自民・石原幹事長、脱原発を「集団ヒステリー」 特集 福島原発 自民党の石原幹事長は14日の記者会見で、「脱原発」の動きに関し、「大きな事故(福島第一原発事故)があったわけだから、集団ヒステリー状態になるのは分かる」と語った。 原発に代わるエネルギー確保の難しさを指摘した文脈での発言だが、表現が不適切と批判される可能性もありそうだ。 (2011年6月15日00時01分 読売新聞)
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整理回収機構の常務、巨額債務者と海外旅行…倫理抵触も via kwout
後藤チルドレン、、、で終わらせないあたりがさすが団長、、、w閣下が三男坊の責任を取らされて政界引退させられたという噂がありましたが、お兄さんからでしたか、、、死んでなお嵐を呼ぶ男、、、wまあこんなんでは自民に小沢さんの首をとれるわけはありませんなw
石原伸晃の父親が鈴木俊一だったとは知りませんでしたよ。
2003-03-21 [書評]斎藤貴男著「空疎な小皇帝ー「石原慎太郎」という問題」(岩波書店)その2 さて、著者が「あとがき」の中で言及している「オウム真理教」との関係について触れておきたい。著者としては、確証をつかむまでの取材ができなかったために書かなかったようである。 1995年(平成7年)4月、石原慎太郎は突然衆議院議員辞職を表明した。地元の後援会にも知らされず、全く唐突であった。日本の政治に失望したという趣旨の意見を残しているが、とってつけたような感じである。なぜ唐突にやめるのか、全くその説明としては不十分であった。 しかし、彼は議員辞職をせざるを得ない、大きな事情を抱えていた。 オウム真理教は、1984年(昭和59年)2月に任意団体「オウム神仙の会」として設立された。その後、1989年(平成元年)8月に、東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。東京都は頑なに認定を拒否し続けていたのにもかかわらずである。 一方、石原裕次郎は1978年(昭和53年)、舌ガンのため慶應病院に最初の入院をする。翌年東大病院に転院して再び手術を受ける。ここで病魔を克服したかと思ったが、1981年(昭和56年)、解離性大動脈瘤で再び慶應病院に運ばれる。生還率3%、6時間33分の大手術に耐える。しかし、その後も1984年(昭和59年)に肝細胞ガンで、1985年(昭和60年)に胆内単胆菅炎でと毎年慶應病院に入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)7月17日に永眠。 オウム真理教と石原裕次郎になんの関係があるのかと思われるであろう。キーワードは「慶應病院」である。1981年に解離性大動脈瘤で入院したときの執刀医がだれであったか、そこに鍵がある。この大手術の執刀を行ったのは、心臓外科医としての林郁夫だった。 1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑なに宗教法人認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをするためにはなんとしても宗教法人の認定を受けたかった。林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に、状況打開の依頼がいったことは想像に難くない。実際、石原慎太郎は運輸大臣の肩書きを背景に東京都にプレッシャーをかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人に成りおおせている。 石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。宗教法人を隠れ蓑にしなかったら、このようなとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか。当時、政権は村山富市首相であり、自民党は戦後もっとも弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政府は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。その原因を作った人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上で踏ん反り返っていることが衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。表面的には強がりを言っていたが、詰め腹を切らされたことは、想像に難くない。
>石原伸晃の父親が鈴木俊一だったとは知りませんでしたよ。せっかく誤魔化しててあげたのに。(爆wつ石原幸子 林郁夫石原良純 ケロヨン、、、(w、、、(w
介護老人保健施設しろかね 管理者げに恐ろしき日本指紋消しても 免許消えず
宅八郎vs麻原彰晃「石原慎太郎を尊敬、秋吉久美子、あべ静江が好き」 http://www.youtube.com/watch?v=KRbTbAXSO7Q
6 件のコメント:
後藤チルドレン、、、で終わらせないあたりがさすが団長、、、w
閣下が三男坊の責任を取らされて政界引退させられたという噂がありましたが、お兄さんからでしたか、、、
死んでなお嵐を呼ぶ男、、、w
まあこんなんでは自民に小沢さんの首をとれるわけはありませんなw
石原伸晃の父親が鈴木俊一だったとは知りませんでしたよ。
2003-03-21 [書評]斎藤貴男著「空疎な小皇帝ー「石原慎太郎」という問題」(岩波書店)その2
さて、著者が「あとがき」の中で言及している「オウム真理教」との関係について触れておきたい。著者としては、確証をつかむまでの取材ができなかったために書かなかったようである。
1995年(平成7年)4月、石原慎太郎は突然衆議院議員辞職を表明した。地元の後援会にも知らされず、全く唐突であった。日本の政治に失望したという趣旨の意見を残しているが、とってつけたような感じである。なぜ唐突にやめるのか、全くその説明としては不十分であった。
しかし、彼は議員辞職をせざるを得ない、大きな事情を抱えていた。
オウム真理教は、1984年(昭和59年)2月に任意団体「オウム神仙の会」として設立された。その後、1989年(平成元年)8月に、東京都から「宗教法人オウム真理教」の認定を得ている。東京都は頑なに認定を拒否し続けていたのにもかかわらずである。
一方、石原裕次郎は1978年(昭和53年)、舌ガンのため慶應病院に最初の入院をする。翌年東大病院に転院して再び手術を受ける。ここで病魔を克服したかと思ったが、1981年(昭和56年)、解離性大動脈瘤で再び慶應病院に運ばれる。生還率3%、6時間33分の大手術に耐える。しかし、その後も1984年(昭和59年)に肝細胞ガンで、1985年(昭和60年)に胆内単胆菅炎でと毎年慶應病院に入退院を繰り返し、1987年(昭和62年)7月17日に永眠。
オウム真理教と石原裕次郎になんの関係があるのかと思われるであろう。キーワードは「慶應病院」である。1981年に解離性大動脈瘤で入院したときの執刀医がだれであったか、そこに鍵がある。この大手術の執刀を行ったのは、心臓外科医としての林郁夫だった。
1987年に石原裕次郎が亡くなった2年後、オウム真理教は宗教法人になっている。頑なに宗教法人認定を拒否されていたオウム真理教としては、好き勝手なことをするためにはなんとしても宗教法人の認定を受けたかった。林郁夫から1988年に運輸大臣であった石原慎太郎に、状況打開の依頼がいったことは想像に難くない。実際、石原慎太郎は運輸大臣の肩書きを背景に東京都にプレッシャーをかけ、オウム真理教はまんまと宗教法人に成りおおせている。
石原慎太郎が議員辞職を表明した直前の1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きる。宗教法人を隠れ蓑にしなかったら、このようなとんでもないテロをオウム真理教は起こせたであろうか。当時、政権は村山富市首相であり、自民党は戦後もっとも弱体化していた不安定な時期であった。阪神淡路大震災の不手際で政府は批判を受け、そして地下鉄サリン事件である。その原因を作った人物が元閣僚経験者で衆議院の赤い絨毯の上で踏ん反り返っていることが衆人の知れるところとなったら、自民党はひっくり返ってしまう。表面的には強がりを言っていたが、詰め腹を切らされたことは、想像に難くない。
>石原伸晃の父親が鈴木俊一だったとは知りませんでしたよ。
せっかく誤魔化しててあげたのに。(爆w
つ
石原幸子 林郁夫
石原良純 ケロヨン
、、、(w
、、、(w
介護老人保健施設しろかね 管理者
げに恐ろしき日本
指紋消しても 免許消えず
宅八郎vs麻原彰晃「石原慎太郎を尊敬、秋吉久美子、あべ静江が好き」
http://www.youtube.com/watch?v=KRbTbAXSO7Q
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