According to Nielsen NetRatings, Huffington Post had 8.9 million unique visitors in February, 2009 (by way of comparison, the right-leaning Drudge Report had 3.4 million unique visitors).[8]
The Huffington Post has 22 million unique users each month[9] and is the most linked-to blog on the Internet.[10]
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Huffington_Post#Traffic_statistics
自称10万PVブログとは桁違いの世界的に超有名な政治(リベラル派)ブログです。(爆w
17 件のコメント:
Posted by あじゃら at 2009年11月14日 03:46
エロ米スパムを削除
��ダボス会議に招かれていて、国際社会のあり方についていろいろ考えていかなければならないという話はあった
小沢は仏教会会長がダボス会議に出席することを知っていて、キリスト教とイスラム教を批判したんだから、わざと仏教界の足を引っ張ったと言えるかも?
またエラーがでて投稿できないなと思っていたら、チラ裏倉庫のurlを削除したら投稿できますた!
なんか禁止ワードを設定してます?
→Japan's Shadow Leader
、、、(w
��なんか禁止ワードを設定してます?
もしかしたら過去のエロスパムの時の設定と関係あるかも。(w
HuffingtonPostは昨年末でも月間ユニークユーザが700万超えてたのでそこらの中小新聞社よりは、よっぽど
イスラム教とキリスト教は排他的独善的でアカンと言いながら、仏教は何でも受け入れる思想&寛容の宗教だからベストだと宗教として同列で語ってる時点でアウトというか結局はそういった意味で排他的独善的で同じなんだが、わかってて言ったのか?
宗教は寛容”でなければならない”と言いたいのを言い換えてるだけでしょ。
同じ線上で方って仏教ageしてるからこういった反応を起こされるわけだ。
小沢って頭悪いの?w
票田確保の為に言ったんだろうがここまで反響でるとは予想外だったんだろうな。
むしろイマジン~♪でも歌ってたほうが未来に向けては良かったんじゃね?でもそれじゃ目先の票が確保できないか。w
小沢もミンスも崩壊間近かも。
ピンポイントテロでおながいします。
無差別は止めてネ♪
同時に成立することが不可能な様式・様性・スタイルというものは存在する
という事実は、日本のオウム事件でも確認できることでありますし、エルサレムでも確認できることでもあります。
多様性は、それぞれの様式・様性・スタイルが肩身を狭くすることでしか、成立しません。
しかし、「多様性を確保するために肩身を狭くする」ということは、「単なる譲り合い」という意味で止まりません。
宗教者にとっては、「多様性を確保するために片身を狭くする」ということは、「堕落」を意味します。
「水を飲んで土を食べて日光浴すれば生きていける」という存在にならない限り、ジョン・レノン氏が歌った「イマジン」が描く「理想世界」は、実現しません。
「多様性」の背景には、「住み分け」というものが隠れている
ということからも、それは示唆されます。
そもそも、
人口爆発が問題になるように、水を飲んで土を食べて日光浴すれば生きていける」のではない限り、同じ様式・様性・スタイルであっても互いに排除しあう間柄になり得る
わけですが、
「水を飲んで土を食べて日光浴すれば生きていける」のではない限り、新たな様式・様性・スタイルを迎えることは、大なり小なり、在来の様式・様性・スタイルが排除される
ということになりますから、「多様性」の対義語は「排他性・排外性」ではありません。
「多様性」の対義語が、「排他性・排外性」になるには、エネルギー保存則や熱力学の第二法則の支配から逃れて存在できる必要があります。
永久発電を信じてしまえるタイプには、何を言っても通じないのでしょうが…
勿論、
言語の構造は、人それぞれで、証明の限界により、如何なる音素の組み合わせ・文字に如何なる意味を担わせるか? という任意性・恣意性がある
わけですから、
①現実の彩りはそれぞれの主観が何程か反映されている
②現実は主観から独立して存在・成立してなどいない
③補正不可能な影響を与えることのない認識・観測活動は成立しない
④認識の最終決定権が何処にあろうが、そこにあることを証明することができない
⑤故に、それそのものを認識することはできない
⑥たとえ正しく認識できていたとしてもそうであることを証明することはできない
わけですから、対義語云々の話には(も)、意味がないことは認めます。
しかし、相対主義者が無自覚にせよ前提にしているそれら①~⑥には、
如何なる主観が如何なる理由で如何なる彩をこの現実に与えているのか? についての仕組みは、主観から独立して、客観的に存在している
ことを否定するまでの力はありません。
そもそも、相対主義者だって、例えば印税トラブルが起きた際、
それは貴方の解釈だ
如何なる解釈も等価であるため、「貴方の解釈が正しい」ということにはならない
たとえ貴方の解釈が正しくても、あの時契約した人と契約を履行するよう求めている貴方が同一である証明が出来ない以上、貴方に対して契約を履行しなければならない義務はない
たとえ貴方が同一人物であっても、貴方とあの時契約書を交わした人と、貴方から攻められている私が同一人物である保証はないではないか
などと言われたら、弁護士の協力を仰いだり、告発文を書いたりするのではないのでしょうか。
自己決定自己責任論で各人がそれぞれ自由に選択するとき、望まぬ妊娠を巡る多様な責任論があることから察せられるように、責任を擦り付けられやすい立場に、責任が擦り付けられてしまう
という事態がもたらされる世界・宇宙であることくらいは、真と認めなければならない、んだと思います。
少なくとも、それを真と認める者の間にしか、社会というものは成立しない、んだと思います。
「言語の構造はそれぞれ」であっても、少なくとも社会を選択する以上認めざるを得なくなる
如何なる主観が如何なる理由で如何なる彩をこの現実に与えているのか? についての仕組みは、主観から独立して、客観的に存在している
という命題の共有により、
言語の構造は、古いタイプの言語学が成立する領域を作り出せる程度には、客観的なものにすることは可能
なのだと思います。
キモイ長文で申し訳ありません。
ネットで展開されているある排外主義理論が、気になっているもので…
スマソ、3行にまとめて。
「外国人住民基本法の可決へ向けて頑張っている私の政治哲学が、排他的であるはずがないではないか」と言われたら、どうしますか?
エネルギー保存則や熱力学の第二法則などを覆せないことに起因する人間の対人競合性
に起因する、
私にとっての平和な状態と、あの人にとっての平和な状態が、同じではない・同じにすることができない
という問題を、
ステレオタイプの紋切り型の宗教対立の問題として捉えた上での、レッテル貼りで片付けた
ということが、問題なのだと思います。
「小沢の排他的発言」に対する批判は、「やぶへび」にならないように、お願いします。
はじめに、拙い文章であることは認めますが、例えば、半径が1の球の表面積を単位面積とすると、クーロン力などは一言化・簡略化できますが、一辺が一の正方形の面積を表現する際、多くの言葉を要さなければならなくなる、のと同じで、共通の前提の事情により、一言化できない場合がありますことを、ご了承ください。
さて、「小沢氏の排他的発言」に対する、小沢氏の「文明論」との釈明ですが、別のエントリーの米欄で指摘されている通りで、文明論にすらなっておりません。
「多様性」や「人権」といった言葉・観念が絶対的な正義として位置づけられている戦後の日本においては、それは絶対的な悪と位置づけられていますが、「排他」という言葉・観念それ自体は、パウリの排他原理というのもありますから、絶対的な悪ではありません。
あくまでも、それが問題になるかどうか? は、勿論価値観などの如何にも依存しますが、状況の如何に依存しているはずです。
厳密には、言語の構造は人それぞれですが。
例えば中東の砂漠地帯で、「オアシスでの水浴びを禁止するのは、毎日風呂に入る日本文化を排除するもので、多様性に反する」という論理が、認められなくても、排外主義にはなりません。
当たり前ですが、オアシスは貴重な飲み水、だからです。
ちなみに、オアシスの「共有地の悲劇」化を防ぐにあたっては、中東の砂漠地帯の人々から受け継がれるべき伝統・文化として選択された宗教が、とても大きな役割を果たしていたことは間違いない、ことだと思います。
例えば、オウム真理教徒の真理・幸福を追求する権利の行使は、非オウム真理教徒の真理・幸福を追求する権利を、剥奪してしまいました。
例えば、この時間帯のこの周波数帯に私のこの意見を乗せてしまったため、この時間帯のこの周波数帯から他の意見を排除・抑圧してしまったということが日々確認されるように、言論の自由を平等に行使することは、できなかったりします。そして、インターネットをどんなに発達させても、検索順位という名の日当たり格差という不平等・抑圧は、排除できません。
通常感受すべき苦痛という法的観念が要請されざるを得ないように、ある様式・様性・スタイルを認めることは、別のある様式・様性・スタイルを排除・抑圧する場合があります。
そして、多様性のジレンマとか、多様性のパラドクスとかの方がより伝わるかもしれませんが、この多様性の排他性問題は、エネルギー保存則や熱力学の第二法則などの宇宙の法則を覆せないことに起因する人間の対人競合性、に起因する問題ですから、少なくともエネルギー保存則などを覆せない限り、如何なる社会制度の下でも、消滅することはありません。
友愛で満たされた理想社会が実現できたとしても、消滅することはありません。
そしてさらに、何が排除されざるを得ない様式・様性か? についての基準は、気候風土、資源事情、隣国環境…などから構成される、自己決定不可能な、一様ではない、地理的な宿命との格闘の歴史の中で形成され、ブラックホールに象徴されるように、量の変化が質の変化をもたらすこともあれば、DNAが最終形態であるわけでもないために、「国や民族レベルの試行錯誤の枠組み」と言い換えられる、伝統とか文化とか習俗とか呼ばれているものを反映させざるを得ない、国内法・慣習の如何に、依存して変化させざるを得ません。
主権の行使・国益の上昇活動とも言い換えられる「国レベルの試行錯誤の枠組み」は、「世界レベルの試行錯誤の枠組み」と言い換えられる国際法・国際的慣習で許される範囲内に限定され、人権の行使・個人の幸福を追求する活動と言い換えられる「個人レベルの試行錯誤の枠組み」は、「国レベルの試行錯誤の枠組み」と言い換えられる伝統とか文化が反映された国内法・慣習で許される範囲内に限定されざるを得ない
ということであり、
「世界レベルの試行錯誤の枠組み(国際法・国際的慣習)」を逸脱する主権の行使・国益の上昇活動は、世界から排除され、「国レベルの試行錯誤の枠組み(各国各様の伝統や文化が反映された国内法・慣習)」を逸脱する人権の行使・個人の幸福の追求活動は、社会から排除されざるを得ない
ということになります。
厳密には言語の構造は人それぞれではありますが、おおよそ、排他的という言葉・観念それ自体は悪ではありませんし、カルト法が存在するように、政治家が宗教批評をしてはならないということもありません。
話は少しずれますが、「四カ国以上からカルト認定された宗教団体は、布教活動が禁止され、場合によっては教祖の国外退去処分が許される」というカルト法がない国は、人権上問題のある国と言われざるを得ません。
因みに、この法律の下では、例えば、たとえチベット密教がカルト認定されても、布教活動までは許されませんが、ダライ・ラマ氏の日本亡命は許されます。
「小沢氏の排他的発言」は、この米欄で指摘されている通り、
エネルギー保存則や熱力学の第二法則などを覆せないことに起因する人間の対人競合性、に起因する、私にとっての平和な状態と、あの人にとっての平和な状態が、同じではない・同じにすることはできない、という問題を、ステレオタイプの紋切り型の宗教対立の問題として捉えた上での、レッテル貼りであった
ということが問題なのだと思います。
故に、「小沢氏の排他的発言」は、「拙い文明論」にすらなっていない、と思います。
日本チベット化計画や、日本細分化統治計画、鳩山危機などを止められ得る社会的に重要なポジションにおられる誰か、「やぶへび」にならない批判と、
ウソ・偽かホント・真か? が問われる対象が無数にある。
同一の対象に対する評価は、例えば「冬場はカキ氷は食べたくなくる」ように体調・状況によっても変化するため、評価する側・主体の数以上に存在し得る。
如何なる側面がそれが全てであるかのように認識・観測されてしまう。
という経験則・命題と、
何についての何がウソ・偽あるいはホント・真なのか?
という問題の違いを、混同した・混同させた、
事実は沢山ある。一つではない。相対的なんだ。
例えば、安保闘争を学生の側から撮れば権力の過剰警備となり、警官隊の側から撮れば若者の傍若無人な表現活動となるように、事実は沢山あるんだ。
といった調子で、田原総一郎さんも使われる、「相対主義的な逃げ」を許さない批判の展開を、お願いします。
慰謝するのには不十分ですが、もう書き込みません。長文をお許し下さい。
キモくてすみませんでした。
私は日本人でクリスチャンだが小沢の批判には
オマエ自分の国でもねーくせに人ん国来て
何勝手なことぬかしてんの?コラ
っつー感じですね。w
まあ 日本でキリスト教徒なんて数が少なくてお話になりませんが。
宗教が排他的であるのは当然ですよね。
真実は一つしかないという性質の故。
恥ずかしながら、前言を撤回します。
パンダ猫さんのご指摘の通りだと思っています。ご迷惑かもしれませんし、間違った解釈をしているかもしれませんが。
拙コメは、「TVタックルや朝生などで反民主的席に招かれる文化人」向けの捕捉、として機能させたつもりです。
パンダ猫さんのご指摘の通りで、「仏教関係者を喜ばすために仏教以外の宗教を貶めた」ことが問題なのに、「仏教以外を排他的という悪いイメージのある言葉で表現した」ことが問題だとされる風潮に、危機感を覚えたことを動機とするものです。
てんこもり野郎さんとパンダ猫さんに対する、マナー違反になっていることに悩みながら、書き込んだつもりでもいます。
捕捉として機能していないかもしれませんが。
パンダヌコさんのご指摘通り、宗教はそもそも排他的ですが、「フェルミ粒子からも構成され、生きるために相応の価値あるものを取り込み、迷惑になるものを排泄し…」という、心の有り様、社会の有り様、信仰の有り様、信仰生活の有り様、DNAの有り様、文化の有り様、食生活の有り様、教育の有り様、歴史問題の有り様・・・とは無関係の、「人間それ自体の排他性」に起因する対立を、カルト認定されたわけでもない非仏教系宗教特有の排他性に起因する対立とし、「仏教関係者を喜ばすために仏教以外の宗教を貶めた」わけですから、「小沢氏の排他的発言」は、言い逃れできない問題であり、「文明論」にすらなっていません。
それでもまだ小沢一郎氏が擁護される風潮は、大問題だと思います。
先に賠償すべきはどちらか?
という問題と、
拘束し続けているのは何方か?
という問題を混同し、正しい問題設定の、
��AEAが把握できていない核物質がある中での経済援助は秘密裡の核開発を促進させないのか?
ではなく、
核と拉致どちらの方が大きな問題か?
というエモーショナルな問題設定をしているが故に「奇妙に見える」だけなのに、
「何時までも拉致に拘っている日本は世界から見ると奇妙に見える」
と言った宮台真司氏や、小沢氏を国策捜査の被害者として擁護した田原総一郎さんには、この
「小沢氏の排他的発言」は世界から見るとどう見えるのか?
「中川氏の酩酊会見」と「小沢氏の排他的発言」どちらの方が大きな問題なのか?
について、意見を述べて頂きたい、と思っております。
核密約についての検証よりも遥に、この政権交代が何であったのか? についての検証の方が、日本人にとって重要だと思います。
すいません、頭悪いのであまり良くわかりませんが、小沢の発言は「キリスト教国のアメリカ」から見たらテロ国家指定したくなるような発言じゃないでしょうか?w
真実というものは一つであるが故に、排他的になるのは仕方がないと思います。が、それを人に押し付けるのは(・A・)イクナイ! し、まして戦争の理由にするのは良くないと思います。
まぁ宗教とはあの世の理論なので、この世に持ってきてそれを当てはめ強制するのはいろいろトラブルの元でつね。
あとこの先生頭イイのでこちらどうぞ。
http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/diarypro/diary.cgi
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