2022年4月2日土曜日

Death汁接種政策が齎す結果は日本語WIKIが見当たらない1557 influenza pandemicで死者数を増大させた瀉血をはるかにしのぐ


2021年6月25日金曜日

世界でもっとも多くの人間を殺してるのは兵士やテロリストではなく医者


瀉血(しゃけつ)とは、人体の血液を外部に排出させることで症状の改善を求める治療法の一つである。古くは中世ヨーロッパ、さらに近代のヨーロッパやアメリカ合衆国の医師たちに熱心に信じられ、さかんに行われた[1] が、現代では医学的根拠は無かったと考えられている。

現在の瀉血は限定的な症状の治療に用いられるのみである。方法としては17ゲージ前後の注射針を血管に穿刺・留置してチューブを通し吸引機を使用して血液を抜き去る。 

古典的な意味での瀉血は、体内にたまった不要物や有害物を血液と共に外部に排出させることで、健康を回復できるという考えによるものである。

西洋医学でさかんに行われた療法である。ヨーロッパやアメリカ合衆国で、多くの医者が患者のどんな症状を見てもしばしば「瀉血が効く」としてそれを実行した[1]。中世から18世紀末頃にかけて、欧米では瀉血は一般的な治療法であった[1]初期のアメリカ合衆国でも盛んに瀉血が行われていた[1]。「熱が出れば瀉血」「下痢をしても瀉血」「せきが出ても瀉血」といった調子で、毎日のように、患者宅から患者宅へと一日に何軒も駆け回って、患者の血を抜くことを繰り返すなど、医療行為としては瀉血ばかりを行っていて、他にはほとんど何もしないというような医師が多い、というような状態だったのである[1]

初期には創傷などによって皮下にたまったを排出させるため、一度癒着した創傷部を切開したことに由来するといわれている。また鬱血によって皮下に溜まった血液を排出させることで、治癒を促すともいい、中国医療のでは、患部に小さな傷をつけ、そこから指圧または陰圧にしたガラス製の小さな壷により血を吸い出す「刺絡」という療法もある。また、ヒル等の吸血動物に血液を吸わせる瀉血法も古くから行われており、19世紀初頭には切開による瀉血に替わって広く行われた。

なお、現在の日本の法律では、患者の体を切開することは医療行為にあたり、医師にしか許されない。無資格で行えば医師法違反(無資格医業)により処罰の対象となる。前述の刺絡に関しては瀉血として医療行為の範疇に含まれるか否かが議論となっているが、そもそも刺絡については第162国会質問主意書第26号(2005年6月14日)答弁によれば「様々な器具や手技を用いる方法があると考えられること等から、一般的に確立した定義はなく」、「個々の事例に則して判断されるべきもの」[2] とされている。このような中、2006年2月1日に医師でないのに瀉血を行なったとして鍼灸師が逮捕される事例も出ている[3](同5月11日に有罪判決。ただし、この事例では「刺絡は医療行為か」という議論以前に、診断書の作成や交付といった明らかな違反行為があったことに注意が必要である)。日本刺絡学会は(瀉血は血管を切って血を出すものだが)刺絡は身体の所定の箇所(いわゆる「ツボ」)の皮膚に鍼を刺すか小さく切開して、指で絞る(このほか負圧にした小さなガラス容器を吸い付かせるなども)などして血を少量出すだけの、瀉血とは考え方も方法も(加えて排出される血の量も)異なる方法だとしている。 刺絡そのものは平成17年の答弁書26号で、『はり』の範疇に入ると明記されており、『三陵鍼を用いて』とも明記されている。 しかし、三陵鍼の定義は書かれていない。 念のため付け加えて置くが、鍼灸は医業類似行為ではなく『医業』である。 鍼灸師とは医師にしか行えない医業の一部を割り当てられた資格である。 鍼灸師は医師ではないが医業の一部を行える、つまり、歯科医と似たような立場なのである。

現代的な瀉血は、基本的には献血で血液を採血するのと同様の方法で行われる。献血と違い、瀉血された血液は廃棄される。献血に瀉血の効果を期待する者もいるが、日本赤十字社は「そのような治療を必要としている状態の方から献血をいただくことはできかねます」としている[4]

ヨーロッパでの瀉血の歴史

瀉血はギリシャに始まってヨーロッパに広まり、中世初期では修道士が実践していた。

初期の頃には創傷によって皮下にたまった膿などを排出させる治療行為であったが、時代が下ると打撲骨折によって生じた炎症部分を切開し、炎症の軽減を求めるためにも利用された。他方では血液のよどみが病気の原因であると考えられたため、血管を切開した。頭痛ではこめかみの血管を切開して、頭痛の軽減を図ろうとしたりする方向へ発展した。

1162年ローマ法王が瀉血を禁止すると、床屋が瀉血用の小刀が付属したツールナイフを開発して瀉血を引き継いだ。現代の床屋の看板「サインポール」の元である「赤・青・白の縞模様」はもともと「赤・白の縞模様」であり、赤は血、白は止血帯を表し、ポール自体の形は瀉血の際に用いた血の流れを良くするために患者に握らせた棒を表しているという。

なお、頭痛治療における瀉血は穿頭(トレパネーション)の類型であると見なすことも可能であり、必ずしも根拠に基づく医療ではない。 ただし、頭痛に対して瀉血を施すことが適切なケースも少なからず存在する。たとえば、多血症は頭痛やめまい、倦怠感を伴うが、これらの症状は瀉血により血中の赤血球を減ずることで軽快する。つまり、多血症が原因で頭痛を訴える患者に対して瀉血を施すのは、現代医学の立場においても適切と言える。とはいえ、当時は症候学が未発達であり、そもそも多血症という疾患の概念もなかったわけであるから、あくまで「瀉血により頭痛が軽快することがある」という経験則の範疇を出るものではないことには注意が必要である。 さらに時代を下ると伝染病敗血症循環器系障害等にまで積極的に使用されたという。この時代においては衛生の維持が不十分であったため、切開部が感染症を引き起こすことも多く、また体力が落ちている患者にまで瀉血療法を行った結果、いたずらに体力を消耗させ、死に至るケースも珍しくなかった。このようなケースで亡くなったと見られる著名人には、エイダ・ラブレスモーツァルトジョージ・ワシントンなどがいる。

一部では神秘主義と結合し、体内に巣食った的なものが血液と共に排出されると考えられた(穿頭も同様)こともあり、このような瀉血の汎用は長く続き、またヨーロッパ一帯に広まって近代医療の発展する時代まで続いたという(呪術医の項を参照)。ヒポクラテスの唱えた四体液説が当時の医学の根本的な考えであったことも使用に拍車をかけた(四体液説では体液のバランスが健康に影響するとされているため、崩れた体液のバランスを戻すために血液の量を減らす目的で瀉血が行われた)。

後に、いたずらに体力を消耗させる瀉血療法の治療効果が疑わしいとして、18世紀以降には次第に汎用されることは減っていった。

沖縄の瀉血療法

沖縄では伝統的な民間療法が見られる。この沖縄の民間療法における瀉血では、ハンセン病以外に熱発を伴う風邪、ハブ咬傷など色々な疾患にも使われていた[5]。名称として乱切・瀉血療法といっている文献もある[6]。瀉血の場所は頭痛の場合は頭部であるが、一般的には背部が多く、その他の場所でもある。その部位を柄つき剃刀で切り出血させる。芭蕉の芯で拭き出血を増大させ、泡盛で消毒する。火吹き竹で出血を増大させることもあり、そのためにブーブーともいう。開始時期は明確でないが、江戸時代か明治時代の文献がある。昭和42年においても、都市部で15.1%,離島では50%近くの子供にもみられた。非医師(ヤブ)や家族により施行された。実施の時期は乳幼児59.1%,幼児期、27,8%,新生時期、2.0%。背部では細い瘢痕、頭部では小さいハゲとして残る。宮古療養所、昭和12年年報や沖縄本島の患者の思い出の話にも記述がある。

現代医療における瀉血療法

現代医療では、いくつかの症例において治療法の一つとして、この瀉血療法が行われる場合があり、これらは医学的にも根拠のある治療手段である。以下に例をあげる。

多血症
血液細胞が必要以上に作られてしまう病気である真性多血症では瀉血は基本的な治療である。ヘマトクリット(Ht)>55%が治療開始の目安であり、1回の瀉血は400-600ml程度である[注 1]。瀉血した後は1か月程度でHtは元に戻るのでHtを見ながら繰り返し瀉血し、理想的にはHtを男性で45%以下女性で42%以下血小板数を40万/μl以下にコントロールすること、あるいは少なくともHt45%以下を目標とする。ただし瀉血は真性多血症の原因を解消する手段ではなく、あくまでHtのコントロールが目的である[8][9][10]。瀉血を繰り返すうちに貯蔵鉄がなくなるとヘモグロビンの材料が乏しくなるため、赤血球は小型の物になり、Htの増加は抑え易くなる[11]。そのため赤血球が小さくなっても鉄剤の投与は厳禁である[11]
ただし、研究者によっては鉄欠乏は皮膚掻痒の増大や倦怠感を招きQOLを下げるとして鉄剤の投与に肯定的な意見もある[12]。真性多血症以外の多血症では、赤血球増加の原因を探りその原因を解消することを基本とし、瀉血は第一選択にはならないが、多血症の原因の解消が困難であったり、合併症が見込まれるときやHtが極端に高いときには瀉血などの治療を適宜行う[13]
C型肝炎
ウイルス性肝炎の一種であるC型肝炎では、体内に異常蓄積された分を減らすため、食事療法と並行して瀉血療法が行われることがある。C型肝炎では、肝臓に蓄積された鉄分により活性酸素が発生し、肝炎症状の悪化を招く。通常は鉄制限食により肝臓に蓄積された鉄分を減らしていくが、既に鉄分が過剰に蓄積されてしまっている場合には、通常の新陳代謝ではなかなか状態が改善しないことがある。このため、瀉血によりヘモグロビンの形で鉄を体外に排出して、体内の鉄の総量を減少させる[14][15]。これは、あくまで肝炎の進行を抑え肝硬変および肝がん(肝細胞癌)への移行を防ぐための対症療法であり、肝炎自体の治癒を目的とするものではない。
ヘモクロマトーシス
体内に鉄が沈着するヘモクロマトーシスでは、体内に沈着した鉄を除去するために瀉血を行う。遺伝性ヘモクロマトーシスでは瀉血が第一選択であり、定期的に行う必要がある。二次性ヘモクロマトーシスでも輸血が原因であったり貧血を伴ったりするものを除いて瀉血を行う。
接合手術後の処置
切断された四肢の端部の接合手術後、接合された部分に血液が循環せずに鬱血する場合がある。こうした場合に、接合部分の傷口に大型の無菌化したヒルを当て血液を吸わせることで接合した部分の血液循環を促進させ、循環不良による壊死を防ぐという治療法がある[16]。ヒルの唾液には抗凝固作用があり、ヒルを用いた瀉血は緩やかな出血が長時間続くため、周囲組織の循環が急変したり、多量の出血で輸血が必要になるようなことはない。また、ヒルの噛み傷は組織障害が少ないことも利点であり、アメリカでは2004年に医療用ヒルがアメリカ食品医薬品局の認可を受けている。

動物における瀉血療法

笹針
に対して、馬針(三稜針)というの葉の形に似た特殊な針を刺して瀉血する治療法である。競走馬は、血液の循環が悪くなり、鬱血状態を起こすと、全身コズミ(筋炎や筋肉痛の俗称)や跛行を呈することがある。これを解消するために針を刺して鬱血を取ることを笹針治療(乱刺手術)という。日本独自の治療法であり、欧米では行われない[17]

類似の療法

カッピング療法(吸い玉療法)として、中を火であぶった竹筒ないしガラス容器など(容器内部の空気を急速に加熱膨張させ、それが冷える過程で負圧となる)を利用した陰圧で、皮下に鬱血を生じさせる伝統療法が、西洋東洋を問わず存在した。たんに鬱血を生じさせるだけでなく、そこを切開して瀉血を行う場合も多かった。現代においても民間療法として存在する。あるいは伝統中国医学ないし鍼灸治療刺絡(中国式表記では刺血)として存在する。これは過去のヨーロッパや現代でも行われる積極的に血管を切開して出血させる瀉血法とは別のものと見る考えもある[18]。科学的な根拠はないとされる。肩こり五十肩などには効果があるとする意見[誰?]もあるが、これらはそもそも疾病の原因が科学的に解明されておらず、あくまで経験則の域を出ていない。 




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https://www.dailymail.co.uk/news/article-10676527/Florida-Gov-DeSantis-threatens-pull-special-treatment-states-biggest-employer-Disney.html




1557 influenza pandemic

In 1557 a pandemic strain of influenza emerged in Asia, then spread to Africa, Europe, and eventually the Americas. This flu was highly infectious and presented with intense, occasionally lethal symptoms. Medical historians like Thomas Short, Lazare Rivière and Charles Creighton gathered descriptions of catarrhal fevers recognized as influenza by modern physicians[1][2][3][4][5] attacking populations with the greatest intensity between 1557 and 1559.[6][7] The 1557 flu saw governments, for possibly the first time, inviting physicians to instill bureaucratic organization into epidemic responses.[4] It is also the first pandemic where influenza is pathologically linked to miscarriages,[8] given its first English names,[2][9] and is reliably recorded as having spread globally. Influenza caused higher burial rates, near-universal infection, and economic turmoil as it returned in repeated waves

According to a European chronicler surnamed Fonseca who wrote Disputat. de Garotillo, the 1557 influenza pandemic first broke out in Asia.[10][11] The flu spread west along established trade and pilgrimage routes before reaching the Ottoman Empire and the Middle East. An epidemic of a flu-like illness is recorded for September 1557 in Portuguese Goa.[12]

In the summer of 1557 parts of Europe had just suffered outbreaks of plague,[2] typhus,[2] measles,[13] and smallpox[13] when influenza arrived from the Ottoman Empire and North Africa. The flu spread west through Europe aboard merchant ships in the Mediterranean Sea, again taking advantage of trade and pilgrimage routes. Death rates were highest in children, those with preexisting conditions,[14] the elderly,[15] and those who were bled.[16] Outbreaks were particularly severe in communities suffering from food scarcity. The epidemics of fevers and respiratory illness eventually became referred to as the new sickness in England,[2] new acquaintance[9] in Scotland, and coqueluche or simply catarrh by medical historians[17] in the rest of Europe. Because it afflicted entire populations at once in mass outbreaks, some contemporary scholars thought the flu was caused by stars,[11] contaminated vapors brought about by damp weather,[18][11] or the dryness of the air.[19][11] Ultimately the 1557 flu lasted in varying waves of intensity for around four years[7][20] in epidemics that increased European death rates, disrupted the highest levels of society, and frequently spread to other continents. 

Kingdom of France

French physician and medical historian Lazare Rivière documented an anonymous physician's descriptions of a flu outbreak[22] occurring in the Languedoc region of France in July 1557.[26] The disease, often called coqueluche by the French,[27][28] caused a severe outbreak in Nîmes that featured a fast onset of symptoms like headaches, fevers, loss of appetite, fatigue, and intense coughing.[29][27][22] Most of those who died from the disease did so on the fourth day, but some succumbed up to 11 days after first symptoms.[27][22] Across Languedoc influenza had a high mortality rate, with up to 200 people per day dying in Toulouse at the height of the region's epidemic.[30] Italian physician Francisco Vallerioli, known as François Valleriola, was a witness to the epidemic in France and described the 1557 flu's symptoms as featuring a fever, severe headache, intense coughing, shortness of breath, chills, hoarseness, and expulsion of phlegm after 7 to 14 days.[24][26] French lawyer Étienne Pasquier wrote that the disease began with a severe pain in the head and a 12- to 15-hour fever[31] while sufferers' noses "ran like a fountain."[32] Paris saw its judiciary disrupted when the Paris Law Court suspended its meetings to slow the spread of flu.[33] Medical historian Charles-Jacques Saillant described this influenza as especially fatal to those who were treated with bleeding[14] and very dangerous to children.[29]

Kingdoms of England and Scotland

The 1557 influenza severely impacted the British Isles. British medical historian Charles Creighton cited a contemporary writer, Wriothesley, who noted in 1557 "this summer reigned in England divers strange and new sicknesses, taking men and women in their heads; as strange agues and fevers, whereof many died."[34] 18th Century physician Thomas Short wrote that those who succumbed to the flu "were let blood of or had unsound viscera."[16] Flu blighted the army of Mary I of England by leaving her government unable to train sufficient reinforcements for the Earl of Rutland to protect Calais from an impending French assault,[35] and by January 1558 the Duke of Guise had claimed the under-protected[36] city in the name of France.

Influenza significantly contributed to England's unusually high death rates for 1557–58:[37][7] Data compiled on over 100 parishes in England found that the mortality rates increased by up to 60% in some areas during the flu epidemic,[7] even though diseases like true plague were not heavily present in England at the time.[2] Dr. Short found that the number of burials for market towns was much higher than christenings from 1557 to 1562.[2] For example, the annual number of burials in Tonbridge increased from 33 on average in 1556 to 61 in 1557, 105 in 1558, and 94 in 1559.[38] Before the flu epidemic, England had suffered from a poor harvest and widespread famine[39] that medical historian Thomas Short believed made the epidemic more deadly.[40]

Influenza returned in 1558. Contemporary historian John Stow wrote that during "winter the quarterne agues continued in like manner" to 1557's epidemic.[43] On 6 September 1558 the Governor of the Isle of Wight, Lord St. John, wrote in a despatch to Queen Mary about a highly-contagious illness afflicting more than half the people of Southampton, the Isle of Wight, and Portsmouth (places where Lord St. John had stationed troops).[2] A second despatch from 11 P.M. of 6 October indicated "from the mayor of Dover that there is no plague there, but the people that daily die are those that come out of the ships, and such poor people as come out of Calais, of the new sickness." One of the commissioners for the surrender of Calais found Sir William Pickering, former knight-marshal to King Henry VIII, "very sore of this new burning ague. He has had four sore fits, and is brought very low, and in danger of his life if they continue as they have done." Influenza began to move north through England, felling numerous farmers and leaving large quantities of grain unharvested[44] before it reached London around mid-late October. Queen Mary and Archbishop of Canterbury Reginald Pole, who had both been in poor health before flu broke out in London, likely died of influenza within 12 hours of each other on 17 November 1558.[41][45] Two of Mary's physicians died as well.[43] Ultimately around 8000 other Londoners likely died of influenza during the epidemic,[7] including many elders and parish priests.[43]

New waves of "agues" and fevers were recorded in England into 1559. These repeated outbreaks proved unusually deadly for populations already suffering from extensive rains and poor harvests. From 1557 to 1559 the nation's population contracted by 2%.[46] The sheer numbers of people dying from epidemics and famine in England caused economic inflation to flatten out.[47]

In the late 1550s the English language had not yet developed a proper name for the flu, despite previous epidemics. Thus 1557's epidemic was either described as a "plague" (like many epidemics with notable mortality), "ague" (most generally) or "new disease" in England. "The sweat" was one name used to describe the usually deadly, flu-like fevers and "agues" plaguing the English countryside from 1557 to 1558, despite no reliable records of sweating sickness after 1551. Doctor John Jones, a prominent 16th Century London physician, refers in his book Dyall of Agues to a "great sweat" during the reign of Queen Mary I of England.[2] After the 1557 pandemic English nicknames for the flu began to appear in letters, like "the new disease" in England and "the newe acquaintance" in Scotland. When the entire royal court of Mary, Queen of Scots was struck down with influenza in Edinburgh in November 1562, Lord Randolph described the outbreak as "a new disease, that is common in this town, called here 'the newe acquaintance,' which passed also through her whole court, neigh sparing lord, lady, nor damoysell, not so much as either French or English. It is a pain in their heads that have it, and a soreness in their stomachs, with a great cough, that remaineth with some longer with other short time, as it findeth apt bodies for the nature of the disease...There was not an appearance of danger, nor manie that died of the disease, except some old folks."[48] Mary Stuart herself spent six days sick in her bedchambers.[15][6]

Habsburg Netherlands

Habsburg Netherlands was also heavily impacted by the flu in October.[22] Dutch historian Petrus Forestus described an outbreak in Alkmaar where 2000 fell sick with flu and 200 perished[18][31] in a span of three weeks.[49] Forestus himself became sick with the flu and related that it "...began with a slight fever like a common catarrh, and showed its great malignancy only by degrees. Sudden fits of suffocation then came on, and the pain of the chest was so distressing that patients imagined they must die in the paroxysm. The complaint was increased still by a tight, convulsive cough. Death did not take place till the 9th or 14th day."[50] He further observed that the flu was very dangerous to pregnant women, killing at least eight such citizens in Alkmaar who contracted it.[22] Influenza's symptoms came on suddenly and attacked thousands of the city's residents at the same time.[51] Hunger likely contributed to a higher death toll, as the authorities had been struggling to provide food to the needy amid a severe bread shortage during the summer.[52] Attempting to explain the epidemic of fevers and respiratory illness affecting the Low Countries, Flemish physician Rembert Dodoens suggested that the mass outbreaks of illness were caused by a dry, hot summer following a very cold winter.[19]

Spain and Portugal

Spain was widely and severely impacted by influenza, which chroniclers recognized as a highly contagious catarrhal fever.[53][54] Influenza likely arrived in Spain around July, with the first cases being reported near Madrid in August.[55] British medical historian Thomas Short wrote that "At Mantua Carpentaria, three miles outside of Madrid, the first cases were reported...There it began with a roughness of the jaws, small cough, then a strong fever with a pain in the head, back, and legs. Some felt as though they were corded over the breast, with a weight at the stomach, all which continued to the third day at the furthest. Then the fever went off, with a sweat of bleeding at the nose. In some few, it turned to a pleurisy of fatal peripneumony."[56] Bloodletting greatly increased the risk of mortality, and it was observed in Mantua Carpentaria that "2000 were let blood of and all died."[57] The flu then entered Spain's capital city, where it rapidly spread to all parts of the Spanish mainland.[citation needed]

Cases expanded exponentially as merchants, pilgrims, and other travelers leaving Madrid transported the virus to cities and towns across the country. According to King Phillip II's doctor Luis de Mercado, "All the population was attacked the same day, and the same time of day. It was catarrh, marked by fever of the double tertian type, with such pernicious symptoms that many died."[58] The season's poor harvests and hunger in the Spanish population,[59] as well as negligent medical care, likely contributed to the severity of the influenza pandemic in Spain. Flu symptoms could be so intense that the region's physicians often distinguished it from other contagious, seasonal pneumonias that spread from East Europe.[60] Sixteenth century Spaniards frequently referred to any mass outbreak of deadly disease generically as a pestilencia,[61] and "plagues" are recognized as occurring in Valencia[62] and Granada[63] during the years 1557–59, despite pathological records of true plague (like descriptions of buboes) occurring in the area at the time being scant.

Influenza hit the Kingdom of Portugal at the same time as it spread throughout Spain, with an impact that spread across the Atlantic Ocean. The kingdom had just suffered food shortages due to 1556-57's poor harvest,[64] which would have exacerbated the effects of the flu on hungry patients. A violent storm had just hit Portugal and severely damaged the Palace of Enxobregas, and in following with attributing outbreaks of influenza to the weather Portuguese historians like Ignácio Barbosa-Machado attributed the epidemic in the kingdom to the storm with little opposition. Barbosa-Machado referred to 1557 as the "anno de catarro."[65]

The Americas

There are records of the New World eventually being reached by the flu in 1557, brought to the Spanish and Portuguese Empires by sailors from Europe.[21] Influenza arrived in Central America in 1557,[66] likely aboard Spanish ships sailing to New Spain. During that year there were epidemics of flu recorded in the south Atlantic states, Gulf area, and Southwest.[67] The Native American Cherokee appear to have been affected during this wave,[68] and it may have spread along newly established trade routes between Spanish colonies in the New World
The flu also reached South America. Anthropologist Henry F. Dobyns described a 1557 epidemic of influenza in Ecuador in which European and Native populations were both left sick with severe coughing.[69] In Colonial Brazil, Portuguese missionaries did not take breaks from religious activities when they became sick.[70] Missionaries like the Society of Jesus in Brazil founder Manuel da Nóbrega continued to preach, host mass, and baptize converts in the New World even when symptomatic with contagious illnesses like influenza.[70] As a result, flu would have quickly spread through Portuguese colonies due to mandatory church attendance. In 1559 the flu struck colonial Brazil with a wave of illness recorded along the coastal state of Bahia:[71] That February, the region of Espírito Santo was struck by an outbreak of lung infections, dysentery, and "fevers that they say immediately attacked the hearts, and which quickly struck them down." Populations of natives attempted to flee the infection afflicting their communities, spreading influenza northward.[71] European missionaries suspected such severe epidemics among the native populations to be a form of divine punishment,[70] and referred to the outbreaks of pleurisy and dysentery among the natives in Bahia to be "the sword of God's wrath." Missionaries like Francisco Pires took some pity on the sick children of natives, whom they often regarded as innocent, and frequently baptized them during epidemics in the belief they'd "saved" their souls. Baptism rates in native communities were deeply connected with outbreaks of disease,[70] and missionary policies of conducting religious activities while sick likely helped spread the flu. 

Africa

Influenza attacked Africa through the Ottoman Empire, which by 1557 was expanding its territories in the northern and eastern parts of the continent. Egypt, which had been conquered by the Ottoman Empire around 40 years prior, became an access point for influenza to travel south through the Red Sea along shipping routes. The pandemic's most memorable effects on the Ottoman army in Africa are recorded as part of the 1559 wave.[citation needed]

Abyssinian Empire and Habesh Eyalet

The Kingdom of Portugal had supported the Abyssinian (Ethiopian) Empire in their war against the Ottoman expansion of the Habesh Eyalet and sent aid to their emperor, including a team with Andrés de Oviedo in 1557 who recorded the events.[72] In 1559 the Ottoman Empire struggled with a severe wave of influenza: After the deaths of Emperor Gelawdewos and most of the Portuguese attaché in battle, the flu killed thousands of the Ottoman army's troops occupying the port city of Massawa.[73][72] Massawa was claimed by the Ottomans from Medri Bahri during their conquest of Habesh in 1557, but the pandemic's 1559 wave challenged their army's hold onto territory around the city after flu cut down a large number of the Ottoman forces.[73][72] Because of the epidemic Ottoman soldiers were soon recalled back to the ports, even though the emperor had been slain, and shortly afterwards Gelawdewos's brother Menas ascended to the Abyssinian throne and converted from Islam to Christianity.[72]

Medicine and treatments

Most physicians of the time subscribed to the theory of humorism, and believed the cosmos or climate directly affected the health of entire communities. Physicians treating the flu often used treatments called coctions to remove excess humors they believed to be causing illness.[58] Dr. Thomas Short described treatments for the 1557 influenza as having included gargling "rose water, quinces, mulberries, and sealed earth." "Gentle bleeding" was used on the first day of the infection only,[74] as frequently used medical techniques like bloodletting and purgation were often fatal for influenza.[34] In Urbino, "diet and good governance" were recognized as common ways sufferers managed their illness.[23]

Identification as influenza

The 1557 pandemic's nature as a worldwide, highly-contagious respiratory disease with fast onset of flu-like symptoms has led many physicians, from medical historians like Charles Creighton to modern epidemiologists, to consider the causative disease as influenza.[1] "Well documented descriptions from medical observers"[1] who witnessed the effects of the pandemic as it spread through populations have been reviewed by numerous medical historians in the centuries since. Contemporary physicians to the 1557 flu, like Ingrassia, Valleriola, Dodoens, and Mercado, described symptoms like severe coughing, fever, myalgia, and pneumonia that all occurred within a short period of time and led to death in days if a case was to be fatal.[50][24][58] Infections became so widespread in countries that influences like the weather, stars, and mass poisoning were blamed by observers for the outbreaks, a reoccurring pattern in influenza epidemics that has contributed to the disease's name. Prior to greater research being conducted into influenza in the 19th century, some medical historians considered the descriptions of epidemic "angina" from 1557 to be scarlet fever, whooping cough, and diphtheria. But the most striking features of scarlet fever and diphtheria, like rashes or pseudomembranes, remain unmentioned by any of the 1557 pandemic's observers and the first recognized whooping cough epidemic is a localized outbreak in Paris from 1578.[75] These illnesses can resemble the flu in their early stages but pandemic influenza is distinguished by its fast-moving, unrestricted epidemics of severe respiratory disease affecting all ages with widespread infections and mortalities.[citation needed]





四体液説(よんたいえきせつ、: Humorismまたはhumoralism)とは、「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4種類を人間の基本体液とする体液病理説: humoral pathology)である。体液病理説(もしくは液体病理説)とは、人間の身体には数種類の体液(ラテン語: humor古代ギリシャ語: χυμόςchymosの訳語で、そのまま「体液」を意味する)[1]があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ(Eucrasia)、バランスが崩れると病気になる(Dyscrasia)とする考え方で、古代インド(アーユルヴェーダ)やギリシャで唱えられた。インドからギリシャに伝わったとも言われる。

四体液説は、西洋で広く行われたギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)の根幹をなしており、19世紀の病理解剖学の誕生まで支持された。どの体液が優位であるかは、人の気質・体質に大きく影響すると考えられ、四体液説と占星術が結びつけられ広い分野に影響を与えた。 

全体観(holism)

古代ギリシャ人やインド人は、体の一部が病んでいるのではなく、全体が病んでいるのであり、病気は一つだけで、それが色々な形で表れているのだと考えた。このような考え方を全体観(holism、ホーリズム)と言う[3]。体液は体中に偏在しているため、体液病理説とはすなわち全体観の医学だった。病気は一つなので、病気はどこにあるか、病気はなんであるかという問いはあまり重視されず、診るべき対象は患者の体全体であると考えられた。

古代ギリシャ医学をまとめた『ヒポクラテス全集』の論文を見ると、病気の経過について詳細な記録が残されているが、病名はほとんど記されていないことがわかる[4]。体液病理説のヒポクラテスはコス派というグループに属しており、ライバルにあたるクニドス派は、病気の所在は身体の固体部分、つまり臓器にあるとする固体病理説(または局在病理説、臓器病理説)だった。クニドス派では、診断が重視され、病気が細かく分類されたが[5]、この時代には病気の分類を行う十分な知識・技術がなかったこともあり、より大きな成功を収めたのは全体観(holism)の体液病理説に基づくコス派だった。


・・・は正解。しかし・・・


西洋の体液病理説

古代ギリシャ・ローマ

ヒポクラテス」および「ガレノス」も参照

古代ギリシアの医学は、ヒポクラテスの死後100年ほどたってから、ヒポクラテス(紀元前460年ごろ - 紀元前370年ごろ)の名のもとに『ヒポクラテス全集』にまとめられた。そこでは、人間身体の構成要素として、臨床経験から2~4種類の体液が挙げられている[6]。ローマのガレノス(129年頃 - 199年)は、ヒポクラテス医学をベースに当時の医学をまとめ、人間の体液は血液を基本に「血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁」の4つから成り、そのバランスが崩れると病気になるとする四体液説を継承し発展させた。ガレノス以後、体液病理説(四体液説)は、西洋文化圏で行われたギリシャ・アラビア医学の基本をなしており、19世紀の病理解剖学の誕生まで支持されていた。

四体液

ヒポクラテスなどの古代ギリシャの医師たちは、患者の体から出てくる液体を観察し、人間の体内には、栄養摂取による物質代謝の産物であるいくつかの体液があると考えた[4]

血液(Gk. haima)は、体内の熱が適当で、食べ物が完全に調理(消化)された時に生成され、生命維持にとって重要であるとされた。一方、粘液と胆汁は悪い体液と考えられた。体内の熱の過少によって生じる粘液(Gk. phlegma)は、ギリシャ語のphlego(燃える)という動詞からきている。古代ギリシャでは、体の中で燃えるのは「炎症」または「消化」であると考えられたことから、冬に起こる炎症の産物が粘液と呼ばれた。 また、脳は粘液による保護が必要で、脳に達して適度な冷えと潤いを与える。脳からあふれた粘液は、鼻汁となって出てくる[7]。体内の熱の過剰によって胆汁が生じるが、数合わせのために黒胆汁が加えられ[8]、黄胆汁(Gk. chole)・黒胆汁(Gk. melan chole)となったという。黄胆汁は血液の泡状のもので、軽く熱い。黒胆汁は、鬱状態の人の排泄物の色から名付けられたと言われる。黒胆汁には酸味があり、体を腐食させるとされた[7]。 

体液の種類は、最初から4種類で統一されていたわけではない。『ヒポクラテス全集』に収録された論文「人間の自然性について」の中では、四大元素説の影響を受けて、人間は血液粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つからできていると述べられており[9]、これが主流の分類である。しかし「疾病について」の中では、血液、粘液、胆汁、また「疾患について」で、病気はすべて胆汁と粘液の作用であるとしており、定まっていない。どちらを採用するかは学派によって異なり、ヒポクラテスのコス派は血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁の四体液説で、クニドス派は胆汁・粘液説であった[10]。ローマのガレノスが、四体液説を継承しギリシャ医学をまとめ上げたため、後世に残ったのは四体液説だった。

また、フォーレウス・リンドクヴィスト効果英語版の発見者の一人である病理学者ロビン・フォーレウススウェーデン語版(1888-1968)は、四体液説は、血液の観察に由来すると示唆した。血液を容器に入れ、空気にさらし室温で放置すると、上澄みと凝固部分に分かれる。この血清白血球赤血球血餅が、黄胆汁、粘液、血液、黒胆汁の由来ではないかと推測した[11]

体液と病

体液の生成と混和、バランスの回復については、調理に喩えられ説明された。食べ物が昇華されてできた養分は、静脈や肝臓の内で熱によって変化する。体内で発生した熱が適度であれば、その熱によって血液が生じ、適度でない場合には他の体液が生じて、血液に混じることになるのである。その際、より熱ければ胆汁に、より冷たければ粘液になる。黄胆汁は脾臓で吸収されて血液は浄化されるが、脾臓の機能が悪い場合には、黄胆汁は煮詰まったように黒胆汁となるし、脾臓自体が、病的状態にあれば、うまく調理されない黒胆汁が身体をめぐることになる。体内の熱源は、大宇宙の中心である太陽と同様に、小宇宙である人体の中心器官である心臓と考えられた[4]

病気になった体は、「自然(ピュシス)」の治癒力・内なる熱によって回復する。すなわち、誤って混和した、あるいは生の状態の体液を調理して、体液の乱れを正常に戻そうとするのである[12]。調理で無害になり、健康な成分から分離された「悪いもの」は、嘔吐、下痢、排尿、喀出、発汗、出血、化膿などのルートで体外に排出される。怪我のような局所病の時は、炎症の形で悪い体液を「煮沸」し、消化して、膿の形で排出する。全身、局所を問わず、発熱から化膿まで、すべて治癒の過程であると考えた[13]

調理に喩えられた「食物が体内の熱によって処理されること」は、「熟成(ペプシス)」と言われ、「古い医術について」では、体液の熟成状態と「混和(クラーシス)」の状態が重要であるとされた[14]。『ヒポクラテス全集』に納められた論文「人間の自然性について」では、最も健康な状態は、四体液の力や量がバランスを保った状態で、特にお互いに混和(クラーシス)した状態であると説明される。病気とは、体液の一つが多すぎたり少なすぎたりする場合、また一つだけが切り離されて他と混和しない場合に起こる[15]。四体液はそれぞれ2つの性質を持っているので、互いに反発しつつも引かれ合う。体液のバランスが崩れる原因は、体質、生活環境、生活様式、食事などである。

体液の性質と治療

四大元素」、「ユナニ医学#治療」、および「ユナニ医学#薬剤」も参照

治療の方針は、過剰な力を除去し、不足するところに加えて(逆療法[16])、バランスを安定させることだった。四体液説は、「熱・冷・湿・乾」からなるアリストテレスの四大元素説(四性質説)と関連付けられたため、例えば黒胆汁の過剰による病気の場合、その性質は「冷」なので、過剰な黒胆汁を排出し、熱性の食べ物や薬草を摂取して、体液のバランスを戻すよう試みる。ヒポクラテスは、「反対はその反対で治療される英語版」という原則を唱えたといわれており、医者はそれぞれの病気や薬草、風土、人間の性質を理解し、治療に生かそうとした。

ローマのガレノスは、ヒポクラテスの「自然」「体液病理説」「四体液説」「逆療法」などの考え方を受け継いで、古代ギリシャの医学をまとめ上げた。またガレノスは、人間の霊魂はプネウマ(生気、精気、霊気、空気、気息とも)を介して肉体を操っていると考え、四体液とプネウマの適度な混合が大切であるとした。プネウマは中医学における気、アーユルヴェーダのヴァータ(風、体風素)に比されるもので、生命エネルギーのようなものだという。人間が生きるには栄養とプネウマが必要であり、栄養が生きたものとなるにはプネウマが不可欠とされた[17]。後のキリスト教では、プネウマは三位一体の「聖霊」と理解された[18]

ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的ではなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。

アラビア、ヨーロッパへの伝播

ユナニ医学#歴史」も参照


ビザンツ帝国で異教徒・キリスト教異端が迫害され、学者たちがサーサーン朝ペルシャに亡命したことから[19]、四体液説をベースとしたギリシャ・ローマ医学はアラビアに伝わり、ヨーロッパではその多くが失われた。また、同じく体液病理説に基づくインド医学も、多くの文献がアラビア語に翻訳され影響を与えた。ギリシャ・ローマ医学に各地の医学を集大成した「ギリシャ・アラビア医学」(ユナニ医学)は、アル・ラーズィーイブン・スィーナーなど、多様な民族・宗教の学者たちによって発展した。 

ユナニ医学はギリシャ・ローマ医学をベースにしつつも、さらに発展させた。『ガレノスに対する疑念』(Shukuk 'ala alinusor)[20]アル・ラーズィーは、臨床経験と錬金術の実験を通し、ガレノスの発熱に関する説明や、四体液説、四大元素説に批判を加えた[21]。イブン・スィーナーは、ガレノス医学をベースに『医学典範』al-Qānūn fī al-Ṭibb)をまとめたが、血液が唯一の自然な体液だとするガレノス医学の考えには同意しなかった。スィーナーは、血液が腐敗・希薄化・濃縮化などで変化したものが粘液・黄胆汁・黒胆汁だと考えたが、四体液はすべて必要なもので、各々に「自然的」「不自然的」の2つの状態があるのだとした。体の各器官によって成分・性状が違うのだから、固さや柔らかさといった違いをもたらす他の体液も不可欠だと考えたのである[22]。また、四体液に関する諸問題の探求は医師の領分ではなく、哲学者のものだと述べている[23]

11世紀に入ると、十字軍が編成されエルサレムに進軍し、ヨーロッパはアラビア世界に接触した。アラビアの進んだ文化がヨーロッパに伝えられ、サレルノ医学校英語版の教師だったモンテ・カッシーノ修道院のコンスタンティヌス・アフリカヌスなどが、アラビア語の医学書をラテン語に翻訳し、その知識はヨーロッパに再びもたらされた。

中世以降のヨーロッパ

四気質

詳細は「en:Four temperaments」を参照

古代ギリシャ・ローマでは、それぞれの体液の過少と人の気質には関係があると考えられていた。(メランコリーの語源は黒胆汁であり[24]、「無関心な、冷淡な」を意味するプレグマティック英語版は粘液からきている。)

次のものは、『サレルノ養生訓英語版』, 12~13世紀)などにみられる各体液に典型的な気質・体質である。

黄胆汁質(胆汁質、en.Choleric)
荒々しい性格で熱血漢、短気で行動的、野心も強い[7]。気前がいいが傲慢で、意地悪で気難しい面もある。消化力が高く大食だが、やつれて見える[25]。脈が速く心臓に負担がかかる気質で[7]、また張り切りすぎて肝臓や腎疾患に陥りやすい[26]。黄色味がかかった熱く乾燥した肌をしており、硬くて水気に乏しい筋肉をしている[27]
黒胆汁質(憂鬱質、en.Melancholic)
寡黙で頑固、孤独癖があり、運動も休養も社交も好まない[7]。強欲で倹約家、利己的で根に持つタイプ。神経質で自殺傾向がある[28]。注意深く明敏、勤勉で、一人で思索に耽ってばかりいる[7]。黒胆汁は主に悪いイメージを持たれ、狂気・精神錯乱と関連する体液といわれたが、天才を生み出す体液だとも考えられた[29]。土気色で乾燥した冷たい皮膚をして、たいてい痩せている。脈は遅く耳は遠い。欠尿症で、食欲はあったりなかったりである[30]
多血質(en.Sanguine)
人柄は機嫌よく社交的で、ずうずうしいが気前もいい[7]。先のことは考えず、心変わりしやすい[31]。娯楽が好きで好色であり、教養とは無縁のタイプ[7]。体質は、筋肉質でたくましく、脈は規則的で皮膚はぬくもりと弾力があり、胃は丈夫で睡眠の悩みもない[32]。舌が乾きやすく[33]、太りやすい。風邪をひきやすく関節炎のタイプで、頭痛や歯痛を伴うこともある[34]。この気質の良い状態が維持できれば、老いを寄せ付けないため長生きする[35]
粘液質(en.Phlegmatic)
精神的に鈍く優柔不断で臆病だが[7]、おだやかで公平、人を騙したりしない。背は高くなく太っており、食べることが好きで運動や努力が嫌い。血の気のない皮膚の色で、肉質はやわらかく肌は湿っている。脈は遅く弱く、胃弱で口臭がひどい。貧血や腺病、鼻風邪やカタルに罹りやすく、耳鳴りや難聴になりやすい[36]。また、粘液から逃れようとつばを吐く[7]

キリスト教

中世ヨーロッパでは、四体液説はキリスト教に取り入れられた。教会は、アダムとイブは完璧な体液のバランスを保っていたが、楽園追放によってそのバランスが崩れ、病気がこの世に誕生したと説いた。原罪を負った人間の体液のバランスは崩れているが、キリストのそれは完璧であり、拠ってキリストに倣う生き方が奨励された[37]。 肉やホットワインのような「熱く湿った」食品は血液と精液のもととなるプネウマを生成すると考えられ、性欲肉欲が高まるためキリスト教徒にはふさわしくないとされた[38]。初期には断食期間には肉と魚を摂ることは禁じられたが、次第に「冷たい」魚は性欲を抑えるとされ、食べることが許されるようになった。

食文化への影響

西洋では万物が四大元素からなると考えられたため、薬も食材も「熱・冷・湿・乾」のうち2つの性質を持つとされた。摂取する食材の性質が体液に影響を与えるため、中世ヨーロッパでは、医師の治療の中心は日常的な食事療法だった。健康にいい性質の食材を採ること、性質が合わない食物を混ぜないこと(合食禁)などが重視された。また、食べた物が体内で適切に「調理」され、栄養素がきちんと吸収されるように、正しい順序で腹を満たすことが大切だと考えられ、そのようにコースが組み立てられた。まず消化しやすいものが出され、徐々に腹持ちのいい料理に移行した。この養生法を軽んじると、食べた物が十分に消化されず、胃の中に悪い体液が引き込まれると思われていた[39]

食材や薬剤の性質は本草書、農書などに記され、養生書では食事に多くの頁が割かれた。キリスト教徒でアラブ人の医師イブン・ブトラーン(11世紀)は、バグダードで学んだ医学をTaqwīm al-Sihha(『健康表』、または『健康全書』)にまとめているが、これは食材やハーブの性質とその度合いなど、健康のために役立つ情報を表にしたものであった[40]

医療占星術

en:Planets in astrology#Classical planets」および「西洋占星術#占星医学」も参照

中世ヨーロッパには、四体液、四気質は占星術と結び付けられ(占星医学、星辰医学、医療占星術、en:Iatromathematica)、診断・治療に一般的に用いられ[41]、瀉血の時期や血を採る部位の判断にも利用された。出生時の星の位置がその人の体液の偏りや気質を決定すると考えられ、15~16世紀には「惑星とその子供たち」という思想が流行した。

木星
血液と結びつき、教養と富に恵まれた人々と関係する。
火星
黄胆汁と結びつき、軍人と関係する。
金星
粘液と結びつき、学者、芸術家と関係する。
土星
黒胆汁と結びつき、貧民や犯罪者、身体障害者、インディオなど、当時のヨーロッパで差別された人々と関係する。

土星(サターン)は、産まれた我が子を次々呑みこんだというサトゥルヌスの神話や、土星の占星術的解釈から、老年や死など忌まわしいイメージと紐付いた。魔女は「土星=サトゥルヌスの子供」であり、食人を行う(とされた)インディオと同類の存在で、黒胆汁過多によってメランコリー症に冒されていると見做されることもあった[42]。 


ユーモアと気質喜劇

ユーモア」という言葉は、会話や文章において相手を笑わせる事を意図する人間の気質や、具体的な言葉や行動においての表れをさすが、これは 古希:χυμός chymos 、ラテン語:humor(体液)に由来する。健康を左右するとされた「humor」は、気質、体調などを意味するようになり、さらに、調子の変わった人物を指す意味へと変化した。ルネッサンス時代になると、文芸批評家達が、美学的な用語である「ユーモア」として使い始めた[43]

17世紀イギリスでは、おもしろさ、おかしさ、滑稽さ、特異性などを意味するようになった。エリザベス朝時代のイギリスでは、奇矯であることが魅力的であるという風潮が一部にあり、そのような振る舞いが横行し、「ユーモア」という言葉が流行した[44]。劇作家のウィリアム・シェイクスピアベン・ジョンソンは、こうした風潮に辟易していた。ベン・ジョンソンは、ローマ古典劇を下敷きにした「気質喜劇」と呼ばれる作品群で、登場人物たちを一つの気質のみを誇張して類型的に描き、その愚行を風刺した。彼の気質喜劇としては、『ヴォルポーニー』、『錬金術師』などがよく知られる[45]。 


西洋医学における終焉

体液病理説・四体液説に基づくギリシャ・アラビア医学は、ヨーロッパでは15-16世紀まで、ペルシアなどでは19世紀末まで主要な医学であった[46]。16世紀の解剖医アンドレアス・ヴェサリウスが、ガレノス解剖学の誤りを証明し(古代ローマでは人体解剖は行われず、ガレノスは動物解剖の知見をベースに理論を組み立てていた)、徐々にガレノス医学の誤りが明らかになっていった。モルガーニは『病気の座と原因について』(1761年)で、病気の座として臓器を考え、ビシャは『一般解剖学』(1801年)で、組織を病気の座とした。とはいっても、1858年のウィルヒョー(ウィルヒョウ、フィルヒョウ)の革命まで、体液病理説はほとんど議論の余地なく受け継がれていた。

病理解剖学研究の泰斗ウィルヒョーは、『細胞病理学』で体液病理説を否定し、細胞病理説を主張した。「すべての細胞は細胞から」という有名な公理を生み出し、器質的疾患は、過剰な刺激や炎症が原因で生じた細胞の変形に基づく病変に必ず結びつくことを明らかにした。こうした概念は、当時の医学思想を一変させ、体液病理説は医学の主流から姿を消した[47]

他分野への影響

体液病理説は、ウィルヒョーの革命の後も、病態生理学の下敷きとなった。[48]また、アラビアやインドなどで現在も行われるユナニ医学以外にも、心理学者ハンス・アイゼンクによる人格モデル[49]などの心理学、子ども生来の気質を尊重した教育を目指すシュタイナー教育[50]、全体的(Holistic)な健康観に立脚し、身心の調和や自然治癒を重視するホリスティック医学[51]などで現在も参照されている。

インドの体液病理説

トリ・ドーシャ説

古代ギリシャの体液病理説は、古代インド医学の影響を受けているともいわれる。アーユル・ヴェーダと呼ばれる古代インドの医学では、「ピッタ(胆汁、胆汁素)、カパ(粘液、粘液素)、ヴァータ(風、体風素)」の3つの体液が体をめぐっているとした。医学書『チャラカ・サンヒター』では、人間の病気の原因を体液の増悪とするトリ・ドーシャ説が唱えられた[52][53]

古代インドでは、五大元素として「地・水・火・風・空(虚空,空間,アーカーシャ)」が挙げられているが、ピッタは「火・水」、カパは「水・地」、ヴァータは「風、空」からなるとされた。ドーシャは、サンスクリット語で「不純なもの」「増えやすいもの」「体液」「病素」などの意味である[54]。ドーシャは体液であると考えられ、また肉体のエネルギーと精神のエネルギーの両方を含む生体エネルギーであるとされる[55]

医学書『スシュルタ・サンヒター英語版』では、第4の体液として「血液」が挙げられ四体液説となっており[56]、古代インドとギリシャの医学には共通点が多い。古代インド医学の概念が、ペルシア経由でギリシアに伝わった可能性もあるといわれる[57]。『スシュルタ・サンヒター』をThe Sushruta Samhita に英訳したビシャグラトナー(Bhishagratna)は、伝わる過程でヴァータ(風)は除外され、胆汁が黄・黒に区別され、ギリシャの四体液説になったと推測している。

トリ・ドーシャと気質の関係

サーンキヤ哲学などを基礎とするアーユルヴェーダでは、体の健康を左右するトリ・ドーシャの他に、3つの性質トリ・グナとして、「サットヴァ(純粋性、純質)、ラジャス(動性、激質)、タマス(惰性、闇性、翳質)」が挙げられ、これは心の状態を左右するとされた。トリ・グナは、トリ・ドーシャと密接に関係していると考えられている[58]

ドーシャは、「同じ性質のものが同じ性質のものを増やす」という法則で変化する。動性のラジャスが増加すると、怒りやイライラがつのり、動性を持つドーシャ、ヴァータ(風)とピッタ(胆汁)を増加させる。安定性・惰性のタマスが増加すると、怠惰になり精神活動は停滞し、カパ(粘液)を増加させる。このように、ラジャスとタマスの増加は、心身の健康に悪影響を与える。

一方、トリ・グナのひとつであるサットヴァは純粋性を持ち、ドーシャ(不純なもの)を増大させることはない。サットヴァの増大はトリ・ドーシャのバランスを安定させ、精神的には愛情や優しさ、正しい知性をもたらす。このようにサットヴァは、心身の健康の基礎になっている。

ドーシャのバランスと治療

ドーシャのバランスは、体質(プラクリティ)、1日おける時間・季節・年齢、行動・食事・運動、環境、天体などによって左右されると考えられている。食べ物や薬草は、味自体がドーシャのバランスに影響し、それぞれ「熱性・温性・冷性」という性質(ヴィールヤ、薬力源)を持つ。また、各トリ・グナへ作用し、心の健康に影響をあたえる[59]

治療としては、増えすぎたドーシャ(体液)、アーマ(未消化物)、マラ(尿、便による排泄物)の要素を体の外に出し、浄化する減弱療法(排出療法)があり、パンチャカルマ(経鼻法)、催吐法、瀉下法、浣腸、発汗法、瀉血などが行われる。もう一つ、ドーシャのバランスを食事、薬、ヨガなどの調気法や行動によって元に戻す緩和療法(鎮静療法)がある[52]。 

 


ユーモアとヨガ以外は根本的解決法としてはダメダメなんですよ。(爆wwwwwwwwwwwww













7 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

> ユーモア

病は気からと言うように悪い事ばかり考えていても病気は快方には向かわんわけですwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
怒り狂って腹立ててばかりでは血管に良くないですしwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
まぁ現実を見ずに笑ってばっかでもダメなんですけどねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
あくまで補助的なもんでメインではないですからそれを全面に押し出したらあかん訳ですよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
トウガラシを主食にする奴はヴァカみたいな話ですねwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww

匿名 さんのコメント...

韓国の1日の感染者数が何十万人、
1日の死者数が何百人。

これ、日本にも来ますよw

GABRIEL さんのコメント...

>瀉血

中国まで留学して
鍼灸師やってる人
瀉血が良いDEATHって
実践していたな(苦www
内心ドン引きだったwww


個人的には
その際に傷を作るから
細胞性免疫が活性化され
生体の生理学的防御力上昇へ
そのトリガー効果でないのかな
などと思っていますたwww

匿名 さんのコメント...

リスカを流行らせた夜回り先生@カトリックww

花哥 さんのコメント...

death汁を自ら注入して行った皆さんを魔術の対象として有効活用するというブラックジョークを楽しむくらいの根性が無いと生き残れないかもな。

匿名 さんのコメント...

自称高貴な関西人には
怒りソースと
怒りスーパーで
です汁注入

ミネ さんのコメント...

ユーモアとヨガ以外 は不正解しかないの承知で

太文字にもなんもなってない冒頭の
>頭痛ではこめかみの血管を切開して、頭痛の軽減を図ろうとしたりする方向へ発展した

鬱屈がそうさせたんだね~と修道士の壊れっぷりをウホッとても言い現わしておるwwwwwwww
看過はムリ~👀ヒャッヒャッヒャーだゎ
マッドの仕込みLGBTほにゃららのもとっすな

宣教師のど根性加減考えるとやっぱ刃物持たせちゃダメよね

余談もいいとこだけ
大分昔、ヨガ話の中でてんこもりサンのピッタとか訊ね
なんじゃそれされたの思い出しますwwww

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