前原外相:経済協力、四島から拡大 対露交渉のテコにhttp://mainichi.jp/select/seiji/news/20101110k0000m010073000c.htmlこりゃ、団長の睨んだとおりですね。
2017.3.23 14:00【正論】トランプ大統領の一撃で温暖化交渉の理想主義は剥落した 京都議定書は日本外交の稀にみる大失敗であった 東京大学客員教授・米本昌平東京大学客員教授、思想家・米本昌平氏 トランプ米大統領は、持論の地球温暖化の否定に立って、これまでの環境規制を取り払い、石炭やシェール資源の開発認可にのり出した。だが、さらに重要なことはトランプ大統領の一撃によって、国際政治における温暖化の意味が一変してしまうことである。それは温暖化交渉がまとっている理想主義をはぎ取り、1992年に成立した国連気候変動枠組み条約にまでさかのぼって考えることを、われわれに強いるものである。≪環境外交の牽引車となった独≫ そもそも同条約は、二酸化炭素(CO2)が温暖化をもたらしているか、科学的結論が明確になる前に成立した「予防原則」に立つ史上初の環境条約である。なぜ、そんなことが起こりえたのか。 それは89年11月にベルリンの壁が突然崩れ、米ソ核戦争の恐れが著しく遠のいたからに他ならない。このとき、国際政治という特殊な空間は、核戦争の脅威に代わる新しい脅威を必須のものとした。そして、この空隙に向かって外交課題の順位表をかけのぼってきたのが地球温暖化問題である。 しかもこの時、地球温暖化を国際政治の重要課題に格上げしようとする有力な国が現れた。冷戦期に東西に分断され、再統一を目指すドイツである。だが第一次、第二次世界大戦はドイツによる欧州覇権という国家的野望が原因であると考えるサッチャー英首相などは、大ドイツの復活に反対した。 近隣諸国の疑念を打ち払うために、西ドイツ議会は報告書『地球の保護』をまとめて国力を温暖化対策に振り向けることを決めた。加えて、欧州の共通通貨創出のために最強通貨であったマルクを供出した。冷戦後の欧州に受け入れられるために、ドイツはこれだけの犠牲を払ったのである。以後、新生ドイツは欧州連合(EU)の環境外交の牽引(けんいん)車となった。≪議論全体が環境NGO寄りの価値観≫ こうして成立した気候変動枠組み条約と京都議定書には、重苦しい冷戦期の雰囲気を反転させた理想主義が貫いている。それは第1に「予防原則」に立っていること。第2に、京都議定書は事実上の産業活動であるCO2の排出削減を国際法によって義務づける、異端の国際合意であったこと。第3に、外交の形態に革命が起こり、交渉過程が全てオープンになって、議論全体が環境NGO寄りの価値観の上に組み立てられていること、である。 トランプ大統領の発言はこの理想主義をはぎ取ってしまう。そしてその先に見えてくるのは、京都議定書が日本外交の稀(まれ)にみる大失敗であった事実である。 事の経過は、おおよそ次のようであった。EUの主導で97年に成立した京都議定書は、90年のCO2排出量を基準に2008年からの5年間平均でEU8%、米国7%、日本6%の削減を義務づけるものであった。このとき欧州は、CO2排出が減る方向にあった。ベルリンの壁崩壊後、東欧諸国は極端に効率の悪いエネルギー部門の刷新を迫られ、90年代を通してCO2排出量は30%以上減少した。旧西側諸国も炭鉱を閉鎖して、熱効率の良いロシア産の天然ガスに切り替えた。 こういう状況の中で、EUは8%削減を受け入れ、さらにEU内で削減義務を再配分した。その際、東ドイツを統合した新生ドイツは21%削減を引き受けた。一方米国は、連邦議会上院がバード=ヘーゲル決議を全会一致で採択し、削減義務のある国際合意は批准しないことを決めた。そのため、01年にブッシュ大統領が就任するとただちに、京都議定書の枠組みから脱退したのである。≪美名に酔いしれる状況変わらず≫ 議定書案はEU色の濃いものであったが、開催地の持ち回りの原則で第3回締約国会議は京都に決まった。 このとき日本は、議定書に京都の冠がつくのを異様に名誉なことと思い込み、日本が突出して不利な6%削減案を丸のみした。さらに、国益の観点から議定書の意味を精査すべき国会は、形ばかりの審議で批准してしまった。こんな国は日本以外にない。 政府は削減義務達成が不可能と考え、電力業界とともに発展途上国から排出枠を買い取ったが、総額は5千億円にのぼると推定される。こうして京都議定書の約束期間に入っていれば、日本は削減義務が果たせず大問題になっていたはずである。ところが08年秋にリーマン・ショックが起こり、日本の産業活動は急速に減速し、皮肉なことに京都議定書の目標は楽々達成してしまった。 京都議定書が外交上の大失策であったことは、政府関係者の間では共通認識である。だがその原因を一つに絞ることはできない。日本人の大半が京都という美名に酔いしれ、議定書は国際政治上の道具でしかないという当たり前の事実が、目に入らなかったのだ。 20年前のこの異様な政治状況を分析しようとする者すら、まだ現れない。戦前の日本は一丸となって戦争につき進んでいったといわれるが、異論を許さない状況は今も変わらないままなのだ。(東京大学客員教授・米本昌平 よねもとしょうへい)http://www.sankei.com/column/print/170323/clm1703230007-c.html
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前原外相:経済協力、四島から拡大 対露交渉のテコに
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20101110k0000m010073000c.html
こりゃ、団長の睨んだとおりですね。
2017.3.23 14:00
【正論】トランプ大統領の一撃で温暖化交渉の理想主義は剥落した 京都議定書は日本外交の稀にみる大失敗であった 東京大学客員教授・米本昌平
東京大学客員教授、思想家・米本昌平氏
トランプ米大統領は、持論の地球温暖化の否定に立って、これまでの環境規制を取り払い、石炭やシェール資源の開発認可にのり出した。だが、さらに重要なことはトランプ大統領の一撃によって、国際政治における温暖化の意味が一変してしまうことである。それは温暖化交渉がまとっている理想主義をはぎ取り、1992年に成立した国連気候変動枠組み条約にまでさかのぼって考えることを、われわれに強いるものである。
≪環境外交の牽引車となった独≫
そもそも同条約は、二酸化炭素(CO2)が温暖化をもたらしているか、科学的結論が明確になる前に成立した「予防原則」に立つ史上初の環境条約である。なぜ、そんなことが起こりえたのか。
それは89年11月にベルリンの壁が突然崩れ、米ソ核戦争の恐れが著しく遠のいたからに他ならない。このとき、国際政治という特殊な空間は、核戦争の脅威に代わる新しい脅威を必須のものとした。そして、この空隙に向かって外交課題の順位表をかけのぼってきたのが地球温暖化問題である。
しかもこの時、地球温暖化を国際政治の重要課題に格上げしようとする有力な国が現れた。冷戦期に東西に分断され、再統一を目指すドイツである。だが第一次、第二次世界大戦はドイツによる欧州覇権という国家的野望が原因であると考えるサッチャー英首相などは、大ドイツの復活に反対した。
近隣諸国の疑念を打ち払うために、西ドイツ議会は報告書『地球の保護』をまとめて国力を温暖化対策に振り向けることを決めた。加えて、欧州の共通通貨創出のために最強通貨であったマルクを供出した。冷戦後の欧州に受け入れられるために、ドイツはこれだけの犠牲を払ったのである。以後、新生ドイツは欧州連合(EU)の環境外交の牽引(けんいん)車となった。
≪議論全体が環境NGO寄りの価値観≫
こうして成立した気候変動枠組み条約と京都議定書には、重苦しい冷戦期の雰囲気を反転させた理想主義が貫いている。それは第1に「予防原則」に立っていること。第2に、京都議定書は事実上の産業活動であるCO2の排出削減を国際法によって義務づける、異端の国際合意であったこと。第3に、外交の形態に革命が起こり、交渉過程が全てオープンになって、議論全体が環境NGO寄りの価値観の上に組み立てられていること、である。
トランプ大統領の発言はこの理想主義をはぎ取ってしまう。そしてその先に見えてくるのは、京都議定書が日本外交の稀(まれ)にみる大失敗であった事実である。
事の経過は、おおよそ次のようであった。EUの主導で97年に成立した京都議定書は、90年のCO2排出量を基準に2008年からの5年間平均でEU8%、米国7%、日本6%の削減を義務づけるものであった。このとき欧州は、CO2排出が減る方向にあった。ベルリンの壁崩壊後、東欧諸国は極端に効率の悪いエネルギー部門の刷新を迫られ、90年代を通してCO2排出量は30%以上減少した。旧西側諸国も炭鉱を閉鎖して、熱効率の良いロシア産の天然ガスに切り替えた。
こういう状況の中で、EUは8%削減を受け入れ、さらにEU内で削減義務を再配分した。その際、東ドイツを統合した新生ドイツは21%削減を引き受けた。一方米国は、連邦議会上院がバード=ヘーゲル決議を全会一致で採択し、削減義務のある国際合意は批准しないことを決めた。そのため、01年にブッシュ大統領が就任するとただちに、京都議定書の枠組みから脱退したのである。
≪美名に酔いしれる状況変わらず≫
議定書案はEU色の濃いものであったが、開催地の持ち回りの原則で第3回締約国会議は京都に決まった。
このとき日本は、議定書に京都の冠がつくのを異様に名誉なことと思い込み、日本が突出して不利な6%削減案を丸のみした。さらに、国益の観点から議定書の意味を精査すべき国会は、形ばかりの審議で批准してしまった。こんな国は日本以外にない。
政府は削減義務達成が不可能と考え、電力業界とともに発展途上国から排出枠を買い取ったが、総額は5千億円にのぼると推定される。こうして京都議定書の約束期間に入っていれば、日本は削減義務が果たせず大問題になっていたはずである。ところが08年秋にリーマン・ショックが起こり、日本の産業活動は急速に減速し、皮肉なことに京都議定書の目標は楽々達成してしまった。
京都議定書が外交上の大失策であったことは、政府関係者の間では共通認識である。だがその原因を一つに絞ることはできない。日本人の大半が京都という美名に酔いしれ、議定書は国際政治上の道具でしかないという当たり前の事実が、目に入らなかったのだ。
20年前のこの異様な政治状況を分析しようとする者すら、まだ現れない。戦前の日本は一丸となって戦争につき進んでいったといわれるが、異論を許さない状況は今も変わらないままなのだ。(東京大学客員教授・米本昌平 よねもとしょうへい)
http://www.sankei.com/column/print/170323/clm1703230007-c.html
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