例の”松嶋菜々子似の美人秘書”の父親は昭和62年の参議院補選で当選した坪井一宇前参院議員(自民=現・森派)
不倫相手とされる被害者の夫は細野と同じ京都大学法学部卒。
以前の不倫騒動の実態は、
財務省職員の妻と美人秘書の
デカチンしゃぶ利権争い。(w
でもっとヤバイのがコレ、
WatchPrimeMinister 森首相の1日を観察しよう! Back
01年1月22日(月)~28日(日) lastweek nextweek
1月22日(月 KSD問題で揺れようが料亭は止めないのであります。
午前9時6分 官邸
15分 高度情報通信ネットワーク社会推進戦略本部(新IT戦 関連15法案を国会提出。額
略本部)の初会合 賀氏がIT担当相兼務だけに
妙な空気の初会合
記者団 「KSD問題で、額賀さんは辞任すべきだとの声が自民
党内でも強まっているが」
首相 「そうですか」
記者団 「総理はどういう考えか」
首相 「そんなこと、わたしが歩きながら答えられるわけないで 辞任ならあなたの内閣で3人
しょ」 目。襟を正しなさい
10時50分 佐藤行雄国連大使、浦部和好官房副長官補、谷内正太
郎外務省総合外交政策局長
午後0時1分 政府与党連絡会議
48分 古賀誠自民党幹事長 額賀担当相辞任で調整
1時1分 公邸
記者団 「古賀幹事長とは額賀さんの問題で方針は一致したの
か」
首相 「一般のことを話した」
記者団 「きょう中にということか」
首相 「何がですか」
2時00分 富家靖久ピクスタイル社長ら。
坪井一宇前参院議員同席
西陣織メーカーだそうです。
27分 官邸
28分 富家社長から贈られた自身の肖像画を記者団に披露
首相 「こういう職人芸を残さないといけないから、『ものづくり KSD疑惑で揺れているご時
大学』は必要なんだよ。あんな問題でおかしくなっている 勢に、こういう引き合いを話
けど」 すとはあきれるね 36分 公邸
54分 阿南惟茂駐中国大使 前内閣外政審議室長から大
抜擢
3時22分 写真家の海田悠氏による写真撮影
5時23分 福田康夫官房長官
記者団 「KSDの問題に対する額賀さんの説明で、総理は問題
ないとの認識か」
首相 「別にわたしは何も聞いていない」
記者団 「きょうは額賀さんと話をしたか
首相 「いや電話を含めて一切話してません」 動きようがない?
6時45分 東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテル内の日本料理屋 KSDと言ったって、ひとごと
「弁慶橋清水」 の総理。弁慶堀でも眺めて、
堤義明西武鉄道会長と会食 懐石にご満悦…
8時44分 公邸
45分 田中均外務省経済局長
http://72.14.253.104/search?q=cache:3KNND9a-pG8J:www.bea.hi-ho.ne.jp/naito38/mori15.htm+%E5%9D%AA%E4%BA%95%E4%B8%80%E5%AE%87%E5%89%8D%E5%8F%82%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1
→西陣織メーカー
分からん香具師は
「西陣織 ボロチャンサ」でぐぐれ!(w
京都における被差別部落民と韓人
��友常>その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。
��河>京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。
戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。
��友常> 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。
��河>京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。
��友常> 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。
��河>はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても
��920年代前半ということになります。
私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。
��友常> 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。
��河>だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。
そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。
次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態-京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。
��友常>西陣織りはいかがでしょうか。
��河>西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。
西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。
��友常>不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。
��河>西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ-ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。
��友常>戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。
��河>はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。
神戸における被差別部落民と韓人
��友常> 神戸の場合は、どうでしょうか。
��河>戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。
問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ-トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。
��友常>マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。
��河>このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。
しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。
ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html
9 件のコメント:
日本テレビ船越雅史アナウンサーが期限謹慎となることがわかりました。 今まで公に出来なかった女性社員達が次々に被害を訴えたようです。
更にはセクハラ現場の実態となる写真が出回りもはや弁解の余地はないようです・・・。
確かにこの写真を見れば厳しい処分が下って当然の事でしょう・・・。
『博士の独り言』っつーブログが何者かに消されたね~。
あんなことあるの??
ぐぐった先、読み応えがありますね。 知りたかったことが、いっぱい書いてある。
以前に、「差別語」について調べていた時にも、
こんなに面白い資料には、辿り着けませんでした。
「ものづくり大学構想=同和(職人階級)のための、ポジティヴキャンペーン」
というあたりは、気がついてはいましたが、
ハイノリ(背乗り)なさっているキムチ方面にとっても、
いい具合に、地位向上キャンペーンになってしまうとは!
そう言えば、若い頃に、待ち伏せする等、熱烈にアプローチして来た男性が、
まさに京都の繊維関係でしたっけ。。。。。
大変勉強になりました。二階堂氏のサイトでもBとKの両方の資格を持っている893屋さんがいると書いてありました。暗黒の半島を脱出して日本に来ても、日本社会全体も裕福じゃないので、おいそれと普通の生業にはつけないわけで、大抵の不法移民の人々は同和系の人々が担っていた過酷な職業に入れてもらうしかなかったということなんですね。納得。
いや、むしろ、同和地区が、裕福だったケースもあるようですよ。
時代を経るごとに、お百姓さんよりも、よっぽど。
部落問題は、「地域差」と「時代の差」があるのに、
全部ひとくくりに、サベツだキャベツだああと騒いでいるから、イカガワシイんですよ。
予算目当て?・・・な感じで。
「京都のものづくり産業は、余裕があったので、人も雇えたのだ」という説明を、
織物工場の説明のシーンで、聞いたことがあります。
そして、京都の機織業は、「カンタンだったから」朝鮮人でも、採用できたと。
言葉が不自由な外国人には、複雑な作業は説明しにくいでしょう。
とある人権センターには、「同和の人たちの自伝」が置いてあるのですが、
これが結構面白い。 だって、「裕福自慢している」んですもーん。
二つ前のコメントの「ハイノリ」という語は、
本来「日本人の戸籍を乗っ取り、なりすます」という意味なのですが、今回は、
「日本の伝統である部落産業を乗っ取り、ビレッジピープルになりすましている」
という意味に、使いました。
またまた勉強になりました。
��裕福自慢している
確かににそうですよね。メルヘンさんの東京支部のHPに載っていた団左衛門の話もそんな感じだったような。
戦時期朝鮮における人絹紡績業と人絹織物業
http://www.jaas.or.jp/pdf/50-3/p65-84.pdf
戦前 「朝鮮紡」 と中外コンツェルン
http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/44537/1/24_61.pdf
http://books.google.co.jp/books?id=aKbdQIuw9GYC&pg=RA1-PA224&dq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E8%A5%BF%E9%99%A3%E7%B9%94%E7%89%A9%EF%BC%88%E5%8D%94%EF%BC%89&hl=ja&sa=X&ei=mntKU4yIDcny8QXYrYCoAQ&ved=0CC0Q6AEwAA#v=onepage&q=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA&f=false
天鵞絨(ビロード)と西陣、友禅との関係など読んでいくと、なぜか主体思想とか朝鮮絹とかに繋がって、金融機関や信用組合が出来て破綻してみせたり、開城工業団地の繊維産業まで御用達…
おまけ
http://books.google.co.jp/books?id=PDWMKbs-vhoC&pg=PA535&dq=%22%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%81%8B%E5%8B%95%22&hl=en&sa=X&ei=oDdKU8-dKYLj8AWszIHoCA&ved=0CCwQ6AEwAA#v=onepage&q=%22%E7%AC%AC%E4%B8%89%E7%AB%A0%E3%80%80%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%81%8B%E5%8B%95%22&f=false
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%99%A3_(%E4%BC%81%E6%A5%AD)
統治下の朝鮮に染料、染粉を導入する理由はなんのかしら、と思って…朝鮮の女性は、一日に洗濯にかける時間が4時間ほどもかかってしまって、その理由は服が真っ白い服ばかりで、それをきちんと真白く仕上げる労働は相当なもので、かわいい朝鮮の御嬢さんが比較的若い時期に老けてみえてしまうのは、そうした過酷な労働もあるようだ的な記述が某著作にありまして、それと関係しているのかは、よくわかりません。
欧州も含めた昔の洗濯女の過酷さを思い出し、皮革産業の脂、肥料工場の副産物で石鹸、そして織機で繊維…
そして法則に従い罰があたり、誰かのポケットに隠れていたティッシュ2袋分と一緒に仕上がった洗濯機の中の洗濯物に、見事に復讐されたっ。
”朝鮮人西陣織物工業協同組合が、西陣織でチマチョゴリの生地を織ろうと考えついた”
http://books.google.com/
朝鮮衡平社
後身組織は大同社を名乗り、皮革業や畜産業など白丁の伝統的産業の利益団体として活動。軍国主義に協力し、1938年には日本軍に機関銃や軍用機を献納。しかし1940年には大同社も解散。これ以後、白丁解放運動が復活することはなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E8%A1%A1%E5%B9%B3%E7%A4%BE
"日本軍に機関銃や軍用機を献納" し得るほどの資金源は?
献納した見返りは?
そもそも軍部との懸け橋を構築するにあたって介在したのはどういう組織?
ほかに調達したものは?
おまけ
http://books.google.co.jp/books/about/%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E4%BA%BA%E3%81%AF%E6%B8%A1%E4%BE%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B.html?id=VDOPfDBttQsC&redir_esc=y
旧なんとか帝国がなんとか共和国なのか、日本に現存する恥部がなんとか共和国なのか。
すべての仮想現実を取っ払って、主体的に考えてみると、日本のいろんな会社も、軍部に航空機を献納して感謝状をもらっていたことなど、懐かしく想い出すわ。
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