2013年6月25日火曜日

ダンチク(暖竹)様とサツマイモ@平戸 清の鴻と天草の竹と称する鴻と尖閣諸島






→サツマイモ










→嘉納治五郎





頌徳碑文

文学博士・竹添進一郎先生は、大矢野町大字上馬場の医師・小田順左衛門と二神家出の美加の一子として、天保13年(1842)に出生。
幼少より学を好み、3歳にして経書を朗読し、神童の誉れ高く、当年15歳熊本に出て、木下韡村(いそん)塾に入門。天性の学才は冴え、井上毅らと木下門下の四天王と称される。
22歳のとき細川藩に士分として召しだされ時習館訓導を勤める。
27歳、藩命により京都、奥州、江戸を探訪する。特に江戸では時の英傑・勝海舟を訪ね、国家大経を論じその見識の深さに海舟を驚かしめ、以後親しく交わる。
明治4年廃藩置県となるや、先生は城下寺原瀬戸坂に開塾、転じて現玉名市伊倉町に遜志斎を開き子弟の訓育にあたる。名を慕い学ぶものが多かった。
八年、塾を閉じて上京、勝海舟と再会し、海舟らの推挙により特命全権大使森有礼の随員として清国に渡る。次いで中国大陸中部以北の奥地を踏破し、名著≪桟雲峡雨日記並詩草≫を著し、日本国内はおろか中国文人等の絶賛を受けた。 
明治13年より清国天津領事、朝鮮弁理公使を歴任し、明治18年朝鮮弁理公使を退任、引き続き無任所弁理公使として在任中、時の文部大臣・井上毅の要請により、明治26年10月東京帝国大学教授に就任。
明治28年(54歳)退官し、同年相州小田原に閉居、かねて念願の読書著作に専念。二十余年をかけての大著≪左氏会箋≫により帝国学士院賞と文学博士の称号を授かる。
明治35年皇太子嘉仁殿下(大正天皇)を小田原に迎え拝謁、その夜、特に召されて前席講演ををなし、書を閲覧に供したことは特筆すべきことである。
又先生の次女須磨子は、講道館柔道の始祖・加納治五郎に嫁ぎ、その長男履信が竹添家を継いでいる。
大正6年3月31日、76年の生涯を全うし、政府より従三位勲三等を贈られた。
熊本県教育委員会は昭和29年近代文化功労者として顕彰し、その賞状末記に「天下の碩学と称せらるるに至ったことは、洵後進を奮起せしむるものである」と記してある。
先生逝き80年、恰も世上混沌たるこの時、先輩諸賢意思を継承し、先生の遺訓と遺徳を偲ぶよすがとして内外の有志の賛同と協力を得て、茲に頌徳碑の完成を見るに至ったことは誠に意義深いものがあり、望外の慶びとするところである。(川上昭一郎記す)

平成10年3月吉日
竹添進一郎先生顕彰碑建立期成会
会長 何川一幸




、、、(w

2 件のコメント:

ご近所 さんのコメント...

サツマイモは戦時中よー食べとったばい
ってウチのオカンが申しておりましたw

匿名 さんのコメント...

天草で伝統の正月飾りつけ

正月を前に天草市河浦町で、伝統の正月飾り「幸木」の飾りつけが行われました。

「幸木」はことしの収穫の恵みに感謝し、新年を迎える準備として天草地方の農家に古くから伝わる習わしです。
河浦町の川嶋富登喜さんの農作業用の小屋では、川嶋さんと親戚の男性2人が作業にあたりました。
天井からつるした長さ1点7メートルほどのかしの木に稲ワラの飾りやするめや昆布といった縁起物、それに大根やにんじんを飾りつけて、最後に農機具の「くわ」と「すき」をかけて「幸木」が出来上がりました。
つづいて、隠れキリシタンの風習のなごりだという「臼飾り」も飾りつけられました。
床の上に逆さまにして置いた臼の下に、キリストへのお供えのごはんと煮しめを隠すように置き、臼の上の「きね」は十字架に見立てられたものだということです。
川嶋さんによるとこのような飾りつけはかつては地域の多くの家庭で行われていたといいますが、今では川嶋さん1人が守り伝えているといいます。
飾りつけが終わり、祈りをささげた川嶋さんは「毎年、伝統を伝えていこうと張り切って飾りつけをしています。来年も元気で暮らしていきたいです」と話していました。
(2014念)12月25日 18時59分
http://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/5004119371.html?t=1419586282960

コメントを投稿