2019年7月28日日曜日

青葉真司容疑者のレオパレスからBOSE ACOUSTIC WAVE CANNON SYSTEM

2019年07月26日
【京アニ放火テロ】容疑者宅 ボロアパートから「業務用BOSEバズーカ(キャノンウーハー)」「BOSE 901」搬出される
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51711266.html


これまた肝心の情報は普通の日本人にはご法度ようで、日本語WIKIには・・・

アマー・G・ボーズAmar Gopal Bose1929年11月2日 - 2013年7月12日)は、アメリカ合衆国実業家音響機器メーカーBOSEの創業者、会長。MIT(マサチューセッツ工科大学)名誉教授。インド系アメリカ人フィラデルフィア生まれ。父親はインド人、母親はアメリカ人。少年時代からヴァイオリンを演奏する。ボーズの少年期、父親はインテリア・家具の販売を事業にしていたが、あまり繁盛せず、ボーズ家の家計は苦しい状況であった。
ボーズは電気工学電子工学の分野に興味を持ち、ラジオの組み立てや修理をやっていた。そして彼がやろうと考えたのは、壊れているラジオ修理のビジネスをし、家計の足しにすることであった。そのことを父親に相談すると、父親は賛成して、父の取引先であるカーペットや家具の取引先を代理店にしたビジネスを起こした。
その後、ボーズが13歳で興したラジオ修理のビジネスは、フィラデルフィアでNo.1となった。

とありますがホントは・・・



Bose was born in Philadelphia, Pennsylvania,[3] to a Bengali Hindu father, Noni Gopal Bose and an American mother of French and German ancestry, Charlotte. His father was an Indian freedom revolutionary[4] who, having been imprisoned for his political activities, fled Bengal in the 1920s in order to avoid further persecution by the British colonial police.[5] His mother, Charlotte, is described as an American schoolteacher of French and German ancestry,[6] but Bose described her as "more Bengali than me". She was a vegetarian and deeply interested in Vedanta and Hindu philosophy".[7]Bose first displayed his entrepreneurial skills and his interest in electronics at age thirteen when, during the World War II years, he enlisted school friends as co-workers in a small home business repairing model trains and home radios, to supplement his family's income.[8]


印独立運動家チャンドラ・ボースの「ソ連亡命」を日本が終戦直前に容認
tokumei10.blogspot.com/2016/02/blog-post_85.html
2016/02/19 - 第二次大戦中、日本の支援を受けて英国軍と戦い、終戦直後に台湾で事故死したとされるインド独立運動の英雄、スバス・チャンドラ・ボースに対し、日本が終戦のわずか3カ月前に、ソ連に亡命することを認めていた事実が最新の研究で明らか ...

とか・・・

ラス・ビハリ・ボースヒンディー語:ラース・ビハーリー・ボース रास बिहारी बोसベンガル語:ラシュビハリ・ボスゥ রাসবিহারী বসু英語:Rash Behari Bose1886年3月15日[1] - 1945年1月21日[1])はインド独立運動家。
過激派として指名手配され、日本に逃れてインド独立運動を続けた。スバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」とも呼ばれる(新宿中村屋の相馬家の婿であり、取締役も務めた。この二人は名前が同じであることから混同されることがあり、『朝日新聞』でも1990年1月9日付の紙面で誤り、翌10日付で訂正記事を掲載している[2])。日本に本格的なインドカレーを伝えた人物でもある。
 1886年に、当時イギリスの植民地支配下に置かれ「イギリス領インド帝国」と呼ばれていたインドのベンガルで、政府新聞の書記を務めるビノド・ビハリと妻のブボネンショリの長男として生まれた[3]ベンガル政府の官僚であった父が単身赴任していたため、祖父と母の手によって育てられ、シャンデルナゴル(チャンダンナガル)とコルカタ(カルカッタ)の学校で学んだ[3]

独立運動

ボースはインド兵になることを志すが身体的理由により任官を拒否される[3]。その後、イギリス植民地政府の官吏としてデヘラードゥーンの森林研究所で事務主任を務める一方[3]インド国民会議に参加し、独立運動に身を投じた(当時の多くの上流階級の子弟がそうしていた)。父親に押し付けられるかたちでこの職に就いたが、森林研究所事務主任という立場はグルカ兵に革命思想を教唆したり爆弾製造のための薬品や部品を集めるのには打って付けであった[3]。また、ボースは近代インドを代表するヒンドゥー教指導者オーロビンド・ゴーシュの宗教哲学に大きな影響を受けた。ボースはチャールズ・ハーディング総督暗殺未遂事件で爆弾を投擲して負傷させ[4]、また「ラホール蜂起」の首謀者とされ、イギリス植民地政府に追われることとなる(一万二千ルピーの懸賞金がかけられていた[5])。ボースは新たな武器を得るために日本に渡航する決断をし、ラビンドラナート・タゴールの親族と偽り1915年(大正4年)6月に日本に入国した[3]
日本では東京に住み、故国の独立運動のため東京の支援者から送られた大量の武器をインドへ送りつつ[3]、先に日本に亡命していたバグワーン・シンの紹介により孫文と親交を結んだ(当時袁世凱と対立し日本に亡命していた)。また、ヘーランバ・ラール・グプタ英語: Herambalal Guptaの紹介により大川周明とも親交を結んだ。
武器のインドへの輸送がイギリスの官憲に見つかるとともにボースの密入国が大英帝国に知られ、当時大英帝国と同盟関係にあった日本政府は、英国政府の要求により1915年11月28日にボースに対する国外退去命令を発令した[3]。孫文はこれに対するため頭山満をボースに紹介した[3]。頭山や犬養毅内田良平などのアジア独立主義者たちはボースの国外退去命令に反発し、新宿中村屋の相馬愛蔵夫妻によってボースをかくまわせることを工作し、その後4ヶ月間、ボースは中村屋のアトリエに隠れて過ごしている[3]。やがて頭山らの働きかけもあり、同年中に日本政府はボースの国外退去命令を撤回した。しかしイギリス政府による追及の手は1918年(大正7年)まで続き、ボースは日本各地の17箇所を転々と移り住む逃亡生活を送った[3]
頭山の媒酌により1918年にボースは逃亡中の連絡係を務めた相馬夫妻の娘、俊子と結婚し1923年(大正12年)には日本に帰化してインドの独立運動に没頭できるようになった[3]第一次世界大戦が終結したことを受けイギリスからのボースの追及が終わってからは、俊子とともに中村屋の敷地内に住居を建てて暮らした[3]。俊子との間には1男1女をもうけたものの、俊子は1925年(大正14年)に26歳で肺炎により死去した[3][6]

インド独立連盟とインド国民軍

A.M.ナイルなど日本に亡命していたインド独立運動家たちと協力しあい、またイギリスと対立を強めていた日本政府や軍部と協力関係を結んだことで、ボースはインド国外における独立運動の有力者の一人となった。
日本は1941年(昭和16年)に太平洋戦争大東亜戦争)を起こし、イギリスの植民地を含む東南アジア各地域を占領したが、日本軍は同地におけるインド人に対して扱いが丁重だったと言われる。その背後には、ボースとA.M.ナイルの努力があった。
その後1942年(昭和17年)初頭に、かねてより植民地軍として駐留していたイギリス軍を放逐し日本が占領したマレーやシンガポールでは、捕虜となった英印軍将兵の中から志願者を募ってインド国民軍が編制された。その長は最初に日本軍に投降した元英印軍の大尉であったモーハン・シン英語: Mohan Singh (general)であった。しかし、シンは親イギリス的志向が強かっただけでなく、軍内において自身に対する個人的利益を優先させた上に、そもそもが大尉という下級士官にすぎなかったこともあり、数千人を数える規模となったインド国民軍を統率することは困難であったため軍内に大きな混乱を招いた[7]
そのためにインド国民軍は「インド独立連盟」(インド独立連盟と印度独立連盟が合流したもの。議長はボース)の管轄下に入り、その後連盟内で孤立したシンはインド国民軍司令官を罷免される。しかし、この様な混乱により心労を重ね体調を崩したボースは、1943年(昭和18年)7月4日にシンガポールにおけるインド独立連盟総会において、インド独立連盟総裁とインド国民軍の指揮権を、総会に先立ち亡命先のドイツからシンガポールへ来たスバス・チャンドラ・ボースに移譲し、自らはインド独立連盟の名誉総裁となった。
その後同年10月に、ボースとチャンドラ・ボースは日本政府の援助を受けてシンガポールに自由インド仮政府を樹立し、首班となったチャンドラ・ボースとともに指導者の1人となり、日本政府の協力を受けてイギリスとの闘争と、インド国民会議派をはじめとするインド国内の独立勢力との提携を模索した。
その後自由インド仮政府は同年10月24日にインドを支配するイギリスを含む連合国に対してインド独立のための宣戦布告を行い、同年11月5日東京で開催された大東亜会議にボースがオブザーバーとして出席した。オブザーバーとなったのは日本がインドを大東亜共栄圏に組み込まないという意思を明確にしていたからである[8]
1944年(昭和19年)にはインド進攻のため、仮政府本部を当時日本の占領下にあったビルマラングーンに移転させ、「インド解放」のスローガンの下に自由インド仮政府の「国軍」となったインド国民軍は、日本軍とともにインドやビルマのイギリス軍と戦い、インパール作戦にも従軍した。

しかし、この頃になると入院するほど体調を悪化させたボースは、インド独立の実現を見ることなく、A.M.ナイルらに看取られながら1945年(昭和20年)1月21日に日本で死去した。日本政府はその死に際し、勲二等旭日重光章を授与してボースの功績を称えた。同年6月には、長男の防須正秀沖縄戦で大日本帝国陸軍中尉として戦死している。

日本のインドカレーの父

昭和初頭に日本に普及していた「カレーライス」は、インドのカレーとは全く別物であった。イギリス式に改変されたカレーが、さらに軍隊式に簡略化されて安価な食べ物として普及していたためである。ボースはかねがね「インドのカレーはあんなものではない」と憤慨していたが、中村屋が1927年に喫茶部を新設する際、相馬夫妻に本格的なインドカレーを出すよう強く進言し、自らメニュー開発に関わった。これが同店の名物メニューとして現在まで続いている「純インド式カリー・ライス」である。

ちなみにボースとともに日本でインド独立運動をしたA.M.ナイルも、1949年インド料理店「ナイルレストラン」を開店した。


、、、(爆wwwwwwwww


 

5 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

白蓮会館
なる空手道場()があるそうでwww
池田支部
昨日の帰り道絡んできたサマナちゃんが
そんなトートバッグさげてたもんで🤪🤪🤪🤪

匿名 さんのコメント...

今夜はカレーにしよう

匿名 さんのコメント...

坊主と坊子で目眩まし
インドカレーはマジェマジェして頂きましょう(爆)

匿名 さんのコメント...

『中村屋のボース』(中島岳志著)さんですか。
中村屋のカレーライスは食べられなかった思い出が。
気候風土が違うと難しいー。

Bose(webe sound touch music system)はこの20年で3代目
定期的に壊れるからやめましたが。

「FORTNUM & MASON 」の英国王室ご用達紅茶がまだ健在ですね。

ネパールのシェルパ族には元グルカ兵の経歴ののものが見受けられるそうだが
私の出会った山岳案内のシェルパはこれから英国に行って訓練を受けるといっていた。

過去と現在すべて繋がっているのですね。


匿名 さんのコメント...

インドな上にボースでどう見ても仏教脳ですねw><

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