天主教 - Google 検索 via kwout
元祖は・・・
御祭神
大彦命
長岡市妙見町にあり、信濃川の東。
JR線路がトンネルに入る北側に境内がある。
狭い境内は最近整備されたようで、
参道の樹木も切り取られ、裸状態だったが、
庚申などの石碑や石仏が並べられていた。
拝殿の周囲に補強のための棒が見える。
鳥居額に、小さな注連縄がぶら下がっていた。面白い。
式内社・三宅神社の論社、というより兄弟社。
皇室直轄の屯倉が置かれていたことから三宅という名となったといい、
妙見町は、ミヤケが妙見菩薩(ミヤウケン)と習合し妙見町となったらしい。
社伝によると、孝元天皇の皇子・大彦命が崇神天皇の勅命を受けて北陸を平定し、越の国に来られた。
大彦命の御子・波多武日子命が新羅の天日桙命の姫・姫天美明命と結ばれ
当地の東にある三明山(金倉山)に鎮まり、
金倉山三岳(幡持山、幕山、美明山)に三殿を作った。
幡持山(上の嶺)には大彦命、幕山(中の嶺)には天日桙命、
美明山(下の嶺、北の嶺)には波多武日子命と姫天美明命が祀られた。
後世、大彦命は山麓の妙見に、天日桙命は中潟に、
波多武日子命と姫天美明命は大久保が岡(六日市)に遷座された。
よって、当地から北へ、
妙見、中潟、六日市と3つの集落に三宅神社が鎮座している。
また、金倉山山頂には奥の院の石碑が立っているらしい。
それが・・・
寛文五年(一六六五)八月、吉田家御尋に対し、 また同六年及び享保五年(一七二〇)五月、幕府寺社奉行所 より神社本末御尋の節、三宅大連当虎書上の「社伝」によ れば、「越の三宅神社二座は、大彦命の御子波多武日子命 が新羅の天日桙命の姫天美明命と婚し、この国の三明山に 鎮り、三殿を造つた。三殿とは上の嶺には大彦命・中の嶺 には日桙命・波多武彦命と美明命は陰陽相殿に鎮まる。三 宮殿、二柱の神系により三宅神社二座とす。二神の御子三 宅真人武倉麿の館は嶺の中腹に御所平という古跡であり、 次に造替の所が今、御所塚といい、『神名久羅の御所』と 称した。上の嶺が今の幡持山、中の嶺が幕山、北の嶺が美 明山で、総名を神名倉(金蔵山)と唱う。後世上の嶺に座 す大彦命を麓に移し、後の妙見と称す。中嶺の日桙命を的 場ヶ崎平岡に遷し、後の中片(なかがた)と称す。下の嶺に 座す二神を大久保が岡に移し、姓を神瀧谷連と改む。宇都 宮大明神を称す」云々と記してゐる。
-『式内社調査報告』-
で、その後時と共に・・・
即ち女小ノ・・・になったわけです。(w
で、三宅坂ビルの坂即ちSakhaですが、それは・・・
→Evenks→エヴェンキ
で、三宅坂ビルの屋上には妙を見るための
があったりするんですね。(爆w
まあ要するにヴァチカン・Japan配下の日本の権力の各方面に巣食ってる草や影である日本の隠れキリシタン闇人脈のアジトみたいなモンです。(爆w
6 件のコメント:
何と慈母に満ちた、妙(みやう)な話w
>Sakha
site:tokumei10.blogspot.com サカ
エヴェンキ 満州 百済
>大彦命 波多武日子命
越王 古四王神社
>天日桙命(新羅) 都怒我阿羅斯等 敦賀
孝元〜開化〜崇神、この時代に民族的対立のルーツがあるんでしょうかね。
ぅ屯倉っすか
ミルク粥+七草を作りながら食べながらでタイムリーだなぁと悦にいっておりまふ。
江戸から大和朝廷にひとっ飛びな単語っすねw
コノ頃はナンデモ ミヤケ。
匁ッもんめっモンメッ
綿から米を指す言葉になったということっすか
でも頭は乙巳の変辺りとどんどん脱線してしまぅっすw
淡路島
子供の頃屯田兵で とん? と心に残ったもんですw
訛というのは罪でござるな
>三宅坂ビル
色んな出来事がありましたね、、、
民主党が三宅坂ビルをデモ禁止地域に
http://tokumei10.blogspot.com/2010/11/blog-post_1136.html
三宅坂ビルに侵入者:民主党本部の鳩山由紀夫のパソコンのサーバーを破壊
http://tokumei10.blogspot.com/2009/10/blog-post_28.html
一通り見たい方
http://tokumei10.blogspot.com/search/label/%E4%B8%89%E5%AE%85%E5%9D%82%E3%83%93%E3%83%AB
八代妙見祭 砥崎河原で演舞披露
11月24日 05時39分
「八代妙見祭」は23日最終日を迎え、八代市内の河原で最大の呼び物、想像上の動物「亀蛇」などの演舞が披露されました。
「八代妙見祭」は八代市に江戸時代初期から伝わる伝統の祭りで、去年、ユネスコの無形文化遺産に登録されました。
23日は、高さが5メートル近くもある「菊慈童」や「本蝶蕪」などの「傘鉾」9基を含む40の出し物と、総勢1700人もの市民による神幸行列がおよそ7キロを練り歩きました。
そして、砥崎河原で最大の呼び物、演舞が披露され、亀と蛇をかけ合わせたような想像上の動物、「亀蛇」が激しく回転し観客席に近づいていくと、会場に集まった大勢の人たちは大きな拍手を送ったり、亀蛇に触ったりしていました。
また、飾り馬が水しぶきを上げて川の中を勢いよく駆け抜けていくと、観客は歓声を上げながら見入っていました。
天草市から訪れた70代の男性は「毎年楽しみに来ています。亀蛇にも触ることができたので良かったです」と話していました。
kumamoto/20171124/5000000859.html
昔の為政者が最も恐れたことは、天変地異による自然災害かと思われます。
人の手で抗することがほとんで出来ないくらいの巨大なエネルギーだからです。
これらを鬼や神獣や地獄のような様と想像し、何とか生き延びる智恵を子孫に伝承として残したことでしょう。
その現れの一つが神社や寺であり、それら宗教の役目にもなりました。
古代の為政者は、人間間の争いより自然災害のほうをを恐れ、上位のものと位置付けたと思います。
今は自然災害に匹敵する人間の科学力や争いがあります。
人間の暴走が引きがねとなり、地球で大災害が起こるならば、それは神をも恐れぬ仕業であり、前時代では考えられなかったことが現実になりつつあるという危機感があります。。。。
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