2015年7月2日木曜日

ジュリー・ハンプから安芸門徒・西本願寺まで芋づる式に









松尾 孝(まつお たかし、1912年(明治45年)7月15日 - 2003年(平成15年)10月28日)は、日本実業家カルビー創業者。広島県広島市出身[3]

若年期

カルビーの前身は1905年(明治38年)広島市宇品で創業した広島名産柿羊羹製造の”松尾巡角堂”である[4]。ただ孝が幼少時代での家業は、米ぬかを中心とした穀粉製造販売を行っていた[3][5]
1927年(昭和2年)から家業を手伝っており、比較的不自由なく生活していた[3][5]。この時代の有名なエピソードとして、孝は近所の川で小エビを獲る名人でそれを元に母親が作るかき揚げが大好物だった、のちその味を元にかっぱえびせんが生まれた、というものがある[5][6]
1931年(昭和6年)広島第一中学校(現広島県立広島国泰寺高等学校)卒業[3]。そこへ、父親が不慮の事故で死亡したため中学卒業とともに家業を継ぐことになった[3][5][7]

松尾糧食工業

家業を継いだものの、多額の借金を抱え経営は苦しい状況であった[5][7]。たとえば1933年(昭和8年)広島商工会議所発行『商工人名録』には孝の名前は記載されていない[補足 1][8]
新たな商売として、賀茂鶴酒造から米ぬかを調達し飼料として農家に売ったり、砕けた小米をのりに加工し京友禅業者に販売し始める[7]。1937年(昭和12年)”松尾食糧工業所”を立ち上げる[3]太平洋戦争中は、胚芽を粉にしたものやさつまいもの澱粉粕に小米などを入れた団子などの”代用食”を軍需工場や各学校に収めていた[2]
1945年(昭和20年)7月召集、同年8月北九州に居た時に広島市への原子爆弾投下される[3]。なお、当時の自宅は爆心地から約1.5kmにあった楠木町にあり、広島には妻と3人の息子を残して出征したが奇跡的に全員助かっている[3][2]
戦後も続いた食糧難に対応するため、戦中時代に作っていた代用食や、新たに鉄道草(ヒメムカシヨモギ)団子キャラメルを作り始める[3][2]。孝は戦中戦後の食糧難の中で「健康にいい栄養のあるお菓子をつくること」を志した[5]。これが今日のカルビーの社名やかっぱえびせん誕生へとつながっていく[5]
1945年12月、宇品にあった旧宇品陸軍糧秣支廠跡地を買い取り事務所とした[2]。ここがカルビー発祥の地である。1949年(昭和24年)株式に改組し”松尾糧食工業株式会社”と社名変更[3][2]。この時代、岡山にカバヤ食品・山口にカンロと地方で飴屋が続々と登場したことに加え朝鮮特需の影響で販売競争は激化し、さらに当時の主要市場だった九州地方を台風被害が襲ったことから、1953年(昭和28年)秋に松尾糧食工業は不渡りを出し倒産してしまった[2]








→アベ
















→ダビデ

















、、、(爆wwwwwwwwwww

3 件のコメント:

ミネ さんのコメント...

この流れでIBMとかも 日立三菱添えてpick upして欲しくなるなぁ

ミネ さんのコメント...

龗 おかみのかみ は、縁切りたいんやわ と明治の頃やっと賀茂と決別したんだよね、、
ならベンガラの鳥居とか一掃しちまえばいいのにね
の割に感が残念でやんす

ご近所 さんのコメント...

>宇品
MAZDAの工場も有りますねえw
てか松尾www
田舎の同級生で一番多い苗字w

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