2013年8月18日日曜日

光源寺@長崎から「でんづういん」へファットマンをこめて(w



の続きですかねえ・・・(爆w




光源寺と産女の幽霊  長崎市伊良林1丁目
寺町通りの禅林寺角から若宮通りへ向かう。緩やかな坂道となって折れ曲が、光源寺の山門前へ着く。ここが「産女(うぶめ)の幽霊」とか、「飴屋の幽霊」または「飴買い幽霊」で有名な「幽霊坂」である。
光源寺の墓へ埋葬されたばかりの身ごもっ た女が赤子を生んだ。乳代わりに、夜な夜な女が、麹屋町の飴屋へ飴を買いに行った。不思議に思った飴屋が後をつけると、赤子の泣き声が聞こえ、墓へ中へと 消えた。住職が急いで墓を掘り起こすと、女の亡骸に抱かれた赤ん坊が出てきた。実は死人の母親の幽霊だったのだ。
全国に似たような話はある。ガンダーラ石仏にも「死女が子を産む説話」の石像があるそうだ。
光源寺では、毎年1回8月16日に、幽霊像の木像1体と掛軸数幅が公開される。光源寺の話の幽霊像ではない。
木像は、納めてある桐箱に墨書で「延享五歳…」とあり、延享5年(1748)に作られた。作者は不明。由緒書には、常陸国(茨城県)無量寿寺の幽霊で あったことが書かれてあり、同寺の伝説を元につくられた幽霊像と見られている。幽霊像を持って、各地を布教していた人が、最後に譲り渡したのが長崎の光源寺らしい。






→親鷲は幽霊救度




所在地 茨城県笠間市稲田469
山号 稲田山
宗旨 浄土真宗
宗派 単立
寺格 別格本山
本尊 阿弥陀如来
創建年 嘉元2年(1304年)
開基 頼重房敎養(初世)
(寺格としての開基)
宗慶(第四世)
正式名 別格本山稲田御坊西念寺
別称 稲田禪房 稲田の草庵

西念寺(さいねんじ)は、茨城県笠間市稲田にある仏教寺院。浄土真宗別格本山。単立寺院。浄土真宗の宗祖・親鸞はこの地で『教行信証』の製作を開始し草稿本を撰述したと伝えられる。浄土真宗立教開宗の聖地として、真宗門徒の崇敬を集めている。

浄土真宗本願寺派 巍々山光源寺. 〒850-0802 長崎市伊良林1-4-4

臨済禅宗 禅林寺 長崎県長崎市寺町7−14




→利生ノ悲願ハ化物ノ要径也





山王神社 (長崎市)
所在地 長崎県長崎市坂本2丁目5-6
位置 北緯32度46分02.6秒
東経129度52分07.4秒
主祭神 天照大御神
豊受比売神
大山咋神 外
社格等 旧県社
創建 (山王神社)伝寛永15年(1638年)
(皇大神宮)明治2年(1869年)
本殿の様式 切妻造銅板葺
別名 皇大神宮・山王日吉神社 浦上皇大神宮
例祭 10月17日
主な神事 浦上くんち(10月17日)

山王神社(さんのうじんじゃ)は、長崎県長崎市坂本に鎮座する神社。村社であった山王神社(日吉神社)と県社の皇大神宮(こうたいじんぐう)とが合併(皇大神宮側に合祀)して創祀された神社で、浦上皇大神宮(うらかみこうたいじんぐう)とも称され、また山王日吉神社(さんのうひよしじんじゃ)とも呼ばれる。

長崎市への原子爆弾投下において鎮座地が爆心地から約800メートルの地点に位置した為に被爆し、その跡を残す一本柱鳥居や、熱線により裸同然となりながらも豊かな緑を取り戻した楠で有名。

由緒

山王神社(日吉神社)

寛永15年(1638年)、島原の乱の鎮圧のため長崎に赴いた松平信綱が、浦上街道(長崎街道の脇道)沿いの地を通りがかった際、その景色が近江比叡山に似ており、地名も比叡山の鎮守である山王権現(現日吉大社)の鎮座地坂本(現滋賀県大津市坂本)と共通する事から山王権現の勧請を思い立ち、長崎代官末次平蔵と計って「山王神社」として創祀されたと伝わる。当初の鎮座地は現社地の近くであったと思われるが不明で、一説に北北西に1キロ程隔たった岡町付近であったともいう[2]
その後慶安元年(1648年)に長崎寺町の延命寺開基である龍宣により山王権現を本尊とする白巌山観音院円福寺(えんぷくじ)と号する新義真言宗寺院となるとともに延命寺の末寺とされ(延命寺自体は京都仁和寺本寺としていた)、承応元年(1652年)に鎮座地が墳墓に近いという理由で延命寺2代目住職の卒覚が現社地に遷座、以降江戸時代を通じて寺院としての歴史を歩む。
明治初年の神仏判然令を受け、同元年(1868年)に円福寺を廃して神社となり「日吉神社」と改称、その後村社に列した。

皇大神宮

浦上村(浦上川流域の諸村の総称。現長崎市中部)のキリシタンへ改宗を促す宗教対策の一環として[3]、明治元年に長崎裁判所総督の澤宣嘉の建議により翌2年3月に現山里小学校の地に伊勢神宮三重県)を勧請して「皇大神宮」として創祀され、同6年7月に県社に列した。当初春秋の祭礼や修築等は官費で行われる事とされていたが、明治5年に官費の支弁が停止され、氏子とされたキリシタン達も棄教や改宗を拒否して関与しなかった為に神社の維持経営は困難になり、同7年8月に台風で大被害を受けると再建もままならず衰退を余儀なくされた。同14年(1881年)6月、長崎県令内海忠勝が永続の見込み無しと他神社との合併を命じた為、村社日吉神社の氏子と協議の末、同17年1月8日に日吉神社の地に遷座して日吉神社を合祀し、「皇大神宮」の社号で再出発する事となった。

昭和20年(1945年8月9日アメリカ軍原子爆弾(原爆)投下により社殿は元より由来書や宝物等も焼失している。



で、









徳川将軍家菩提寺




上記の
無量寿寺(鳥栖)






茶阿局

茶阿局(ちゃあのつぼね、? - 元和7年6月12日1621年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康側室松平忠輝松平松千代の母。名は。法名は朝覚院



於大の方


移動: 案内検索
於大の方(おだいのかた、享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日1602年10月13日))は、松平広忠の正室で、徳川家康の母。晩年は伝通院と称した。実名は「大」又は「太」「たい」[1]。なお、嘉永3年(1850年)10月29日に従一位の贈位があり、その位記では、諱を「大子」としている。


→尾張





















、、、(爆w

7 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

関係者各位の皆様、このお暑い中日々お疲れ様です、そして、ありがとうございます

で、本記事中の地図のエリアですが、、、石を投げたら知り合いに当たりまくる件(爆w
この辺でおいどんは悪さはできんとですよwww
いや~今日もマウスのポインタが踊る踊るw

オイラの元クラスメートの長崎大学医学部某若手教授のご実家もエリアにばっちり入ってますなあ

https://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=bfe2ab4f0d34f744&q=%E9%AB%98%E6%9D%91%E6%98%87
検索キーワードががががががwwwww
正覚寺から奴の実家まで車で行く場合は昨日ストビューでオイラが辿った道順DEATH^^
一方通行が多いのでややこしいんですよねえw

最初9月さんの記事でコイツの名前見た時、え、まさか、、、と思いぐぐってみたら、2秒ほど脳死したあと笑いころげました(爆wwww

で、ウチの実家の近くにも、皆さんがテレビでよく聞いたことのある徳川一族の方のゆかりの神社があるんですなこれが

それはこの方!
https://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=bfe2ab4f0d34f744&q=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%95%B7%E4%B8%83%E9%83%8E

でゆかりの神社はここ

https://www.google.co.jp/#bav=on.2,or.r_qf.&fp=bfe2ab4f0d34f744&q=%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E9%95%B7%E4%B8%83%E9%83%8E%E3%80%80%E5%BE%B3%E4%B8%89%E5%AF%BA

ていうかオイラも昨年知りましたけどね

おやおや、マウスのポインタちゃんが踊りまくってちょーうざいですうw

匿名 さんのコメント...

田通w

ご近所 さんのコメント...

追記です

この方の喫茶店も地図エリアにしっかり入ってますなw

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%95%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%81%95%E3%81%97

で、むかーしもう一つこんな出来事がありまして、、、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%AB%E6%97%A9%E8%B1%AA%E9%9B%A8

で、この年の世界の出来事

http://ja.wikipedia.org/wiki/1957%E5%B9%B4


色々ありますなあ^^

おや?承認が入れ替わりましたよw
この年の出来事掘ったらまずいですかそうですか

ご近所 さんのコメント...

面白いページが

http://homepage3.nifty.com/naga-humanrights/shiryo/fieldwork-2.htm

一部抜粋

幕府時代、この山里村には、「皮屋町」という被差別部落が存在しました。皮屋町は、江戸時代初頭、現在の寺町辺りにあり、西坂(1648年)、そして浦上(1718年)に移転させられました。彼らは、幕府直轄領の「えた」身分として、職務である皮の製造、製品化の仕事に従事していました。江戸時代初期、長崎には、鹿皮や牛皮などの大量の皮革類が輸入されていました。その商取引や加工のために彼らは活躍しました。また、今で言う警察的な仕事に従事していました。ちょうど長崎と浦上の中間地に位置した皮屋町は、市中に不審な人が出入しないか監視と見回りに当たりました。「浦上四番崩れ」では、キリシタン捕縛の任に当り、そのため、明治以降以降憎しみと差別が上塗りされました。


あれ?不承認久々にきました!(爆www
ポインタも踊る踊る♪

ご近所 さんのコメント...

今、手元にこげん本が有るとですw

https://www.google.co.jp/search?q=%E8%B1%A1%E3%81%AE%E6%97%85+%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%B8&oq=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B1%9F%E6%88%B8&aqs=chrome.1.69i57j0.11712j0j8&sourceid=chrome&espv=210&es_sm=122&ie=UTF-8

八代将軍吉宗の時代にシナチクから運ばれた象がこの地区で一時滞在してたそうで
筆者さんは日本ペンクラブの会員さんで
映画評論家

室町時代は福井の若狭湾にもシナチクから象が届いたそうで

象といえば
沈没潜水艦ブログでも前にお涙頂戴的な記事を書いてましたなあw

面白い、、、実に面白い^^

ご近所 さんのコメント...

今回田舎に帰って知ってワロタのが、ウチの本家が曹洞宗だった件w
戦後か戦前からかわかんないですが
家の中に社みたいなものがあって大きな岩に飾り付けしてるスペースがありましたよ昔
今は叔父も叔母も居なくなったので空き家ですが

ご近所 さんのコメント...

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E5%B9%BD%E9%9C%8A

京都や他の地域にも同じ逸話がある事は数年前に知りますたw