2012年7月3日火曜日

日本二十六聖人と尾張と卍党



に脊髄反射的に反応されてる方が複数いらっしゃるようですので続けますかね・・・(爆w

まあ何故か日本二十六聖人に尾張出身者が多いわけですが・・・




日本二十六聖人記念館

日本二十六聖人記念館(にほんにじゅうろくせいじんきねんかん)は、長崎県長崎市にある、日本二十六聖人の顕彰を目的としてカトリック教会によって設立された博物館。
本項目では、日本二十六聖人記念館と一体の施設である日本二十六聖人記念聖堂、日本二十六聖人記念碑(それぞれ「記念館」「聖堂」「記念碑」と略称)についても述べる。

沿革
1962年、日本二十六聖人の列聖100周年を記念して開館、初代館長に結城了悟神父就任。
1981年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世来館
2004年、第2代館長にレンゾ・デ・ルカ神父就任。
2008年、結城了悟神父が帰天。


結城 了悟(ゆうき りょうご、1922年10月17日 - 2008年11月17日)は、スペイン・セビリャ出身のイエズス会司祭・キリシタン史研究者。 帰化名はペトロ岐部と187殉教者の一人結城了雪にちなむ。




美濃国に隣接する尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)を領した国人で川並衆の一つであった。正勝の祖父・正永の代までは尾張守護の斯波氏に仕えていたが、斯波氏が衰えたため、父の正利の代には美濃国の斎藤氏に従った。
上述の正勝の代になって蜂須賀氏は織田氏の配下に属して、歴史の表舞台に登場する。正勝は秀吉の参謀として活躍し、子の蜂須賀家政の代には阿波一国を治める大名に成長した。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与し、領土を安堵され、子孫は徳島藩の外様大名として代々松平の名字を徳川将軍から授与され存続し明治維新を迎えている。[1]ただし、8代蜂須賀宗鎮以降は他家からの養子のため、元々の蜂須賀氏との血縁関係はない。また、13代藩主の蜂須賀斉裕の実父が徳川家斉であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。後に侯爵に任ぜられ、紀州徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られた。北海道で大規模な農場経営をおこなったが失敗し、ここから凋落が始まる。
大正から昭和期に18代当主となった蜂須賀正氏は世界的な鳥類学者として知られるが、一方でたびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上した。戦後は正氏の遺族の間で財産争いが起こり、そこに暴力団もからんだために過半の財産を消失し、蜂須賀氏は没落した。
現在の当主は、正氏の娘の正子。
江戸期に分家した、「蜂須賀山城家」「蜂須賀隼人家」「蜂須賀駿河家」「蜂須賀靭負家」などの、藩の要職についた系統もある。
ja.wikipedia.org/wiki/蜂須賀氏


庚午事変
庚午事変(こうごじへん)は、1870年に当時の徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が、筆頭家老稲田邦植の別邸や学問所などを襲った事件。稲田騒動(いなだそうどう)とも呼ばれる。
結果的に淡路島の帰属をめぐる重要な事件となり、この事件がなければ淡路島は今も徳島県であった可能性が高い。
経緯 
徳島藩洲本城代家老稲田家(1万4千石)は、徳島本藩との様々な確執が以前よりあった。幕末期、本藩側は佐幕派に対し稲田側では尊王派であり、稲田側の倒幕活動が活発化していくにつれ本藩側との対立をさらに深めていくようになった。そして明治維新後、徳島藩の禄制改革により徳島本藩の家臣は士族とされたが、陪臣(徳島本藩の家臣)である稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとみるや今度は洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指す(そうすれば自分達は士族になる)ようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになる。稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていた。
稲田側のこうした一連の行動に怒った本藩側の一部過激派藩士らが、明治3年5月13日(1870年6月11日)、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃した。またその前日には徳島でも稲田屋敷を焼き討ちし、脇町(現:美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍。これに対し稲田側は一切無抵抗でいた。これによる稲田側の被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。他に投獄監禁された者は300人余り。焼き払われた屋敷25棟。
政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったか調査した。少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがある。そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀茂韶を知事から罷免するつもりであった。
当時の日本は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だった。中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばならない。だが下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねない。政府は慎重な対応を余儀なくされた。
結局、政府からの処分は、徳島藩側主謀者小倉富三郎・新居水竹ら10人が斬首(のちに藩知事の嘆願陳情で切腹になる)。これは日本法制史上、最後の切腹刑となる。八丈島への終身流刑は27人、81人が禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。藩知事や参事らも謹慎処分を受け、藩自体の取り潰しはなかったものの、洲本を含む津名郡は明治4年5月に兵庫県に編入されている。
稲田側に対しては、この事件を口実に北海道静内と色丹島の配地を与えるという名目で、兵庫県管轄の士族として移住開拓を命じ、彼らは荒野の広がる北の大地へと旅立っていった。この静内移住開拓については船山馨の小説『お登勢』や、2005年1月公開の映画『北の零年』でも描かれている。
洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示され、事件当時の事を綴った稲田氏の家臣の手記などが展示されている。
ja.wikipedia.org/wiki/庚午事変

→稲田側は一切無抵抗

「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」・・・(w

まあ要するにイエズス会にとっての厄介者を処分するための常套手段だったと・・・(爆w

→淡路洲本





→力士たちの墓



、、、(爆w

まあ後は・・・


参照。(爆w

8 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

小沢と「蜜月」ワールドメイトの資金力
http://facta.co.jp/article/201205029.html

ミネ さんのコメント...

ん~、
やっぱ、日本の辞書から徳の字は真っ先に消した方がいい
常々思ってたけど今日特に思った

匿名 さんのコメント...

淡路国(兵庫)と 徳島藩との間でこんな因縁が、知らなかった。
初代〜三代目までは外来系に抵抗した在来系ということですかね。

毛唐が古来の磐境(イワサカ)を磐座(イワクラ)に摩り替えた祟り
http://tokumei10.blogspot.com/2011/12/blog-post_7054.html

匿名 さんのコメント...

苗字に「徳」の字がある人は、皆キリシタンなのでしょうか?

徳川家康に由来のあると名前、という話は聞いたことありますが・・・。

月夜 さんのコメント...

>尾張国海東郡蜂須賀郷(愛知県あま市蜂須賀)

尾張西部地域の寺社にかなり切支丹灯籠が健在なのを、エントリーしていましたよね。
二十六聖人に尾張国の者が多かったのは必然と言えますね。

東京の神田は、江戸期から書物の作成販売で賑わっていた地域ですが、其処は尾張から連れられてきた者が多かったと。
案外イエスズ会布教の出先機関の1つだったりして。

匿名 さんのコメント...

今見ると「神田」って名前がドンピシャ過ぎて笑えるw

匿名 さんのコメント...

蕃書調所の前身である洋学所は神田小川町、湯島聖堂は昌平坂学問所、お玉が池種痘所は神田岩本町。

神田須田町、多町、小川町、司町などは戦災も免れたために、今でも近代建築の名残りが静かに残っています。神田神保町も例外を除いては同じく戦災を免れています。

路地も含めて、なかなか香ばしい界隈で楽しいですよ。

ご近所 さんのコメント...

>徳

苗字にこの字が入っている方、多いですよ長崎