2019年3月7日木曜日

中国侵略日本軍罪行館の設計手掛けた磯崎新氏にプリツカ―賞

【プリツカー賞】日本人がまた「建築界のノーベル賞」受賞!いまだ「ゼロ」の韓国がその理由を分析[3/7]

米ハイアット財団は5日(現地時間)、「建築界のノーベル賞」といわれるプリツカー賞の今年の受賞者に日本人建築家の磯崎新さんが選ばれたと発表した。このニュースは韓国でも伝えられ、ネット上で注目を集めている。

受賞理由について、審査委員会は「東洋が西洋文明の影響を強く受けていた時代に海外に出て、自身の建築技術を確立した。進化し続ける建築家」などと説明した。

プリツカー賞は1979年に始まり、今年で46年目を迎えた。日本人の受賞は2014年以来、8人目となる。今回の受賞により、日本は米国(8人)と共に最も多くプリツカー賞受賞者を輩出する国となった。

韓国・朝鮮日報は「韓国人の受賞者はまだ出ていない」とし、日本の建築が高く評価される理由について専門家の見解を伝えている。専門家らはまず「近代建築の歴史が長く、早くから西洋と交流を始めた歴史的背景」を挙げている。ソウル大建築学科教授は「西欧の近代建築史と差が10年ほどしかない。1919年に開校したドイツのバウハウスの留学生のうち最も多かったのは日本人」と説明したという。

また「江戸時代から続く『ものづくり(職人精神)』も日本の建築のパワーになっている」と指摘している。京畿大教授は「日本にはどんな仕事にも人生の価値を見出す『生き甲斐精神』、レンガ職人や大工までみんなが職業に長くまい進できるよう尊重する文化がある。ペイント、扉1つをとっても他の国にはまねできない日本の力がある」と話した。

さらに「日本の財団や協会、個人の国際的ネットワークのための努力も大きな役割をした」と評価している。京畿大教授は「金沢の21世紀美術館が代表的」とし、「日本三大庭園の兼六園のすぐ横に最も現代的な美術館を造り、伝統と現代を一度に体験できるようにした点は驚くべき収容能力」と述べたという。

このニュースを見た韓国のネットユーザーからも「日本の建築は本当にかっこいい」「静かで落ち着いた日本の現代建築が大好き」「日本の現代建築家たちには、日本ならではのアイデンティティーがはっきり感じられるからいい。シンプルで洗練された雰囲気をうまく生かす才能がある」「ただただうらやましい」「客観的に見て、日本の建築は韓国の10年先を行っている」「日本の底力。先進的なものを受け入れ、深く研究する姿勢。韓国も見習うべきだ」など称賛やうらやむ声が上がっている。(翻訳・編集/堂本)

https://www.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=693115&ph=0&d=d0058
2019年3月7日 15:30 Record China



9月開館の中国侵略日本軍罪行館、設計手掛けた日本人建築家が訪問―中国
Record china
配信日時:2015年3月21日(土) 0時43分

19日、日本の著名建築家・磯崎新氏が、四川省成都市大邑県にある建川博物館を訪れた。同氏が設計を手掛けた中国侵略日本軍罪行館は、今年9月3日に展示品の一般公開が始まる。写真は同博物館にある抗日戦争の英雄「中国壮士」の像。


2015年3月20日、華西都市報によると、日本の著名建築家・磯崎新氏が19日、四川省成都市大邑県にある建川博物館を訪れた。同氏が設計を手掛けた中国侵略日本軍罪行館は、今年9月3日に展示品の一般公開が始まる。

9月3日は中国人民抗日戦争勝利記念日であり、今年は世界反ファシズム戦争勝利70周年にも当たる。磯崎氏は12年の心血を注いだ罪行館について、「より多くの日本人がここに見学に訪れ、当時の真実の歴史を理解してほしい」と語った。

磯崎氏はバルセロナ五輪の競技場や米ディズニー・ビルディングの設計などで知られる。(翻訳・編集/柳川)
https://www.recordchina.co.jp/b104674-s0-c30-d0054.html


四川「中国侵略日本軍罪行館」、日本軍ヘルメット1800個を ... - チャイナネット
japanese.china.org.cn › 文化
7月7日は七七事変(盧溝橋事件)勃発78周年記念日である。同日、四川省の建川博物館の「中国侵略日本軍罪行館」が市民に正式に開放された。同館が展示する文物は6000点に上り、樊建川氏が20年間で3回日本を訪れて収集したものである。その中に .


盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、1937年(昭和12年)7月7日北京北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である[4][注釈 1]。中国では一般的に七七事変と呼ばれる[5]。英語ではMarco Polo Bridge IncidentBattle of Marco Polo Bridgeと呼ばれる[6]
この事件後に幾つかの和平交渉が行われていた(後述)が、日中戦争支那事変)の発端となった[7]とされる。しかし、盧溝橋事件(7月7日)は、4日後の松井-秦徳純協定により収拾している。その後、日本軍の軍派遣決定の後、中国共産党の国共合作による徹底抗戦の呼びかけ(7月15日)及び蒋介石の「最後の関頭」談話における徹底抗戦の決意の表明(7月17日)による、中国軍の日本軍及び日本人居留民に対する攻撃の連続、及び第二次上海事変によって、戦闘が本格化した。したがって、前年12月の西安事件による一致抗日方針を併せて考慮すると、日中戦争(支那事変)の端緒を、盧溝橋事件と考えるか、国共合作・最後の関頭談話を契機とする中国軍の攻撃と考えるかにより、同戦争の歴史的な評価は大きく変わることになる。
事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づく。なお以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたこともあるが、今では正式名称ではない。


、、、(爆wwwwwww

1 件のコメント:

GABRIEL さんのコメント...

https://twitter.com/RoyalFamily/
status/1103633095213936640

Her Majesty views the computer on which
@timberners_lee created the World Wide Web
as well as items featured in @sciencemuseum’s
new major exhibition: Top Secret, in collaboration
with @GCHQ


最近では余りお見受けしない
鮮やかなオレンジ色なものだから
ISISの囚人服みたいじゃんと驚いた

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