2014年8月17日日曜日

哲学者の木田元さん死去 ハイデガー研究の第一人者









ハイデッガーとナチス 
ハイデッガーとナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の関わりは政権獲得以前にさかのぼる。1929年ごろには反ユダヤ主義的言動が目立ち、1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』に深く共鳴した。1930年7月31日の「バーデン郷土の日」の祭典では、オイゲン・フィッシャーエルンスト・クリークレオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに講演を行っている[3]。1931年ごろにはハイデッガー家の人々がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある[4]。また、ハイデッガーは学長就任にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけており、すでにこの時点で入党をほのめかしていた[5]
ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年の4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。5月1日の「国民的労働の日」をもって、22名の同僚教授とともにナチス党に入党した。5月27日の就任式典では就任演説『ドイツ大学の自己主張』(Die Selbstbehauptung der deutschen Universität)を行い、ナチ党員としてナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた[6]。またこの式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもしている[7]。10月1日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でもアクティブな活動を行った[8]。フライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガーや、かつて自分の友人であったエドヴァルト・バウムガルテンドイツ語版の密告も行っている。しかしハイデッガーの「改革」は大学内に内紛をもたらし、混乱を収拾できなくなったハイデッガーは1934年4月23日に総長を辞任した[9]
ナチス協力期のハイデッガーは西洋文明の巨大化に危機意識を持ち、物質的でない自然観の復権を願ってナチスに接近し、アドルフ・ヒトラーを指導してナチスを自身の考える方向に向かわせることを考えていたが、イデオロギー闘争に敗れた、と木田元は語る[10]。木田はこれよりも前の著作『ハイデガーの思想』において、思想とナチスを擁護したことを関連付けて思想をも批判されているが、フライブルク大学の学長として同大学を守るがためにナチスに協力をせざるを得なかったとしていた。
総長辞任後のハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線の敗北、エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった[11]バチカンとの政教条約締結などいくつかの政策には批判的であり、1936年頃からはナチス党諜報部の監視を受けるようになったという[12]。しかしこの頃はナチス党の党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムがドイツの発展の方向を指し示す道だと相変わらず確信していた」[13]と言われるなど、全体としてはナチズム思想の枠内で行動していた[14]
第二次世界大戦後、ハイデッガーはフランス占領当局によって、蔵書と住居の引渡しを求められた上に、非ナチ化を行う浄化委員会の査問を受けることになった。これはハイデッガー裁判と呼ばれる。ハイデッガーはこれに抗して「弁明」を行った。当初は弁明が功を奏したが、フライブルク大学の同僚らの証言によって、次第に窮地に追い込まれることになった。ハイデッガーはライバルであったカール・ヤスパースを 頼ろうとしたが、ハイデッガーによるバウムガルテン密告事件を知っていたヤスパースはかえって厳しい評価を含む報告書を送った。こうして1946年12 月、バーデン州文部大臣から大学の職務と講義を停止する命令が下された。給与も一時的に停止されたが、1951年には名誉教授として大学に復帰した[15]
実存主義サルトルによってハイデッガーの哲学は実存主義であるとされた。しかし、宇都宮芳明によると「ハイデッガー自身は、前期・後期を通じて一貫して実存哲学者とか実存主義者とよばれるのを拒否している」[16]。1976年、ハイデッガーはフライブルクにて没した。


、、、(爆wwwwwwwwwwwwwwwww

2 件のコメント:

ミネ さんのコメント...

黒い森に埋めてやったらいかがかのぉ?

匿名 さんのコメント...

ヤミ屋から哲学者へ 8月18日
2014.8.18 03:06 [産経抄]
自分は何がやりたいのか、分からない。現代の多くの若者と同じように、20歳前後のころの木田元(げん)さんも悩んでいた。ただし、状況はかなり違っている。
▼旧満州で育った木田さんは、昭和20年の敗戦を、広島・江田島の海軍兵学校で迎えた。東京に出てぶらぶらしているうちに、テキ屋の手先となる。仕事は、焼け残った軍の倉庫から荷物をかっぱらってくることだ。
▼1年後には母親や姉、弟が引き揚げてきた。18歳の木田さんは、今度はヤミ屋となって、家族の生活を支えた。少し余裕ができると、地元山形の農林専門学校に入学する。といっても農業に興味はなく、ひたすら本を読む毎日だった。その中で出合ったのが、ドイツの哲学者、ハイデッガーの『存在と時間』だ。
▼なんとなく、冒頭の悩みに答えを出してくれそうな気がして、東北大学の哲学科に進む。木田さんの言葉を借りれば、「ちょっと1回読んでサヨナラというわけにはいかなくなっちゃった」。ハイデッガーの思想を理解するため、ヘーゲルやフッサール、キルケゴールと研究の範囲は、どんどん広がっていった。
▼木田さんが、ハイデッガーについての著作を出すまでに、30年を超える月日が過ぎていた。中央大学名誉教授の木田さんの訃報が昨日届いた。「まわり道ばかりだった」と、著作で人生をふり返った木田さんには、なによりまわり道の大切さを教わった。
▼「哲学の勉強なんかしてなんの役に立つのですか?」。一般教養の「哲学」の講義をしていたころ、学生によく聞かれたという。世のため人のためという意味なら、役に立たない。ただし、自分のやりたいことが見つかったという意味では、人生の役に立った。木田さんは、こう答えるのが常だった。

http://sankei.jp.msn.com/life/news/140818/trd14081802560001-n1.htm

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