自発的受容説をとる日本の政治家等がその旨の発言を行ったことで、韓国との間で外交問題に発展したケースもある。2003年5月31日、麻生太郎・自民党政調会長(当時)が東大における講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した[5]。韓国紙がこの発言を大きく取り上げて批判的に報道し[6]、韓国政府は謝罪を求める談話を発表。盧武鉉大統領の訪日を直前に控えていたこともあり、麻生は発言を謝罪した[7]。この件について自民党総務会で野中広務が麻生を批判したが、その場にいた奥野誠亮が「野中君、君は若いから知らないかもしれないが、麻生君が言うことは100%正解だよ。朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」[8]とたしなめたという逸話も残っている。
旧制畝傍中学、旧制一高を経て、1938年(昭和13年)3月、東京帝国大学法学部を卒業し、同年4月に内務省に入省[要出典](2016年11月18日毎日新聞朝刊政治面での「奥野誠亮さん評伝」より)。
長崎への原爆投下がされた翌朝に、内務省が各省庁の官房長を集めて会議を開いたが、当時、同省地方局戦時業務課の事務官をしており、ポツダム宣言に「戦争犯罪人は処罰する」(第10条)と書かれていたため、戦犯を出さないように公文書の焼却(=証拠隠滅)を提案した[1]。
ja.wikipedia.org/wiki/奥野誠亮
占領前文書焼却を指示…元法相 奥野誠亮さん 102
2015年08月11日 05時20分
おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。
おくの・せいすけ 1913年、奈良県生まれ。東大法卒。38年、内務省入省。自治事務次官を経て63年衆院選に自民党公認で初当選し、13回連続当選。文相、法相、国土庁長官などを歴任し、2003年に政界を引退した。現在、アジア福祉教育財団名誉会長。
「総理(鈴木貫太郎首相)は戦争の終結を固く決意している。ついては内務省で戦争終結処理方針をまとめてもらいたい」。1945年8月10日朝、迫水久常・内閣書記官長から、内務省に極秘の要請があった。
そこで、灘尾弘吉内務次官の命を受け、内務省地方局戦時業務課の事務官(現在の課長補佐クラス)だった私が各省の官房長を内務省に集め、終戦に向けた会議をひそかに開いた。
ポツダム宣言受諾について、9日深夜から御前会議をやったが、内閣としては閣議で決定できていなかった。内務大臣(内相)の安倍源基さんは「日本の国体はどうなるのか」と執拗に迫り、受諾を承知しなかった。「国体護持」の考えが皆にしみこんでいたからね。内相が頑張っている中、我々は作業を進めた。
官房長たちとの会議の主な議題は、軍の物資の処理だった。「軍が持っている物資は膨大だが、このままでは没収される恐れがある。だが国民に行き渡っていれば、その恐れはないだろう」と判断し、占領前に、軍が保有する食糧や衣料品などの物資を困窮する国民に早く分けようという方針を決めた。
もう一つ決めたことは、公文書の焼却だ。ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、戦犯問題が起きるから、戦犯にかかわるような文書は全部焼いちまえ、となったんだ。会議では私が「証拠にされるような公文書は全部焼かせてしまおう」と言った。犯罪人を出さないためにね。
会議を終え、公文書焼却の指令書を書いた。ポツダム宣言受諾のラジオ放送が15日にあることも聞いていたので、その前に指令書を発するわけにはいかないが、準備は整っていた。
問題は、軍隊をどう収めるか。下手な収め方をしたら軍が決起するからね。大変な状況だった。
◇
役所一転「上司」はGHQ
1945年3月、東京大空襲を経験した。翌日、私は霞が関から内務省の職員50人を連れ、下谷(現・台東区)の区役所の応援に行った。広場にたくさんの人が荷物をリヤカーに積んで逃げてきて、焼夷弾で焼け死んでいた。どぶ川をさらうたびに死体が上がった。
あんな場所にリヤカーで集まったら、焼夷弾に焼かれるのは当たり前だよ。住民への避難指導が十分に行われていなかった。「こんなことでは戦争にならない」という感じを強く持った。
5月の「山の手大空襲」では、今の渋谷区にあった自宅がやられかけた。近くまで焼夷弾が落ちてきたので雨戸を閉め、家内は荷物を防空壕へ放り込み、子どもを背負ってどこにでも逃げられるようにした。
焼夷弾がどこに落ちるか見定めようと空を見上げていると風向きが変わり、焼けずにすんだ。運だよ。
翌朝は歩いて内務省に向かった。表参道まで来ると、熱風を避けようとしたのか、鉄筋の建物の脇で人が重なり合って死んでいた。赤坂の辺りでも人間が燃え、黒い小さな塊になっていた。
4月初めだったか、陸軍省から内務省に、「沖縄は放棄せざるをえないが、降伏はしない。敵を本土に迎え撃って必ず最後の勝利を収めるから、敵が上陸してきても各行政組織が統一的に運営されるようにしてほしい」と連絡してきた。もう一つ、「国民も軍に協力してほしい」とも言ってきた。この時、次官の灘尾さんが私の耳元でささやいた言葉を今でも覚えている。
「軍は国民を道連れにしようとしている。けしからん」「国民に協力を、と言われても、竹やりぐらいしかないじゃないか」
それが灘尾さんの気持ちだったが、内務省に戦争を終わらせる力はなかった。私は軍の要請を受け、敵の本土上陸後も行政を維持できるよう、地方総監府(※)の官制原案を書いた。
6、7月に灘尾さんと一緒に九州を一回りした。国民に全く戦意がないことがよくわかった。とにかく受け身だった。
7月26日、日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表されたが、陸軍は最後まで強硬だった。8月10日には受諾の聖断が下るが、陸軍は徹底抗戦を訴えていて内情は大変だった。
15日未明には、天皇陛下が事前収録した玉音放送の録音盤を奪おうと、反乱軍が探し回るんだよ。見つからなかったのは幸いだった。そして最後は阿南惟幾陸相が腹をかききって……。天皇陛下に謝って自殺することで、軍は収まったんだと思うなあ。
15日は、正午の玉音放送の直後、私を含む内務省の4人で分担し、全国の地方総監府に公文書焼却の指令書を持って行った。
占領下の日本 改めて実感
玉音放送の内容は聞き取りにくかったな。でも事前に大体分かっていたからね。みんな宮城の前に行って頭を下げ、泣いたもんだよ。
軍隊を収めるのは大変だったと思うな。最後はやっぱり、天皇陛下の力だな。天皇の力なくしては戦争を終結できなかったね。それは事実だと思うよ。
玉音放送の後、私は愛知県庁に置かれていた地方総監府を訪れ、古井喜実知事(戦後、厚相など歴任)に、指令書と灘尾さんの「後は頼む」と書いた手紙を渡した。古井さんは私の媒酌人で、灘尾さんが辞めた後の内務次官になった。
名古屋からは15日夜のうちに帰京した。ところが翌日だったか、高熱が出た。パラチフスだった。それから長く仕事を休んだ。
出勤は約3か月後。連合国軍総司令部(GHQ)から最初に命じられたのは、「内務省が地方に対して持っている権限を洗いざらい書いて出せ」という仕事だった。
日本が占領下にあることを改めて実感したな。
(聞き手 編集委員 福元竜哉 撮影 鈴木竜三)
※地方総監府 連合国軍の本土上陸で国土が分断される事態に備え、1945年6月、内務省が全国8区域(北海、東北、関東信越、東海北陸、近畿、中国、四国、九州)に設置した地方行政機関。地方総監には、管内の知事への指揮権など強力な権限が与えられた。同年11月に廃止された。
◇
軍刀を手に座る東条英機首相(前列右端)。左端に国民服姿の奥野さんが立っている(1941年、鹿児島県庁で)
軍刀を手に座る東条英機首相(前列右端)。左端に国民服姿の奥野さんが立っている(1941年、鹿児島県庁で)
「日本再起のきっかけに」…天皇の地方巡幸
内務官僚だった奥野さんは、静岡、山梨両県に続く3か所目の地方赴任として、1941年4月、鹿児島県庁に配属された。その8か月後、太平洋戦争に突入し、奥野さんは戦時下で役人生活を送った。
この年、鹿児島県庁を視察に訪れた東条英機首相(当時)と県職員たちとの記念写真に納まっている。東条首相に対しては、「家々のゴミ箱をのぞいて回り、国民に食料が行き渡っているかどうか調べた、と言われたが、あれはパフォーマンスだった」と冷ややかだ。
奥野さんは鹿児島で特別高等警察(特高)課長などを務め、内務省に戻ると、公文書焼却の極秘作業に深くかかわるなどして終戦を迎えた。32歳だった。
強く印象に残っているのは、自身が時折敬愛の念を込めて「天皇さん」と呼ぶ、昭和天皇の姿だという。
「天皇さんはマッカーサー(連合国軍最高司令官)に対し、飢えた国民を救ってくれと求めた。そして、全国を歩き回り、我慢してくれと国民に呼びかけた。あの行動が、日本が再起する機会の一つになった」
戦後は保守政治家になり、1世紀余を生きてきた奥野さん。「二度と戦争をしないのは大事なことだ」と平和の尊さを訴えている。
(福元)
2015年08月11日 05時20分 Copyright © The Yomiuri Shimbun
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150810-OYT8T50122.html
故奥野誠亮さん、12月12日にお別れ会
2016年11月30日00時20分
故奥野誠亮さん(元自民党衆院議員、元法相)のお別れの会が、12月12日午後1時から東京都千代田区紀尾井町4の1のホテルニューオータニ「鶴の間」で。実行委員長は安倍晋三首相。喪主は長男で衆院議員の信亮さん。
同19日午後2時から奈良県橿原市久米町652の2の橿原ロイヤルホテル「ロイヤルホール大和」で。実行委員長は柿本善也・前奈良県知事。喪主は信亮さん。
http://www.asahi.com/articles/ASJCY6F6FJCYUTFK00Z.html
、、、(爆wwwwwwwww
8 件のコメント:
森本康敬・釜山総領事
金正恩「処刑部隊」トップに「旧日本軍の血統」説が浮上
>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170228-35097333-cnn-int
国家保衛省のトップだった金元弘(キムウォノン)氏は最近、金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長に虚偽の報告をしたことが分かって怒りを買い、軟禁状態に置かれている。処刑された幹部らは同氏の部下だった。今後さらに調べが進めば、実務級の職員らも処刑される可能性があるという。
金正恩「処刑部隊」トップに「旧日本軍の血統」説が浮上
>http://blogos.com/article/181004/
韓国の北朝鮮情報サイト「ニュー・フォーカス」は、北朝鮮の秘密警察「国家安全保衛部」のトップである金元弘(キム・ウォノン)氏の母方の祖父ホン・ジョンウ氏が、日本の植民地時代に憲兵分遣所の補助員として勤務していたと報じた。金元弘氏が親日派だったという記録は、内部の幹部文書に詳細に記録されているという。
在日特権の一つの元凶…
ドアン・ティ・フオンさんら2人は遠慮せずに日本に来て在日キムチ全員もやってくれてよかったのに…
自民 奥野氏が比例転出へ
09月21日 18時15分
衆議院選挙の小選挙区の区割り見直しを受けて自民党は、小選挙区が減る奈良県の候補者調整の結果、前回、奈良3区で当選した奥野信亮議員が、比例代表近畿ブロックに転出する見通しとなりました。
衆議院の小選挙区の区割り見直しを受けて自民党は、小選挙区が減る6つの県で、候補者調整を進めていて、21日、党本部で二階幹事長らが、奈良県連の奥山博康幹事長らと会談しました。
その結果、奈良県内の新しい3つの選挙区のうち、▼1区に元衆議院議員の小林茂樹氏、▼2区に現職の高市早苗氏、▼3区に現職の田野瀬太道氏を擁立することを決めました。
そのうえで、奈良県連は、前回、奈良3区で当選した奥野信亮氏について、比例代表の候補者は、原則として73歳未満とする党のルールを適用せず、比例代表近畿ブロックでの立候補を認めるとともに、比例名簿の上位で処遇するよう求めました。
会談のあと、塩谷選挙対策委員長は、記者団に対し、「小選挙区が減るのは、大変、政治家にとって厳しい状況であることを受け入れ、今回は特例を決めていきたい。名簿順位は、要望を最大限反映させるよう努力する」と述べ、奥野氏については、年齢制限のルールを適用せず、特例を認める考えを示しました。
これによって奥野氏は比例代表近畿ブロックに転出する見通しとなりました。
奈良県連の奥山幹事長は、「これで戦う準備ができたと思っている。
4人がしっかりとバッジが付けられる戦いをすることが、県連に課せられた課題だ。比例代表の名簿順位も、当然、しっかりと対応してほしい」と述べました。
nara/2053970921.html
Shūgiin kaigiroku - Issue 51 - Page 2
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昭和四|年月|ヒ日衆議院会議録追録口請願に関する報告書請願者静岡県天竜市二俣町二県立天竜林業高等学校長山川浩太(竹山研太郎君紹介) (第二十二号)、同外七件(請願者高知市縄子町上、五田中正巳む紹介) (第二七九号、件(郎保同市立旭小学校長田村節郎外七名) (演田章雄君紹介) (第三七"号)、同外九件請願者群馬県 .... 五七号)、同(請願者東京都渋谷区笹塚一の一二三竹内乙彦) (八木徹雄君紹介) (第五」七二号)及び同(請願者大阪市東淀川区塚本町二の八"森友寛) (原田憲君紹介) (第五六、九」。
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(社説)戦争と公文書 今に続く国民への背信 - 朝日新聞デジタル
2020/08/16 — 当時、内務省事務官だった故・奥野誠亮元法相は15年の読売新聞の ... 戦後70年の節目だった5年前、野党議員が公文書焼却の経緯や法的根拠を ...
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2018/08/13 — 敗戦時の公文書焼却について、当時の蔵相は「閣議で決めた」と戦後語っている。内務省職員だった奥野誠亮元法相は生前、「戦犯にされる恐れのあるよう ...
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敗戦時における公文書焼却の再検討
加藤聖文 著 · 2019 — 1、2012年)が兵事係の業務に合わせた兵. 事関係文書の管理体制を検証した研究として挙げられる。 4) 「占領前文書焼却を指示…元法相奥野誠亮さん」(『読売新聞』2015年 ...
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管理法無視、都合の悪いものを隠蔽? 桜を見る会名簿、敗戦時も「公文書は全部焼かせてしまおう」 - 47NEWS
2020/01/15 — 奥野誠亮氏らは玉音放送の直後、公文書焼却の指令書を地方の行政機関に届けた=1945年8月15日. 昭和天皇が日本に無条件降伏を求めた米国、 ...
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『報道特集』が日本軍の戦犯証拠隠滅の実態を明らかに! 安倍政権の歴史修正主義と公文書改ざんの原点 - エキサイト
2018/08/15 — 終戦当時内務省の官僚だった故・奥野誠亮元法相は後年、公文書焼却の指示についてこう明かしている。 「ポツダム宣言は「戦犯の処罰」を書いていて、 ...
https://www3.nhk.or.jp › lnews › nara
参院選の結果を受け奈良県内の各党が談話 - NHK
2022/07/11 —自民党奈良県連の奥野信亮会長は、「多大なるご支援をいただいた県民の皆様に心より感謝を申し上げる。佐藤啓本人も我々も当選の安堵以上に大変悲しくつらい中にある。佐藤啓には、安倍元総理の思いを心に、研さんと努力を惜しまず、県民の負託に応え、国政で活躍してくれることを期待している」としています。
https://www.yomiuri.co.jp › national
「360度警護が必要」なぜ演説場所に…他政党は「選挙カー置きにくい」と見送った例も - 読売新聞オンライン
4 日前 — 「360度警護が必要になり、安全上問題がある」。安倍晋三・元首相(67)が奈良市の近鉄大和西大寺駅前で銃撃された事件後、現場が演説場所に選ばれたことに疑問の声が上がっている。自民党候補の陣営関係者は「人通りが多い」と説明するが、6月22日の参院選公示後、他の主要政党は「選挙カーが置きにくい」という理由で、同じ場所での応援演説を見送っていた。なぜ、あの場所で安倍氏が演説することになったのか。
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自民・調査会「会場設営、警護態勢は適切だったか」 安倍氏銃撃事件 [自民]
「会場の設営がそもそも適切であったのか」。会合ではそんな意見が上がった。安倍氏が演説した場所は選挙カーの上ではなく、周囲に遮蔽(しゃへい)物...
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