 撤収前の米軍の調査報告では、イオン源、真空ポンプ、発振器等は未設置で稼動には更に1
年かかるだろう、と記載されている
◎ 「昭和史の天皇」頁 195, 204.
千藤三千造によれば海軍は荒勝教授を援助、海軍における原子エネルギー利用研究で、1942
年7月 8 日に”核物理応用研究委員会”が芝水交社で第1回、1943 年 3 月 6 日まで十数回の研
究会
付録-2
サイクロトロン接収時にその作業等を米軍が撮影した写真
2008 年(平成 20 年)9 月、米国ワシントン DC 在の時事通信社ワシントン支局の不動尚史
(タカシ)氏が米国立公文書館にてサイクロトロン接収時に米軍が撮影したスチール写真を探し出しそ
の数葉のコピーが提供された
当時の国内の新聞では理研サイクロトロンの一部(真空槽を兼ねた高周波導波管と思われる)が
東京湾上で船より海へ投棄する写真を1葉だけ掲載した 最近になって種々の米軍機密文書等が
禁を解かれ公開された その中に米軍が接収に関連する場面を 16 ミリ映画に撮影し編集したフィ
ルムも公開された しかし、サイクロトロン解体作業自体は写されていない また、撮影場所や
時間等の説明がなく、その編集も幾つかの場面が入り混じっている 従って、不動氏から提供さ
れた写真は撮影された全てかどうか不明だが、解体作業現場に我々日本人が入ることを許されな
かったので彼等の作業状況を知る貴重な写真資料と思う 今回の報告書に関係する数枚をコピー
した それぞれの写真には撮影時の記録メモが付加されている しかし、軍人が記したその記録
は正確ではない 例えば阪大のサイクロトロンの写真に付けられたメモにはベータ線スペクトロ
スコピ− 電磁石と本物のサイクロトロン電磁石とが混同されている 京大の電磁石を日本の最大
のサイクロトロン電磁石と記述している
不動氏から送付された写真には仁科先生のサイクロトロンを海中投棄している写真が数種ある
が本体の電磁石が投棄されている写真は含まれていないし、阪大と京大の場合の海中投棄の写真
はない
不動氏には写真の幾つかをこの報告文に掲載する旨伝え掲載の許しを得た ここに不動氏が写
真を福井に送付されたこと、そして今回、掲載することを許された御好意に厚く感謝致します
写真には米国立公文書館所蔵(時事)と明示してある これはこれらの写真を利用するときには
その出所を明確にするため、不動氏の指示により福井がこのように挿入した

20 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ここの避難所になってるちょんまげ党の葵のご紋がずっと気になってたんだけど、やっぱり団長は徳川縁者だったのかな?

ミネ さんのコメント...

東海村のは
金ツッコミ捲った株価同様
何焦ってんのさ、と悪足搔きの様子を窺い知れましたが
てんこもりサンが鹿児島に優しくなれるワケがなぃという再確認出来ることになるとは思わなんだw

出国時と大きく様変わりした状勢からいけば
住まなくても、帰国することはアリな状況にはなったんでしょ?
それともまだまだレベル?
だとしたら縁者の方々とも不便なままですね
ひとりの大人に要らぬ憂ではありますが、

月夜 さんのコメント...

ここで
神山@サイボーグ009
見るとは思わなかった(w

許せるの?
寛容だな-。

匿名 さんのコメント...

詳しいことまでわかりませんけど
とにかく団長の安全最優先でお願いします。
それだけお願いします。

匿名 さんのコメント...

トリコロールdeⅩなペプシw
団長まで友愛されていたら今頃WW3deGO!だったかも知れないと割と真面目に思ってます。キチガイは駆除しながら納税と遵法を犬として叩き込むDEATH。

Sky apps defaced by Syrian Electronic Army hackers
http://www.bbc.co.uk/news/technology-22679099

SEAのロゴwwwOh-la-laww

匿名 さんのコメント...

このエントリー、団長さんの「本気」を強く感じます(いつでも本気なんだとは思いますが)。

>団長まで友愛されていたら今頃WW3deGO!だったかも知れないと割と真面目に思ってます。

全く同感です。

匿名 さんのコメント...

Cyclotoron Produced Radionuclides: Guidelines for Setting Up a Facility

IAEA

匿名 さんのコメント...

>権力者なんてモンは邪魔者を友愛する事により存続してきた
そのとおりなんでしょうね。只々、近年?近代?いつのころから、おかしくなってるんじゃないでしょうか…
友愛の必要ない者が友愛されたり、友愛までは逝かぬとも遠ざけられたり不遇であったり、そのようなことが各処の劣化を招いているのではないでしょうか。

少々、話して御方にすりゃ良き御方になるものをすべてなきものにしてるような…何か間違ってる気がします。

つまらないことですが、、、其の動画(w
どなたかも書いておられますが、擒@ⅩのむこうのNINJAに向けたものですか(w

てんこもり野郎 さんのコメント...

>友愛の必要ない者が友愛されたり、友愛までは逝かぬとも遠ざけられたり不遇であったり

要するに優艶順位が間違ってるわけですよ。

容赦無く友愛すべきをさっさと友愛し、遠ざけるべきを義理人情とか人権云々で野放しにしてるから無関係の人々が犠牲になったり国益やもっと多くの人権が損なわれたりしてるってのが一番の問題でしょうなあ・・・(w
まあ何時の時代も何処の国もそんなもんでしょうけど。(爆w


匿名 さんのコメント...

突然、国会議員やその秘書から電話がかかってきて、その能力も適正も全く必要ではない人のポストを急に用意するように強要され、扱いに困る場合とか、ごはんを食べながらよく話していた人もいます。

英語も喋らず、何の専門知識も交渉能力もないのに、海外出張にくっついてくる人とか。

匿名 さんのコメント...

>優艶順位が間違って
>野放し
問題ですね...(呆
確かに、いつの時代もどこの国でも同じ様なことが繰り返されてるのでしょうね(苦w
しかし、劣化し過ぎなのはどうにかならないものでしょうかね。

匿名 さんのコメント...

大日本猟友会

匿名 さんのコメント...

http://www.iic.tuis.ac.jp/edoc/pdf/jhk/J3-3-1.pdf

匿名 さんのコメント...

"These highly secret activities were under what has sometimes been called Project Z"

匿名 さんのコメント...

http://books.google.co.jp/books?id=ZW64AQAAQBAJ&pg=PA1&dq=%22JAPANESE+SCIENCE+AND+TECHNOLOGY+BEFORE+1945%22&hl=en&sa=X&ei=ypJpU8LfL9H38QW1u4GgCQ&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=%22JAPANESE%20SCIENCE%20AND%20TECHNOLOGY%20BEFORE%201945%22&f=false

匿名 さんのコメント...

高エネ研 19億円不適切会計
2014年06月17日 12時03分

茨城県つくば市にある研究機関「高エネルギー加速器研究機構」は、昨年度、納品されていない実験装置などを受け取ったとする不適切な会計処理が40件あまり行われ、その額がおよそ19億円にのぼることを明らかにしました。
不適切な会計処理が行われていたのは、つくば市にある大学などが共同で「加速器」と呼ばれる装置を使って素粒子などの研究を行う、高エネルギー加速器研究機構です。
研究機構は、17日記者会見を開き、実際には納品されていない実験装置などについて受け取ったこととする不適切な会計処理が、昨年度行われていたことを明らかにしました。
この問題は、不適切な会計処理が行われているという匿名の投書が研究機構に寄せられ、調査委員会を作って調べたところわかったということで、不適切な会計処理はあわせて40件あまり、およそ19億円にのぼっています。
研究機構では納品が年度を超える場合は、繰り越しの手続きを国や研究機構に行うことになっていましたが、担当の職員たちは、手続きが複雑だったため不適切な処理をしていたとということです。
またこの問題で、個人的な流用はないということです。
高エネルギー加速器研究機構の鈴木厚人機構長は「公的資金で研究をしている機構ではあってはならないことで、たいへん申し訳ない。
再発防止策の徹底に努めたい」と謝罪しました。

http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20140617/5273321.html

匿名 さんのコメント...

大阪は核投下の実験場だった…平成の時代に判明した「模擬原爆」フワッと落下、周辺は焦土に
2014.8.17 18:00
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/print/140817/wlf14081718000003-c.htm

匿名 さんのコメント...


タイ王女が県内先進施設を視察

タイ王女が県内先進施設を視察

来日中のタイのシリントーン王女が茨城県を訪れ、午前中はつくば市にある「高エネルギー加速器研究機構」を視察しました。

タイのシリントーン王女は日本との共同研究を進めるため、今月19日から日本を訪れ、大学や研究施設を視察しています。
23日は茨城県を訪れ、午前中はつくば市にある「高エネルギー加速器研究機構」を視察しました。
はじめに、今年度中に稼働を予定している光速に近い速度で電子と陽電子を衝突させて未知の物理法則や宇宙の成り立ちを探ろうという実験施設を見学し、従来の装置と比べて40倍性能が向上しているなどと説明を受けました。
このあと、「放射光」と呼ばれる強力な光をあてて物質の構造などを原子レベルで調べる施設も見学しました。
シリントーン王女は午後からは東海村を訪れ、素粒子実験施設、「J-PARC」や次世代のがん治療研究施設を視察し、25日帰国する予定です。
王女を案内した高エネルギー加速器研究機構の村上洋一教授は、「タイにある放射光施設の稼働や運営に日本が携わっているなどタイとは関係が深く、協力関係をより強固にして共同研究を進めていきたい」と話していました。
04月23日 12時02分
www3.nhk.or.jp/lnews/mito/1074225761.html

匿名 さんのコメント...

物件は東海村のニュートリノ

横浜市のマンションで“傾き”が見つかり、建物を支えるくいのデータが改ざんされていた問題で、データの改ざんに関わった施工管理者が担当した茨城県内の物件は、東海村にある「ニュートリノ」の実験施設であることが関係者の話で分かりました。

横浜市でマンションのくいのデータの改ざんに関わった施工管理者が過去10年間に担当した物件は全国で41件ありますが、このうち茨城県内の物件は1件だったことが発表されています。
関係者によりますと、この1件は東海村にある実験施設、「J-PARC」の中にあり、素粒子の一種、「ニュートリノ」の実験を行う「ターゲットステーション棟」という建物であることが分かりました。
この建物の工事を発注した高エネルギー加速器研究機構の神谷幸秀理事は、「旭化成建材からも回答をもらっておらず、まだ何も答えられない。慎重かつ急いで事実確認を進めたい」と話しています。
10月27日 17時13分
www3.nhk.or.jp/lnews/mito/1073025181.html?t=1445933618

匿名 さんのコメント...

In this combo photo, members of an American Engineer Aviation Battalion remove parts from a Japanese cyclotron in the Nishina Laboratory at Tokyo on Dec. 4, 1945. Part of the “Atom Gun” is removed. A vacuum chamber is extracted. The operation is part of the Allied program of destroying all Japanese atomic energy research equipment. (AP Photo/Julian C. Wilson)
Ref #: PA.10457171
flashbak.com/tokyo-japan-1917-1950-rare-images-of-love-loathing-and-life-24983/