タッキー&翼、修復不可能な「不仲」で活動休止も解散しない理由
「もとより仲がよかったわけではないですからね。結成のときも“タッキーたっての希望で翼とデビュー”とされましたが、滝沢さんはソロデビューする気満々だったとも。
楽屋でもほとんど口をききませんし、“方向性の違い”と言えば聞こえはいいですが、完全に不仲が原因と言っていいと思いますよ。
解散という選択肢も出てきたようですが、さすがに思いとどまったようですね」(芸能プロ関係者)
9月11日のデビュー15周年を迎える前に、突然の活動休止が発表された滝沢秀明と今井翼によるデュオ、タッキー&翼。18日放送の『ミュージックステーション ウルトラFES2017』(テレビ朝日系)が“最後”のステージになるという。
'02年のデビューから15年たった今年、それぞれソロ以外の仕事は皆無だったタキツバ。すでにコンビは“崩壊”していたのかもしれない。
「Jr.時代は、嵐や関ジャニ∞、山下智久らがそろった中でも、ジャニー喜多川社長のお気に入りということもあってか明らかに格上だったタッキー。
一方で'95年の共演番組から彼と“怪談トリオ”を組んでいた翼ですが、メンバーひとりの脱退で浮いた存在になってしまった。そこで当時、翼を寵愛していたメリー喜多川副社長の意向も働いて、コンビ結成にこぎつけたそうです」(アイドル誌編集者)
華々しくデビューを飾ったふたりだが、以後は思うような結果を残せなかった。一方で、王道アイドルとして代表作 『滝沢歌舞伎』で毎年、舞台に立ち続けるタッキーに対して、翼はスペインに渡ってフラメンコを学ぶなど迷走しているようにも見えた。
そして'14年11月、翼は厚生労働省が特定疾患に指定しているメニエール病であることが明らかになった。
「患っていた突発性難聴の症状が改善されず、再検査で診断されたようです。同年のタキツバコンサートには出演できず、タッキーがひとりでステージに立ちました。
その後、治療を経て音楽活動こそ再開した翼ですが、昨年には激太りがウワサされました。もしかしたら病気が再発し、治療薬の副作用だったのかもしれません」(テレビ局関係者)
ストレスも大きな発症原因とされているメニエール病。翼はコンビ結成後から、ストレスに苛まれていたのかもしれない。そして昨年10月、それが“爆発”したという。
「『週刊文春』報道では、銀座のクラブで泥酔して“滝沢は自由だ。事務所の恩恵を受けている”などと愚痴り、さらに“SMAP解散はメリーさんのせいだ。俺は事務所を辞めるしかない”とまで言い放ったとされています」(芸能レポーター)
コンビ活動の話し合いは約1年前から始まったとされるだけに、この事件も大きく影響したのだろうか。もはや修復不可能にも思えるふたりだが、解散ではなく休止にとどまったのはなぜだろうか。
「ソロ活動が行き詰まったときに、戻る場所を残しておけば“涙の復活”が打てますし、ファンクラブ消滅で会費を逃すことは、SMAPの例もあって事務所としても得策ではないからですよ。
それにしてもSMAP騒動にしても、ファン置いてけぼりで結果を受け入れろ、ですからね。ファンたちもほとほとあきれているのでは?」(芸能プロ幹部)
説明責任は9月18日の『Mステ』で果たす?
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170911-00010580-jprime-ent
9/11(月) 22:30配信
今井 翼(いまい つばさ[1]、1981年10月17日[1] - )は、日本の俳優、タレント、歌手で、タッキー&翼としても活動している。
神奈川県出身[1]。ジャニーズ事務所所属。
- 1995年にジャニーズ事務所に入所。滝沢秀明と屋良朝幸とは同期で入所日が同じ[3]。
- ジャニーズJr.時代、櫻井翔とユニット「翼翔組」を組む。[4]
- 2002年9月に滝沢秀明とユニット「タッキー&翼」を結成した。[4]
- 2005年、「ハットグランプリ2005」で男性の部を受賞[5]。
- 2010年2月24日、シングル『BACKBORN』でソロデビュー。
- 2012年6月14日、世界初のスペイン文化特使に就任[6]。
- 2012年12月、バーンザフロア日本公演にて、日本人初のスペシャルゲストダンサーを務める[7]。
- 2013年4月26日、日本大学国際関係学部にてジャニーズ事務所所属タレントとして初となる大学の特別講義(スペイン語)を行った[8]。
- 2013年5月21日、駐日スペイン大使館で開催されたスペインのブランド・ロエベのファッションショーに出席し、スペイン語で日本スペイン交流400周年のプレオープニング宣言を行った[9][10]。
- 2013年6月11日、スペイン・マドリードの王立劇場でスペイン訪問中の皇太子とスペイン国王フェリペ6世(当時は王太子)夫妻らが鑑賞した日本スペイン交流400周年の開幕記念音楽会に支倉常長役で出演[11]。出演後、皇太子と懇談した際に「このような栄誉ある時間と役目をいただけたことを大変光栄に思います」と話した[11]。同年6月12日、マドリードの国立装飾美術館で、特別展「支倉常長とその時代展」を視察したスペイン訪問中の皇太子からあいさつを受ける[12]。
- 2013年9月17日、日本スペイン交流400周年のスペイン親善大使に就任[13]。
人物
- 大洋時代からの横浜DeNAベイスターズのファン[14]。サッカーではFCバルセロナのファン[15]。
- ダンスに目覚めたきっかけは、「YOUダンスいいね!」とジャニー喜多川に言われたことだった[16]。
- 2005年、コンサートツアー追加公演のリハーサル中につまづき小左足甲を骨折[17]。痛みを押して2日間の公演を務め、同年12月31日のジャニーズ恒例の年越しライブにも出演した[17]。2006年2月開幕のミュージカル『SHOCK』の出演は2月中は錦戸亮が代役を務めて治療に専念し、3月から復帰して出演した[18]。
- 2007年、『World's Wing 翼 Premium2007』で本格的なフラメンコを披露するため、2泊4日で単身スペインに渡って毎晩本場の踊りを鑑賞し[19]、スペインに魅了される[15]。帰国後本格的なフラメンコレッスンを始め[19]、フラメンコダンサーの佐藤浩希に師事[20]。その後も年3回ほど[4]のスペイン訪問を続けている[21]。また、フラメンコに関する理解を深めるために2009年頃からスペイン語の学習にも取り組む[22]。
- 以前から右耳の突発性難聴を患っていたが、2014年10月27日まで大阪松竹座で公演していた舞台『GOEMON 石川五右衛門』の千穐楽後、立ち上がるのが困難なほどのめまいを訴えたため11月6日に都内の病院に検査入院したと、今井のソロラジオ番組『今井翼のto base』に代理出演した滝沢秀明が伝える[23]。その後メニエール病であることが判明し[24]休業を余儀なくされ、音楽番組[25]やラジオ番組[注釈 1]の出演をキャンセル。12月7日に退院はしたものの[27]、12月10日から出演予定だったタッキー&翼のコンサートツアー「Two Tops Treasure Tackey&Tsubasa Tour 2014」も回復叶わず休演することが発表され[28]、コンサートは滝沢が1人で“デュオ仕様”のまま行われた[29]。その後12月18日深夜の『今井翼のto base』でラジオ復帰し[30]、12月31日のジャニーズカウントダウンライブで歌やダンスを披露しステージ復帰を果たした[31][注釈 2]。
支倉 常長(はせくら つねなが)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。桓武天皇を祖先とする血筋でありながらも伊達氏の家臣として活躍。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、アジア人として唯一無二のローマ貴族、及びフランシスコ派カトリック教徒となった。幼名は與市、初名は六右衛門長経、洗礼名はドン・フィリッポ・フランシスコ。
元亀2年(1571年)、桓武天皇を祖先とする山口常成[2]の子として羽州置賜郡長井荘立石邑(現在の山形県米沢市立石)に生まれる。その後、伯父支倉時正の養子となり、7歳から陸奥国柴田郡支倉村(現在の宮城県川崎町支倉地区)に在する上楯城で長い青年期を過ごした[3]。その後、時正に実子・久成が生まれたため、伊達政宗の主命で家禄1200石を二分し、600石取りとなる。
文禄・慶長の役に従軍して朝鮮に渡海、足軽・鉄砲組頭として活躍した。また葛西大崎一揆の鎮圧にあたった武将の一人としてもその名が記録されている。
慶長14年(1609年)、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの一行(サン・フランシスコ号)がヌエバ・エスパーニャ副王領(現在のメキシコ)への帰途台風に遭い、上総国岩和田村(現在の千葉県御宿町)の海岸で座礁難破した。地元民に救助された一行に、徳川家康がウィリアム・アダムスの建造したガレオン船サン・ブエナ・ベントゥーラを贈りヌエバ・エスパーニャ副王領へ送還した。この事をきっかけに、日本とエスパーニャ(スペイン)との交流が始まった。
こうしたエスパーニャとの交流ができたことにより、常長の主君である伊達政宗はヨーロッパに遣欧使節を送ることを決定した。遣欧使節はエスパーニャ人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を副使とし、常長は正使となり、180人から組織され、エスパーニャを経由してローマに赴くことになった。遣欧の目的は通商交渉とされているが、エスパーニャとの軍事同盟によって伊達政宗が倒幕を行おうとした説も存在している[4]。
慶長17年(1612年)、常長は第一回目の使節としてサン・セバスチャン号でソテロとともに浦賀より出航するも、暴風に遭い座礁し遭難。再度仙台へ戻り、現・石巻市雄勝町で建造したガレオン船サン・ファン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦(現・石巻市)を出帆した。なお、短期間に洋式船を建造していることから、最初に座礁したサン・セバスチャン号を譲り受けて修理し、サン・ファン・バウティスタ号として出航させたのではないか、とする説もある[5]。
出航後、常長らの一行はエスパーニャ(現スペイン)のヌエバ・エスパーニャ副王領であり、北アメリカ大陸の太平洋岸にあるアカプルコ(メキシコ・ゲレーロ州)へ向かった。アカプルコにおいて北アメリカ大陸に上陸を果たすと陸路で大西洋岸のベラクルス(メキシコ・ベラクルス州)に移動、ベラクルスから大西洋を渡り、サンルーカル・デ・バラメーダ(スペイン・アンダルシア州セビリア県)に到着、小型帆船に乗り換えてグアダルキビール川を遡上し、コリア・デル・リオに上陸した[6]。慶長20年1月2日(1615年1月30日)にはエスパーニャ国王フェリペ3世に謁見している。その後、イベリア半島から陸路でローマに至り、元和元年9月12日(1615年11月3日)にはローマ教皇パウルス5世に謁見した。また、その後もマドリードに戻ってフェリペ3世との交渉を続けている。
しかし、エスパーニャやローマまで訪れた常長であったが、この時すでに日本国内ではキリスト教の弾圧が始まっており、そのこともあって通商交渉は成功することはなかった。常長は数年間のヨーロッパ滞在の後、元和6年8月24日(1620年9月20日)に帰国した。
こうしてはるばるローマまで往復した常長であったが、その交渉は成功せず、そればかりか帰国時には日本ではすでに禁教令が出されていた。そして、2年後に失意のうちに死去した。常長の墓といわれるものは宮城県内に3ヵ所、仙台市青葉区北山にある光明寺(北山五山の1つ)、川崎町支倉地区の円福寺、そして大郷町に存在する。
その後の支倉家は嫡男常頼が後を継いだが、寛永17年(1640年)、家臣がキリシタンであったことの責任を問われて処刑され断絶した。しかし寛文8年(1668年)、常頼の子の常信の代にて許され家名を再興した。その後、第10代当主の代まで宮城県大郷町に[7] 、第11代から現在の第13代支倉常隆に至るまで、宮城県仙台市に居を構え続けている。
常長らが持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は仙台市博物館に所蔵されており、平成13年(2001年)に国宝に指定されている。その中には常長の肖像画があり、日本人を描いた油絵としては最古のものとされる。また、常長自身が記録した訪欧中の日記が文化9年(1812年)まで残存していたが、現在は散逸しており幻の史料となっている。なお、資料の中に「支倉」を古典ラテン語表記で FAXICVRA とつづった部分があり、当時ハ行を唇音で発音(ハ行転呼を参照)していた証拠となっている。
諱「常長」について
この人物は一般に「支倉常長」と称されるが、同時代に彼の諱を「常長」と記述した例はない。自筆史料の署名も「六右衛門」「六右衛門長経」とされており、自身が「常長」を称したことはなかったと推定される。「常長」という諱が登場するのは、彼の死後、支倉家が一時断絶して再興した後に編纂された支倉家の系図である。後世の子孫が、先祖がキリシタンであったことを隠すため、「長経」の使用を忌避し、「常長」と偽って記録した可能性がある[8]。
家紋について
支倉家の家紋は「右卍」とされる。『仙台古文記』には「三幅四方浅黄白卍」とあり、古くから右万字が使われていたことは確かである。しかし、支倉常長の家紋としての意匠は、「逆卍に違い矢斜め十字」が有名であり、宮城県の時代行事の装束にはこれが使われている。ギャラリーにあるようにヨーロッパの記録にも残っており、少なくとも常長の時点で家紋であったと考えてもよいであろう。2013年の遣欧使節団400年記念行事において支倉家がスペインに招かれたが、その際には支倉常隆氏が裃に陣笠姿で諸行事に参加しており、肩衣と陣笠には右万字の家紋が使われている姿が残っている。
→皇太子
で、タッキーは八王子出身なわけで・・・(爆wwwwwwwwwww
で、
→菊正宗
→弓弦羽神社
→平野氏
ドクター平野とか・・・(爆wwwwwww
で、
の答えはヒットラーが日本人の血統だったからなんですね。(爆wwwwww
、、、(爆wwwwwwwww
6 件のコメント:
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/志倉千代丸
本名らしいのでやっぱ親戚かな?
史学科の人に聞いたら
黒髪の人は偽ユダヤで
純粋なユダヤは白人っぽい赤毛でテンパーでそばかすの方
かごめかごめの歌はユダヤの星
古い鳥居はユダヤの鳥居で足が三本 今は二本
マイムマイムはイスラエルの歌
遣欧使節で、現地化した末裔が、
400年の時を経て、スペインの特定地域にしか住んでいない、
と錯覚してしまうのは、
日本人的視点が故、ですかね。。。
日本の鎖国中の時代において、欧州には「日本人の足跡」が、
そこかしこに、ありますよね。
(山田長政らの子孫が、東南アジアにどう展開しているかは
日本の教科書にも取り上げられるほどですが、
遣欧使節関係者の子孫が、欧州にどう展開しているかは、
国内では、ほぼ取り上げられないですね・・・)
欧州人は、日本の鎖国時代をどこまで意識しているかはわかりませんが、
その土地に来た人が「私の先祖は日本人」と述べるならば、
それは記録に残るでしょうし、
アフリカからも中東・アジアからも、いろいろな人がやってきていた当時、
そして欧州の国割り地域割りが、今と違い、かつ流動的であったその時代、
日本人祖先の人間が、欧州他地域からやってきても、
特段不思議にも思わなかったことでしょう。。。
ヒットラーが…想像もつかなかったというのが正直なところ
だからニコ動でも素材として一部界隈のゴリ押しにより大人気なんですね
本題
疑惑の編集カット!今井翼が滝沢秀明について語ったが…|BIGLOBEニュース
https://news.biglobe.ne.jp/entertainment/0925/myj_170925_9397703080.html
9月25日(月)10時45分 まいじつ
この9月から活動休止している『タッキー&翼』の今井翼が、9月24日放送の『おしゃれイズム 1時間SP』(日本テレビ系)に出演し、番組MCの上田晋也、モデルの森泉と共にスペインロケを行った。インターネット上ではロケの放送時間の短さに加え、今井が相方の滝沢秀明について言及したことが話題となっている。
今井は2012年に日本初のスペイン文化特使に任命されたあと、『テレビでスペイン語』(NHK Eテレ)に出演。2013年には、日本大学国際関係学部でスペイン語の特別講義を行うほど、スペインには造詣が深く、バルセロナにある最大規模の公設市場や、観光名所などを案内していた。
そして番組の中盤には、スペインへ行けなかったMCの藤木直人のために今井が船をチャーターして千葉県で釣りを行い、パエリア料理を振る舞うという企画が放送された。
そのため、SNSでは《切った尺が長すぎませんか?》や《未公開含めて第2弾をよろしくお願いします!!》など、スペインロケでカットされたシーンが多そうでもったいないという意見が多く寄せられていた。
先週の番組予告の内容がカット
ただ、一部ファンの間では、スペインロケだけではなく、あるシーンがカットされたことが話題となっている。
それは、9月17日に放送された次週の番組予告の際、《今井翼がバルセロナで本音トーク!!》という字幕付きで、今井が「結果的に一番に報告するのは滝沢だと思います」と話していたシーンである。
タッキー&翼が無期限の活動休止に入ったため、どんな些細なことであっても滝沢について語る今井を見たいとファンは望んでいたであろうが、放送されなかった。そのため、ツイッターで《なぜ……なんでカットなの》、《滝沢さんのとこ喋ってるとこ放送してください……》と残念がる投稿も多かった。
放送する時間がなかったのか、番組側がジャニーズ事務所に配慮してカットしたのかは不明だ。今後もお互いのことを語る場面はあるのか、動向が注目される。
(C)Marcos Mesa Sam Wordley / Shutterstock
今井翼「ジャニーズ脱退」決意 稲垣、草なぎ、香取と合流へ
https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/entertainment/779893/
2017年09月29日 11時00分
ジャニーズ事務所
今月初旬に活動休止を表明したアイドルユニット「タッキー&翼」の今井翼(35)が、ジャニーズ事務所の次期社長・藤島ジュリー景子氏(51)と大ゲンカしたという衝撃情報をキャッチした。原因はズバリSMAPだ。もともとSMAPを敬愛していた今井は、ジュリー氏の母・メリー喜多川副社長(90)が「週刊文春」のインタビューに答えたことがSMAP解散の直接の引き金になったと主張し、2人は言い争いになったという。今井はすでに腹をくくっており、退所した元SMAP3人の“新しい地図”に加わる可能性まで出てきている。
「タッキー&翼」が活動休止のリリースをマスコミ各社に流したのは9月3日。そこには15周年を迎えた同月をもって休止に入る旨がつづられていた。
実質的な解散とみられるが、不可解だったのが理由だ。リリースに記されていた「それぞれがスキルアップを目指した個人活動に専念することで成長」するためという目的は、活動を休止しなくても可能なはず。本紙既報のように、ジャニーズ事務所幹部の寵愛を受けて表街道を歩く滝沢秀明(35)に今井は不満を抱いていたこともあるが、実はそれだけではなかった。決め手になったのはSMAPだ。
今井を知る関係者が明かす。
「もともと要領の良い滝沢のことを今井がおもしろく思っていなかったのは事実。それで回ってくる仕事の質が違いますからね。ただ、確執の決め手になったのはSMAP解散です。(昨年)『週刊文春』に直撃された滝沢が『あいつら(SMAP)はアホだ』と答えたように、あくまでジャニーズあってのSMAPというのが滝沢のスタンスでした。でも今井は、メリー氏がわざわざ『週刊文春』の取材に答えたから解散したんだと主張するのです。それで今井と滝沢は何度もケンカしており、もう修復はできませんね」
2015年1月発売の同誌に、約5時間にわたるメリー氏のインタビュー記事が掲載された。取材の際にメリー氏は、SMAPの育ての親であるマネジメント室長・I女史を呼びつけ、同女史が事務所内に派閥をつくるのなら「SMAPを連れていっても今日から出ていってもらう」と叱責。それがSMAP解散への“号砲”となったのは記憶に新しい。
「実は、I女史はその直後、事務所内のI派のメンバーを集めて『覚悟はできてる? 今から動くわよ!』とゴーサインを出したのです。そこからどんどん行動に移していきました」(I女史の知人)
結果的に木村拓哉(44)、中居正広(45)は事務所に残留し、稲垣吾郎(43)、草なぎ剛(43)、香取慎吾(40)の3人が今月8日をもって退所した。全員の退所という当初の予定とは違ったものの、I女史は、クリエーティブ会社「CULEN(カレン)」を設立。ネットを中心とした活動をプランニングしていった。そんな混沌とした中、今井だけは一連の解散騒動を看過するわけにはいかなかったという。
前出の関係者が言う。
「ジュリーさんに『解散はおかしい』と訴えたそうです。何でメリーさんは文春の取材に10ページにわたって答えるんだと。今井は曲がったことに対しては、(相手の)立場が上でもガンガン言いますからね。ジュリーさんとはかなり言い合ったらしいですよ」
もともと今井はSMAPを敬愛していただけに、理不尽な形で彼らが解散するのはガマンならなかったのだろう。退所するメンバーと時期を示し合わせたかのように「タッキー&翼」が休止を表明したのは偶然ではないのだ。
ということは、もちろん今後は今井の退所もあり得る。
「向かう先は『カレン』です。すでに今井は腹をくくっています。退所したメンバーと同じく、ネットを中心とした芸能活動を展開していくのではないでしょうか。もともとジャニーズは退所した3人がこれほど早く手を打ってくるとは思っていなかったそうなので、もし、今井が加われば、かなりのダメージでしょう」(テレビ関係者)
稲垣、草なぎ、香取は11月2日、AbemaTVで72時間の生放送に出演する。今、まさに反ジャニーズが反撃のノロシを上げようとしている。
【I女史「スマステ」最終回のファン見て自信】
元SMAP3人の事務所退所後、I女史は香取とファンとのやりとりを知って自信をつけたという。
それは23日に16年間の歴史にピリオドを打った香取の「SmaSTATION!!」(テレビ朝日系)だった。この日、テレ朝の周辺には約600人のファンが待機していたが、局入りした香取は、わざわざ車から降りてファンに手を振った。
I女史の関係者は「『こんなにファンが来てくれるなら大丈夫』と思ったそうです。要するにI女史が見極めたかったのは、リアルなファンがジャニーズを抜けてからもちゃんとついてきてくれるかどうかでしたからね」と語った。つまり、あの最終回での様子は、退所した3人の今後を占う“リトマス試験紙”だったいうわけだ。
芸能関係者も「ファンはジャニーズ事務所のファンではなく、グループや個人のファンですからね。そういう意味では、退所してもちゃんとついてきてくれるというお墨付きが得られたので、今後やりやすくなると思いますよ」と指摘した。
Coria del Río
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