亜細亜の実質的な中心は実は丹波篠山だったんですよ。(爆w
判書大監朴元陽の子として京畿道水原に生まれる。金玉均らと共に開化党(独立党)を結党した。光緒5年(1879年)、金玉均らと共に李東仁を日本に密出国させ、日本の情勢を探らせた。福澤諭吉の支援を受け、光緒8年(1882年)、壬午政変(壬午軍乱)の謝罪のために派遣された謝罪使(副使は金晩植と金玉均であった[1])として日本に向かう船上で、現在の韓国国旗である太極旗のデザインを考案したとされる。帰国後は漢城判尹となり、開化政策を進めるが守旧派(事大党)の反対に遭って挫折。さらに光緒10年(1884年)12月にはクーデターで閔妃派からの政権奪還を図ったが失敗(甲申政変)、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。慶應義塾に隣接していた福沢邸に寄食し、転じて神戸に居を構えた。しかし・・・
光緒20年(1894年)に甲午改革が始まると、帰国して内務大臣となり、改革の中心的な役割を果たすが、開国504年(1895年)に謀反の疑いをかけられ、再び日本に亡命した。その後光武11年(1907年)に再度韓国に戻り、李完用内閣の宮内府大臣となったが、大臣暗殺陰謀の疑いで済州島に流刑処分とされた。
隆熙4年(1910年)の韓国併合後には侯爵(朝鮮貴族)となり、朝鮮貴族会会長(1911年)、朝鮮銀行理事(1918年)、朝鮮経済会会長(1919年)、朝鮮維民会会長(1919年)、東亜日報社初代社長(1920年)、朝鮮人産業大会会長(1921年)、朝鮮倶楽部の発起人(1921年11月)、京城紡績社初代社長、朝鮮殖産銀行理事、朝鮮総督府中枢院顧問(1921年)[2]、東光会朝鮮支部初代会長(1922年)、貴族院議員(1932年)など、日本統治下の朝鮮における要職を歴任した。昭和10年(1935年)、 朝鮮総督府が編纂した"朝鮮功労者名鑑"に朝鮮人功労者353人のうちの一人に収録されている。
朴泳孝 - Wikipedia
朴泳孝 - Wikipedia via kwout
→孫文
まあ元々篠山の朝鮮人は強制連行なんぞじゃなかく、自発的に来た連中だったわけですけどね。(w
三代目にもおいら同様、丹波篠山コネクションと淡路コネクションがあったりしたわけですよ。(爆w
、、、(爆w
5 件のコメント:
たけぞえしんいちろう【竹添進一郎】 1842‐1917(天保13‐大正6)
明治期の外交官,漢学者。字は光鴻(こうこう)。井井と号した。肥後天草の人。幕末・維新期に熊本藩のため京都,江戸に奔命した。1875年,伊藤博文らの知遇で森有礼に随行して渡清し,さらに翌76年,中国内地を旅行し《桟雲峡雨日記》を著す。大蔵省勤務をへて80年天津領事となり,琉球分島問題で井上毅らと清政府に交渉した。壬午軍乱で花房義質(よしもと)の後任韓国公使としてソウル(京城)入りし,独立党の金玉均,朴泳孝らを助け日本勢力の扶植に努めたが,84年暮れの独立党クーデタ(甲申政変)に日本軍を王宮に進めながら清軍に反撃され,失敗した(日本は関与を否定)。
のち東京大学教授となり経書を講じる。
著書は『桟雲峡雨日記』・『左氏会箋(カイセン)』。
嘉納治五郎は明治二十四年に竹添進一郎の娘、須磨子と結婚
>コネクション
…ま…選べないって点はあるでしょうが…
エロすぎイ(爆w ショックで泡吹く読者がいるかもね(爆
ところで、そのコネクションとやらは、他にも種類があるんでしょ?単なる地縁とか諸々じゃないわけですね?何種類ぐらいあるんだろう?w
>三代目にもおいら同様、丹波篠山コネクションと淡路コネクションがあったりしたわけですよ。(爆w
コーヒー吹きますたw
やっぱ関東いかず関西チョイスして正解かな^^;
books 慶應 朝鮮 留学生
金玉均 日下部正一
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