自分の国で自分のポジション確保出来へんから黄色いサルの国に来て優越感に浸ってるwいじめられっ子が他の弱い子を探していじめの対象にする心理と似たようなものDEATH^^
まあ、普通に下心があるって見た方がいいですよね。問題は、利害のすり合わせをしてつきあえる相手かどうかは別、と日本人の大半が考えられないところ。なんとなく心情を共有できたと感じたら、仲良くなったつもりになっちゃう。
毒腐湯蟹ライン等排除の流れにかかわらず中韓と比較して日本国内からの特定ライン排除系ニュースがなかなか出ないのは、反GODライン日本支店が日本に浸食しすぎて排除にてこずっているからなのだろうかと考えてみたりしましたがTVでの毒腐湯ラインの宣伝が最近頻繁だったりもして外国人観光客1千万等のニュースが逆に嫌な予感がしてきたこのごろ。
c.w.ニコルとかw
アウトドア方面ですねわかります^^
黒装束なのにブロンドが殆ど目立たず見当たらないという外国人集団とは(苦モーリーロバートソン最近「台詞上は良い事言ってるなー」とRTさせて頂きましたが~彼はジェイクアーデルステインと同じ人物のツィートRTしてたり悪魔崇拝がナンチャラと宣ってみたりしてるのDEATHニコ動で生放送とかもやってるってよー視てないけど(苦
技術も何も無いカス外人が日本で付け上がる構図。
>技術も何も無い大日本帝国とはシオニストの暴力装置としてユダヤがネコババしてきた欧米の技術で近代化した亜Q国家http://tokumei10.blogspot.jp/2014/06/q_12.html植物のタネや家畜が繁殖するのに適した土地か、あるいは交配に適した対象を探索するとか。思想から味覚まで生活の全般にわたって、いろいろ実験する。日本語に翻訳された書籍が、必ずしも本国では評価されていない、或いは議論の対象となっている場合も、そのことを一切考慮せずに、舶来至上主義のようなものに左右されやすい。海外の団体ガー、研究機関ガー、と冠が添えられるだけで土下座したくなる雰囲気があって、どのような考え方の方々が、どのような組織の支援を得て、どのような点をどうやって強調して何を無視して何を過小評価して発信しているかという情報のベクトルを平気で無視しがちなのが・・・。
こちらがいくら親米・親英感情を持とうが、日本で言われているほど親日感情を持っている外国人は少ないのが現実だと心得たうえで、親米感情を持っている自分のありようを判断できなければ転ぶよ。偏見は別として、価値観や自尊心のとらえかた、感情の表出、本音と建前、マナーやエチケットの基準など、やはり彼らと我々の間には大きな違いがあるのは事実で、どちらが良い悪いというのではなく、期待している以上にその差は大きいということを知らなさすぎることで誤解し誤解を与えてしまうことはある。さまざまな事象への感受性、敏感さの違いは日本にいると自覚できないだけで、偏見も差別も現実に存在する、どこの国でも。野生の世界では、縄張り意識を持ち、それに従って行動することが健全だしね。もちろん人間は知恵を働かせるけど。
多くの日本人がベルギーとルクセンブルクの違いについてよくわからないのと同じように東洋人の差異についてもよくわかっている人は少ない。
先の戦争に起因して対日感情がよくない国はあるという現実を無視して、和食はすばらしい、サムライ精神で礼儀正しい日本は技術立国ですばらしいなどと喧伝されることに溺れていると、痛い目に必ずあう。
「舶来」という「箔」が加味されれば、日本では通用する痛痒
まともな白人に海の向こうで11歳の頃に受けたアレに、今なら笑えますがいろいろな人がいて、驚きもし、悲しくもなり、嬉しくもなり高熱が出て救急車で大学病院に運ばれて日本を出るときに、当時の噂で、あっちでは熱が出たら素っ裸にして氷風呂に入れて熱を冷ますと聞いていたので拙い英語で、よく熱は出るから大丈夫なの、と必死で訴えたが日本人だから結核を疑われて、検査も受けて結局、アスピリンだけ処方されて解放されたのは、むかしのおはなし血液検査後のテープにスマイルの絵をペンで描いてくれたり使い捨ての体温計に興味を示すこっちを珍しがっていたっけ
もの好きな外国人が日本語で伝える日本観や世界観に惑わされ過ぎ。あたりまえだが、日本人だって、いろんな人がいるし。日本語がお上手な外国人が話すことが、それぞれの国の外国人の考え方の基本だとは言いきれないし、それぞれの属している階級によって、ふつうに感じることには違いがあるのはあたりまえだし。らしさを失ってまで、すべてのことに配慮を求められる社会だと、らしさって、なんだっけ、ということになってくるし、アイデンティティーの混乱も起きるし、どこかで人は疲れる。自分には祈る場所さえ用意されていないのに、ある種の人たちには祈る場所を用意することへの配慮が求められる、こういう社会をどう理解してよいのかわからん、という、ごくふつうのアメリカ人もいるが、こうした角度で語られるふつうの声は、翻訳されたり同時通訳されていなくても、つけっぱなしのラジオからは、ごく普通に流れてくるし。トランプ氏への警備の仕様が、次期大統領への対応に、って訳されていなくても、ふつうに流れていても、訳されていないと無いことになる。
>親日な外人に碌な香具師はいないこれを信じたくない層がいることは仕方がないが、事実だ。メディアで日本のスバラシイ文化に惚れた欧米外国人が、日本に殺到しているかのように誤解させる演出をしているが、どこの国にも一定数はいる、異文化への強い興味を抱く人間に特化して番組を編成することで生まれるモノの見え方でしかない。多様な価値観が世界同時に一斉に全方向に発信できる時代の変化が生み出した新しい日常が発生したことで、それぞれが心酔する分野をとことん追求することを可能にし、誰かには悪趣味でも誰かには垂涎の的にもなり、興味の博物誌をそれぞれが完成させることに貪欲で、そこに移動時間の短縮が加味されて、これまでとは違う時間空間を生きることに正直になっている社会の変化がみせるひとつの風景でしかない。情報機器の発達と移動手段の変化によって生み出された新しい自由の形、この現実と他国のごく一般的な人間の日本観を混同することの意味、そこまでをいちいち説明したくない。勤勉でありながら先進国とされる国でありながら、もはや世界を制してしまっている言語が不得意で、過労死が絶えない社会。日本語を喋る西洋人を過大評価する悪い癖が抜けない社会。錯覚や誤解や曲解は、大日本帝国時代の得意分野で、それが決して良い方向ばかりに作用したわけではないことを、全く知らないとはいえまい。
日本人が矛盾や抵抗や苛立ちも含めて慣れ親しんできた習慣が、実はすでに世界の中では時代遅れであって、日本では抵抗の少ない合意形成のプロセスを用いての外部とのアクセスは、チャンネルが限定されるばかりか閉鎖されていく宿命で、仲間はずれになっていく。日本語圏での思考を英単語と英文法に変換することを、他国の言語の修得に要求されてはいないのであって、英語圏で互いに納得していく論理を会得するための、道具としての言語、を中心に据えることができなかった不幸が、この国全体をどんよりさせ、ぼんやりさせていく。日本語圏の発想や表現の豊かさを否定せず、英語圏の視点で、より整理して、論理を殺さず生かす言語環境を再構築する特別な訓練がなければ、情景の描写と賛美と抗議で終わってしまい、なにが必要なのか不明なやりとりが続くだけだ。
16 件のコメント:
自分の国で自分のポジション確保出来へんから
黄色いサルの国に来て優越感に浸ってるw
いじめられっ子が他の弱い子を探していじめの対象にする心理と似たようなものDEATH^^
まあ、普通に下心があるって見た方がいいですよね。
問題は、利害のすり合わせをしてつきあえる相手かどうかは別、
と日本人の大半が考えられないところ。
なんとなく心情を共有できたと感じたら、
仲良くなったつもりになっちゃう。
毒腐湯蟹ライン等排除の流れにかかわらず中韓と比較して日本国内からの特定ライン排除系ニュースがなかなか出ないのは、
反GODライン日本支店が日本に浸食しすぎて排除にてこずっているからなのだろうかと考えてみたりしましたが
TVでの毒腐湯ラインの宣伝が最近頻繁だったりもして
外国人観光客1千万等のニュースが逆に嫌な予感がしてきたこのごろ。
c.w.ニコルとかw
アウトドア方面ですねわかります^^
黒装束なのに
ブロンドが殆ど目立たず
見当たらないという
外国人集団とは(苦
モーリーロバートソン
最近
「台詞上は良い事言ってるなー」
とRTさせて頂きましたが~
彼は
ジェイクアーデルステイン
と同じ人物のツィートRTしてたり
悪魔崇拝がナンチャラと宣ってみたり
してるのDEATH
ニコ動で生放送とかもやってるってよー
視てないけど(苦
技術も何も無いカス外人が日本で付け上がる構図。
>技術も何も無い
大日本帝国とはシオニストの暴力装置としてユダヤがネコババしてきた欧米の技術で近代化した亜Q国家
http://tokumei10.blogspot.jp/2014/06/q_12.html
植物のタネや家畜が繁殖するのに適した土地か、あるいは交配に適した対象を探索するとか。
思想から味覚まで生活の全般にわたって、いろいろ実験する。
日本語に翻訳された書籍が、必ずしも本国では評価されていない、或いは議論の対象となっている場合も、そのことを一切考慮せずに、舶来至上主義のようなものに左右されやすい。
海外の団体ガー、研究機関ガー、と冠が添えられるだけで土下座したくなる雰囲気があって、どのような考え方の方々が、どのような組織の支援を得て、どのような点をどうやって強調して何を無視して何を過小評価して発信しているかという情報のベクトルを平気で無視しがちなのが・・・。
こちらがいくら親米・親英感情を持とうが、日本で言われているほど親日感情を持っている外国人は少ないのが現実だと心得たうえで、親米感情を持っている自分のありようを判断できなければ転ぶよ。
偏見は別として、価値観や自尊心のとらえかた、感情の表出、本音と建前、マナーやエチケットの基準など、やはり彼らと我々の間には大きな違いがあるのは事実で、どちらが良い悪いというのではなく、期待している以上にその差は大きいということを知らなさすぎることで誤解し誤解を与えてしまうことはある。
さまざまな事象への感受性、敏感さの違いは日本にいると自覚できないだけで、偏見も差別も現実に存在する、どこの国でも。
野生の世界では、縄張り意識を持ち、それに従って行動することが健全だしね。
もちろん人間は知恵を働かせるけど。
多くの日本人がベルギーとルクセンブルクの違いについてよくわからないのと同じように東洋人の差異についてもよくわかっている人は少ない。
先の戦争に起因して対日感情がよくない国はあるという現実を無視して、和食はすばらしい、サムライ精神で礼儀正しい日本は技術立国ですばらしいなどと喧伝されることに溺れていると、痛い目に必ずあう。
「舶来」という「箔」が加味されれば、日本では通用する痛痒
まともな白人に海の向こうで11歳の頃に受けたアレに、今なら笑えますが
いろいろな人がいて、驚きもし、悲しくもなり、嬉しくもなり
高熱が出て救急車で大学病院に運ばれて
日本を出るときに、当時の噂で、あっちでは熱が出たら素っ裸にして氷風呂に入れて熱を冷ますと聞いていたので
拙い英語で、よく熱は出るから大丈夫なの、と必死で訴えたが
日本人だから結核を疑われて、検査も受けて
結局、アスピリンだけ処方されて解放されたのは、むかしのおはなし
血液検査後のテープにスマイルの絵をペンで描いてくれたり
使い捨ての体温計に興味を示すこっちを珍しがっていたっけ
もの好きな外国人が日本語で伝える日本観や世界観に惑わされ過ぎ。
あたりまえだが、日本人だって、いろんな人がいるし。
日本語がお上手な外国人が話すことが、それぞれの国の外国人の考え方の基本だとは言いきれないし、それぞれの属している階級によって、ふつうに感じることには違いがあるのはあたりまえだし。
らしさを失ってまで、すべてのことに配慮を求められる社会だと、らしさって、なんだっけ、ということになってくるし、アイデンティティーの混乱も起きるし、どこかで人は疲れる。
自分には祈る場所さえ用意されていないのに、ある種の人たちには祈る場所を用意することへの配慮が求められる、こういう社会をどう理解してよいのかわからん、という、ごくふつうのアメリカ人もいるが、こうした角度で語られるふつうの声は、翻訳されたり同時通訳されていなくても、つけっぱなしのラジオからは、ごく普通に流れてくるし。
トランプ氏への警備の仕様が、次期大統領への対応に、って訳されていなくても、ふつうに流れていても、訳されていないと無いことになる。
>親日な外人に碌な香具師はいない
これを信じたくない層がいることは仕方がないが、事実だ。
メディアで日本のスバラシイ文化に惚れた欧米外国人が、日本に殺到しているかのように誤解させる演出をしているが、どこの国にも一定数はいる、異文化への強い興味を抱く人間に特化して番組を編成することで生まれるモノの見え方でしかない。
多様な価値観が世界同時に一斉に全方向に発信できる時代の変化が生み出した新しい日常が発生したことで、それぞれが心酔する分野をとことん追求することを可能にし、誰かには悪趣味でも誰かには垂涎の的にもなり、興味の博物誌をそれぞれが完成させることに貪欲で、そこに移動時間の短縮が加味されて、これまでとは違う時間空間を生きることに正直になっている社会の変化がみせるひとつの風景でしかない。
情報機器の発達と移動手段の変化によって生み出された新しい自由の形、この現実と他国のごく一般的な人間の日本観を混同することの意味、そこまでをいちいち説明したくない。
勤勉でありながら先進国とされる国でありながら、もはや世界を制してしまっている言語が不得意で、過労死が絶えない社会。
日本語を喋る西洋人を過大評価する悪い癖が抜けない社会。
錯覚や誤解や曲解は、大日本帝国時代の得意分野で、それが決して良い方向ばかりに作用したわけではないことを、全く知らないとはいえまい。
日本人が矛盾や抵抗や苛立ちも含めて慣れ親しんできた習慣が、実はすでに世界の中では時代遅れであって、日本では抵抗の少ない合意形成のプロセスを用いての外部とのアクセスは、チャンネルが限定されるばかりか閉鎖されていく宿命で、仲間はずれになっていく。
日本語圏での思考を英単語と英文法に変換することを、他国の言語の修得に要求されてはいないのであって、英語圏で互いに納得していく論理を会得するための、道具としての言語、を中心に据えることができなかった不幸が、この国全体をどんよりさせ、ぼんやりさせていく。
日本語圏の発想や表現の豊かさを否定せず、英語圏の視点で、より整理して、論理を殺さず生かす言語環境を再構築する特別な訓練がなければ、情景の描写と賛美と抗議で終わってしまい、なにが必要なのか不明なやりとりが続くだけだ。
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