2012年6月30日土曜日

「モスラ」原作者、福永武彦の療養日記発見

福永武彦の療養日記発見 息子池沢さんへの思いも

「風土」「草の花」などで知られる作家で詩人の福永武彦(1918~79年)が、結核で療養中だった49年に書いた日記が見つかったことが30日、分かった。
日記には、50年の離婚を前にした苦悩や死への恐怖、息子の作家池沢夏樹さん(66)への思いを「ナツキはどうしても取られてしまふだろう」などとつづっている。「芸術家はFoyer(家庭、家族)に関する一切の希望を自ら捨て去らなければならないのかもしれない」との記述もある。
45~53年の日記のうち4冊は既に見つかっており、45~47年の日記は「福永武彦戦後日記」として昨年、新潮社が出版した。49年の日記は所在不明だったが、東京都内の個人宅に保管されていたことが判明、池沢さんが昨年、提供を受けた。同社によると、福永が51年に「僕の書いたもののうちこれが一番いいものであるかもしれない」と記していた1冊だという。
福永研究者で北海道立帯広柏葉高校教諭の田口耕平さんは「手術して2年たち、病状が一進一退だった状況で書かれ、絶望で終わる。福永は一番痛烈な体験が書かれたこの日記に、自分の人生の縮図があると思ったのではないか」としている。
同社は51~53年の日記と併せ、11月に刊行する予定。一部は7月6日付発売の文芸誌「新潮」に掲載する。
[ 2012年6月30日 20:24 ]
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/06/30/kiji/K20120630003579950.html



当時東京帝国大学の学生であった福永末次郎と日本聖公会の伝道師であったトヨの長男として、福岡県筑紫郡二日市町(現・筑紫野市二日市)に生まれる。東大卒業後に三井銀行に就職した父・末次郎の転勤によって、横浜市、佐世保市、福岡市で過ごし、1926年6月、東京に転居する。その前年の1925年3月に母・トヨは弟・文彦を生んだが、翌月産褥熱のため死去している。



また、中村真一郎・堀田善衛とともに映画『モスラ』の原作となる『発光妖精とモスラ』(のちに筑摩書房)を執筆した。また、中村真一郎・丸谷才一と組んで、西洋推理小説をめぐるエッセイ『深夜の散歩』(早川書房のち講談社・扶桑社から文庫化)を刊行し、さらに加田伶太郎の名前で推理小説を書き、のちに『加田伶太郎全集』全1巻で刊行されている。

幼少時にキリスト教伝道師である母親のもとを離れて、父親に預けられた。母親との約束を守り、父親は開成中学時代までは教会に武彦を連れて出席した。しかしその後、武彦は教会から遠ざかる。死の2年前1977年、クリスチャンになりキリスト教朝顔教会の井出定治牧師により、病床洗礼を受けた。死ぬまでの2年間は教会に通い、聖書をギリシア語などで、原典に忠実に読んだ。1979年、脳内出血で死去した。朝顔教会で教会葬を行った。同人仲間の原條あき子(詩人、2003年没)との間に作家池澤夏樹がおり、声優池澤春菜は孫娘である。
ja.wikipedia.org/wiki/福永武彦







1977年、『ゴヤ』完結後、スペインに居を構え、それからスペインと日本とを往復する生活をはじめる。スペインやヨーロッパに関する著作がこの時期には多い。また、1980年代後半からは、社会に関するエッセイである〈同時代評〉のシリーズを始め、これは作者の死まで続けられ、没後『天上大風』として1冊にまとめられた。
エピソード
堀田の愛読者である宮崎駿は、『方丈記私記』のアニメ化を長年に渡って構想していた。また、2008年、宮崎吾朗他のスタジオ・ジブリスタッフにより、『方丈記私記』等の堀田作品をアニメ化するという仮定のもとのイメージ・ボードが制作され、神奈川近代文学館に展示された。
ja.wikipedia.org/wiki/堀田善衛



、、、(爆w


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星野道夫ヒグマ襲撃事件

以下の事件の経緯はTBSが作成した「遭難報告書」によるものである[2]。

1996年7月25日、TBSの人気動物番組『どうぶつ奇想天外』の撮影の為、同地を訪れた。今回は星野の持ち込み企画で、「ヒグマと鮭(サケ)」をテーマに撮影する予定で、星野の他にTBSスタッフ3名とロシア人ガイド2名が同行していた。小屋には取材班とガイドの5名が泊まり、星野はそこから数m程離れた所にテントを張り、1人でそこに泊まることにした。その時小屋の食糧がヒグマにあさられていた形跡をガイドが発見している。

7月27日、別のアメリカ人写真家が現地を訪れ、星野のテント近くにテントを張ったが、その夜、写真家は金属音で目が覚めた。外に出ると小屋の食糧庫にヒグマがよじ登り、飛び跳ねていた。ヒグマは体長2m超・体重250kgはある巨大な雄クマで、額に特徴的な赤い傷があった。アメリカ人写真家が大声を出して手を叩くとヒグマは跳ねるのを止め地面に降りると、今度は星野のテント後方に周りはじめた。その最中、星野がテントから顔を出したので、写真家は「あなたのテントから3mにヒグマがいる」と警告した。星野は「どこ?」と返す。「すぐそこ。ガイドを呼ぼうか?」と写真家が聞くと「うん呼んで」と答えたので、写真家は小屋のドアを叩いてヒグマの出没をガイドに告げた。小屋から出てきたガイドは鍋を叩き鳴らしながら近づき、7~8mあたりでクマ除けスプレー(以下スプレーと略)をヒグマに向けて噴射したが、ヒグマには届かなかった。なお、同地は自然保護区の為、銃の所持・使用は禁止されている。その後もスプレーを掛けようとガイドは悪戦苦闘するが、上手くいかず、やがてヒグマはテントから離れていった。

この為、ガイドたちは星野氏に小屋で寝るよう説得したが、星野は「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だから、ヒグマは襲ってこない」として取り合わなかった。一方で、アメリカ人写真家は身の危険を感じ、近くの鮭観察タワーに宿泊した。

8月1日、環境保護団体のグループが訪れ同地でキャンプをしたが、靴をヒグマに持ち去られたり、写真家が不在だった鮭観察タワーに泊まった1人は、一晩中タワーによじ登ろうとするヒグマに怯え眠れなかったという。

8月6日夜にはまた星野のテント近くにヒグマが現れて、ガイドがスプレーで追い払った。ガイドは再び強く小屋への移動を勧めたが、星野はこの時も聞き入れなかったという。

8月8日の深夜4時頃、星野の悲鳴とヒグマのうなり声が暗闇のキャンプ場に響き渡った。小屋から出てきたTBSスタッフは「テント!ベアー!ベアー!」とガイドに叫んだ。ガイドが懐中電灯で照らすとヒグマが星野を咥えて森へ引きずっていく姿が見えた。ガイドたちは大声をあげシャベルをガンガン叩いたが、ヒグマは一度頭をあげただけで、そのまま森へ消えていった。テントはひしゃげていてポール(支柱)は折れ、星野の寝袋は切り裂かれていた。ガイドが無線で救助を要請し、ヘリコプターで到着した捜索隊は上空からヒグマを捜索し、発見すると射殺した。星野の遺体は森の中でヒグマに喰い荒らされた姿で発見された。

  星野は「野生のヒグマは遡上する鮭の多いこの季節に人を襲わない」との考えからテントに泊まり続けた。その知識は基本的には間違いではないが、今回星野を襲ったのは地元テレビ局の社長によって餌付けされていたヒグマで、人間のもたらす食糧の味を知っていた個体であった。さらにこの年は鮭の遡上が遅れ気味で、食糧が不足していた。死の直前まで撮影された星野の映像は遺族の意向もあり、「極東ロシアヒグマ王国~写真家・星野道夫氏をしのんで~」と題し、後日放送された。

  以上がTBSが作成した「遭難報告書」による事件の経緯だが、星野が死亡していることもあり、本当に星野が小屋に泊まることを拒否したのか、事件は回避出来なかったのか等の真偽は不明である。ガイドやアメリカ人写真家の証言と報告書との間に矛盾もあったことから、星野の友人らはTBSに対して公開質問状を送ったが、TBS側は報告書の一部間違いは認めたものの、事故を予測することはできなかったと回答している。また遺族からの意向もあり、追加報告書の作成は見送ったとしている。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

聖公会司祭による 児童虐待事件の速やかな解決を!

匿名 さんのコメント...

「ポニョはなぜ魚の子なのか」~宮崎駿監督が払拭したがるキリスト教色とは?
http://plain-story.cocolog-nifty.com/ps/cat539939/index.html

匿名 さんのコメント...

2011年の話です。

札幌市中央区のマンション街などで6日未明から早朝にかけ、ヒグマの目撃情報が相次いだ。
[朝日新聞 2011年10月6日11時38分]
ameblo.jp/jokeness1445/entry-11040307202.html#main (地図アリ)

2011年10月6日 – 5日から札幌に滞在中の秋篠宮さまは、6日朝、円山動物園を訪問されました。

2011年9月
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110911/imp11091119080001-n1.htm (【カテゴリ】 ・・・。)