2016年10月17日月曜日

吾妻兼治郎氏死去

吾妻 兼治郎(あづま けんじろう、1926年3月12日 - 2016年10月14日もしくは10月15日[1])は、イタリア在住の日本人彫刻家ミラノに在住し、抽象作家として国際的にも高い評価を受ける。作品に「MU(無)」「YU(有)」「慈悲心の美徳」など。彫刻表面に腐食で出来たようなくぼみをあしらう作品に特徴がある。山形市生まれ[2]
鋳物屋の7人兄弟の二男。夜間中学中退後に予科練志願入隊、神風特攻隊になるが、終戦になり山形に復員、中学復学卒業後、東京芸術大学入学、東京芸大卒。芸大副手を休職し、1956年に山形で初の個展を開催し、イタリアに留学[2]ブレラ美術学校マリノ・マリーニに師事(その後休職期間経過後もイタリアに残るために芸大退職)。1961年、ミラノで渡伊後初の個展を開催した[2]
1963年国立近代美術館賞1964年、第7回高村光太郎賞1975年、十字架でヴァチカン美術館の東洋人初のコレクションになる。第16回毎日芸術賞。ヨーロッパの彫刻展でたびたび受賞。1999年、第30回中原悌二郎賞
1995年紫綬褒章を受章[2]

山形国際ドキュメンタリー映画祭のトロフィーのデザインを担当している。2003年の映画祭のカタログ、P14には「故吾妻兼治郎」とあるが、当時存命であり誤りである。




マリノ・マリーニ(Marino Marini,1901年2月27日 - 1980年8月6日)はイタリア出身の彫刻家画家版画家である。油絵や版画も制作しているが、特に馬に乗り、腕を広げた男性をかたどった彫刻で知られている。
フィレンツェで絵画と彫刻を学び、エトルリア文化の影響を受けた。1929年からミラノ近くの美術学校で教えはじめ、同時に馬と騎手の彫刻を制作しはじめるようになる。また、この頃ジョルジョ・デ・キリコらと交友があった。
1940年にミラノのブレーラ美術学校の教授の職につき、1970年まで教鞭をとった。1944年にはニューヨーク近代美術館にて開催されたイタリア美術に関する展覧会に参加、国際的な評価を得るようになる。
1952年にはヴェネツィア・ビエンナーレでグランプリを受賞した。
1972年にはミラノの名誉市民ともなっている。
同じイタリアに同姓同名の歌手がいるが、このマリノ・マリーニとは何の関連もない。

主な作品

イタリアではフィレンツェピストイアに、マリノ・マリーニ美術館がある。日本では、相模原市にある光と緑の美術館でも彼のコレクションを見ることが出来る。









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