2017年8月9日水曜日

富士美町教会@日本基督教団からエスパー研究所経由でイエズス会まで芋づる式に











浜口 庫之助(はまぐち くらのすけ、1917年7月22日 - 1990年12月2日)は、日本のソングライター兵庫県神戸市出身。愛称はハマクラ府立四中卒業、早稲田大学中退。青山学院大学商学部卒業。パーカッショニストの浜口茂外也は子。元女優の渚まゆみは妻。
1917年兵庫県神戸市に生まれる。浜口の父は建設会社を経営する実業家で、家庭環境は非常に裕福だった。家族の多くが音楽好きで兄弟はチェロギターウクレレなどを嗜んだ。浜口自身も自然に音楽に親しんで育ち、5歳の時には楽譜を読めるようになった[1]
小学2年の時に一家は東京へ引っ越した。府立四中(現・東京都立戸山高等学校)に進学した浜口は旧制第一高等学校(現・東京大学教養学部前期課程)入学を目指し勉学に励んだが受験に失敗し、1935年早稲田大学高等予科(現・早稲田大学高等学院)に入学するが翌年に中退。
1936年、新宿にあった帝都ダンスホールのバンドボーイとなり、ギタリストとして活動した。当時の浜口は昼と夜に2つのバンドを掛け持ちしながらアメリカへ渡ってジャズの修行をすることを夢見ていた。この夢は翌1937年になって実現しかけたが、日中戦争の開戦が近いという情報を入手した友人に渡航中止を勧められて断念した[2]
渡航を断念した浜口は神戸製鋼所に就職したが社会人として働くには学歴が必要だと悟り退社。1939年に青山学院高等商学部(現・青山学院大学商学部)に入学した。当時の浜口はギター講師やスタジオ・ミュージシャンをして生活費を稼ぐ傍ら、大学内で慶應義塾大学立教大学など他大学の学生と一緒に「DooDooフライヤン」という名のバンドを組んで活動した[3]
1942年9月に青山学院高等商学部を繰り上げ卒業した浜口はジャワ島で農園を委託経営する会社に就職し、同島のマランへ赴任した。浜口は終戦まで同地に勤務し、商社の仕事の他に軍の依頼で現地の住民に歌を通して日本語教育を行う仕事も任された。
太平洋戦争終結後捕虜となり、1946年5月に引き揚げ[4]。東京でバンドを組み、進駐軍を相手に演奏を行った。
その後灰田勝彦の誘いを受けて灰田がメンバーを務めるハワイアンバンドのメンバーとなったり、自らも「スウィング・サーフライダーズ」や「アフロクバーノ」を結成して音楽活動を続ける[5]
1950年結婚、一男一女をもうける。長男はスタジオミュージシャンで、ラテンパーカッショニストとして日本屈指の存在である浜口茂外也
「浜口庫之助とアフロ・クバーノ」としては1953年から1955年まで3年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。(第4回第5回第6回を参照)
1957年、新宿コマ劇場で公演を行った海外の舞踊団が「郷土の芸術をお見せできるのは光栄なこと」と挨拶したのを見た浜口は、外国の音楽を演奏するのではなく日本の曲を創作することこそが重要だと認識するようになり、バンドを解散、歌手活動を停止し、作詞家作曲家へ転向。
1959年、「黄色いさくらんぼ」、「僕は泣いちっち」がヒットし、作詞家・作曲家として頭角を現すようになる。翌1960年に作詞した「有難や節」のヒット以降は社会情勢や大衆心理をとらえた作品作りを意識することで数々のヒット曲を生み出すようになった[6]
1960年代には数々のヒット曲を出し、ヒットメーカーと呼ばれるようになる。
1963年、妻、邦子と死別。
1965年、「愛して愛して愛しちゃったのよ」を歌った和田弘とマヒナスターズビリーバンバン西郷輝彦にしきのあきらなど自らの弟子をスターに育て上げるなど人材育成にも才能を発揮。
1966年、「星のフラメンコ「バラが咲いた」日本レコード大賞第8回)・作曲賞を受賞。以降、1972年石原裕次郎の「恋の町札幌」に至るまでヒット曲を世に送り続けた。
1973年に女優の渚まゆみと再婚。一女を儲けた。
晩年の1987年には、島倉千代子に楽曲提供した「人生いろいろ」(作詞:中山大三郎)が大ヒット、翌1988年には日本レコード大賞・最優秀歌唱賞を受賞。また島倉は1987年末の第38回NHK紅白歌合戦を「卒業宣言」して出場辞退したが、当時病気療養中の浜口に対して、島倉は「私が歌う姿を見て元気になって欲しい」と思い直し、1988年暮れの第39回NHK紅白歌合戦に2年ぶり31回目の紅白復帰を決意し、「人生いろいろ」を歌唱した。

大衆のために歌を作るという浜口の思いは強く、1990年には文化庁から叙勲(勲四等)の打診があった際には「勲章のため曲を作っているのではない」という思いから辞退した。
1990年12月2日喉頭ガンの為、癌研究会附属病院にて逝去。73歳没。クリスチャンであったため、葬儀は東京都千代田区飯田橋富士見町教会で営まれた。



渚 まゆみ(なぎさ まゆみ、本名:浜口真弓(旧姓 田代)、1944年10月10日 - )は、日本女優歌手
東京都出身。高校中退後、1961年に映画『夕やけ小やけの赤とんぼ』(島耕二監督)で主演デビュー[1][2]大映の新人スターとして売り出される。芸名の「渚まゆみ」は作曲家の山田耕作が命名した[1][2]
青春映画ヤクザ映画時代劇など実に幅広いジャンルの映画に数多く出演した。また、歌手としても活動した。
1973年浜口庫之助と年齢差27歳の結婚をして事実上引退[2]、翌年に長女を出産した。
1990年に浜口が他界した後は、サスペンスもののテレビドラマなどに出演するようになっている[2]

現在は娘夫婦と孫がいるロンドン六本木の自宅を往復する生活を送っている。



主な教会員

ja.wikipedia.org/wiki/富士見町教会







人体科学会(じんたいかがっかい, Society for Mind-Body Science)とは、東西の文明の古い英知を現代において問い直すという立場から[1]1991年11月に作られた学術団体である。現在は日本学術会議協力学術研究団体[1]。従来の学問分野の境界を越えて、文科系から医療体育系、理工系まで総合した観点に立ち、各学系総力で未知の領域(身体・気・意識・霊性など)の洞察を深め、人間の本質を探究し、将来の世界における思想的理念を求めてゆくことを目標とする[1]。会員には物理学者や科学哲学者から東洋医学者、超心理学者、宗教家まで非常に幅広い専門家が名を連ねている。代替医療超心理学気功など、科学の枠を超えた分野をも研究対象としている。
学術誌「人体科学」(Journal of Mind-Body Science、査読あり)を年に1・2回、機関誌「Mind-Body Science」を年1回発行している。

概要

人体科学会の活動は13の領域が示されている[1]。その領域は以下のとおり、科学の枠にとどまらず、文化宗教までを含む。
  1. 生命科学・物理科学の先端的知見に基づいた生命現象の本質の研究
  2. 深層心理学、心身医学、精神医学などを総合した心身相関の研究
  3. 心身と環境の相互関係及び風水の研究
  4. 身体観について東洋医学の理論的・実験的研究
  5. 禅・ヨーガなど東洋の伝統的修行法の生理・心理的研究および生体への影響の研究
  6. 気エネルギーに関する実験科学的および理論的研究
  7. 霊性(スピリチュアリティ)に関する研究
  8. 超心理現象・潜在能力に関する総合的研究
  9. ホリスティック医学・統合医学の確立を目指した研究
  10. 心身の健康および体力の保持・増進のための実践活動の研究
  11. スポーツ・芸術・教育・文化の領域における能力開発の研究
  12. 西洋の分析的発想と東洋の総合的発想との融合
  13. 人類の宗教意識についての研究

人体科学会の設立の際にはソニー井深大が期待の言葉を寄せている[2]

人体科学会事務局

東京都千代田区三崎町3-1-11 瀬川ビル3F(2016年時点)


主な役員

【初代会長】
【二代目会長】
【元会長】
【会長】
【副会長】
【常任理事】
【理事】
【監事】
【顧問】
【元顧問】

学会出版書籍




上智大名誉教授の門脇佳吉さん死去
2017年7月28日19時57分

門脇佳吉さん(かどわき・かきち=上智大名誉教授・西洋中世哲学)が27日、膵(すい)頭部がんで死去、91歳。通夜は8月1日午後7時30分、葬儀は2日午後1時30分から東京都千代田区麴町6の5の1のカトリック麹町聖イグナチオ教会で。喪主はイエズス会上石神井修道院のクスマノ・ジェリー神父。

仏教とキリスト教の比較研究などで知られ、06年に瑞宝小綬章を受章した。

http://www.asahi.com/articles/ASK7X5R34K7XUTIL046.html



、、、(爆wwwwwwwwww


おまけ


片山 (かたやま てつ、1887年(明治20年)7月28日 - 1978年(昭和53年)5月30日)は、日本弁護士政治家位階従二位勲等勲一等
社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(12期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本社会党委員長(初代)、内閣総理大臣(第46代)、民主社会党常任顧問などを歴任した。
和歌山県田辺市に生まれる。和歌山県立田辺中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)、第三高等学校(現・京都大学)を経て、一家で同郷の人物で「軍艦行進曲」の作詞者・鳥山啓宅に寄宿、東京帝国大学法学部独法科卒業。卒業後YMCA寄宿舎の一室を借りて「簡易法律相談所」を開設、弁護士として活動した。
社会民衆党の結成に参加し、書記長に就任した。1930年(昭和5年)の第17回総選挙旧神奈川2区から出馬して初当選。以後非連続ながら当選12回を数えた。1932年の社会大衆党の結成に参加し、同党では中央執行委員会の委員などを務めた。無産政党の運動の流れとしてはいわゆる「社民系」として活動し、安部磯雄西尾末広らと共に反軍演説をした斎藤隆夫の除名決議では不登院という形で棄権するなどした。しかし、これを理由として社会大衆党を除名され


1945年(昭和20年)に日本社会党が結成されると書記長に就任、翌年には日本社会党委員長に選出された。1947年(昭和22年)の第23回総選挙で日本社会党が143議席を獲得し、衆議院で比較第一党となる。これを受けて衆議院の首班指名選挙では、420議員が片山に投票し、片山が内閣総理大臣となる。この首班指名選挙では2位が吉田茂齋藤晃の1票のみであったため、片山が獲得した420票と2位との差が419票差という記録は、衆議院における首班指名選挙としては最高記録である。
片山は民主党国民協同党と連立内閣を組閣する。しかし、保守との連立政権のため閣内の意見がまとまらず、親任式当日までに閣僚が決まらずに片山が全閣僚を兼任して親任式に臨み、一人内閣でしのいだ。閣僚が決まった後も鈴木茂三郎ら党内左派の突き上げが続き、また終始GHQの言いなりであったため「グズ哲」とあだ名された

  • 著訳書は戦前から数えると約40冊あるが、愛読していた唐代の詩人白居易の著訳書を、岩波新書現代教養文庫で出している。また、安部磯雄伝を毎日新聞社で出している。
  • カナモジカイや「言語政策を話し合う会」に参加するなど、国語国字問題にも熱心に取り組んだ。
  • 姉の寿々代は鳥山啓宅に寄宿していた縁で、のちに鳥山啓の三男・鳥山嶺男と結婚している。
  • 明治時代の代表的な社会主義運動家・片山潜との縁戚関係はない。
  • 宮城県議会議員、また日本社会党宮城県本部委員長や日ソ協会宮城連合会長を務めた三春重雄とは義理の甥の親戚関係にあたる。


鳥山 啓(とりやま ひらく、天保8年8月25日1837年9月24日) - 大正3年(1914年2月28日)は、紀伊田辺藩(現和歌山県田辺市)出身の博物学者、教育者、作詞家南方熊楠の恩師であり、「軍艦(軍艦行進曲)」の作詞者としても知られる。
天保8年8月25日(1837年9月24日)、田辺の大庄屋田所佐平の次男として生まれる。幼名は象次郎。名を為助[1]を明郷とした[2]。田辺藩士鳥山純昭の養子となり、藩主安藤直裕の近従として召し出される[3]。8歳の頃から真砂丈平から漢学を、医師石田三郎から本草学を学び、15歳からは和歌山に出て本居内遠と熊代瑞穂に就き国学を修め、その傍らで天文学科学地理学英学なども幅広く学んだ[2]。これらの勉学の甲斐あってか博識の覚えめでたく、直裕より「啓」の名前を賜った[2]慶応2年(1866年)からの第2次長州征伐には砲兵隊の一員として参加[4]する傍ら、斥候の任務にも就いた[5]。部隊は石州口で毛利元純大村益次郎が率いる長州軍と戦ったものの、弾薬を使い果たして退却し、直裕は総督の任を解かれる事態となった。廃藩置県直前には、同志とともに藩政改革を主張して直裕に直訴したこともあった[6]
明治維新後は神戸のイギリス領事館で勤務したこともあったが、脚気を患い田辺に戻った[4]。その後は田辺藩校で英語を教えたのを振り出しに教育者として活躍。和歌山中学校時代には理科や国学なども教えるようになった。この頃、南方熊楠に博物学を教え、熊楠はこの事を後々まで感謝していた[7]。明治19年(1886年)、上京して華族女学校教授に就任。和歌山時代と同様に理科や国学を教えた。明治39年(1906年)に華族女学校と学習院が合併して学習院女学部になったのを契機として職を辞し、番町の自宅で余生を過ごした[4]
大正2年(1913年)末に脳溢血で倒れ、以降は寝たきりとなった。翌大正3年(1914年)1月、海軍省教育局は軍歌集『海軍軍歌』を発布。『海軍軍歌』の編纂にあたった海軍軍楽師瀬戸口藤吉は、「軍艦」を『海軍軍歌』に収録する許可を得るため、『海軍軍歌』発布後に鳥山家を訪問。しかし、重態のため代わりに三男の鳥山嶺男が応対して収録の許可を出した[8]。2月28日、自宅で以下の辞世を認めた後没した。
草に木に 虫に鳥にも なりぬべし 十まり四つの 元にかへらば
「十まり四つの元」というのは元素を指し[9]、「自分が死んだら元素に分解され、それらがやがて草や木、虫、鳥となるだろう」というのが谷村政次郎の解釈である[7]

人物

博物学者としての系統は小野蘭山直系とも[10]、蘭山の孫弟子である源伴存(畔田 翠山)系とも[11]される。
自作の測量器具で測量を行い、たまたま測量のため田辺湾に来航したイギリス軍艦の乗組員に測量器具を見せて驚かせた事があった[4]絵画も巧みで、絵画は授業の際には両手を使って描いた事があり[4]、歌もあらゆる機会をとらえるたびに吟じていた[4]。手がけた歌のジャンルも幅広く、和歌長歌琵琶歌軍歌などに及んだ[12]。軍歌のジャンルでは、「軍艦」の他には日清戦争の頃に作った「黄海の戦」(山田源一郎作曲)がある[13]

その他

瀬戸口と応対した三男の鳥山嶺男は北海道帝国大学で教鞭を執った事があり、その妻である美々代は、第46代内閣総理大臣片山哲の4つ上の姉である[14]。片山家は明治23年(1890年)に一家で上京した際、番町の鳥山家に世話になった[14]



、、、(爆wwwwwwwwwww

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

君に薔薇薔薇・・・という感じ
https://m.youtube.com/watch?v=XtupLqi1HA0

匿名 さんのコメント...

バラ塾w

匿名 さんのコメント...

猿の惑星 日本版主題歌

匿名 さんのコメント...

親戚にあたるんですがエスパー研究所の存在は知りませんでした
そう、先祖に日本基督教団に最後まで熱心に活動していた人がいたんですが
なぜ突然キリスト教にかぶれてあの時代に海外に行ったり、
兄弟まで巻き込まれたかも謎でした
1人は社会主義に走ってしまって変死でそれも謎だったんです
日本基督教団の正体は読んで驚きですね マジ基地!
謎がひとつひとつ解明されて団長に感謝です

何も知らないときたまたま行った留学先が偶然ご先祖様と同じ州だったり
ヴァチカンだけは行かなくちゃと思ったのは
よばれたのか?

今度ヴァチカンに行ったら門の前でうんこして帰りたい気分ですわ