2016年4月20日水曜日

倭迹迹日百襲姫命と桃太郎と丹波篠山と鳥居敬規さん

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族(王族)。
第7代孝霊天皇皇女で、大物主神三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される[1]名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「」、「ソ」は「」の意味と見られ、「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある[2][3]
なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は諸説で百襲姫と同一視される[4]。また本居宣長は『古事記伝』において、『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる[1]

第7代孝霊天皇と、倭国香媛(やまとのくにかひめ、意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>/絚某姉<はえいろね>/蠅伊呂泥<はえいろね>)との間に生まれた皇女である[1]
同母兄弟として、『日本書紀』によると彦五十狭芹彦命(比古伊佐勢理毘古命/吉備津彦命/大吉備津日子命)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命(日本書紀なし)の名を記載する。
『日本書紀』では、百襲姫は大物主神三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという[1]


記録

日本書紀崇神天皇7年2月15日条では、国中で災害が多いので天皇が八百万の神々を神浅茅原(かんあさじはら:比定地未詳[注 1])に集めて占うと、大物主神が百襲姫に神憑り、大物主神を敬い祀るように告げたという[1]
同書崇神天皇7年8月7日条では、倭迹速神浅茅原目妙姫・大水口宿禰穂積臣遠祖)・伊勢麻績君の3人はともに同じ夢を見て、大物主神と倭大国魂神大和神社祭神)の祭主をそれぞれ大田田根子命市磯長尾市にするよう告げられたといい、同年11月13日条ではその通りにしたところ果たして国内は鎮まったという。この「倭迹速神浅茅原目妙姫」は百襲姫と同一視される[1][4][注 2]

また同書崇神天皇10年9月27日条では、四道将軍の1人の大彦命が和珥坂(現・奈良県天理市和 爾町)で不思議な歌を詠う少女に出会う。 少女は詠う 「ミマキイリビコはや おのが命を死せんと ぬすまく知らぬに 姫遊びすも」。 大彦命は気になって尋ねる「なんじが言は何辭ぞ」。 少女は答える「物言はず、ただ歌うのみ」。 少女はもう一度同じ歌を詠うと姿を消した。

大彦命は引き返してこのことを天皇に報告した。百襲姫はこれを武埴安彦とその妻の吾田媛による謀反の前兆であると告げ、果たして謀反は起こったが鎮圧されたという[1]。この説話部分は、前後の記述関係から某かの神が童の口を借りて詠わせたともとれる内容である。

続けて、同書では百襲姫による三輪山伝説・箸墓伝説が記される。これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に 姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたため百襲姫は死んでしまい、大市に葬られた。時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝え、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという[1]
古事記』では母母曽毘売(百襲姫)の事績に関する記載はない。同書では、三輪山の伝説は意富多々泥古(大田田根子)と活玉依毘売(活玉依媛)の説話として語られている[1]

なお、『多氏古事記』逸文[5]においても「倭迹迹媛皇女」と大三輪大神との神婚譚が記されている[1]

倭迹迹日百襲姫命の墓は、宮内庁により奈良県桜井市箸中にある大市墓(おおいちのはか、位置)に治定されている[6][7]。公式形式は前方後円。考古学名は「箸墓古墳(箸中山古墳)」。墳丘長278メートルで、全国第11位の規模を誇る前方後円墳である。
前述のように『日本書紀』では百襲姫は「大市」に葬られ、人々はこれを「箸墓」と称したと記されている[8]。墓は同書天武天皇元年(672年)7月23日条において「箸陵」とも見えるが、『延喜式諸陵寮諸陵式)では記載を欠いている[8]。上記古墳を箸墓に比定する伝承は幕末まであり、慶応元年(1865年)4月には営築とともに長役・守戸の付置があった。また明治8年(1875年)に墓域が国有地として買収され、明治19年(1886年)に拝所・参道用地も買収、明治21年(1888年)に修営された[8]

この箸墓古墳は、全国の古墳で最古級の3世紀中頃の築造と推定されており、邪馬台国畿内説の立場から、『魏志倭人伝に見える「径百余歩」という卑弥呼の冢に比定する説がある(詳細は「箸墓古墳」を参照)。しかし『日本書紀』・『古事記』およびその原史料の『帝紀』・『旧辞』の編纂段階では、すでにヤマト王権の初期王陵とする伝承が失われ、新たな意味付けがなされている点が注目されている[9]。その中で、王族の墓は大宝令以後に「陵」から「墓」と称されるようになった点、箸は7世紀以降から支配層で一般的に使用されるようになった点、および『播磨国風土記』揖保郡立野条において箸墓伝承と同様の説話が見える点などから、元々は土師氏の伝承であったのが新たに三輪山伝承に付加されたとする説があり、加えて「はしはか」の墓名も「土師墓(はじはか)」に由来すると指摘される[9]

『日本書紀』の記す伝承は、人と蛇神との三輪山型(苧環型)の神婚を表すとともに、妻問婚の習俗を表すとされる[3][1]。また、『古事記』での活玉依媛伝承のように神・人が結ばれて子が産まれる型(神人交流型)ではなく、別離し死去する(神人隔絶型)であるという特徴を持っている[3]
また百襲姫の地位・巫女的性格から、『魏志倭人伝に見える卑弥呼を百襲姫に、卑弥呼の男弟を崇神天皇にあてる説や、前述のように箸墓古墳を卑弥呼の墓とする説がある[1](詳細は「卑弥呼#倭迹迹日百襲媛命説」を参照)。

信仰


上記の通り彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の姉神として扱われるため、旧吉備国の周辺地域(主には備前国備中国備後国讃岐国)に根強い吉備津彦信仰において女性の守護者ないしは水神として祀られる事が多い。特に讃岐国一宮である田村神社では地域の水神と習合し、主祭神として扱われている。






第7代孝霊天皇と、倭国香媛(やまとのくにかひめ、絚某姉<はえいろね>/意富夜麻登玖邇阿礼比売命<おほやまとくにあれひめのみこと>)との間に生まれた皇子である。
同母兄弟として、『日本書紀』によると倭迹迹日百襲媛命(夜麻登登母母曽毘売)、倭迹迹稚屋姫命(倭飛羽矢若屋比売)があり、『古事記』では2人に加えて日子刺肩別命の名を記載する。異母兄弟のうちでは、同じく吉備氏関係の稚武彦命(若日子建吉備津日子命)が知られる。

子に関して、『日本書紀』『古事記』には記載はない。



記録

日本書紀崇神天皇10年9月9日条では、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命東海に派遣される武渟川別丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている[1]
同書崇神天皇9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという[1]
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別とは出雲振根を誅殺している[1]
古事記』では『日本書紀』と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国平定を果たしたという[1]。崇神天皇段では派遣の説話はない[2]

墓・霊廟

墓は、宮内庁により岡山県岡山市北区吉備津にある大吉備津彦命墓(おおきびつひこのみことのはか、位置)に治定されている[3]。公式形式は前方後円。考古学名は「中山茶臼山古墳」で、吉備の中山の頂に位置する墳丘長約120メートルの前方後円墳である。この古墳については、崇神天皇陵の行燈山古墳奈良県天理市)とほぼ2対1の相似形であるという指摘がある[4]
また、吉備の中山の麓の吉備津神社岡山県岡山市備中国一宮位置)は、国史にも見える吉備津彦命の霊廟として知られる。同社の国史での初見は『続日本後紀承和14年(847年)10月22日条で、「吉備津彦命神」に対して従四位下の神階が授けられたというが、のちに神階は位階(○位)から品位(○品)へと変わり、貞観元年(859年)1月27日に二品まで昇っている[5]。品位(一般には親王に対する位)を神階に使用する例は少なく、全国でも吉備津彦命のほか八幡神・八幡比咩神(大分県宇佐市宇佐神宮)、伊佐奈岐命(兵庫県淡路市伊弉諾神宮)の4神のみで、吉備津彦命と一般諸神との神格の違いが指摘される[6]。この吉備津神社社伝では、吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くなり山頂に葬られたという。
以上の吉備津神社の存在から、吉備津彦命が古くは「吉備政権」構成諸部族から始祖に位置づけられたとする説もある[1]。また吉備の中山の北東麓では、同じく吉備津彦命を祀る吉備津彦神社(岡山県岡山市、備前国一宮)が知られる。

後裔

氏族

日本書紀』では吉備津彦命の後裔氏族に関する記載はなく、弟の稚武彦命吉備臣(吉備氏)祖とする[2]。一方『古事記』では、吉備津彦命を吉備上道臣の祖、稚武彦命を吉備下道臣・笠臣の祖とする[2]
また『続日本紀天平神護元年(765年)5月20日条では、播磨国賀古郡(加古郡)の馬養造人上が吉備都彦苗裔の上道臣息長借鎌の子孫であると言上しており、「印南野臣」が賜姓されている[1]
新撰姓氏録』では、次の氏族が後裔として記載されている。
  • 和泉国未定雑姓 椋椅部首 - 吉備津彦五十狭芹命の後。

国造

先代旧事本紀』「国造本紀」では、次の国造が後裔として記載されている。

伝承・信仰

上述の吉備津神社岡山県岡山市備中国一宮)の縁起として、吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・おんら)というを討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社のの下に封じたという。この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている(詳細は「温羅」を参照)。
この伝承では、温羅は討伐される側の人物として記述される。しかし、吉備は「真金(まかね)吹く吉備」という言葉にも見えるように古くからの産地として知られることから[9]、温羅は製鉄技術をもたらして吉備を繁栄させた渡来人であるとする見方や[10]、鉄文化を象徴する人物とする見方もある[11]。また、吉備津神社の本来の祭神を温羅と見る説もあり、その中でヤマト王権に吉備が服属する以前の同社には吉備の祖神、すなわち温羅が祀られていたとし、服属により祭神がヤマト王権系の吉備津彦命に入れ替わったと指摘されている[12]
全国の吉備津彦命を祀る代表的な神社は次の通り。

  • 吉備津神社(岡山県岡山市) - 備中国一宮。吉備津彦信仰の総本社。
  • 吉備津彦神社(岡山県岡山市) - 備前国一宮。
  • 吉備津神社広島県福山市) - 備後国一宮。
  • 田村神社(香川県高松市) - 讃岐国一宮。
  • 吉備津神社 - 岡山県周辺に分布。
  • 御崎神社(みさきじんじゃ/おんざきじんじゃ) - 岡山県周辺に分布。
  • 艮御崎神社(うしとらみさきじんじゃ/うしとらおんざきじんじゃ) - 岡山県周辺に分布。


丹波道主命(たんばのみちぬしのみこと/たには-、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本皇族(王族)。
日本書紀』では「丹波道主命」「丹波道主王」、『古事記』では「丹波比古多多須美知能宇斯王(たんばひこたたすみちのうし/たには-)」と表記される[1]

第9代開化天皇の孫で、第12代景行天皇の外祖父である。四道将軍の1人で、丹波に派遣されたという。

日本書紀』垂仁天皇条によれば、丹波道主命は第9代開化天皇皇孫である[1]。父は開化天皇皇子の彦坐王(ひこいますのみこ)とするが、開化天皇の別皇子である彦湯産隅命(ひこゆむすみのみこと)を父とする別伝も掲げている[1]
古事記』開化天皇段では、父は日子坐王(彦坐王)、母は天之御影神の女の息長水依比売娘(おきながのみずよりひめ)であるという[1]。また同母弟妹として、水之穂真若王(近淡海安直の祖)、神大根王(八瓜入日子王:三野国本巣国造で、長幡部連の祖)、水穂五百依比売、御井津比売の記載が見える。うち神大根王は、『先代旧事本紀[原 1]では三野前国造の祖であるという。
妻子に関しては、『日本書紀』では妻の記載はなく、子に日葉酢媛・渟葉田瓊入媛・真砥野媛・薊瓊入媛・竹野媛がいるという。『古事記』では、開化天皇段では妻を丹波之河上之摩須郎女(た んばのかわかみのますのいらつめ)として子を比婆須比売命・真砥野比売命・弟比売命・朝廷別王とする記載が見えるほか、垂仁天皇序段では子として氷羽州比 売命・沼羽田之入毘売命・阿邪美能伊理毘売命、後段では子として比婆須比売命・弟比売命・歌凝比売命・円野比売命の記載が見える。
  • 妃:丹波之河上之摩須郎女(日本書紀なし)
    • 日葉酢媛命(日本書紀。古事記:比婆須比売命/氷羽州比売命) - 第11代垂仁天皇皇后で、第12代景行天皇や倭姫命等の母。
    • 真砥野媛(日本書紀。古事記:真砥野比売命/円野比売命) - 丹波之河上之摩須郎女の子。垂仁天皇妃。
    • 弟比売命(古事記。日本書紀なし) - 丹波之河上之摩須郎女の子。垂仁天皇に召し上げ。
    • 朝廷別王(古事記。日本書紀なし) - 丹波之河上之摩須郎女の子。三川穂別の祖。
  • 妃:記載なし
    • 渟葉田瓊入媛(日本書紀。古事記:沼羽田之入毘売命) - 垂仁天皇妃。
    • 薊瓊入媛(日本書紀。古事記:阿邪美能伊理毘売命) - 垂仁天皇妃。
    • 竹野媛(日本書紀。古事記なし)
    • 歌凝比売命(古事記。日本書紀なし)

記録

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では丹波道主命を丹波に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命東海に派遣された武渟川別西道に派遣された吉備津彦命とともに「四道将軍」と総称されている[1]。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
また同書垂仁天皇5年10月条によると、皇后の狭穂姫命が兄の狭穂彦王の謀反にあたって自殺する直前、天皇に丹波道主命の女5人を後宮に入れることを進言した[1]。その後5人のうち竹野媛は本国に返されたが、日葉酢媛命は後皇后となり景行天皇倭姫命らを産んだという[1]
一方『古事記』では、丹波に派遣されたのは丹波道主命ではなく父の日子坐王(彦坐王)とされ、事績に関する記載はない。

丹波道主命に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、兵庫県篠山市東本荘にある宮内庁の雲部陵墓参考地(くもべりょうぼさんこうち、位置)では、丹波道主命が被葬候補者に想定されている[2]。考古学名は雲部車塚古墳。墳丘長約140mで、丹波地方では最大の前方後円墳である。

伝承


京都府京丹後市久美浜にある神谷太刀宮神社式内社)では、丹波道主命が祭神として祀られており、かつて丹波道主命が佩いた宝剣「国見の剣」を祀ったと伝える[3]。また、その剣名から「国見」「久美」となり「くみのみなと」「くみの見谷」「くみの浜」などの地名が生じたとも伝える。















、、、(爆wwwwwwwww

2 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

やっぱり酒、鬼、薔薇、ですかそうですかw
儀式の生け贄だったのね🎵

匿名 さんのコメント...

>上田

上田 秋成 家
上田秋成の養父 もと丹波柏原藩の武士(多田源氏)、丹波国氷上郡上田(かみた)の出、らしい。

~丹波柏原藩 信州の蚕
馬鳴神社@高座神社( 丹波市青垣町東芦田2283)
しかし村民の1人が神のお告げにて蚕を飼うことを勧められ、蚕の種を信州小室より持ち帰り、氷上郡青垣町佐治の地方に桑を植えて養蚕業を営んだ。
境内の馬鳴神社は芦田某が信州上田(現 長野県上田市)より持帰り丹波地方で初めて飼胥した蚕種の守神で、蚕の宫として知られる
 http://arinomiya.com/grounds/  
 https://books.google.co.jp/books?id=XAE0AQAAIAAJ  
 http://jinja.kojiyama.net/?p=17398
 信州小室 芦田 東芦田
 http://www.joukaku.com/komuro.html

site:tokumei10.blogspot.com 上田
site:tokumei10.blogspot.com 上田 丹波

余談
>神社 祭神 開化天皇
site:tokumei10.blogspot.com 上田正昭 
小幡神社 京都府亀岡市曽我部町穴太宮垣内
豊岡市 上田市 姉妹都市
(1706年の出石藩主 松平忠徳と上田藩主 仙石政明とのお国替え)