2016年7月30日土曜日

花園神社の名誉宮司、片山文彦氏が死去

2016.7.29 22:49更新
花園神社の名誉宮司、片山文彦氏が死去

片山文彦氏(かたやま・ふみひこ=花園神社名誉宮司)16日、脳出血のため死去、79歳。近親者で密葬を行った。8月26日午後2時、東京都新宿区新宿5の17の3、花園神社で花園神社葬を開く。喪主は妻、順子(じゅんこ)さん。

平成8年から13年まで、産経新聞のコラム「語る」の執筆陣に加わっていた。
http://www.sankei.com/life/news/160729/lif1607290038-n1.html


片山 文彦(かたやま ふみひこ、1936年 - )は、東京都生まれの神職花園神社宮司[1]医師医学博士[2]。神道時事問題研究会を主催[3]
1936年、東京都新宿区に生まれる。昭和医科大学卒業、東京女子医科大学大学院修了(衛生学教室)。國學院大學神道研修別科修了。

東京女子医科大学講師、立教大学講師、國學院大學講師を歴任。







花園神社(はなぞのじんじゃ)は、東京都新宿区にある神社である。旧社格郷社倉稲魂命(花園神社)・日本武尊(大鳥神社)・受持神(雷電神社)の3柱の神を祀る。現在の宮司は片山文彦
新宿の街の中心にあり、新宿総鎮守として江戸時代内藤新宿が 開かれて以来の、街の守り神として祀られている。また敷地内では各種劇団による催し物などが定期的に開かれ、新宿の街の文化の一翼も担っている事でも知ら れている。朱塗りの鮮やかな社殿は、参拝客の他、休憩場所や待ち合わせ場所として使われ、当社に人影が途絶える事がない。

由緒

創建の由緒は不明であるが、徳川家康江戸に入った1590年にはすで存在しており、大和国吉野山よりの勧請と伝えられている[1]。その後、当地に内藤新宿が開かれるとその鎮守として祭られるようになった。
元は現在地よりも約250メートル南にあったが、寛政年 間、その地を朝倉筑後守が拝領しその下屋敷の敷地内となって参拝ができなくなった。氏子がその旨を幕府に訴えて、尾張藩下屋敷の庭の一部である現在地を拝 領し、そこに遷座した。そこは多くの花が咲き乱れていた花園の跡であることから「花園稲荷神社」と呼ばれるようになったと伝えられる。また、真言宗豊山派愛染院の別院・三光院の住職別当を勤めたことから「三光院稲荷」とも、地名から「四谷追分稲荷」とも呼ばれた[1]
明治に入ると村社に列格したが、その際、名称は単に「稲荷神社」となった。一説には届出の際に「花園」を書き忘れたという[1]1916年(大正5年)1月25日に東京府知事に対し改名願を出し、同年2月26日に許可され「花園稲荷神社」に改称した[1]1928年(昭和3年)、現新宿4丁目にあった雷電稲荷神社(雷電神社/祭神:受持神)を合祀、郷社に昇格した。1965年(昭和40年)、現在のコンクリート製の本殿に建て替えられ、その際に末社・大鳥神社(祭神:日本武尊)を本殿に合祀し、社名を「花園神社」に改めた[1]

境内社

末社

  • 三社稲荷神社(新宿2丁目16番2号) - 2005年(平成17年)1月、威徳稲荷神社に合祀され現存せず。
  • 雷電稲荷神社(新宿4丁目4番23号) - 祭神は受持神1928年(昭和3年)に合祀された雷電稲荷神社の跡地にその後鳥居と祠が再建・維持され、「雷電稲荷神社」として存続。境内には弁才天も祀られている。
  • 唐獅子像 一対 - 新宿区指定有形文化財(彫刻)

事件


  • 2012年12月11日午前4時半頃、境内でハンマーによる殴打殺人があり、頭から血を流して死亡している被害者(26)が発見された。被害者の遺体はイチョウの落ち葉で隠されていた。犯人は同日逮捕された[2]


芸能浅間神社(げいのうあさまじんじゃ)は、東京都新宿区にある花園神社の境内摂社である。

本殿

富士塚の上に位置することが特徴であり、主に富士講で繁栄した浅間神社である。しかし全国の浅間神社の中でも、「芸能」に関わりのある例は珍しい。

芸能関係

この神社は敷地内には芸能人の奉納者の名前が多く並んでおり、芸能人との関わりが深い。八代亜紀1981年(昭和56年)に奉納している[1]社号標の他、敷地内には、藤圭子の『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑が建立されている。(げいのうあさまじんじゃ)は、東京都新宿区にある花園神社の境内摂社である。


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